結局何が起こったのかよく分からないまま、わたしはウタくんに抱きあげられてその場所をあとにした。
 目を瞑ってとウタくんが言うから、その通りにしたら、どういうわけかその瞬間に耳まで塞がれて――ウタくんは少し遠くにいたはずなのに、一瞬でわたしの目の前に来ていたから驚いた。目で見なくてもその手がウタくんのものだと分かったのは、きっとわたしがその手のひらの感触をよく覚えていたからだ。それがウタくんだと、少しも疑わなかったし、迷わなかった。
 耳を塞ぐのをやめたあとも、ウタうんはわたしにまだ目を開けるなと言いつけて、そのままわたしをずっとお姫様抱っこで家まで運んで行った。自分で歩けると言ったのに、ウタくんは「だめ」と言ってわたしを下ろしてはくれなかったのだ。
 力なくウタくんの胸に頬をもたげると、その温かさに気持ちがどんどん落ち着いていくのが分かる。心臓はまだドクドクと脈打っている。色んなことが起こったから仕方がないけれど、こうしてウタくんが当たり前のようにわたしに触れてくれるのが、ひどく嬉しかったから。


「……ウタくん、あのひとに何したの?」
「それ聞いちゃう?」
「や、やっぱりいい……」


 なんだか怖いから言わなくていい。そう言ったのにウタくんは面白がるように、くすくす笑いながら「喰種にも急所があってさ」、なんて話を続けるものだから、わたしはそれを遮るように首を振った。


「アハハ。でも、大丈夫だよ。殺してないから」
「そ、そうなの……?」
「うん。死ぬよりも辛いことって、あるでしょ」
「こわっ!」


 ウタくんの言葉は、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか分からない。けれど、きっとこれ以上はわたしが知らなくていい話なのだろう。ウタくんはわたしとの間に境界を引きたがる。わたしには、喰種の世界の暗いところは知らなくていいと、遠ざけることで守ってくれようとするのだ。
 分かってる、ぜんぶ。ウタくんがわたしのためを想ってしてくれていること。それなのに、窮屈だと言って振り払おうとするのは、あまりに贅沢で傲慢だったのかもしれない。ウタくんは知っているのだ、わたしが知らない部分の世界のこと。それはわたしのために、ウタくんのために、きっちりと線を引いておかなければならないということも、ちゃんと。


「……ごめんね。ウタくん、ありがとう」


 物わかりが悪くて、心配ばっかりかけて、ごめん。声にすると途端に胸に響いて、わたしはつい涙を溢してしまった。
 この腕の中で守られていることが、ウタくんが守ってくれることが、わたしにとってどれほど幸せなことなのか、改めて実感した。ウタくんはただ笑って、許すように頷いてくれる。家について、扉を開ける頃にわたしはやっと目を開けて、広がるいつもどおりの世界のまんなかでウタくんを抱きしめた。
 おかえりなさい、ただいま。どちらからともなく、ただ繰り返す。瞳が重なって、あっという間に唇をふさがれて、震えたままのわたしの身体はあっけなく床に崩れ落ちていく。久しぶりに触れたこの温度が、感触が、愛おしくってたまらなかった。わたしはやっぱり、もう離れられないのだ。このひとから。


「んっ、あ、待って……ウタくん」
「やだ……待てない。この1週間、ずっと我慢してたんだよ?」
「そ、それはだって、仕方がないというか……んむ!」


 ちょっと、ちょっと待って! だからって玄関でこんなことになるのはどうかと思う!
 仲直りの嬉しさや感動はもちろん、そりゃあとっても感慨深いものがあるのだけれど、そうは言ってもこんな場所でする度胸や元気はないというか。学生時代だったらまだ仕方ないって受け入れられていただろうか……!? 大人になるってこういうことなの!? ああ、そんなことを考えていたってしょうがない、ぼんやりしていたらあっという間に服を脱がされかねない。わたしはウタくんをなんとか押しとどめて、せめて部屋の中、ベッドまで行こうと提案するとウタくんはそれをとても前向きに解釈したよううで、「いいよ」とあっさり了承してくれた。すぐに立ち上がって、嬉しそうにわたしの腕を引いて部屋の中へと入って行く。


「今夜はちゃんの好きなようにしてあげる」
「う、うん……?」
「ぼくが理性を保っていられるうちはね」
「!!」


 冗談だよ、と笑いつつもウタくんの目は本気だ。もしかしてわたし、墓穴を掘ってしまったのでは。


「大丈夫、うんと優しくしてあげるから」


 ……なんとなく、本能的に恐れを感じる一方で、どうしようもなくドキドキしてしまっているのも確かだった。気づけばベッドに投げ出されて、ウタくんがぎしりと覆いかぶさってくる。そして、ウタくんはまるで食事の挨拶でもするみたいに舌なめずりをして、わたしの首筋の辺りに甘く甘く噛みついたのだった。







 ウタくんの言葉はほんとうで、わたしが想像していたよりもずっと穏やかな夜を過ごした。
 もっとあれこれと性急に求められるのだと思っていたから、労わるような優しさが余計に胸にしみて愛おしく感じたし、ウタくんはわたしに合わせてくれているのに、彼が言うほどに我慢して堪えているようには見えなかった。この1週間、触れるのを何度もためらってやめたこと、抱きしめようと思ってできなかったこと、ただそれだけをもどかしく思って、挽回するように優しく、丁寧に、ウタくんはわたしを抱きしめてくれた。
 これだけでいいの、と聞いてもウタくんは当たり前のように、これがいいんだよ、と答える。


「君がぼくの傍にいてくれるだけで、充分幸せだから」


 ――わたしも、ウタくんも同じことを想っている。それが分かるだけで、わたしたちは幸せだった。他には何もいらないのだと、今なら言えるかもしれない。涙を拭ってウタくんの胸に頬を預けて、わたしたちは抱き合ったまま眠った。
 少しの嘘はきっと何事にも必ず必要なものだ。だけどわたしたちのような歪な関係は、どちら側にも行けない二人は、これから先にどれくらいの嘘と誤魔化しと不幸が連なっているかを分かっていて、それでも二人でいることを望まずにはいられない。何を選んで、何を捨てなければならないかを、数えるのはまだ少し怖かった。

 人間と喰種のしがらみのない世界に行けたらいいのに。一緒にいても悲しいことの起こらない社会になればいいのに。わたしの耳元に愛してると囁くウタくんの声だけが、この世でたった一つの真実になればいいと願って、目を瞑る。




(170320) 幻より夢をみたい

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