昨夜の毒です不純の所為です





 あのひとはいつも図書委員を務めていた。よほど本が好きだとか、責任感があるとか、そういうんじゃなく、きっとただ内申点が良くなるから何か委員会に従事していたくて、中でも退屈で楽そうなのが図書委員だったとか、そういう適当な理由で選んでいることは僕でも知っている。中学の時、あのひとは女子バドミントン部を途中で退部して、それから持て余した暇をつぶすのにいつも図書室を選んでいた。

 という一つ年上の先輩とは、小学校の頃に知りあっている。二学年が混同して行う授業の一環のクラブ活動で、バレーボールクラブに入ったときに彼女はいた。背は女子の中でも低いけれど活発で、体育の授業なんかでは特別に目立つタイプの女子。苦手な部類だとすぐに分かったけれど、そういうタイプのヤツこそ僕みたいな相手にめげずに向かってくるのだ。色々なことを問いかけてくるのを、面倒だからという理由で素直に答えていた。そうは見えなくとも、曲がりなりにも一つ上の先輩で、地頭のいいひとだと言うことは話しているだけですぐに分かるものだ。
 半年間のクラブ活動のあと、次に彼女を見つけたのは全校集会で、全学年の生徒に向かってマイク越しに何かを喋りかけていた。僕とは違って明るくって何でも進んで手を上げる、責任感が強い子なんだろう、そんなことをぼんやり思っていた。
 僕が中学生に進学したとき、は中学2年生になっていて、また派手に委員会活動でもやっているのかと思えば、なんてことはない平の図書委員として名を連ねているだけで、前期委員会就任者の目録にその名前を見つけるまで彼女のことを思いだすことさえ僕はしていなかった。そういえば、そんな人がいたなあと思いだして、図書室へ行くときに受付のカウンターに彼女の姿があるかどうかを目で確認するくらいのものだった。

「月島。……月島くん?」
 その春の終わり頃、貸出シートに判を押すときに彼女は僕のことに気がついた。まだ僕を覚えていたらしい。小学生の頃とたいして変わらない顔で僕を見上げて、相変わらず図々しいまでの掛け値ない表情を見せて笑う。おひさしぶりです、と言う僕の声の方がだいぶ変わっていて、気恥ずかしくなったくらいだ。彼女は案の上、声が低くなったねと茶化すように笑った。触れないでいてほしかったのに、そんなこともお構いなしに図々しく踏みこんでくる、無神経なひと。……だけど、中学で知りあった適当な女子たちより、僕らは互いのことを知っていて、どれくらいの距離感に立つのが正解なのかを知っている。それだけで妙な居心地の良さがあった。
「……図書委員って、どうなんですか。」
「楽だよ。此処だけの話、すごくオススメ。」
 生徒会とか報道委員とか、人前に立つ仕事の方が好きなんじゃないの。そんな不躾なことを聞いてしまいそうになって、口を閉ざす。聞いてはいけないことのような気がした。久しぶりに面と向かって話をしたというひとは、Tシャツにジャージ姿で一緒にクラブ活動をした頃より、ずっと髪が伸びて女子らしく変わっていたから。
 にきびの増えた頬を赤らめて、申し訳程度に色がついたリップクリームを乗せて、指の先までなんとなくおんなであることを感じさせる。セーラー服の襟がそう見せるのか、受付のカウンター席に座って居る彼女は、どこか遠く儚げで、底知れぬなにかを思わせる。クラスの女子とはまったく違う居心地の悪さがある。まばたきをして目が合った瞬間に僕は、レンズ越しに弾かれるほどの衝撃を受けた。胸を打つこの思いは、息苦しさは、憧憬はいったい何だろう。
「月島くん、部活は?」
「……僕は……バレー部です。先輩は。」
「わたしはバド部。だけど、もう辞めるんだ。」
 久しぶりに会った後輩にそんな重い話を、普通するだろうか、と訝しんだけれど、というひとは、やっぱりそういうひとなのだ。僕とは違って明るくって何でも進んで手を上げる、責任感の強さや、芯の太さみたいなものを遠巻きに眺めていた僕にとっては、その暴露が彼女を僕の足元まで引きずり落ろすのに必要ななにかを含んでいることを、なんとなく分かっていたような気がする。
 絵に描いたような聖人ではなかったのか。人前でアクションを起こすのが得意な、自信に満ち足りた、僕にはとても真似できない思考回路を持った人間ではなかったのか。中学1年生の僕には大きな刺激だった。ひとは変わる。良い方にも、悪い方にも。それが成長であり、子ども時代からの卒業でもある。
 他人の挫折というのが、こういう形でも存在すると知ったのは、このときだ。僕はというひとを、自分の外側ではなく、内側のすぐそこに、認識していると自覚した。中学1年生の春である。それから僕は彼女がいるときを見計らって図書室へ向かうようになった。本を借りる、辞書を見る、課題をやる、色んな口実をかこつけた。まったく彼女が僕のそういう努力を知っているかいないかは、もはやどちらでもいい。ただ話をするのが特別に心地よかっただけだ。
 クラスの女子とは違う。ただの一つ年上の先輩たちとも違う。僕たちが分かりあっているのは、数年前のたった半年にも満たない短い時間のできごとだけど、その曖昧で不確実な関係性が僕にはちょうどよかった。名前のある関係性は、鬱屈だ。僕はある意味で彼女にあこがれを抱いていたのかもしれない。何かを諦めたことを、諦めたと言える、心折れたことを、心折れたと言える、あのとき僕らの年頃でそれが出来ていた彼女は、少なくとも年齢以上に達観したふしを持っていた。僕にはそれがまぶしかったのだ。



 彼女が中学3年になった春も、彼女は相変わらず図書委員をやっていた。それとなく受験の話を切り出してみたときは、家から通える公立高校に進むと言っていた。それは烏野高校で、奇しくも僕がまったく同じ理由で受験を考えていた高校だった。よく考えれば高校なんてこの辺りには片手ほどもないのに、たまたま同じ場所だっただけだ、それでも僕はなぜか喜びのようなものを覚えて、1年後の未来はどうなっているだろうかと一瞬だけ想像をして、何にも考えつかなくてすぐにやめた。
 たとえば同じ高校に進んだら彼女はまた図書委員をやるだろうか。そうしたら僕は彼女に会うために図書館へ通うのだろうか。……なんて、果てしなくてばからしい妄想だ。あっという間に季節は巡って、すぐに夏が終わり、秋が始まって、冬の足音が聞こえ始めた。部活を辞めたといさぎよく胸を張っていた彼女の方が僕よりもずっと有意義な学生生活を歩んでいるのかもしれない。惰性のままここまで続けてしまった、バレーボールから離れられないまま、僕はスタメンで試合に出続けて、それなりに上手くなって、背が伸びて、だけどこれと言って何かを得た記憶もないままに、中学3年生になる準備を始めている。
「月島くん、バレー部で活躍してるって、クラスの子に聞いたよ。」
「はあ……。」
「ずっと続けるの? なら、頑張って。応援してるよ。」
 なんて、部活をドロップアウトしたわたしに言われたくないかもしれないけど。というひとは本当に、いつまで経っても図々しいほどの笑顔で、僕の心中にずけずけと足を踏み入れてくる。彼女の髪は中学時代、ときおり短く切りそろえられて、後悔をしたと言ってはもう一度伸ばし始めて、その途中に微妙な長さで二つ結びにされているのとか、短い前髪をいっしょうけんめい指で撫でつけているのとか、それが可愛かったなあということを、卒業直前の彼女の当直の日、図書室のカウンター前で思い返していた。僕がそんなことを突然言ったりしたら、はどういう顔をするのだろう。まったく想像がつかない。他愛のない世間話しかしてこなかった僕が、――自分のことをあけすけに話してくれた彼女と違って、たいして色気のある話一つもできなかった僕が、いきなり、「可愛いと思っていました」なんてことを口走って、彼女はどんな反応をするだろう。
さん、」
「うん?」
「……卒業、おめでとうございます。」
 僕はそもそも、のことをなんて呼んでいたんだろう。小学生のあのクラブ活動の頃は。中学1年の頃は。最近は。……面白みのない思い出ばかり積み重ねてきてしまったようだ。僕が大事にしてきたものとは一体なんだったんだろう。気がつけば僕は世間話よりもつまらない祝辞を述べていて、目の前で笑うの掛け値ない表情にほだされてしまったみたいに、なぜか涙を流していた。なんだ、これは、意味が分からない。眼鏡を指で押し上げて涙を振り切る。泣くなんて、先輩の卒業を思って、泣くなんて。どうかしてるんじゃないの、僕。
「ありがとう、月島くん。元気でね。」
 残酷な、そんな言葉をもって、中学3年生のというひととの最後の会話がおわった。一つ上の先輩、なんていう名詞に僕らの関係性のすべてを詰め込むのは少し無理がある。名前のない間柄だからこそ、僕は固執した。おとなを目指す後ろ姿を見せてくれたひと。恐ろしくない方の、ゆるやかな挫折を見せてくれたひと。底抜けに明るく自由だった子ども時代を終えて、訥々と話をする思慮深いおんなのひとになってゆく、貴女の影を、僕は追っていた。
 僕は自分の初恋を知ったその瞬間に破れていた。誰にも話したことはない、長くさみしい、中学2年生の冬だ。




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