人間が言うところの「結婚」とは、婚姻届をお役所に出すことを言うらしい。
 ぼくとしては、好きなひと同士が同じ家で一緒に暮らして、おそろいの物を持っているだけで、それはもう「結婚」なんじゃないかなあと、思わないわけでもないけれど。紙を出さないと結婚したことにはならないのかなあ、と素朴な疑問を投げかけてみればちゃんは首を傾げて、悩ましげな声で「うーん、そうだよねえ」と唸った。
 最近の人間の世界ではジジツコンとかナイエンとか、色々な結婚の形があるようだ。同性同士の結婚もできるようだけれど、そもそも人間的な常識やモラルから外れた世界で住み暮らしているぼくら喰種にとっては、あまり直接的な関係のない事柄でもある。
 喰種の世界に結婚の具体的な形はない。つがいになる約束をして、互いに噛み跡を残せば成立するという、動物的な方法が残ってはいるけれど、つがいになる喰種の全員がそれに則っているというわけではないし。なんて、くらいの年頃の女の子たちが聞いたら、卒倒するような現実だなあとも思う。かと言って、喰種のつがいの繋がりが薄いというわけでもないんだろうけど――とにかくぼくは今までそういうシアワセな「結婚」に縁遠かったし、色んなカタチをした関係が無数にあることも、まあ、よく理解をしているつもりだ。


「結婚って、ようはケジメの問題な気もするなあ。区切りっていうか世間体っていうか……」
「しがらみってやつだね。人間は苗字とか色々、手続きも面倒くさいんでしょ?」
「うん。っていうかそもそも、喰種と人間ってどうやって結婚するんだろ」


 どうやってと聞かれても、きっと明確な答えはどこにも存在していないのだろう。人間の方法と喰種の方法、どちらをとってもそう変わりないとぼくは思うけれど、先のことを考えれば、ちゃんの都合に合わせるのがいい気がする。ぼくは家族もないし世間体もないし、こだわりみたいなモノも何にもない。人間式の結婚に必要な「戸籍」もテキトーに用意できるよと、言えばちゃんはギョッとして、あからさまに嫌がった。そういうのはなんか違うんだって。


「だってそれって誰のか分かんないヤツでしょ?」
「まあね。とある筋から手に入れたヤツだよ」
「こわっ! いや、普通にやだよ!」


 ちゃんは大げさにのけ反ってソファに背中を沈める。分かりやすい拒絶の反応に、そういうものか、とぼくは一人合点を打って顎をかいた。「結婚」をするなら必要なのかなあと思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。それはある意味で、「戸籍」というものが持つ枠組や、影響が、人間であるちゃんにとって根深いものだと知らしめられるようで、ぼくはまた溝を感じて少し寂しくもなった。
 ぼくらはどうしたって、自分が人間であることを、喰種であることをやめられないのだ。一緒にいればこうしてお互いの変えられないモノをいくつも見つけてしまう。その度にこういう気持ちになるのは、きっとぼくだけじゃない。ちゃんも同じで、知らずのうちに傷つけているんじゃないかとか、いつか取り返しのつかない亀裂になるんじゃないかとか――杞憂と分かっていても、そう思わずにいられないのだ。
 「だって」と、ちゃんは少し言いにくそうに語尾を濁らせる。


「わたしが一緒にいたいのはウタくんだもん。知らないひとの戸籍と結婚したいわけじゃないよ」


 ――ああ、そっか。そういうことか。なんかそれ、すっごく嬉しいな。そっかあ、と答えればちゃんは恥ずかしそうに口を引き結んで、ソファに沈んでいた身体を起こして、また仕切り直した。
 そもそもなぜこんな話になったのかというと、ちゃんの会社の先輩が結婚をして、今月末で寿退社することが決まった、という話があったからだ。その先輩は旦那さんの転勤についてに行くからと、忙しそうに準備をしているんだって。素敵だよねとちゃんが言ったから、じゃあ寿退社しちゃえば、と冗談交じりに提案してみると、ちゃんはケロッと笑って「それは無理だよ」と一蹴した。……ずいぶんはっきり言うなあ。さすがのぼくもちょっとだけ傷ついちゃったな。わざと口を尖らせて、ソファのふちまでちゃんを追い込んで問うてみる。どうして無理なの?


「そりゃあ、わたしまだ2年目だし、別に会社辞めたいってわけじゃないし……」
「そうなんだ? 大変そうにしてるのに」
「まあねえ……。でもこれからってところだから、もうちょっと頑張りたいの」


 予想していた通り、しっかり者のちゃんらしい言葉が返ってきて、ぼくは拗ねる気もなくなってしまった。とにかくちゃんにとってはまだ、そういうタイミングじゃないということなんだろう。まあ待ちきれないっていうのが、ぼくの本音ではあるけれど、ちゃんの都合のいいようにするのがやっぱり正解なのだとも思う。
 それに結婚なんて、ぼくらにとってはまだカタチの見当たらない、ぼんやりとしたものに過ぎない。こうしてちゃんがぼくの傍にいてくれるなら、ぼくらの間にある名前がどんなものだって構わない。ただ一緒にいるというだけで、目新しい課題はいくつも出てくるのだ。喰種と人間の壁はまだ、計り知れないくらいに厚く、道筋が開けてさえいないのだから。
 とりあえずはそういう煩わしさから目を背けていたいっていうのも、理由の一つかもしれないなあ。


「わかったよ。ちゃんがそう言うなら」
「ウタくん……ありがとう」
「でも、順番を変えるっていう方法もあるよ」
「え?」


 まっすぐぼくを見つめ返すちゃんの、薄っぺらなおなかを撫でやりながら、パジャマの内側にするりと手のひらを滑らせる。めくりあげて露わになった腹のあたりにちゅう、とくちびるを落とせばちゃんの身体はきゅうっと縮こまって、何とも言えない顔をして口を真一文字に引き結んだ。ぼくが何を言いたいのかはすぐに理解してくれたみたいだ。頬が林檎みたいに赤くなって、かわいい。


「そ、それは……ダメだよ」
「えー」
「えー、じゃない、くすぐったい!」


 ぼくは今すぐにでも君ごと、まるごと全部が欲しいけれど、君がダメって言うなら仕方がないから、もう少し待っていてあげてもいいよ。
 柔らかい皮膚を食むように歯を立てれば、笑いを堪えきれなくなったちゃんは身をよじって、咽びながらぼくを押し返す。その息苦しそうな声、ぼくはけっこう好き。だってちゃんはぼくが強めに噛みついたって、溶かそうと舌で舐めてみたって、何をしたって気持ちよさそうに笑うんだ。……それってすごく幸せなことだなあ、って思うんだよ。
 いつかトーカさんにも言われたことがあるけれど、普通の女の子なら「結婚」に憧れを持っていて当たり前のはずなのに、ちゃんは決してないモノをねだったりしない。ぼくを選ばなければちゃんは、当たり前の人間としての幸福を手に入れられるはずだったのに、仕方がないことだからって、それでもいいからって、我慢してくれている。
 ちゃんはこんなにも優しいのに、ちゃんの世界の当たり前を、喰種であるぼくには本当の意味で変えることも、満たしてあげることもできないのだ。それがただただ、もどかしくって、少し悲しい。


「そういえば昨日、カネキくんみたいなひとと会ったよ」
「え?」
「全然雰囲気違ったから、たぶん別人だとは思うけど……」


 1区の近くを歩いているとき、白い髪をした男のひとを見かけた、とちゃんは呟く。そのひとはCCGの制服を着て誰かについて歩いていた。顔立ちが、カネキくんによく似ていたけれど、ちゃんに気づくこともなくどこかへ向かったって。


「っていうか留学中なのに、CCGの制服着てるはずないよね」


 ちゃんは、カネキくんは海外に留学していると思っている。トーカさんの新しいお店を訪ねたとき、どうしても話題に取沙汰せざるをえない彼の行方について、トーカさんが咄嗟に嘘をついたのだ。自分だって辛くないはずがないのに、ちゃんに心配をさせないよう気遣ってくれたトーカさんは、つくづく大人だなあと思う。


「顔はすっごい似てたんだけどなあ」
「……そうなんだ。でも彼みたいな顔した子、街にいっぱいいるからね」


 ひどい、と言いながらちゃんは笑って、それに彼なら、自分に気づかずに通り過ぎてゆくはずがないと、確信めいた言葉で自分を納得させていた。そうに違いないと相槌を打つことしかぼくにはできない。肯定も、否定ももはや必要がないのだろう。
 季節は少しずつ動き出し、回り出している。普遍のものとして――決して、この平穏な日々にぼくらを取り残してはくれないのだ。




(171023) もちろん未だ出逢わぬ人を

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