「なんで勝手に荷物漁ったの」
「……ごめんね、バッグからニオイがしてたから」
「連絡なんかしてないよ? 本当に、たまたま道で、会っただけ」


 それなのに、どうして、ああいう言い方するの?
 ちゃんはぼくの服の裾を強くつかんで、怒りのにじむ手でぎゅうっとそれを握りしめながら、泣いている。ぼくが振り返ってそれを拭ってあげようとすると、眉間にしわを寄せて思いっきり顔を背けた。嫌だ、触らないで、ってその横顔が言っている。最初にぼくに触ってきたのはちゃんのくせに、身勝手だなあ。
 ちゃんは嘘をついている、というわけではないのだろう。今日だって、人間の女の子と遊ぶと言っていた通り、ちゃんからは人間の女の子ひとりぶんの匂いだけがしている。ただそれに混じるように喰種の手垢がついていたから、気になって少し探してみればバッグの中からあの名刺が見つかったのだ。
 ちゃんの身体に残っていた気配と同じニオイがしてるんだから、怪しいなあって思うのは当然のことだとぼくは思うけど。また変なことに巻きこまれてるんじゃないかとか、誰かにちょっかいかけられてるんじゃないか、とか。……どうしてぼくにナンパのこと教えてくれなかったんだろうとか考えるとつい、色々と気に喰わないことが増えてしまう。


「どうしてぼくにナンパのこと黙ってたの?」
「余計な心配かけたくなかったから。本当に何にもなかったし、今日会ったことも忘れてたくらいだもん」
「……そういう危機感ないところ、気をつけてっていつも言ってるよね」


 何かあってからじゃ遅いんだよ。ぼくがちゃんに怒っているのは、別に浮気を疑っているからというわけじゃない。危ないことが何なのかいつまで経っても気づけなくって、ぼくに相談もなく解決したって判断して、大丈夫になったつもりでいることが、気に入らないのだ。
 ちゃんは器用で要領がいいから、うまく事を運べているつもりかもしれないけど、喰種相手にそれが通用するかどうかは蓋を開けてみるまで分からない。……ぼくは口を酸っぱくして、何度もそう伝えてるつもりなんだけど、分かってくれていなかったのかなあ。
 試すようなことばかり言ったりして、たしかにぼくも大人げなかったかもしれない。それでも気になってしまうのだから仕方ない。他の男がちゃんに近づいたのが、触れたのが、どうしようもなく嫌だった。吐き気がするくらいに。まあ、自分の彼女にこれみよがしに足跡をつけられて、不機嫌にならないような男はいないと思うけど。
 いっそちゃんがぼくの目の届くところにだけ居てくれればいいのに。そうしたらぼくが守ってあげられる。他の誰のところにも行かないんだってこの目でたしかめたら、ぼくはようやく安心できるかもしれないのになあ。


「ぼくは、相談してくれなかったことに怒ってるんだよ」
「それは……ごめん。だけど言ったらウタくん、家から出るなって、仕事にも遊びにも行かせてくれなくなるでしょ」
「……うん。そうかもね」
「今は仕事休めないし、ナナちゃんとだって久しぶりに会いたかったし、だから……」


 家に閉じ込められたら困ると思った、とちゃんは言いにくそうに語尾を濁らせる。だから黙っていたのだということは、もちろん想像できるし、ぼくだってきっとちゃんの言う通りの行動をしていたと思う。ちゃんを危険から守るにはそれが一番の選択だから。
 ちゃんの言いたいことも分かるけれど、ぼくの思いだって少しは汲んでくれたっていいのに。――ああ、いや、違う。きっとちゃんは全部分かっているんだろう。だからお互いのために黙っていたのだ。遅かれ早かれこんな風になるって、ぼくたちはお互いのことを知りすぎて、もう見えなくなってしまうくらいに、近くにいるから。


「……分かったよ。とりあえず今日は、もう寝よう」


 少しの嘘は、きっと必ずしも必要なものだ。何にだって。堂々巡りだと分かっていたから、涙と疲れとでまぶたを腫らしているちゃんをもう休ませようと思った。だけど腕を引いて寝室へ誘えば、ちゃんは自分で行けるとそれを振り払ってぼくを置いてベッドへ向かっていく。
 ……ああ、そう。もう勝手にすれば。少しイラッとしてそんなことを呟けば、ちゃんはあからさまに僕に背を向けて横になった。しんと落ちるような静寂に、ぐすぐすと小さな泣き声が混じり始める。ぼくを突き放しているのは、ちゃんの方なのに、どうしてそんなに悲しそうに泣くんだろう。……これじゃあぼくが悪いことをしてるみたいだ。






 互いに背を向けて横になっても、いつまで経ってもぎこちないままだった。
 ちゃんは泣きやまないし、ぼくも鬱憤が溜まっていくばかりで、もう、どうしようもない。我慢するのはやっぱり苦手だ。ぼくは身体を起こしてちゃんを覗き込む。案の上、ちゃんは小さな身体をぎゅうっと縮こまらせて、顔のすぐそばで両手を大事そうに重ねて眠っていた。ああ――焦げつきそうなくらいの激情が、ぼくを飲み込んでいく。


「……ちゃん、やっぱり待って」
「え、」
「堪えられないや」


 ぼくはちゃんの手首をつかまえて、すくめられたその肩を無理やり仰向けにベッドに押しつけた。何するの、と呟いたくちびると瞳が不安げに揺れている。ぼくはちゃんの細い手首に、かぶりと噛みついて、跡がのこるほど強く歯を押しこんだ。
 穿たれた皮膚からはすぐに鮮やかな血が滲む。痛い、痛いと悲痛な声色で叫ぶちゃんがぼくを押しのけようとするけれど、そんなのぼくには効かないし、痛くも痒くもない。知らない男のニオイが残ったその手首を、大事そうに胸に抱えて眠られるよりはよっぽど良かった。
 もとに戻らないと分かっているのに、可愛いこの手を噛みちぎってしまいたい、とさえ思ってしまう。思い通りにしたくって、手放したくなくって苛々する。ばかみたいって呆れられるかもしれないけど、ぼくは君のことは一ミリだって、他の誰かに分けてあげるつもりはないのだ。


「し、信じらんない、なにするの……!?」
「だって、君から他の喰種のニオイがしてるから」


 気が狂いそうになるんだ。とてもじゃないけれど、眠れそうになんかなかったよ。
 ドク、ドクと脈打つたびに血が流れてゆくそこにキスをして、シーツやちゃんのパジャマを汚さないように丁寧に舐め取っていく。ちゅうっと吸いつけばアルコールとお風呂のせいでめぐりの早い血液がたくさん溢れてくる。ちゃんの瞳に浮かんでいるのは涙と、驚きと、痛みと、怒りと……あとはなんだろう。しつこく傷口に舌を這わせていれば、身をよじって抵抗していたちゃんはとうとう声を荒げて、ぼくの頬を打って身体を押しのけた。


「痛いよ……っ! やだって言ってるのに!」
「暴れたら、汚れちゃうよ」
「いい……! もう、触らないで……」


 転がるようにベッドを降りて、ちゃんはリビングの方へ向かってゆく。きっと手当をしに行ったのだと分かっていたから、ぼくはすぐにその背中を追いかけて、ふらふらしたちゃんの腕を引いてソファへと座らせた。
 ぼくがやってあげる、なんて、自分で傷つけたくせにそんなことを言うのはおかしいかな。キャビネットから救急箱を取り出すあいだもちゃんはずっと黙って、溢れてゆく涙をただただ拭っていた。


「手、貸して」


 ちゃんはぼくの言葉を無視してうつむいている。そうしているうちにも血は滲んで肌を伝って流れて行く。冷たいその手をひざのうえから取りあげて、ぼくは剥けた皮膚と穿たれた傷跡にゆっくりとガーゼを巻いてあげた。
 ちゃんの手首からはもう他の誰のニオイもしなくなった。ぼくはようやく満足したけれど、苦しいほどの罪悪感を感じてもいる。こうしないと、どうやったって満たされることはなかったと分かっているのに、充足よりも後悔の方がしだいに膨れ上がっていくのだ。
 ああ、ぼくはいつもこうだ。酷いことしてごめん。傷をつけたいわけじゃなかった。ただ自分のものだって確かめて安心したかっただけなんだよ。……なんて、素直に懺悔したところで、ちゃんはいつものように許してくれるだろうか。ぼくだったら絶対、許してやらないけどなあ、そんな、どうしようもないやつ。


「……ねえ、ちゃん。お願いだから、喰種には十分気をつけて」


 ニオイとか、テリトリーとか、喰種は動物といっしょだからそういうのにひどく敏感でさ、知らない間に色んなしがらみに巻きこまれてしまったりするんだよ。必要のないモノは削ぎ落しておかないと取り返しがつかなくなったりする。だからぼくは君にたくさん、ぼくの匂いが移りますようにって抱きしめて、キスをしてきたんじゃない。
 彼はそのことを分かっていたのかな。相手がぼくだって知ってて、君に声をかけたんだとしたらタチが悪いなあ。人のモノに手を出すっていうのは、人のテリトリーに踏みこむっていうのは、それなりの覚悟をしておかないといけないんだよ。ぼくらはそれをよく分かってる。
 それなのに君は相手を庇うようなことするから、ぼくはつい感情的になってしまった。あんまり平和そうな顔して笑っているから、もどかしくって苛々してしまったのだ。


「酷いことして、ごめんね」


 こうやって君を泣かせるのは何回目だろう。もう許してくれないのかもしれない。それでもいいから、お願い。ぼくは君に、ずっと傍にいてほしいだけなんだ。




(170125) この恋がきみを傷つけなかったときがあったなら

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