「あ――この前の!」


 土曜日は友だちと2人で映画に観に行く予定で、駅で待ち合わせをしていた。
 その前に買い物をすませようと、約束よりも少し早い時間に駅前の薬局をうろうろしていると、ふと目の前に見覚えのある男の人が立っていた。突然声を掛けられて、驚きついでにうっかり挨拶をしてしまう。誰だったかと記憶をたどってみれば、先週の金曜日にバーでナンパしてきた喰種だったことを思い出す。ああ、無視すればよかった。たしか名前はユウマ……? だったような。 


「ど、どうも」
「こんにちは! え、偶然ですね! この辺、最寄りなんですか?」
「いえ、今日はたまたま遊びに来ていて……」


 そっか、と少し残念そうに首を傾げた彼は、私服姿だとだいぶ印象が違って見えた。まさに今時の男の子、という感じで、普段ウタくんの奇抜めのファッションに慣れているとその爽やかさがものすごく新鮮に感じられる。しかも昼間の薬局で出会ったというのが、夜のバーで会うのよりもずっと親しみがある。大学の同期にも似たものを感じる。年も近いし、こんな風にたまたま二度も会ってしまったとなると、突っぱねてすぐにさよならと告げるのが少し躊躇われてしまった。
 二言、三言交わしていると、彼はふと言いにくそうな顔をしてこちらを見やる。何かと思えば、名前を教えて欲しいと、彼は小さな声でもごもごと呟いた。そういえばわたしは名前も伝えていなかったのだ。この雰囲気ではなんだか断りにくいし、教えるべきなんだろうか……。


「えっと……といいます」
さん! おいくつですか」
「今年で23です」
「同じだ! 俺も、今年23」


 彼は嬉しそうにぱあっと表情を明るくさせたかと思ったら、すぐに照れた様子で後ろ頭を掻いた。……ちょっと可愛いかも、と思ったのは母性本能をくすぐられてしまったからで、なんだか年下っぽいというか、動物っぽいというか、そういうあどけなさが可愛くてくすぐったくなってしまったのだ。
 彼、ユウマくんはお茶に誘ってくれたけれど、友だちとの待ち合わせがあるからと言ってお断りした。何にせよ二人きりでお茶をする気はさらさらなかったし、連絡先を交換するようなつもりもないのだ。驚きの再会を果たしたけれどこれでさよなら……のつもりで、軽く会釈をして立ち去ろうとした、の、だけれど。


「待って!」


 左手首をぐっと掴まれて、引きとめられる。見上げればきらきらと輝いた瞳がこちらを見ている。外見の印象とは違って、彼はやっぱりずいぶんと情熱的なひとらしい。


「俺、やっぱ諦められないんですけど……。連絡先聞くの、どうしても駄目ですか?」
「え……えっと……はい……」
「なんで? 彼氏の束縛が強いとか?」


 それは大いにある、と思ったけれど一応首を横に振っておく。ウタくんに言われているからじゃなく、わたしが自分の意思で、そうしたくないと思っているからだ。彼はわたしの手首をきゅっと強く握って、「分かった」と言ってすぐに解放してくれた。
 納得できない、って思っているんだろうなあというのが、ひしひしと伝わってくる。だけどこれでもう会うこともないだろう。せめてきれいに終わりたいと思って、わたしはありがとうと彼に伝えて、笑って手を振ってさよならをした。これでおしまい、一件落着だ。







 ナンパされた、というのはなかなかまあ悪い気がするものでもなくって、友だちと映画の感想を語り合いながら色んな話を肴にお酒が進んで、気持ちよく酔っぱらったところで終電に乗り込む。遅くなるとウタくんに伝えてはあったけれど、スマホを開けば数十分前にメッセージが入っていた。開けば駅まで迎えに来てくれるという内容で、わたしは浮かれ気分のままハートのスタンプを連打する。
 ああ、そういえば新しいスタンプを買おうと思っていたのだ。最寄り駅までの長い時間をスタンプショップを覗くことに費やして、どれにしようかと適当に探しながら、ふいに眠気が襲ってきたタイミングではっと目を覚ます。いつの間にかあと一駅まできていた、危ない、降り過ごすところだった。あくびをしながら目元をぬぐえばマスカラがついてきて、きっと間抜けな顔をしているんだろうなあと思いながら改札口を抜ける。


ちゃん」
「ウタくん! ありがと、迎えに来てくれて」


 コンビニに行くついでだったから、と言いながらウタくんはわたしの手を取って、冷たいわたしの指先を絡め取る。きっと迎えに来るついでにコンビニに寄った、というのが本当なのだろう。わたしは嬉しくなってウタくんにくっつきながら、家への道のりを辿った。
 夜風はもう冷たくなっていて、あっという間に季節がめぐっていることを改めて実感する。社会人になって時間の進み方が変わった気がする。ぼーっとしている間に置いていかれそうだ。季節に、時間に――――


ちゃん、今日誰かと会った?」
「え? うん、ナナちゃんと遊んだよ」
「その子以外には?」
「他には……うーん、誰にも会ってないけど」


 急にどうしたんだろう、とウタくんを見上げれば赤い瞳と目が合う。家の前の路地につけば、ウタくんはいつもサングラスを外すのだ。もうそんなところまで歩いて来ていたのか、と驚きながら、思いのほかに自分が酔っていることに気がついて、深呼吸をした。


「喰種の匂いがしたから」
「喰種?」
「うん。知らない間にすれ違ったのかもね」


 繋いでいた手を放すとき、ウタくんの手のひらがそっとわたしの手首を撫でた。それがちょうど昼間、ユウマという喰種に捕まれたところだったと、そのときにはっと思い出す。
 ……だからって、実は、なんてわざとらしく蒸し返すような話でもない。彼とはもう二度と会うこともないのだし、丸く収めるにはこのまま黙っているのが一番良いと思ったのだ。ウタくんに要らない心配をかけたくなかったから。







 酔いを少し醒ましてからシャワーに入って、パジャマ姿であったかい緑茶に口をつける。二日酔い防止のために、最近はお酒を飲んだあとにお茶を飲むようにしているのだ。ウトウトしながらマグカップを持ってソファに座っていると、隣に並んだウタくんが「危ないよ」と取りあげてテーブルへ置きなおしてくれた。ああ、もう限界だ。わたしはそのままウタくんの方へ身体を倒して、抗えない重力にすべてをゆだねる。ねむい。


「もう寝る?」
「うーん……」
「もしかして、地下鉄とかでこうやって寝てないよね? ちゃん」


 ぎくり、実は最近は居眠りがくせになって、通勤のときに隣の人に寄りかかって眠ってしまうことが少なくないのだ。寝てない、ととっさに答えたのが嘘だとあっさりバレて、まぶたを開ければウタくんの手が、ごつごつした指が、くすぐるようにわたしの手首をつかまえる。


ちゃんはほんと、嘘が下手だね」


 食べちゃいたいなあ、といつものように呟いたその声が、いつもよりずっと低くってわたしは、一瞬で目が醒めたるような心地がした。驚いた、ウタくん、怒ってる。――どうして?


「ウタくん?」
ちゃん、ぼくに何か隠し事してるでしょ」
「え? 何で……」
「ねえ、ここ、ほんとは誰に触られたの?」


 ドクドクと高鳴る脈の音をたしかめるように、ウタくんのくちびるが、わたしの手首の内側をなぞった。歯を立てるふりをしてくちびるで皮膚を食む。まるでわたしが、悪いことをしてるみたいな声でそう聞くから、つい怯んで黙ってしまった。ウタくんにはそれが肯定のように思えたのかもしれない、瞳を揺らして、じっと覗き込んでくる。ああ、不機嫌なときの、顔だ。


「ねえ、誰?」
「……誰、でもない。知らない人……」
「へえ、知らない人に手首を捕まれたの? 物騒だね」


 ウタくんが鼻を寄せて、クンクンとこれみよがしに手首の匂いをかごうとするから、わたしはついそれを振り解いた。だって、わたしが嘘をついているみたいな言い方を、ウタくんはしたから。たしかに隠し事はしてしまったけれど、やましいことは何にもない。ただそれを言葉にすると、それこそ嘘みたいな言い訳になってしまうと思ったのだ。


「……実はこの前、ナンパされたの。その人に今日、また会って、声かけられただけ」
「ナンパ? ……ぼく、聞いてないけど」
「言ってないもん。ただのナンパだったし、どうせもう会わないと思って」
「ふうん。でも、また同じひとに会ったんだ?」


 会いたくて会ったわけじゃない、と言おうと顔を上げたわたしの目の前に、ひらりと白いカードのようなものがかざされる。印字された文字、裏の白面には、手書きの数字がにじんでいる。ドキン、とひときわ心臓が大きな音を立てた。


「それってもしかして、この名刺のひと?」


 とまどいと、狼狽と怒りと、あとはもう――自分でもよく分からない。
 ふつふつと湧き上がる雑多な感情に全身が支配されていく。なんで、どうして。一つボタンを掛け違えただけで、こうやって全部がばらばらと剥がれ落ちてしまうんだろう。良かれと思ってやったことが全部、裏目に出ている気がする。わたしはただ、ウタくんに心配をかけたくなかっただけなのに、どうして。
 わたしはウタくんからその名刺を奪いとって、びりびりに破ってゴミ箱に捨てた。涙もいっしょに零れて、紙くずの上にいくつもいくつも落ちていく。ウタくんは涙を拭いに来てはくれない。頭を撫でに来てはくれない。
 こみ上げてくる感情にまかせて、わたしは寝室へ向かったウタくんを追いかけて、ベッドに入る前の彼の服を掴んで引きとめた。前ならきっとこんな風にぶつかることなんてできなかっただろう。近すぎると、距離感が分からなくなる。良くも、悪くも、どこまでが自分自身なのか分からなくなるみたいで、少し怖くなった。





(170124) 永久など無くてよかったさ

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