アースカラーのチェックの傘、雨に濡れたアスファルトの匂いに混じる苦いコーヒーの香り。道の真ん中でわたしを見つけたトーカちゃんは、黒いバレエシューズで水溜まりを遠慮なく踏みながら駆け寄ってきた。
 珍しく慌てて取り乱すような剣幕で、なんでこんな所に、と呟いたトーカちゃんのくちびるは青く震えていて、わたしは自分がここにいるべきではないことをすぐに悟った。きっと何かあったのだ、この近くで、人が傷つくような何かが。
 トーカちゃんはそれきり何も言わず、ただわたしに着いて来るよう目で促して、人通りの多い道を通って黙々と歩き始めた。この道のりは彼女のお店、:Reまで向かっているのだろう。静かな傘の下、雑踏に混じって弾けるような雨の音が怖いほど鮮明に聞こえている。トーカちゃんは何も喋らない。少し歩いてはすぐに振り返って、わたしがついて来ていることを確かめて、また前を向いて黙々と進んでゆく。わたしは怖くて一度も振り返ることはできなかった。


「――さん、」


 は、と顔を上げるとトーカちゃんは傘を閉じて、ふるふると左右に振って雨粒を落としている。いつの間にかお店に着いていたようだ。雨で端が濡れた看板を、トーカちゃんはドアの内側に入れる。チョークのような字体で書かれたお洒落なメニューは、軒下できれいに守られていて少しほっとした。ラテアートのイラストがわたしはお気に入りなのだ。トーカちゃんが頑張って描いたと言っていた、少しぶかっこうであたたかいその絵。
 今日はこの雨だから、もうお客さんは来ないだろうと言って、トーカちゃんはお店のドアにクローズの札を下げた。少し身じろぎをするだけで、ジャケットや髪の端からぽたぽたと雨粒が落ちて水たまりを作っていく。いつの間にか、だ。いつの間にかこんなに濡れていた。髪を耳にかけると頬にまで冷たい滴が落ちる。
 わたしがジャケットを脱ぐのにもたついている間にも、トーカちゃんは厨房へ入ってかたかたと、牛乳を火にかけてマグカップをふたつ用意して、わたしのためにホットココアを入れてくれた。トーカちゃんのマグカップには、ホットコーヒー。甘い匂いと苦い香りが混じる。雨に沈められて落ち込んでいた心がふわりと浮くような心地がした。


「いい匂いだね」


 我ながら非日常が侵食していく外側の世界から逃避しているみたいな、情けない声だと思った。わたしは自分がトーカちゃんたちと違って、自分が何にもできないことを知っている。守られることしかできない、というのは決して諦めじゃなくって、それが事実で、真実で、唯一の方法であることをよく分かっているのだ。
 こういうときに非力な自分が悔しくなる。トーカちゃんは伏し目がちにふと笑って、カウンターからこちら側に出てきてわたしの隣に腰かけた。シャープな横顔は凛と、きれいで、流すような視線に見惚れてほうける。喰種のひとたちはどうしてみんな、きれいなひとばかりなんだろう。


「最近この辺物騒だから、早く帰りなよ。ウタさんが迎えに来れないならあたしが送ってくし」
「あ……うん。そうだね、雨もひどいし、ウタくんに連絡してみる」
「それと――あの場所にいたこと、ウタさんには言わない方がいいと思う」


 心配するだろうから、とトーカちゃんは言い添えてコーヒーを一口煽った。
 ぎくりとしたのは、わたしがまた、気づかないうちに危ないことに巻きこまれてしまったんじゃないかと、怖くなったからだ。今日は仕事終わりに時間があったから、地下鉄で降りるのを二駅、変えただけ。給料日後だからと少し浮かれて、ウィンドウショッピングをしようと思っただけだ。ただ、それだけなのに。
 マグカップを持つ手が震えるのは寒さのせいだと自分に言い聞かせて、分かった、と返事をする。非日常は本当にすぐそこまで迫っているのだ。わたしたちには見えないものが、わたしたちに見えない速度で、温度で、すぐそこまで来ている。


「トーカちゃんは……大丈夫?」


 何も知らないからこそ、そう聞かなければいけない気がした。苦むような、仕方がないと笑うような表情を見せるトーカちゃんが、「うん」と力強く答えてくれたのが少しだけ切ない。それが本当でも、やっぱり悲しいと思った。わたしには何にも見えていないのだと思い知るみたいで、蚊帳の外にいるのが浮き彫りになって、悲しい。


「あたしよりもさんの方が心配だよ。見るからに弱そうだし」
「そ、そりゃあトーカちゃんたちに比べたらね? でも別に、普通だと思うけどなあ」
「……さんたちにとっては、普通かもね。でもあたしには、そうじゃないから」


 言葉のはしが胸にちくりと棘をさす。普通、ふつうって、わたしは何をもって、そう言ったんだろう。トーカちゃんは落ち込んでいるでも、苛立っているわけでもなく、ただ両手でマグカップを包むように持って押し黙っている。
 ――傷をつけてしまったろうか。普通、だなんて勝手な尺度を押しつけて、人間と、喰種とに、線引きをしたように聞こえただろうか。立ちのぼる湯気はうっすらと掻き消えていくのに、胸の内にかかったもやはずっと晴れなかった。
 まばたきをしてうつむけばトーカちゃんは、「さっきね」と、細い声で切り出す。呟くその声を聞きもらさないよう、少し前のめりになった。


「雨の人混みの中でさ。一人で傘差して立ってるさんを見て、思ったんだ。不安だなって。怖いなって。まばたきの一瞬の内にでも、さんが誰かに襲われて、血を流して、倒れたっておかしくないんだよなって」
「トーカちゃん……」
「ウタさんも本当は気が気じゃないと思うよ。さんが一人で仕事に行ったり、出かけたりするの。別に過保護とか、そういうんじゃなくてさ。ただでさえさん、目を離したら、そのままふわって、消えて行っちゃいそうだから」


 あたしたちにとってはそれが『普通』なの。人間は弱くて、すぐに死んでしまうから、それが怖いんだよ。
 ……優しく囁くようなその声に、胸がいっぱいになって、何も言葉が出てこなかった。トーカちゃんは軽く首を振って、気を取りなおすように後ろ頭をくしゃりと掴む。わたしは、消えてあとかたもなくなってしまいそうなのは、本当はトーカちゃんの方なんじゃないかと、くちびるを結んで神妙な表情をするその横顔を見つめて思った。
 雨の音が強くなる。外の世界から切り離されたお店の中は、相変わらずコーヒーの芳しい匂いと、肌寒い静寂とに満ちて、物悲しい日常を感じさせた。


「……トーカちゃん、ありがとう」
「いーえ。あたしは、何にも」


 瞳をゆがませてトーカちゃんが笑う。わたしも怖いよと、言ってしまおうか、悩んでやめた。寂しい思いをしているのはトーカちゃんの方だ。こんなに雨が降って騒がしい日にも、物悲しくって泣きたい日にも、トーカちゃんの好きなひとはトーカちゃんの傍にはいてくれない。それがどんなに心細いか、少し分かる気がしたのだ。

 電話をするとウタくんはすぐに出てくれた。アトリエでマスクを作っていたけれど、雨が酷いから迎えに行こうか迷っていたところだと言って、わたしがトーカちゃんのところにいると伝えれば「分かった」と、「そこにいて」と、いつも通りの声色でわたしをこの場所へと繋ぎ止めた。
 わたしはきっともう今までの、何も知らないことを知らなかった自分には戻れない。何も知らないことを知っている、ここにしか居場所を見つけられないわたしのまま、何も見えないまま、ここにいることしかできない。それが良いとか悪いとか、そういうもので測れないことも承知の上で、そうすることを選んだのだ。




(171024) あなたの傍に居続けるために

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