優しかったね泣きもしなかったね





 それから1年の空白を経て僕は烏野高校に進学した。空白という言葉を使ったのは、文字通り僕はそのあと何ひとつとして得るものがなく、自分の伸びしろだとか成長だとか、将来や夢みたいな血の気の多い表現にはすっかり飽きが来ていたからだ。情熱を持つことがすべてだとは思わない。この世にはやらなくてはならないことがあって、そのことわりを辿るために僕らは多少の時間を潰して、幸福感を得ようとあがきながら生きている。僕の達観はある意味の運命論で、かつてが言っていたような大人びた諦めや、花の手折れるような繊細な挫折なんかとは一線を画している。僕はそのことを自分でもよく分かっている。それでもなお到達したいがために、諦め悪く色んなものに執着しているのだ。
 高校生になっても、委員会就任者の目録はプリントされてクラスに配布されるようだった。僕は必死になって、彼女の名前を探した。図書委員の、一つ上の学年の欄。1組、2組、3組……一つひとつ指先で追いながらゴクリと唾を飲みこむ。4組、まで辿ったときに嫌な予感がして眉をしかめた。だけど、5組、2年生の一番最後の欄に、と、たしかに彼女の名前が刻まれてあることに僕は安堵した。
 そうだ、思い返せばあのひとは部活を辞めてからいつも図書室で暇なときは勉強をしていると言っていたし、進学クラスにいるのも当たり前だ。教室の狭いイスに収まりながら僕は一つため息をついて、彼女が間違いなくこの学校のどこかにいること、それだけで十分に満たされたような心地になっていた。
 本当に、執着するという言葉の意味は、僕には無縁の状態のことのように思う。今まで何かを希求した覚えが僕にはない。きっと、一度も。挫折のことを知ってから、その恐ろしさとゆるやかさを知ってから、何かを求めることに一抹の不安を感じている。失ったときのことを思っているんじゃなく、手に入れられなかったときのことを想像しているんじゃなく、手に入るものはないと、僕の手に収まるものは何もないと、改めてそのことを知るのが怖いのだ。

 ――だけど、気がつけば僕は図書委員に就任していた。自分でも、なぜやろうと挙手するまで決意できたのか、ふしぎなくらいだ。目録を彼女のページから一枚戻れば、4組の欄には僕の名前が記録されている。はそれに気づくだろうか。初めて委員会が行われるその日くらいには、彼女と少しくらいは目が合って、手でも振ってくれるかもしれない。……くだらない可能性だけど。僕はあれから少しも諦めることなく、彼女への恋心を胸の内側にしっかりと自覚して、コントロールをして、執着を続けている。別に結果を求めているわけじゃない。ただ、そのことが、僕に挫折のことを思いださせるのだ。失脚と、喪失と、それにともなう眩しさと成長のことを、思いださせる。それだけのことが、ただ心地良いというだけだ。それがどうしようもなく、僕の糧になっているということも。
 最初の金曜日の放課後、委員会の1回目の会議がある。まっすぐ部活に行けるように荷物を全部持って、相方の女子と並んで、委員会が開かれる3年1組の教室を訪れた。広く見渡しながらまっさきに彼女の姿を探している。もしかすると、1年の間にまた変化があって、背が伸びたとか、髪を切ったとか伸ばしたとか、今は結んでいるとか、そういうのがあるのかもしれない。ほんの一瞬だ、もう期待をするのはやめておこうと胸を押さえた、ちょうどそのときに、後ろから誰かに背中を押されるのが分かった。
「月島くん、やっぱり。また、背が伸びたね。」
 というひとは、あれから何にも変わっていなかった。背は低く、まっすぐ伸びた髪が胸元で切りそろえられていて、細い体躯は部活をやっていない女子そのものみたいに頼りない。中学の頃はにきびが目立っていた肌はきれいに整っていた。化粧をしているんだろうか、いや、特別にそういう風でもない。目の前でにっこりと笑って僕を見上げる表情は図々しいまでに、眩しく、憧憬を刺激して、ああ僕には、これが必要だったと頷かざるを得ないほどのエネルギーを感じさせた。
「……さん。お久しぶりです。」
「今度はいっしょに図書委員だ。」
「はい。」
 此処だけの話、すごくオススメ。
 いたずらっぽくそう告げては僕の横を通りすぎた。自分のクラスに割り振られた席に、すでに座っていた男子の隣に当たり前に座って、他愛のない話をしている。育たないとばかり思っていた苗木がぱらりと一枚その樹木をめくって、まったく異なる色をした花を咲かせることを教えるように、僕はまたレンズ越しに果てしのない衝撃を身に受けた。高鳴る胸を押さえて、割り当ての席に座る。ここからだと、彼女の姿は見えなくなる。僕はそれで良かったと思う。はあっと息を吐きだして、深く吸いこむ。ゆるやかな挫折のメタファーはゆっくりと形を変えて、ただの愛おしい影になっていることを知った。高校1年生の春のことだ。



 もしかすると、孤独感やさもしさを殺すのに図書委員に属しているのは具合が良かったのかもしれない。高校の図書館は中学のそれとは比べものにならないくらい広く、まったくの別物だけれど、受付のカウンターに座りながら物思いに耽るのには少し人が多すぎるし、かと言って喋り声は異物として排他される独特のルールと静けさを保っている。僕はようやくその席に座りながら、当時の彼女の心情なんかを思い量っていた。
 ほんのわずかな時間の暇つぶしだった。……そのつもりだったのに、図書館のドアを開けて僕の目の前に現れたのは、あっけらかんと笑うそのひとだったのだ。
「暇でしょ。やっぱり、図書委員って穴場だよね。」
「はい。だからずっと続けてたんですか?」
「うん……そう。それに、何かはやってないといけない気がしてたし。」
 それとなく、辞めた部活のことを揶揄している。このひとは、やっぱり正義感の塊のような真っ直ぐなひとで、後ろ暗さに耐えきれずに声を上げてしまう、素直な性格をしているんだろう。罪悪感に押し潰されることはしない。諦めた、辞めた、つらい、くるしい、全部を声にして感情にして、しっかりと逃げ道を作っていくひと。
 カウンターに座っている僕と、立ったままの彼女との視線はちょうど絡み合うほどの高さで、前はずいぶんと大きく感じていた学年の差みたいなものが、前ほどの重みを蓄えていないことにようやく気がついた。あれからの外面の変化は少ない。内面は、知らない。じっと見ていると何となしに目が合って、「月島くんは」と彼女が僕を呼ぶたびに、平凡な声色だなあと、だけどそれが胸を掻きむしりたくなるほどいとおしいと、そういうことばかりを感じさせる。
「わたしのこと、追いかけてきてくれたの?」
「…………、」
「なんて、ごめん、うそ。」
 眉を寄せて、小さなくちびるを真一文字に引き結んで、は僕に背を向けて出て行った。自分で言って恥ずかしくなったと笑っていたけれど、僕はそんなことどうでも良かった。気がつけばカウンター席から立ちあがって彼女を追いかけて、図書館を出て少し歩いたところに立ちすくんでいる背中を見つけて、ずいぶん低い場所にあるその肩をぽんと叩く。いや、もっと、必死に掴んだのかもしれない。振り返ったの瞳が今もまだ目に焼き付いて離れないのだから、僕は相当必死な思いをしていたのだろう。
「やっと、」
 此処まで来た。たった此処までだけど重大すぎる進度だ。間違いなく僕は希求している。未来、夢、将来。ふたしかに進む時間の流れ、その曖昧な一瞬に、このひとの姿を思い描いていたいと、ようやく声に出して叫んだ。僕はずっと貴女に憧れてきた。これからも、きっと、ずっと。
「貴女が好きです。」
 もう僕を置いていかないで。耳まで赤く染まっていく彼女の、そんな顔を今まで見たことがあっただろうかと、思い返すほどに僕の方まで気恥ずかしくなって、深く息を飲みこんだ。「月島くん」と僕を呼ぶ小さな声だけが僕の空白をあばく手がかりを持っている。なぜだかそんな気がして、僕はもう少しも目が逸らせなくなっていた。
 高校1年生の初夏である。僕の、初めての恋が報われた瞬間の話のこと。




160322 ぼくは彷徨う不幸者



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