私がタケミカヅチ様にお仕えするようになり、かれこれ千載の時が流れている。
 うつしよの時間と比べるとそれは比類もないほどの長い時間に違いないが、もっともこの身体を得てから、あるいは元の身体を失って神器という新しい生命をさずかった時から、みずからを取り巻くものはすべて一たびも時間を進めたことは無かった。人間の持つ寿命は短く、付き纏うものすべてが生きていられる期間というのは、それほど長くはない。だからこそ儚く、かぎりある故の美しさがあり、その一瞬を逃すまいと身体の薪を燃やして、かけがえのない命を生きているのだ。
 喪って得た生命は無間地獄のような虚無を思わせ、生でも死でもない、おぼつかぬ生まれを疎ましく思いこそすれ、名をくださった主のことを尊び、二心のない忠誠を誓い、そのために身を尽くそうと信望するのに、さして抵抗や苦労は無かった。元々の生まれのことや信仰のことは一つも覚えていないが、主とのお目通り叶ったあの瞬間には神器としての性が震えたものだ。主たる神に仕え、此の名にかけてお守りをする。唯一明確に与えられたそのさだめを、必ずや全うしてみせようと確固として思うほどに力が増していった。

 タケミカヅチ様との出会いを経て、名もなき死霊であった私ははじめての名を得た。名を黄、呼び名を黄云という。龍の姿となりあやかしを駆逐する私を主はいたく気に入り、暫くも経たずして私を主要の討伐隊に迎え入れた。十束剣をさばく主の戦術は複雑で、速さも重さも忍びなく、剛腕をふるう主の戦い方に合わせるのは多少の苦労をしたが、すぐに慣れ、その豪傑さはあっ晴れで、見惚れてしまうほどの爽快感があった。
 かような戦い方を、戦法を、主に教えたのはとある神器だった。名をという、妙齢の見目をした女性の神器だ。思えば始めて邂逅し名を頂戴したその時にも、彼女はタケミカヅチ様の横に控えていた。高貴な雰囲気をまとい、凛と立ち、迷いのない目を携えている。主の横に居られる彼女の姿に私は畏敬の念すら覚えた。よもや神器が、彼女の居たところに据えられた私が初めにそう惧れを抱いた瞬間から、私が彼女に敵わぬという事実は白日の元に在ったのだ。







 タケミカヅチ様にお仕えして間もない頃、あやかしの討伐に出て身体に怪我を負った。龍の身の一部とはいえ、人の容に戻れば腕やら脚やらに矛を受け、じくじくと痛みの増すたぐいの裂傷であった。天の社に帰るやいなや、「傷を癒せ」との命で屋敷中程にある房へと連れられて、広く、座間の用意された部屋の中で待っていると、ゆっくりと襖が開いて女性が顔を出した。様だ。
 瞳を据えてじっと此方を見やる彼女に、やはり畏れを感じた。空気がぴりと張りつめる。様は小さな薬箱を抱え、何も言わないまま私の前にそっと腰を下ろした。梅重ねの袿を着て、てきぱきと薬箱をいじくる姿は、あどけない顔立ちに不釣り合いな妖艶さすら感じさせるふかしぎなものであった。


「かの三守の渓谷にて、あやかしの矛を受けたと聞きました。重篤な怪我ゆえに、すばやく処置をするようにと、旦那様から仰せつかっております。」
「お手数をおかけして申し訳ありません。とは言っても、大した傷ではないのですが……。」
「黄云、そなたは名を受けてまだ日が浅いでしょう。旦那様は、案じておられるのやもしれませぬ。」


 傷に耐えかね、壊れるのではないか、よもや不義理をするのではあるまいかと。――様はそのようなことを仰りたいのだろう。涼しげな顔でなかなか憎いことを。言葉尻に潜められた棘につい眉を顰め、そのかんばせを見やれば様は、思いのほか穏やかに笑っておられたので暫し面喰った。


「冗談です。意地の悪いことを言ってしまいましたね。」
「……心臓に悪いです。あなたがそのようなことを仰ると。」


 クスクスと楽しそうに声を上げて様は笑う。彼女は、数世紀のあいだタケミカヅチ様の道司としてお仕えしている古参なのだ。ほんの数か月前に鳴り物入りでお供をしている私のことを、よく思っていなくても何ら不思議ではない。
 ――私が今、主の横にいられるのは、彼女の居場所を奪ったが為だ。そのことは互いがよく知り得ている。


「さて、傷の手当てをしましょうか。薬湯をお飲みなさい。腕の傷には、練り薬を塗ってさしあげます。」


 様は丁寧に処置をほどこしてくださった。長い間、タケミカヅチ様に神器としてお仕えしている彼女は、そこらの神器よりも博識で、医学に関しても戦闘に関しても、並々ならぬ器量を有している。それゆえ道標の座を退いても、道司としてタケミカヅチ様を心身ともに支えているのだ。第一線の戦場に連れ行かれているとはいえ、新参者の私などよりも、彼女は他の神器からもよほどの信頼を受けているように思う。
 腕が立つ、戦いの相性が良い、龍の形をしている――――ただ其れだけでは、神器の技量として、様のそれに敵うまでもないのだ。現にタケミカヅチ様が、私をこうして様の元へと遣わしたのも、我が身の品定めをする為かもしれない。否と判断されたら、私はまた虚空をさまよう死霊となるのやもしれぬという、一縷の不穏さを感じ取っていた。

 様は弓矢の神器であった。タケミカヅチ様は古来より弓術の神と呼ばれており、その名たる所以は様を道司におき、道標にし、あまたの戦場を闊歩して来られたからだと言われている。儚いなりをして、力のいっぺんをも持たぬと言った顔をしている様は、その御見目を裏切るほどの力を、タケミカヅチ様を違わずに導く正しい目を持っておられるのだ。
 新たな道標として期待をされている私は――――私には、彼女のような、あるいはそれ以上の芸当がこなせるだろうか。
 正直なところ自信が無い。傷に塗りこめられた薬がじわりと染みて、私はわずかに顔を歪ませる。思わずうつむいていた顔を上げると、様はびろうどの瞳でこちらを見据え、穏やかに口角を持ちあげた。


「不思議ねえ。死んだ身体でも、痛いのですよ。主をお守りするのは、こんなにも痛くて重たくて、不安でいっぱい。」


 ……ぎくりと、心の臓が軋む。
 まるで胸の内を透かし見られているような心地だった。白磁の肌に映える、様の瞳の色は薄茶色の宝玉のように澄んでおられる。私を見つめるそれがあまりにも真っ直ぐで、無慈悲で、ついに告ぐ言葉を失ってしまった。
 様は私を疎ましく思っているのだろう。かような蟠りがあることを、私は分かっていたのだ。それでも直に棘を目にすると恐れ勇んでしまうのも訳のない話だった。様は私には手の及ばぬほどの器量を持つ神器で、主が丁重に扱っている掛け替えのない御仁で、私などが申し開きをして良い相手ではないのだ。
 彼女の居場所を奪ったのは他でもない私だ。その心中を察して、何も告げるべきではないと、頭の奥では警鐘を鳴っていた。


「あなたはいかずちを携えた龍のかたちをした神器ですから、旦那様とは出会うべくして出会ったのでしょうね。あなたを連れて討伐へ向かう旦那様、本当に楽しそうな顔をしていますのよ。あんなふうに笑ってらっしゃるのを、わたし、久しぶりに見たわ。」


 妙齢の女性のような見目にはそぐわぬ、たおやかな話口調は、幾年もタケミカヅチ様と共に過ごしてきた彼女が培った高貴さや、揺るがぬ強さの象徴であるのだろう。ゆえに気圧される。訳のわからない錯覚に捕らわれそうになる。気だるい声色や艶めかしい視線に、ゾクと背筋に悪寒が走った。


「……本当の話をしましょうか。黄云、わたしはあなたを、憎らしく思っております。」


 わたしの役目を奪った、あなたのことを。
 世間話をするように、様は訥々とした口調で、ゆっくりと私への本音を吐露してゆく。まるで当たり前のことのように呟くから、主様への障りがあるのではないかと、そういう根本的な考えにすら至らなかった。それほどにあのときの私は脅えていたのだ。







 こまやかな気遣いの出来る、繊細な御仁ではありませんから、横柄な態度に嫌気がさす神器も少なくないのですよ。彼の方にうまく合わせることが出来るかどうかは、きっと相性の問題なのでしょうね。遇うか、遭わぬか。神は神器によってその力量を測られると云いますけれど、その台詞は裏返しでもありますのよ。
 わたしたちが如何に在るかが、彼の方の力のすべてを司るのです。

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 タケミカヅチ様の館には中庭があり、広く整った池や枯山水などが設えられている。見慣れてしまえば風情やら感慨やらも感ぜぬようになるが、その涼風を身に受けて瞑想に耽るのは存外に心地が良かった。縁側に座り空を見上げる。現世とくらべるとこちらは、虚空にほど近い景色なのだろうと思えば、身のうちが鎮まってゆくようだった。
 数日前に様に言われた言葉をなんどか反復しているが、そのたびに自身の内側をえぐられるような寂寥感に見舞われる。あの日施していただいた手当てのおかげで傷は大分治り始めている。本来ならば清めに七日は要したものが二日で消え去っている。そう思うほど彼女の霊力の高さに尊敬の念が募るばかりであった。

 ――――あなたに、旦那様の道標が務まるでしょうか。

 キリ、と胸の内が締めつけられる。様の声は独特だった。幼気な声色で、ひどく穏やかな喋り口調で、ぞっとするようなことを呟いてみせる。私は出会った頃から彼女の刺々しさに畏れを抱いていたのかもしれない。愛らしい印象からはほど遠い、おそろしく大人びた冷徹な一面に触れることに脅えていた。


「黄云。」


 はっとした。振り返れば廊下の奥から、様がこちらに向かってやって来る。花山吹の重ねが春の匂いを感じさせる、華やかないでたちは変わらず、タケミカヅチ様の寵愛を受け自信に満ち溢れた彼女の強さの象徴のように見えた。立ち上がろうとする私を、彼女は軽くいなして、あろうことか私の隣にそっと腰を下ろす。ただよう色香のような、人を惑わせる雰囲気に少し気おされる。


「傷の様子はどう。旦那様はあなたを連れてゆけなくて、退屈そうにしてらっしゃるらしいの。」
様のおかげで大分、良くなりました。あと数日もすれば、回復するかと。」
「そう、それは良かった、旦那様にご報告しないとね。」


 度重なる遠方への討伐も、物足りないのだと言ってごねているようだ、とあからさまに人から聞き伏した言葉で告げるのがふしぎだった。様はタケミカヅチ様の道司として多くの神器たちを束ねている。揺るぎない強さと知性とを兼ね備えている。よもや様が主のそばを退くことは万に一つもあるまいと、誰もが信じて疑っていないのだ。
 しかし此度の遠征では、数十年、あるいは数百年のあいだ右腕として片ときも主の傍を離れずにいた様が、共に連れられることは無かった。
 ……それがどのようなことを意味しているのかは計り知れない。ただその痛みを、その身ひとつで平気なように受け止めている様の心情を慮るに、筆舌に尽くしがたいものがあった。かような寂寞をちらとでも脳裏に過らせたのを、様は見過ごしてはくれずにふと笑みを浮かべた。何もかも知り尽している、薄茶色の宝玉のような瞳は私をじいっと見上げ、ことのほか穏やかに細められる。しどけない少女のそれに見えた。


「わたしに言いたいことがあるようだわ。」
「……いえ。ええと……。」
「良いのよ、言って。」


 様は珍しく語気を強める。息を呑み彼女のほうを見やると、庭の遠くに見える景色にその目を凝らし、霧にまぎれて消えてゆくなにかを追いかけるように顔を上げていた。
 時節が変わり始めている。春から夏に変わるように、秋から冬へ変わるように。永久に感じられるほどの空間に生き長らえども、その変ぼうと落下にいちいち惑わされ、揺るがされることこそ、我々が神器として抱き続けねばならぬ業に他ならないのかもしれない。


「言いなさい、黄云。」


 ついぞ他の神器が彼女を呼びに来るまで、私たちの間に言葉は無かった。まったく言えるよしもない。唇を引き結び、涙をこらえる少女のような顔をした女性に向かって、終焉の時節はどうかなど不躾に聞き及べるほど私は愚鈍ではなかった。
 次の週、様は討伐隊の任を解かれた。武具としての役目を終え、主の帰りを待つだけの神器として、館の奥座敷に住まうようになったのだ。







 討伐隊は新たに編成され、私は隊長の任を請け負った。
 迎えた就任の儀では神器の皆を前にして戴帽を受け、さかずきに並々と注がれた一杯の酒を頂いた。年に一度の恒例行事だ。酒を喰らい鎮座している主の傍には、当たり前のように様が控えている。酒を注ぎ、その言葉に耳を傾け、艶っぽい仕草で寄り添って、笑う。彼女がどんな瞬間よりも美しく見える場所だった。
 当たり前のその姿に物云いをする者は誰ひとりとしていない。タケミカヅチ様は様を愛している。差し向ける感情が、ただの神器に宛てたそれではないということは自明だった。

 思うに、主はその愛おしさ故に、彼女を討伐隊から除名したのではないだろうか。二人の様子があまりに親密で、そんな風に考える。それでも様がときおり寂しそうに視線を傾けるのは、彼女が自身を神器として愛して欲しかったからで、主を御守りする武具としての役割を与えて欲しかったからではないかと、邪推をするのに、さほど迷うことは無かった。
 様の心情が分かると申すのはあまりにおこがましいが、それでも私一人くらいは分かっていたいとあの日の彼女の横顔を見てふと思い直す。泣きそうな顔をしていた。冬の訪れを恐れる小鳥のような表情をして、凩が吹いてゆくのを黙って待っているように。

 ……就任の儀を終えてまだ宴も酣の舞台袖にはけてゆく、彼女の淡く華やぐ着物の裾を追いかける。声をかけるより前に様は振り返った。周りには私たち以外のだれもいない。遠巻きに聞こえる喧噪を蹴散らすような声を上げて、様は「来ないで」と言い放った。
 今まで一度も聞いたことのない金切声。こうも感情をあらわにして息を荒げる彼女のことを、主ですら見たことがあるだろうか。


様。あなたは、」
「やめてよ。わたしがどんな気持ちで今、此処に立っていると思うの。」
「主はあなたのことを。」
「――黄云に何が分かるって言うの。」


 想って任から外したのだと、そう紡ごうとした刹那、私の胸元に飛び込んできた様は、握りしめた拳をこの胸にドンと打ちつけた。苦しいほどの痛みではない。ただ、彼女の手の平のほうからゆるりと溶けだしてしまいそうなほど、弱々しく脆い力だった。
 一度、二度と私を打った拳は、ふるふると揺れ動いて下へ落ちてゆく。うつむいた様は泣いていた。荒れ狂う波のような感情に身をゆだねて、止めどなく溢れゆくそれを、もうどうすることも出来ないと告げるように、私の着物を掴んで首を振っている。


「黄云、あなたが憎い。あなたが、憎いわ。わたしの居場所を取ったあなたが。」
「……様。」
「あのひとの隣で戦う者で在りたかった。他の誰にも、譲りたくなんかなかったわ。」


 しとしと降る雨のような涙を、暫くの間流し続けていた。私は彼女の棘を、その猛る苦しみを、ただただ受け止めることしか為す術がない。わずかに呼吸を落ち着けた様の、髪を一つにまとめた後ろ頭をそっと撫でる。子どもの神器がぐずったときにするように、なるべく優しい力で何度か触れて、彼女が嫌がらないのをふしぎに思いながら、泣きやむまでそれを続けていた。
 様は泣き濡れた瞳でわたしを見上げる。恨めしい、憎らしい、だけどもうすべてを分かっている、ただの蟠りなのだとその瞳を見て思った。私は受け止めねばならぬのだ。彼女の叫びを、痛みを。


「……決して言葉にはしませんが、主は様のことを愛しく思っておりますよ。あなたを失いたくなかったのでしょう。あなたには、自分の帰りを待つ者であって欲しいと、願っているに違いありません。」


 彼女を宥める言葉を紡ぐほどに、矢に射られている錯覚を受けるほど、心臓が紐に締めつけられるような痛みを覚えた。ドクドクと鳴り響いているのは自分の心音だろうか。すっかり洞ではなくなった芯の部分が、堰き止められぬ感情のうねりに痺れを切らしている。
 様はようやく泣き止んでそっと私の手を離れて行った。わずかに生まれるや否や、当たり前に開いてゆく彼女との距離が、妙に名残惜しい。


「……あなたは馬鹿ね。ふつう、憎いと告げている相手に、そんなことを言ったりしないわ。」


 様の言うふつうが、一体どんなものであるかを私はよく知らなかった。泡のように浮かんで消えた柔らかな笑みがただ恋しく感じられた。冬を越えられない小鳥を抱きとめて、夏へと追い返すことは出来ずとも、冬が終わるまであたたかな場所へ連れてゆくことは出来るかもしれないと、まるで白昼夢を見ているような心地で思ったのだ。
 一人で佇む彼女の背をもう一度追いかける。華やかな着物をまとい、悲しみに蓋をして前を向こうとする、弱いそのすがたを愛しいと思った。うつほの身にはあまるほどの大それた想いだ。


「あなたの、その正しさこそが、私の憧れです。これからもずっと。」


 私だけはあなたのことを分かっている。決してそんな風に言いたかったわけではないが、そう勘違いをしてくれても良いと思った。涙を噛む彼女の表情はずいぶんと柔らかくなっていた。勇ましく、凛々しい。同じほど弱弱しく霞んでいる。ゆっくりと形を変えた時節は、凩を遠ざけて冬を迎えていた。







 時間の流れにしてどれほどが過ぎたのか、数えるには私は長く神器として生きすぎているのかもしれない。うつしよの様相もかつてとは変わり、館の中庭から見える景色にも変化があった。
 夏が近い。子どもの神器たちが待ちわびていた花見の季節があっという間に終わり、からすの鳴き声がする時刻になってもまだ外は明るさを保っている。日が長くなったと、伸びる影を見てつぶやく女性のすがたがあった。様だ。彼女は裏庭の奥にある山へ子どもたちを連れ、川で水遊びをしてきたのだと着物の裾を濡らしながら笑った。
 神力でケを落とせるまでの力をも失くしている。様は討伐隊の任を降り、道司として館に据えられてからというもの、獣の牙を削がれたように凛々しさを霞ませていた。それまでの彼女の印象を裏切るように、頼りなく、棘が無い。儚い女性のなりにそぐう笑い方をする、穏やかさをまとっている。


「黄云、あなたも今度、裏山へ行きましょう。気分がすっきりするわよ。」


 ――あれほどぴんと張りつめていたものが無くなった。このひとは、存外に、優しい顔をして笑うのだ。その微笑みに見惚れていると、近くまで寄ってきた彼女に、鼻柱をスルと撫でられた。真横に一文字を描く、大きな傷跡をその指先が愛おしそうに撫で伏せる。


「ずいぶんいい男になったわねえ。」
「……大した傷ではないのですが。」


 様は困ったように笑う。昨日の恵比寿討伐に出撃した折、毘沙門のはふりに一太刀を浴びて、身体の至る所に重篤な怪我を負った。顔も首も掻っ切られ、未だかつてこれほどの痛みを受けたことは無いと思うほどの酷い傷であった。一命を取り留めはしたものの、顔には大きな傷跡が残ったのだ。
 一縷も動けぬほどの私を看病してくださったのは様だった。あのとき、私が討伐隊に就任してまだ日の浅い頃と同じように、奥間で私の傷一つひとつに丁寧な処置を施して下さった。
 身体が完全に善くなるまで討伐隊には戻れない。こうして療養しているうちに、戦いから離れた穏やかな暮らしをしているうちに、一度は蓋をしていた思いが凩のように呼び戻ってくる。目の前の様は私からそっと距離を取り、子どもたちを屋敷の中へ帰してから、縁側に座る私の隣にそっと腰を下ろした。


「春が終わってしまうのはあっという間ね。あなたも、もっと季節の移り変わりを味わいなさいな。」
「はあ……。しかし、こうして療養をしていると、景色がよく見える気がします。」
「一日一日を穏やかに生きていると、周りのものがよく見えるのよ。わたしも、そうだわ。」


 ぽつり、落とすように呟いたそれがどれほどの意味を持つのかなど、私などが思い量るにはおこがましいのかもしれない。彼女の表情を見やるより前に、傷の色濃く残った私の手に彼女のそれが触れた。ひやりと冷たいそれは傷の痕をなぞり、私の躊躇いごと覆いつくすように、そっと手の平を重ねる。


「……様。」
「本当の話をしましょうか、黄云。」


 あの日とまるっきり同じ言葉だ。思わずうつむいていた顔を上げると、様はびろうどの瞳でこちらを見据え、穏やかに口角を持ちあげた。
 まるで胸の内を透かし見られているような心地だった。白磁の肌に映える、様の瞳の色は薄茶色の宝玉のように澄んでおられる。私を見つめるそれがあまりにも真っ直ぐで、慈悲に溢れていて、ついに告ぐ言葉を失ってしまった。


「あなたが生きていてくれて良かった。」


 ――あなたは道標にふさわしい神器だわ。
 時節が変わる音がする。とこしえの春など無かった。やがて夏が来て、秋が来て、また冬が来る。重なった手の平を引き寄せて、もたれかかる小さな身体をめいっぱいに抱きとめる。あなたの、その正しさこそが、私の憧れだ。これからもずっと。前にも告げたことのある言葉を繰り返せばふと笑みがこぼれて、一筋の涙を溢した様のことをこれ以上なく愛おしいと思った。
 私だけはあなたのことを分かっている。決してそんな風に言いたかったわけではないが、そう勘違いをしてくれても良いと思った。私はあなたのことをどうしようもなく恋慕っているのだ。もう何も構うものか。




(160105) 染められぬ嵐




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