生産性の無い恋に





耳をふさぐ」の続き



 黒尾先輩には問い詰めたりしたって無駄だと分かっていたけれど、ほんの少し追いかけっこをしてみたくなって、珍しく自分の方からしつこく黒尾先輩の背中を追いかけた。さっき研磨くんは何を言おうとしていたんですか。たったそれだけのことを聞くためにこんなに汗だくになっている。息切れがして立ち止まっていると、少し遠くの方でこちらを見ていた黒先輩は、ゆっくり近づいてくる。一歩の大きいがに股は、影や気配で分かってしまう。わたしと作る距離があまりに近いのもぜんぶ、黒尾先輩らしくて。
「大丈夫?」
「……ハイ。疲れました。」
「はは、じゃあ俺の勝ちだな。」
 何の勝負かもよく分からないのに、黒尾先輩は負けず嫌いで、わたし相手にも負けたくはないらしい。大人げない。ボソリとそう呟いたのを聞きのがさなかった彼は、わたしの前にしゃがみこんで、わざとらしく「ん〜?」と耳を寄せてくる。やっぱり意地が悪いのだ。容赦がない。……いや、うそ。きっとわたし相手に、本気なんてさらさら出していないし、本気を出す気も、そのかけらを見せてくれるような気だって、少しもなかったのだろう。
「はー、部活前なのに汗かいちゃったよ。」
「そんなにかいてないじゃないですか。」
「かいてるって。まあ、ちゃんには負けるけど。」
 ほら、とわたしが顔を上げた途端に、視界が何かによって覆われる。ふわりとした肌触りはスポーツタオルのものだ。顔をすべるように落ちてきたそれを受け止めて、もう一度明るくなった世界の中で、黒尾先輩が背を向けて歩いて行くのが見えた。……このタオルを使えってことなんだろうか。自分がいつも部活中に使っているヤツなのに。柔らかいそれをぎゅっと握りしめて、とっさに流れてゆく汗を手の甲で拭った。このタオルはなんだか使ってはいけない気がしたのだ。
 わたしは立ち上がって黒尾先輩のあとを走って行く。黒いTシャツの背にパンチをするように、こぶしをぶつけて、隣に並ぶ。
「タオル……大丈夫です。ありがとうございます。」
「あれ、いいの?」
「大丈夫です。」
 変に意地を張った、みたいになってしまって、黒尾先輩の顔を見ることができなかった。横を歩いていた研磨くんがちょうど、わたしたちのやりとりを見て、「クロの使用済みタオルは嫌なんだって」とからかうように横やりをいれてくれたおかげで、またふざけた雰囲気が戻ってきた。いつもの部活前の空気。これが日常で、さっきまでが非日常だ。
「俺のささやかな優しさだったのになあ。」
 オーバーに悲しむリアクションを取っていた黒尾先輩は、本当はそんなことを思っていないくせに、ひどく穏やかな顔をして、そう呟いて笑った。心臓の奥の方がきゅっとなる。部活が始まれば今までのことは何もなかったように風に流れて、どこかへ飛び去ってしまうのに、なぜかそれが物寂しいような気がした。





 部活後は、方向が同じ部員たちと一緒に帰るのが習慣になっていて、少しだけ残って話合いをしていた彼らに合わせて、部誌にメモ程度の書きこみを加えてから部室を出た。制服のまま夜風に当たると汗が冷えて気持ちがいい。けれど長くこうしていたら、風邪を引きそうだと感じた。バタンと音を立てるドアから踵を返すと、「ちゃん」と後ろから名前を呼ばれて振り返る。わたしのことをそう呼ぶのは、3年の先輩の中でも限られている。
「黒尾先輩、お疲れさまです。」
「あいつら話合い終わったって。向こうで待ってるよ。」
「ありがとうございます。」
 制服姿で向かいあっているとなんだか違和感はある。もう慣れはしたけれど、部活のときよりずっと居心地が悪い。それじゃあ、と切り出してみんなの方へ向かおうとしたわたしを、黒尾先輩はもう一度引きとめた。妙に歯切れが悪い、先輩らしくない声色は、制服姿であることがそれを助長した気恥ずかしさがあった。
「あのさ、昼間の話の続きなんだけど。」
「はい?」
ちゃんさあ、あいつのこと好きなの?」
 あいつって――と間抜けなことを聞こうとして、はっと思いだす。そういえば連絡先を聞かれたんだった。隣のクラスの。サッカー部の。名前は、たしか。黒尾先輩はそのことを確かめようとしているのだ。誰が好きだとか、付き合うとか、そういうたぐいの話をするのは苦手だ。とっさに言い淀んで、ひねり出した答えが「好きではないです」という、ひどく緩やかな否定形の言葉だった。
「……ただ顔を知ってただけの相手なので。」
「へえ。そっか。」
「ど、どうしてですか?」
「別にぃ。なーんか面白そうだなと思っただけー。」
 わたしが怪訝に思っていることが、薄っすらと伝わってしまったのかもしれない。黒尾先輩は冗談めかして、いつものように悪戯に笑った。部室の前で、制服で、部活の後の湿っぽい雰囲気をとっぱらって、部活前の体育館のような、二人だけじゃない明るさを取り戻すのはどうしようもなく難しことだ。それが分かっているのに、わたしたちは不自然に、ふざけ合った。
「悪い悪い、怒んなって。――ほら、みんな向こうで待ってるよ。」
「あ……はい。じゃあ、黒尾先輩、また明日。」
「おう。気をつけて帰れよ。」
 笑顔で手を振って、訪れる静寂に物寂しさを感じる。ごく自然に何かが変わり始めている。それが何であるのかは、はっきりと言葉にすることはできないけれど、今までの日常から限りなく遠のいた場所へ向かっていることだけはなんとなく感じ取っていた。





「なーにボケっとしてんの。」
 後頭部にびしっとチョップが決まって、思わずギャッと悲鳴を上げた。振り返れば黒尾先輩がクスクス笑っている。唇を尖らせて、やり返せば、きっと彼の思うツボなのだろう。わたしは立ち止まるばかりで、向かっていく気にはどうしてもなれなかった。
「なに、おとなしいじゃん。」
「……何でもないです。」
 いつもチビだの、ガキんちょだのとばかにする、わたしの顔を覗きこんできた黒尾先輩は、もしかするといつも通りで、何かがおかしいのはわたしだけなのかもしれない。至近距離で目が合ってそんなことを思った。黒尾先輩は今までと何一つ変わっていないのだとしたら、変わってしまったのはわたしの方だ。日常が非日常になる。そんなことを、怖れているつもりは少しもなかったのに、体育館でのこういうやりとりが、わたしは思っているよりもずっと大切に感じているようだった。
「なんかあった?」
 何にもない。今までと何一つ、変わっていない。まるで自分に言い聞かせるみたいだ。黒尾先輩と見つめ合っていたらなぜだか頬が熱くなって、赤く染まってゆくのが自分でも分かってしまった。振り切るように顔を逸らして、黒尾先輩から距離を取る。何でもない。何でもないです。……何も言ってくれない時間が、とてつもなく長く感じる。
 こっちを見ないでほしくて目を逸らしたのに、何を言わんとしているのかが気になって、ほんの少しだけ彼に視線を送った。まっすぐな瞳とかち合う。やっぱりずっと、わたしの方を見ていた。そう思えばもう恥ずかしくって仕方がなくなって、逃げだしてしまおうかとこぶしを握る。
「―――!」
 大きな手に両耳をふさがれて行き場をなくした。この前と同じ状況に、動けなくなって、何も聞こえなくなって、入ってくる情報と言えば目の前の景色と手の平の温もりだけで、つまり黒尾先輩のこと以外には何にも考えられなくなるみたいで、ぐっと息を飲みこむ。わたしの両耳を覆いながら、黒尾先輩は黙ってこちらを見下ろしている。切れ長の瞳。いつも不遜に笑っている唇が、ゆっくりとだけ開いて、何かを呟いた。当たり前に何も聞こえない。心臓が空回りを始めたときにようやく黒尾先輩の手が離れていった。情報が戻ってくる、色んなことを受け止めるのに精いっぱいなわたしに、黒尾先輩が小さく呟く。
「……そんな顔するのはずりーよ。」
「え、」
「言っとくけど俺、諦めませんから。」
 気張っていたらしい、黒尾先輩は言うなりはあっと長いため息をついてわたしに背を向けて行ってしまった。何のことかさっぱりわからない。体育館の隅っこに取り残されて、ただ過ぎてゆく彼の背中を見つめているわたしは、もうそれを追いかけて触れることはきっとできないのだろう。
 頬が火照る。触れられた部分が熱くて、壊れてしまいそうなほどドキドキしている。




(160321) 誰を好きでも



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