MY FAVORITE | 少年ウタと出会う話 (141215~150111) 1 天使 2 シャボン玉 3 きれいなもの 4 雨の日 5 花 6 好き after 彼女はぼくのことを天使と呼んだ。 なにが美しくてなにが醜いのかなんて誰も教えてくれなくて、小川のせせらぎが清らかなことも小鳥の鳴声が尊いこともぼくにはよく分からなかったし、正しいことも誤ってることもなんにも区別がつかなかった。人が死んでゆく音が耳障りだと思ったことはなかったし、人骨が折れる音も花のこうべが落ちる音も、ただぽきりと鳴るだけですべて同じで、生きている人間の腹を裂くことより面白いことがこの世にあるだなんてちっとも知らなかった。だって考えるべきことは、食べることしかなかったから。社会や学問なんていうのは豊かな人々の遊びでしかないのだ。 崇高で美しいだけの遊びなんかじゃつまらない。だったら自分のために楽しいことをして、精一杯生きていることを感じているほうがよっぽど幸せなことなんじゃないかって、ぼくはそう考えて生きてきたから。 「なにをしているの」 やわらかな春、白いレースのまたたく窓辺。おそろしいほどの白い肌は、とても生きている人間のそれとは思えないほど透きとおっていた。その辺の猫よりも美味しくなさそうなからだをした彼女は、ぼくを見つけて手元の本に落としていたひとみを気だるくまたたかせる。 ゆったりと近づいてきたその手が窓を開け放った。そこにある花壇よりも清潔な香りがふわりと弾けて、ぼくの眉をしかめさせる。白いワンピース。さらさらした素材は彼女のからだにぴたりと張りついて、お人形のドレスように上品な形を見せている。 「カラスと追いかけっこをしていたんだ。そうしたら、ここに逃げ込んだのが見えたから」 彼女はわからないといった顔をして首を傾げた。およそこんな美しい庭にカラスなんか入るわけがない、とでも思っているのだろう。ぼくの目を見ても彼女は表情を変えなかった。ぼくが手を乗せた桟にひじをついて、外の空気をすうと吸い込んで空を見上げた。その仕草はぼくの目にひどく尊いもののように映った。ここが物語の舞台にでもなったかのように、ぼくが触れてはいけない禁忌のようなものが目の前にある気がして。 「もうすぐ夕方だから、きっと山に帰ったのね」 「山に? どうして」 「カラスは山に巣を持つの。そういう歌があるでしょ」 「歌かあ。知らないな」 そう、とあいづちを打つ彼女はそっと笑った。ぼくの顔を見て、ひとみを見つめて、なにか言おうとしたのを飲みこんだ様子だった。透きとおった彼女の目玉は汚れひとつついていない美しいもので、ぼくとは少しも同じものを見てこなかったのだということがすぐに分かった。なぜかそのことがぼくの胸を無性に痛くさせた。 「あなた喰種ね」 ひだまりの庭。苦しいほどの花の匂い。ここの空気は尊くて、ぼくには息が吸いにくい。彼女のことばには棘がなかった。ひとを傷つけるものが少しも含まれていないのだ。おとならしいその微笑みはぼくのことを見透かしてしまえるほどに聡明で、彼女がとても賢く特別で、清らかな存在であることはすぐに分かった。こういう人には触れたことがない。街にもいない。もちろん、食べたこともない。 「そうだよ。きみは、人間だね」 すぐとなりにある白い腕をつかむ気にはなれなかった。栄養が通ってないみたいに青白くて、ぜんぜん美味しそうじゃなかったから。 たまたま近くに寄ったから、同じ道をたどってあの庭へ入ってみた。 あいかわらずしつこいほどの花の香りと、目が痛くなるくらいにかがやいた庭。前と違ってあの窓が開いていて、風のたびにふわふわと雲のようにはためいている。覗きこめばやっぱり彼女が座っていた。本を読んで、陶磁器でハーブティーを飲んでいる。その横顔を見つけたときぼくは無性に胸が痛くなった。さっきまでぼくが食べていた人間と、同じもので出来ているとは思えないくらい、彼女からはけものの生きた醜さが感じられなかったから。 「やあ」 シャボン玉を吹いているぼくをみて彼女はそっと笑った。 読んでいた本を閉じてこちらに近寄ってくる。うすい桃色のブラウスと、華奢なからだを包むような細いスカート。彼女は身にまとうものすべてが清らかでけがれがない。カーテンレールをレースが滑る音が、まるで彼女とぼくとを引き合わせる合図のように聞こえた。なんてことない音のはずなのに。 「なつかしいね」 「でしょ。けっこう楽しいよ」 吹いてみる、と聞けば彼女は思いのほかあっさりとうなづいて、ぼくの手から小さなストローを受け取った。 美しいところで正しく生きてきた彼女は、汚いものを見たことがないから知らなくて、素敵なものを素敵だと言うだけの日々を送ってきたんじゃないかと、思った。ふつうは喰種と知ってぼくに近寄ってこないし、ましてやシャボン玉のストローで間接キスしたりしないよ。虹色にかがやいて飛んでいくシャボン玉を見て彼女はふふっと笑って、宙をはらうように指先を伸ばす。きれいだねと上を向いた華奢な首は、そこにある花のくきと同じくらいもろく、簡単にぽきりと音を鳴らすのだろうと思った。 さわやかな風。そっと鼻をくすぐる人間のにおい。光をはねかえす髪に出来た白い輪っか。ふいにぼくを振り向いた彼女が、知らないリズムを口ずさむ。 「シャボン玉の歌よ」 「知らないなあ」 「そう」 ぼくには知らないことがたくさんあるのは、知っていたけれど、今までそのことを悲しいと思ったことはなかったし、知る必要もないと思っていた。ただおなかを満たして生きて行ければいいんだもの。人間を殺して食べればいいだけ。退屈なときはゲームにして、快楽的に人間を殺せばいいだけ。そうやって、おそらく彼女の白いすべらかな手のひらには知るすべもないほど、醜くて汚れたことをして生きてきたのだ。 「きみは、歌が好きなの?」 「うん。好きよ」 窓辺にそっと降りてきた小さな手が、ぼくの肩をトンと叩いた。小鳥のついばみよりも弱い弱い、力で。 「シャボン玉ありがとう」 彼女はつやつやとした丸い爪先をよこして、つまんでいたストローをぼくに返してくれた。桃色のそれは、ちょうど咲いているばかりの桜の花弁のようなかたちをしていた。 人骨のように細いそれがちらりと目の前をかすめても、ちっとも食べたいとは思わなかった。細い骨をしゃぶるのもいいけど、たっぷりと赤い肉のついたからだのほうがぼくは好きだから。 空を見上げる、彼女の陶のようにくっきりとした横顔から、目が離せなくなる。尊いものがこの世にあるのだとしたら、それは彼女のことを言うんじゃないかと思った。ぼくはよく知らないけれど、彼女の美しい目玉をじっと見つめていると、まるで生きた心地がしないのだ。ふわふわとなびくように心臓が痛くなる。 遠くを指さした手は、光にかざせば中身がぜんぶ透けてしまいそうだった。 「屋根まで飛んだ」 ぼくの知らないことを、とてもよく知っている聡明な彼女は、きっとけがらわしいものの存在を知らない。 茶のまだらな子猫が庭の植木をかけてゆくこと。えさをついばみにくるたくさんの雀が、丸くなって枝に止まっていること。日蔭になっているところで、外を散歩している犬が立ち止まっていること。 彼女がかわいいと言って、窓から身を乗り出して見つめていたものを並べるとそんなところだ。たまに花壇の上を鳥が跳ねていたりすると、はっと気がついて小さな声をあげたりする。かわいいもののほうを指さして、あれを見て、とぼくに教えてくれる。彼女は小さくて弱い生き物のことが好きみたいだ。きみよりもよっぽど丈夫で、たくましく生きていけそうだよと皮肉を込めて伝えれば、まったくおかしそうに笑ったりする。 「かわいいものを見るのは、どんな気持ち?」 「なんだか嬉しくって、笑いたくなる気持ち」 「じゃあ、きれいなものを見るのは、どんな気持ち?」 「いいなあと思う気持ちよ。美しいものを見るのは、きっとすてきなことだから」 そういうものなのかな。ぼくには彼女の言っていることが、半分もよく分からない。 別に彼女のことばを下らないと思ったわけじゃない。ただ本当に、ぼくの知らないことばかりだったから、想像することが出来なかっただけだ。ぼんやりと空を見上げたぼくに気がついた彼女は、きみは、とそのまなざしをこちらへと向けた。 「きみは、きれいなものを、どんな気持ちで見ているの?」 ゆるやかな風が過ぎて、クチュールのように広がったレースのカーテンがぼくと彼女とを隔てる。窓が額縁だとしたら、そのまんなかにいる彼女は絵画とおなじように、隙がなく美しいもののひとつなのだろう。窓の向こうに見える清潔な部屋によく似合っている。整頓された本棚。カラフルなキルト地のソファカバー。柔らかく体を包むような透明のカーテン。ぼくを見てやさしく微笑む、白くて丸いほほ。 ああ、そうか、こういう気持ちかな。いいなあと思う。なんだか、笑いだしたくなる。まるで外の世界なんか知らないみたいな、きみをとてもきれいだと思う。 雨の日にも歌があるようだ。彼女のいる窓辺をノックして、少しもしないで雨が落ちてきた。彼女が貸してくれたのはみずいろの傘だった。白い水玉模様の傘。 「きみはやっぱり歌が好きなんだね」 「うん、好きよ」 「こういう雨の日は、どういう気持ち?」 「止めばいいのに、っていう気持ち。外にいたら寒いでしょう」 雨なんて、ただからだが濡れてしまうだけだよ。人間と違ってぼくはそうそうからだを壊したりしないから。なんて、あからさまに喰種じみたことを彼女に告げるのは、なんとなく気が引けた。彼女は雨なんかにさらされたら、ただでさえ冷たい手足をもっと冷やして、白い肌を青くして、ぱたりと事切れてしまいそうな気がしたから。弱いなあ。彼女はそのことに、きっと気がついていないのだろうけれど。 さあさあと耳を閉ざしていく雨。いたずらに彼女の肌にぽつりぽつりと水滴をのっけて、少しずつ温度を奪ってゆく。あまり窓を開けているとからだを冷やすよ。きみの温度が消えてしまうのはなんだかいやかもしれない。……そう思っているのに、ここから離れられないぼくがいる。 「雨は悲しい気持ちにさせるわ」 「悲しい気持ち? どうして」 「どうしてだろう。なんだか、閉じ込められているみたいだから、かな」 こんな日はきみが好きなあたたかな太陽も、苦しいくらいの花の匂いも、かわいいものも少しも見えないからかな。世界が少しだけうす暗くってぼくは好きだけれど、たしかにきみには似合わない。 「でも、雨の降る音は、きれいだから好きよ。全部を透明にしてくれるみたい」 ……雨は血を流してくれるだけのものだと思っていたけれど、彼女はそんなことを少しも知らないで、ただのうるさいだけの雨音も、美しいものに変えてしまう力を持っている。ぼくは身震いした。寒いんじゃなくって、なんだか悲しくなったのだ。ぼくが今まで知らなかったことはたくさんあって、どれもが彼女のすべてのように尊くて、いかにきれいなものだったのかと、気づいてしまったから。 ぼくは、何にも知らないから、きみの教えてくれることがぜんぶ、とても、すてきなものに感じるよ。きみにとってぼくはどうしようもなくけがれているのかもしれないね。その白い肌を破って食べたって、これっぽっちも美味しくなさそうなのに、透明なきみの肌に触れて、きれいだと言って、いいなあと思って、無性に笑ってしまうような、そういう素晴らしいところへ行きたかったなあと思う。 雨に閉じ込められている今だけ、そういう世界になればいいのに。きみが口ずさむぼくが知らない歌だけが聞こえていて、他には誰もいなくって、きみが好きなあたたかい太陽とかわいいものたちで満たされているような、そんな魔法みたいな、すばらしい世界に。 ねえ、きみがいちばん、好きなものはなあに? 今日は良い天気ねと言うから、ぼくはこちらへおいでと言った。ただ、それだけで彼女ははっと表情を変えて、少しだけうろたえる。 「玄関まで、くつを取ってこなくちゃ」 「くつなんかいらないよ。ただ、ここに出るだけなんだから」 窓辺へ手を差し伸べれば、ためらいがちに手のひらが重なる。彼女の不安に満ちたような、そのくせ好奇心を抑えきれないみたいなひとみが、なんだかぼくをドキドキさせた。ようやく窓に膝をひっかけて、手をついてからだを支える彼女は、ゆっくりと息を吸いこんで、軽く跳ねあがってぼくに飛び込んでくる。 ひるがえったワンピースが百合の花びらみたいに、空に向かってはためいた。とっさに支えた彼女の背中はひどくちいさかった。思ったよりもずっと軽く、それでいてしっかりと生きた人間の重みがあって。 「あったかい。草が少しくすぐったいけれど、気持ちいいわ」 ぼくの手を離れてくるくると回ってみせる。おそろしく白いはだしのくるぶしは、およそ地面には似つかわしくないほどきれいなままだ。彼女はそれを汚すのもいとわずに、花壇のほうへと駆け寄っていく。まるで鳥籠を抜けだしたちょうちょのように。彼女がいつも、かわいいと愛でている小鳥のように、見ているとうれしくて、笑いだしそうになる。 彼女はまたぼくの知らない歌を口ずさんでいた。花の歌。 「今は、どういう気持ち?」 「とても楽しい気持ち。大きな声で歌いたいくらい」 「きみは本当に、歌が好きだね」 「うん。好きよ。歌が、大好き」 透明に光るしずくのようなひとみが、ぼくをじっと見つめた。あたたかな太陽を見上げて、腕をのばすきみは限りなく自由で、きれいだよ。この世界にはきみよりも尊いものなんかきっとないのだろう。 「わたしを連れ出してくれるあなたは、天使みたいね」 「ぼくが? まさか」 「あなたはなんにも知らないのに、わたしが知らないことを、きっとたくさん知っているの。とってもすてきで素晴らしいものを、たくさんね」 ぼくが知っていることなんか、この世界のほんの少しだよ。きみのほうがよっぽど清らかで、うつくしい、天使のようだ。 「わたしね、歌が大好きよ。知らないことを、たくさん教えてくれる。わたしの世界がどんどん、広がっていくみたいだわ」 この手に、誰かの温度が重なるということが、こんなにすてきなものだなんて、ぼくは今まで知らなかった。もしかして、ずいぶんと損をして生きてきたんじゃないだろうか。彼女に会うまでは気づきもしなかったけれど、ぼくにはいくつも、本当にいくつも、足りないものがあるのだ。 ぼくは正しさも、清らかなこともあまり分からずに生きてきたけれど、取り戻すのにまだ間に合うだろうか。きみがぼくの天使であるように、ぼくもまた、きみの歌になりたいよ。 「この世界は危ないことがたくさんあるでしょ。勉強をして、本を読んで、食事をして、満足に眠ることが出来る環境があれば、十分だって教えられてきたの」 「きみは、そんなゆりかごの中で暮らしていたのに、ぼくに出会ってしまったんだね」 好奇心旺盛なお姫様のようなきみとは、きっと出会うべきじゃなかったね。ぼくときみとが暮らしてきた世界はあまりにも違って、かえって興味を惹かれてしまうから。 「ぼくはこの世界の危ないことだよ」 たとえばきみのこの手から、齧りついて食い殺すことなんか、簡単に出来る。それを知っているのにきみは、いつでもこの窓にぼくを招いてくれるんだ。晴れの日は小鳥と遊ぶつまさきでぼくを呼んで、雨の日は雨垂れに濡らしながら手を伸ばしてくれる。外の世界を知らないきみと、内の世界を知らないぼくと、つなぐこの窓がまるで架け橋になっているみたいに。 「そうね。でもあなたは、わたしを食べたくないみたい」 だって美味しそうじゃないもの。そう言ってふざけて彼女の手を取ると、冷たいそれがやわく握り返してきた。おやつにぴったりな大きさのひとさしゆび、ひとくちだけ舐ってみたい長さのこゆび。ぼくは別に甘ったるい恋人同士みたいに、手をつなぎたかったわけじゃないんだよ。そう言って指の背にくちづけをすると、途端にほおを赤く染めて、手をひっこめてしまった。ああ、残念。 「わたしなんか美味しくないわ」 「そうかな。きみのほおは、今すっごく美味しそうな色をしてる」 「さっきと言ってることが違うけれど」 「気が変わったんだよ。喰種の言うことなんか、信じないほうがいいよ」 きみのきれいなほおに、触れるのはまだ出来ないけれど。 「ぼくに触れられるのは、どういう気持ち?」 その表情を見ているとぼくは幸せな勘違いをしそうになる。尊くけがれのないきみが、ぼくの手を握り返したことも、指にキスをして恥ずかしそうな顔をしたことも、ぼくにはすごくうれしいのだ。きみのまばたきは、声は、ほほえみは、どのくらい美しいのかということを、言葉にして喩える術をぼくは持っていないけれど。 桟に乗っていた彼女の手は、ゆっくりとぼくのほおに触れた。壊れものに触れるときのように、たどたどしく。彼女にとっては割れた硝子に触れるのと同じかもしれない。ぶしつけに触れては傷がついてしまう。そっと指を這わせればなめらかな感触でもって受け入れてくれる。ぼくにとってきみが、そうであるように。 「あなたと同じ気持ちよ」 美味しそうな血の色に染まっていくきみのほお。ぼくのからだも今は、沸騰しているように熱く、ほてっている。心臓がどくり、どくりと、脈を打つ。生きていることを実感させられる。 小鳥の声が聞こえる。きみが尊いと言っていた。花が首をもたげる音がする。きみが儚いと言っていた。子猫が草の上を走っている。きみが可愛いと言っていた。なんだか嬉しくって、笑いだしそうになる。きれいなものが、美しいものがどれほどすばらしか、今は少し分かる気がする。 きみの世界をつくる歌になりたい。きみが愛する歌になりたい。 ぼくはきみを愛する、たったひとつの歌になりたいよ。 もうじき朝日がのぼるね。ぼくは今まで大事なものを失ったり、自分の中にあるなにかを大きく損なったことはないけれど、ぼくは今たしかに失うというのがどういう痛みであるのか、涙が流れるのはなぜなのか、言葉には出来ないけれど分かった気がするよ。きみがね、きみの手が、目覚めたときにぼくの手に重なっているのを見ると、ああ今日もすばらしい朝が来たのだと、どうしようもなく感じるんだ。 美味しそうなきみのからだを為しているすべてのものが、ぼくにとっての大事なものだ。夜が終わって、朝が来た。きみの安らかな寝顔はまるで死んでいるみたいに儚くって、うつくしい。悲しくて辛いことは、からだと心に悪いのだと、きみが言っていたのも今なら理解できる。 ぼくの欲望は醜いかたちになって、きみの鼓動をうばってしまいそうだから、この手に抱くのはまだ少し怖いよ。 「ぼくはどうして人間に生まれてこなかったのかな。きみと出会ったことは、ぼくにとっての幸福なのだから、ぼくたちはきっと幸せになれるはずなのに」 「もしかしたら、もうとっくに幸せなのかもしれないわ。この時間がたしかにあることが、きっとわたしたちの幸福なの」 「きみは、世界のすべてを知っているみたいなことを言うんだね。箱入りむすめのくせにさ」 「でも、この時間が永遠に続けばいいって望んだのは、はじめてよ」 わたしはきみのおかげで、色々なことを知ったみたい。 深夜になって星がのぼる頃にはまた会える。人の目をぬすんで会っているぼくたちは本当に、不幸なロマンスの主人公たちみたいじゃないか。うるわしくきれいな世界で生きてゆくきみと、醜く血にまみれたぼくとの物語は、きっとどうしたって交わることはない。 きみを連れ出してゆけないぼくが、きみを幸せにできるはずがないのに、きみの言葉は甘くて優しいから、どうしても信じてみたくなるんだ。そばにいて、こうして手をつないで星を見て、冷たい温度を寄せ合うようにして眠るのが、あまりにも幸せで、嬉しくて、どうしようもないのだと。 泣きたくなるほどにきみはきれいだから、きっと汚れた路地裏に転がっている死体とか、生あたたかい鉄の匂いとか、ぼくがよろこんで駆けまわってきた屍の群れとか、そういう醜いもののことを、これっぽっちも知らずにいるのだろう。ぼくはそれらを切り離すことは、永遠に出来はしないのに、たまに夢に見るんだ。 もしもぼくが人間として生まれていたのなら、こんな風に、きれいなきみに引け目を感じることは、なかったんじゃないかって。 「泣かないで。赤い目が、もっと赤くなってしまうわ」 「分かってるよ。でも、止まらないんだ」 「あなたは、やっぱり天使のようね。天使は、赤子のかたちをしているのよ。なんにも知らなくて、すべてが清らかなもので出来ているの。それでいて、自分がどれほど無垢で、美しいのかを、知らないの」 彼女はぼくのほおを両手でやわらかく包み込んだ。わけも分からずに涙をこぼしているぼくを、愛おしそうに見つめている。胸が押し潰されているみたいに痛いんだよ。こうやってきみがそばにいるのに、寂しくってしかたなくなる。 「子守唄を歌ってあげるわ。安らかに、眠れるように」 「眠るための歌があるの?」 「可愛い赤んぼうを寝かしつける歌よ」 「ぼくは、赤んぼうじゃないよ。ただ泣いてるだけさ」 同じよ。天使も、赤んぼうも、あなたも、みんな同じく美しいものよ。 きみの手にかかればぼくは、本当に赤んぼうのようにぜんぶを委ねてしまえるみたいだ。こんな夜は初めてだ。こんな気持ちを抱くのも、初めて。きみの優しい囁きが歌になって、教会から聞こえる祈りのように響いている。 朝、目が覚めたとき、きみの手がぼくの手に重なっていると、ぼくはとてもうれしくて、幸せだなあと思うんだ。今夜もきみを食べずに、きみと一緒に過ごせたんだと思えるから。きみを傷つけたくはない。できることなら、ふたりで幸せになりたい。ぼくはよく知らないけれど、愛しいと思って毎日、なんだか笑いだしたくなるようなうれしさで毎日、いいなあと思って過ごせるのなら、それだけで涙が出るほど幸せなんじゃないかって、思うから。 ぼくが世界の尊さを知ったように、今度はきみが世界の悲しみを知るのかな。美しいきみが、醜いものにけがされてしまわないように、きっとぼくが命をかけて守ってあげる。ぼくはきみを守る歌になるよ。きみの歌が、ぼくをとても大きなうるわしい感情で、守ってくれるように、きみを守るから。 おそれないでぼくを受け入れてほしい。どうしてもきれいには生きてゆけない、醜いぼくをその目で、見つめて、どうか愛してくれたら、いいのにな。 |