本気で怒ったときのウタくんは少し怖い、と思う。
 いつもは柔和で優しいけれど、スイッチが入ったときは顔つきが真剣になって、まとう空気が少しぴりっとする。わたしはいつもそうなってから気がつくのだ。ああ、きっと何か間違ったことを言ってしまったのだと、後悔をしてからようやく、彼の怒りやわだかまりの形を捕えることができる。
 だからこそウタくんは、いつももどかしい思いをしているのだろう。わたしが頑固で意地っ張りなせいで、ちょっとした喧嘩が訳分からないくらいにこじれたりするし、ウタくんもウタくんで分からず屋なところがあるし。ウタくんはいつだって、わたしへの過保護さとか独占欲とか、少し重苦しいくらいの愛情を、真正面からぶつけてくる。それは彼なりの愛情表現だってことも分かっているし、わたしだってもちろんすっごく嬉しく幸せに思っている。けれどそれでも、痛いものは痛いし、怖いものは怖いのだ。
 いちばんわたしを守ろうとしてくれてる人が、いちばんわたしのこと傷つけてどうするの? ――ゆうべは真夜中にそう泣き叫びながら、彼の胸をひたすら叩いていた。息が止まりそうになるほどの喧嘩のあとで、息が止まりそうになるほど泣いて彼を責めたのだ。どうしたらいいのか分からなくなってるのは、きっとわたしもウタくんも同じのはず、なのに。


「……ごめんね。ちゃん、ごめんなさい」


 謝って欲しいわけじゃなくって、彼の小さな謝罪を聞きながらもっと悲しい涙が溢れた。熱を持った手首が痛い。噛みついたウタくんの胸だってきっと同じくらいに傷ついているはずなのに、分かっているのに、わたしたちはどうしたってぶつかり合うことしかできなかった。
 この手を離せなくって苦しい。痛みに目をつぶれないわたしたちはこうして、何度も傷つけあって、同じことばかり繰り返してゆくのだ。







 あの日から三日経っても、ウタくんとの距離感はギスギスしたままだった。
 せっかくの日曜日にもウタくんは締切があると言ってアトリエにこもりきりで、わたしは久しぶりに一人きりの静かな休日を過ごした。夕方にうたた寝をしていたときに、おそらく戻ってきていたウタくんがわたしにブランケットをかけてくれていたけれど、起きたときにはウタくんの姿はなくってお礼を言いそびれてしまった。それからわたしが夕食を食べ終えても、お風呂を上がってベッドに入っても、ウタくんが帰って来ることはなかった。
 別に、お仕事があるときとか、イトリさんや四方さんと遊びに行くときはいつもこうだし、――ただ連絡をくれないのが珍しいっていうだけで、たいして特殊なことじゃない。それにそもそも喧嘩をしているのだ、連絡をくれなくたって何にもおかしくはない。……わたしは自分にそう言い聞かせながら眠った。けれど翌朝、ウタくんがとなりで眠っているのを見て無性にほっとして、なんだか泣きそうになってしまったのも事実なのだ。
 一緒に住んでいるのに会話をしないでいるのは、すごくさみしいことだ。別々に暮らしていた頃のほうが、喧嘩中はまだ楽だった気がする。今はこんなに近くにいるのに遠い。顔を見たいけど、見たくないし、見られたくないし、複雑すぎる思いですぐに胸がこんがらがって、苦しくなる。


「……行ってきます」


 ウタくんはまだ眠っているから返事がなくたって当然だ。だけどまた、胸の奥がきゅっと切なくなってしまった。怒っていた気持ちや苛々がくるっと一回転して、いつの間にか寂しさに変わっているなんて、我ながらずいぶんと身勝手だ。情けないその日は仕事も上手く行かなくって、くたくたになりながら家までの道をたどった。







 わざとすれ違うような生活を続けて、一週間。
 金曜日を迎える頃にはわたしはもう限界だった。仕事終わり、同僚と飲みに行くのはやめにして、今日こそはウタくんに謝ろうと決心をして急いで家へと向かう。
 もう色々と耐えられそうになかったのだ。仕事をしている間は忘れられるけれど、家に帰ればお互いに微妙な空気を持て余してしまうし、このまま黙っていたって堂々巡りで切りがない。ウタくんがわたしを心配してくれているのは、よく分かっているし、自分でもウタくんの言う通り、危機感が足りないことをそれなりに反省しているのだ。
 それにしたって気まずい現状、どうやってウタくんに声をかけようかと、頭の中であれこれシミュレーションをする。素直に誘うのが一番だと思うけど、もしマスク作りが途中だから、とかこれから用事があるから、とか言われたらどうしよう……。でもウタくんだってこのままじゃよくないって思ってるはずだ。だから1時間、いや30分でいいからって食い下がれば、ウタくんは聞いてくれるだろう。うん、そうだ、きっと大丈夫……ああ、なんだかこういうのも久しぶりで緊張してしまう。
 荷物を提げるこぶしに力を込めると、まだ少しだけ手首の傷が痛んだ。というか瘡蓋になったところが痒くてしかたないのだ。歯型が残っていたのはだいぶ薄くなったけれど、あの夜のことは思い返すほどにぞっとする。だって喰いちぎられるかと思ったのだ。本当に。
 
 ――ぼんやり歩いていると、ふいに後ろから足音が聞こえてきた。
 明るい道を通っているとはいえ、4区はまだ治安があまり良くない。声をかけられることは滅多になくなったけれど、ウタくんが言うように危険な人がいてもおかしくはないのだ。
 警戒しながら足音のする方を見やると、どこか見覚えのある人影が、こちらへ向かっていた。それが誰なのかを捉えてハッとする。


さん!」


 彼だ。あの夜のバーで、あの日のドラッグストアで、偶然に出会った喰種の彼――ユウマくん。
 今回もまた偶然なのだろうか、ああ、いや、そんなはずはない。だけどこの辺りに住んでいるということを、わたしは一度も口にしていないのに。


「やっと見つけた」


 心臓がいやな鼓動を刻む。目の前で立ち止まった彼が、爽やかに微笑んでいる。まるで当たり前のように、彼はわたしの腕を捕まえた。その瞬間に身体が震えて、これが本当の恐怖なのだと悟った。
 ――ウタくん、早く来て、助けて。わたしは胸の中でそう願った。よく分からないけれど、ウタくんなら必ず助けに来てくれると、そんな気がしたのだ。




(170222) 祈りも願いも胸の痛みも

inserted by FC2 system