朝、一人で家を出て行ったちゃんの後ろ姿が、いつもよりずっと小さく見えた。
 喧嘩をしたあの日の夜以来、ちゃんはぼくに背を向けてばかりいる。顔を見ないように、目を合わせないようにしているのかもしれない。喧嘩中だから当たり前、と言えばそうなのかもしれないけれど、わざとらしく無視をされているようで、ぼくはなんだか面白くなかった。それなのに、まだ怒っているだろうかとその横顔を盗み見れば、今にも泣き出しそうな寂しげな顔をしていたりするから、ぼくは思わず抱きしめたくって堪らなくなってしまうのだ。
 ……ちゃんはまだそれを許してはくれないだろうから、タイミングを伺ってぼくもすっかり慎重になってしまっている。お互い意地になっているのかもしれない。こういう喧嘩をしたことは前にも何度かあったけれど、その度にいつもぐちゃぐちゃにこじれている気がする――本当に、ぼくはあんまり我慢とか自制とか、そういうのが得意じゃないから、ちゃんに長く触れられないでいると、ストレスが溜まってしまうんだけど。それでもお互いのことを分かって欲しくって、ぼくらはぶつかり合って、きっとその度に後戻りができなくなってしまうのだ。
 とはいえ、一体いつまで意地を張っていられるだろう? ……もうすぐ喧嘩してから1週間が経つ。もうあんまり我慢できる気がしていない。気を紛らわすためにイトリさんのバーに顔を出したり、蓮示くんを呼びつけて遊びに出かけたりしたけれど、そろそろ限界、かも。


ちゃんに触りたい……」
「ウーさん、さっきからそればっかり。うるさいよ」
「だってもう我慢できないんだもん……1週間だよ? 毎日一緒にいるのに、キスもハグもしてないんだよ」


 ありえない、ほんと。隣に寝ているちゃんを抱きしめようかと何度、ためらったことか分からないよ。だけどそうしたら絶対、嫌な顔されるだろうし、怒られるかもしれないし、余計に悪化したらいやだなあと思ったらできなかったのだ。
 一緒にいるのに、笑顔を見れないのは、触れられないのは、すごく寂しいことだ。今までは2週間くらい会えなくても、仕方ないかって自分を納得させていたけれど、そのときと今じゃ状況がまた少し違うから余計にもどかしい。一緒にいすぎても良くないのかな。やっぱりぼくじゃあ、ちゃんを幸せにできないんだろうか。
 ため息ばっかりつくぼくに、そんなに辛いなら早く仲直りしろ、ともう飽き始めているイトリさんは投げやりな言葉をぶつけてくる。そりゃあ、そうなんだけど。ぼくだってそうしたいけど、そこまで簡単な話じゃないっていうか……。


「でもねえ、彼氏と上手く行ってないときって、他の男の優しさが妙に沁みるのよね〜。無性に甘えたくなっちゃうっていうか〜」
「……そういうもの?」
「そうよぉ! あ〜あ、彼氏と喧嘩して弱ってるちゃん、モテるだろうな〜。男が放っておかないだろうな〜」


 モヤモヤと、ぼくの心に黒い影が差しこむ。思い浮かぶのは、ちゃんに声をかけたっていう男の名刺と、あの嫌なニオイ。ありえないけど万が一、ちゃんがそいつに少しでも好意を持っていたら、イトリさんが言うように優しさに甘えたいなんて思うんだろうか。…………ああ、だめだ。考えるだけで殺意が。
 もう潮時なのかもしれない。今日、ちゃんに謝ろう。もう一回ごめんなさいって謝って、噛んだことを許してもらって、危ないことに巻きこまれないように、しばらくは大人しくしててってお願いする。じゃないとぼくが限界を迎えそうだ。
 寂しくて壊れそう。――いや、壊してしまいそうになる、なにもかも、ぜんぶ。


「……迎えに行ってくる」
「はいはい。ちゃんによろしくねん」


 きっともうすぐちゃんが家に帰ってくると、なぜだかぼくにはそれが分かるような気がした。金曜日だけどまっすぐ家に帰ってきてくれるって、根拠はないけれど、どうしてか確信めいたものがあったのだ。
 イトリさんの店を出て急いで駅へ向かう。集中すればちゃんの気配はすぐにかぎ取れる。週末のこの時間は駅も混んでいて、雑多な音やニオイが充満しているけれど、ぼくは必死になってちゃんを探した。きっと近くに、4区にいるはずだ。駅を出て――もう家へ向かっているかもしれない。


「……こっちかな」


 コンビニを曲がったところ、街灯の灯かりがついて、少しずつ陽が落ちてゆくのが分かってぼくは少し焦っていた。角を曲がるたびに人気は少なくなって、その向こう側にちゃんがいるのが、近づくたびにはっきりと分かって高揚する。だけど同じ場所にもうひとつ、なんだか嫌な気配がうろついているのだ。
 きっとそれはちゃんのすぐ傍にいる。ぼくはそれが誰のものなのか、悔しいけれどすぐにぴんときてしまった。彼だ。ちゃんにちょっかいをかけてきた、見知らぬ喰種、彼のニオイがしている。
 ぼくはすごく嫌な予感がして、これ以上なく神経を研ぎ澄ませてちゃんの気配をたどった。早く行かないと、何かあってからじゃ遅い。イトリさんの店を飛びだしてきて良かったと、ざわつく胸を押して角を曲がれば、見通しのいい道路の向こう側にふたり分の影が見えた。


「――ちゃん」


 ああ、やっと見つけた。ぼくのちゃん。知らない喰種が、その腕を引こうとしている。ちゃんはぼくの名前を呼んで、瞳に涙を浮かべて助けてと叫んだ。その声を聞いた瞬間にぼくは目の前が真っ暗になった。







「何してるの」


 あまり刺激しないように一歩ずつ、確実に、ぼくはそいつとの距離を詰める。こちらに振り返ったその喰種は見たことのないやつだった。街中を歩いている普通の男の子、――の皮を被ってる賤しい喰種。きっとドコの誰でもないとは思うけれど、鼻の曲がるような嫌なニオイをプンプンさせている。


「……あーあ。あともう少しだったのになー」


 涼しげな彼の顔はとたんに歪んで、ニヤニヤと意地汚く口角を持ち上げた。こっちが本当の顔かな。じりじりとぼくに向き合いながらも、彼は掴んだちゃんの腕を放す素振りを見せはしない。


「俺、さんに一目惚れしたんです。あんたみたいに、食べるために近づいたとか、そういうんじゃないんで」


 焼け焦げそうなほどの苛立ちを感じているけれど、ぼくはどこか冷静だった。ちゃんに負担がかからないように、どうやって彼を処理しようかといくつも方法を考える。綺麗にやらなければ、そいつの汚い血でちゃんが汚れてしまう。それだけは絶対に嫌だ――血の跡なんていうのは、一度こびりついてしまったらなかなか取れないのだ。


「ねえさん、俺にしませんか。あなたが好きなんです。絶対に食べたりしませんから」
「や、やめ……っ!」
「あの男、きっとさんのことを食べるつもりで近づいたんですよ。止めた方がいいです。俺が守ってあげるから、ね?」


 あーあ……なんかいやだなあ。他の男が自分の彼女に告白してるシーンを、まじまじと見ているのって、ひどく滑稽な感じがする。
 ぼくはつい堪えきれなくって笑ってしまった。『絶対に食べたりしない』とか、『守ってあげる』とか、どこかで聞いたことのあるフレーズに昔の思い出を掘り起こされている気分になったのだ。ぼくもそんなこと言ったなあ、そういえば、それから何度、食べるのを我慢したり、傷つけてしまったりしたんだろう?
 ほんと、約束したはずなのに、こうやって危険に晒しているし。ぼくはちゃんとしたたくさんの約束のうち、何か一つでもきちんと守れているのかなあ。


「……そうだね。君の言う通りかもしれない」
「認めるんですね。やっぱり食べるつもりで――」
「うん。だからね、君にはあげられないよ」


 ちゃん、そのまま目を瞑って。
 ぼくがそう言えば、ちゃんは疑うことをせずにぎゅっと目を瞑って動かずにいてくれた。おかげで綺麗に片がつきそうだ。ぼくはその瞬間に間合いを詰めて、彼とちゃんとの間に入り、両手でちゃんの耳を覆った。
 ああ、そういえば久しぶりに触れたなあ、なんて、背後にいる彼を赫子で突き刺しながら思って嬉しいような、切ないような感傷に少しだけ浸ったのだ。


  「……うん。いい子」


 肉に穴が開く生温い感触も、血飛沫が落ちる音も、君はそんなもの見なくていいし、知らなくていいんだよ。
 また君を怖がらせたり、傷つけたりするかもしれない。だけど君を脅かすすべてから、ぼくが必ず守ってあげる。ぜんぶ最初に約束した通りには上手くいかなかったけれど、それだけは守る自信があるよ。
 君が此処にいてくれることが、何よりも幸せだから。君と一緒ならぼくは、世界中の誰よりも幸せになれると思うんだ。




(170318) 君と出会って一番最初に感じたその気持ちは今もこれっぽっちも変わっていないよ

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