生きているのは似合わないよと、うつくしいかんばせが囁いて微笑んだ。青白い顔をして朝から夕までだまっているのなら、それは死んでいるのと変わりはない。だったら死ねばいい、とごく当たり前のことを述べるように、そっと。

 ――喰われてしまうよ、鬼に。

 押し潰した声が耳元に囁かれる。褥に埋もれていた袂をたぐりよせて、寸分の隙間もないくらいに肌を寄せあう。ぞっとするほど冷たい指が腹を這い、裾を払ってあらわになった腿に爪を立てた。刹那、食い破った柔肌から溢れ出した血液を、淫靡に舐め取って男は笑った。
 骨の浮き出た首筋までなぞり、やわく膨らみ始めている胸のすきまに歯型を残してゆく。かりの嘴で突いたような黒い点がふたつだけ穿たれる。物音に気づいた夜警がしとみ戸を開けはなったときには、もう遅い。

 もう何ものにも脅かされない。生にも、死にも。……その言葉だけが、くすぶる混沌の胸にこだました。







 黄昏の始まる夕刻にはじめて鬼を見た。
 日の光を浴びてこうこうと照る銀の糸を追いかけて、ふすまを開くと、中庭はいちめんを雪に覆われていた。ざく、ざくと雪を割る音がして、振り返ればいつの間にか中ほどに男が立っている。優美な顔立ちに銀の髪。その瞳は血のように赤い。
 物語りに記されている鬼こそ、目は釣りあがり鼻は天狗のように高く、狼のような鉤づめを携えて人を攫うと、そら恐ろしく描かれているものだから、彼の者が鬼である証はその銀の髪くらいで、つぶさに見ようとも分別するのは難しかった。瞬きをすれば、男も瞬きをする。首を傾げれば、男はふと笑みを見せる。ザクロの木を背負ったまま、男はうつくしい表情で空を仰いだ。
「静かな屋敷だね。人が居ないかと思ったよ。」
 わたしにも分かる言葉を、ひどく落ち着いた声色でそらへ乗せる。人を喰らいつくす鬼のようにはとても思えなかったけれど、その現世のものと思えぬうつくしさは、見目麗しい人のかたちを取り、人間を喰い殺そうと目論む鬼のそれに違いないと、そう直感した。
 わたしはわずかに後ずさる。ほどなくして雪が降って、うつくしい銀髪にいくつもの結晶が降り落ちた。男は華やかな銀髪を揺らし、氷の煌めきを振り払って、みずからの頬についた水滴を拭っている。
「怖がらないで。此処は君の家かい?」
 そうよ、此処は、わたしの家。訪ねてくる人などめったにいない、都の外れにある竹藪の向こうの屋敷。
「貴方は誰なの。」
「この家、貰ってもいいかなあ。この場所が欲しいんだよね。」
 なにを言わんとしているのか、即座に思いはかるのに苦労をした。その言を真正面に受けて、首を横に振る。冬の寒さに凍えはじめた手指を握りしめて、部屋へ戻ろうとふすまに手をかけた。近寄ってはいけないと、それを許してはならないと、頭の奥でなにかが警鐘を鳴らしている。男はわたしを見つめてにいっと、その口角を持ち上げて笑った。
 ――――おそろしい生き物だ。彼の者は、鬼だ。そうに違いない。ぎしぎしと雪を踏み固める音が聞こえてくる。人を呼ばねばと思い立ち、とっさに息を吸いこんだ刹那、男はわたしの目の前にまで距離を詰めていて、布をまとった手のひらでわたしの口を思い切り塞いだ。
「駄目だよ、大声を出しては。」
 柔和な声が落とすように囁かれる。その音色はあまりに優しく、妖艶な瞳、笑み、声、手つきに、わたしは思わず腰を抜かして、力なくふすまへと寄りかかった。
「きみたちに選ぶ権利は無いんだよ。残念だけどね。」
 わたしの頬をぐいと掴んだ男は、ふむと首をひねった。心中を探るように、赤々と光る瞳はやはり鬼のそれに相違ない。思案げにひとりごちた男はそのままわたしを離し、一歩、一歩と距離を取った。
 縁側のふちをたどり歩く姿は、まるで白銀の庭の景色を味わい眺めているようにさえ見えた。銀色の髪の下ではためく白い布は、絹よりもずっと上等なもので編まれている。うつしよの物ではない。少なくとも、こちらはおろか都でも、こんな風に派手ななりをした男を見たことは一度もなかった。

「だけど、計算外だ。きみのような子がいるとは思わなかったなあ。人里を離れた荒屋敷に、こんなに美味しそうな女の子がいるなんて。」
 床に蹲ったまま、軽やかに、歌うように話す男の喋る言葉を、ただ聞いていた。雅楽の音のように落ち着いた声色は、おそろしいほど胸に響く。身体の、中髄にまで落ちてゆくように、染み入るように。
「また来るよ。次は、お別れの準備をしておいてね。」
 銀色を揺らして男が振り返る。あまりにもうつくしい顔だと思った。鬼はこうして人の心に入りこみ、喰らいつくすのだと知った。瞬きをした瞬間にはだれもいなくなっていた。日の輪を受けてきらりきらりと輝いていた銀髪が、まやかしのように、忽然と姿を消している。辺りを探しても雪景色以外にはなにも見つからなかった。
 今、見たすべては、わたしの夢かもしれない。一人きりの退屈に飽きてまぼろしを見たのかも。鬼が現れたそのことを、叔父上に報告するのはやめて眠ることにした。あやかしの類が現れたと分かれば、叔父上は困惑して、わたしを乾拭きの離れに閉じ込めると言うかもしれないから。







 生まれたときから身体が弱く、他人よりも成長が遅かった。十四を越えても病が良くならず、嫁ぎ先も見つからないまま、この荒屋敷で過ごすようになって数年が経つ。療養とは名ばかりに、わたしは叔父上の別邸に囲われて、ただ死ぬ時を待っている。
 もう何年も父上と母上の顔を見ていない。二人いる妹はどちらも健康で、良家に嫁入りを果たしたと聞いた。わたしがどうなろうとも、だれも構わぬのだろう。いっそ死んだほうが皆の為になるということも分かっている。
 ――鬼がやって来たのはその為だ。わたしを喰い殺しに来た。
 みずから命を絶つほどの度胸もなく、漫然と日々を食いつぶしていただけのわたしを、鬼がようやく見つてくれたのだ。そういう命運ならば、受け入れるほかはあるまい。
 銀髪の鬼を見てから今日で七日が経つ。ふすまを開け庭に出ても、何者の気配もなかった。やはりただの夢まぼろしだったのだろうか。だれもわたしを殺してはくれない。だれもわたしを、病の狂おしみから救い出してはくれない。はたと見上げた空から、舞い散る花びらように雪が降ってきた。空が曇っている。

「身体を冷やしてしまうよ。」

 はっと気づいたその瞬間には、銀髪の男が真後ろに立っていた。重い着物を引きずって、急いで振り返る。
「その艶やかな服、とても素敵だ。この国だけの特別な衣装かな。」
 なんていう名の召し物かと、男は親しげな笑みを浮かべて問うてくる。この国の者ではないのか。だとしたら、なぜ、同じ言葉を喋っているのだろう。分からないことが多すぎて、わたしは訳もなく首を振ってうつむいた。目を合わせてはいけない。ザクロのような赤い瞳に、生き魂を吸い取られてしまうような気がして、身体の芯が震え上がった。
「別れの準備は済ませたかい。」
「……別れの?」
「言ってなかったっけ。今日、きみはこの世と、お別れをするんだよ。」
 ああ――やっぱり。彼は鬼に違いないようだ。分かってはいても、いざ死に直面するとおそろしさを覚える。死とは、彼岸とは、どのようなものだろう。痛みは苦しみは、どれくらいあるのだろう。三途の川を歩いて渡る重みは、病を背負ったこの身体よりも重たいのだろうか。
 ゆっくりと近づいて来た男は、わたしの前に立ち、見分するような瞳でにこやかに微笑んだ。畏れるわたしの手を取って部屋の中へと招き、外は冷えるからと甘言を囁いて、ふすまさえ閉めて凪いだ空間を作りあげる。今、わたしを此処で殺すのだと言ったくせに、男の素振りはあまりに妙だった。
 死に神なのかもしれない。わたしの身体がもう長くないことを知っている。足をもつれさせたわたしの脆い身体を、床の上へと組み敷いて、冷えきった手の甲を温めるように撫でる。
「苦しいかい。もう限界だろう。きみの身体は、今にも死んでしまいそうだ。」
「……ええ、苦しい。とても。わたしは、死ぬのね。」
 貴方は鬼なの、それとも、死を連れて来た天の遣いなの。……もう、どちらだって良い。重たく落ちてくるまぶたを閉じれば、しんとした静寂の中に針のようなつめたさを覚える。苦しみから解放されるのなら、早いほうがいい。父上と母上を安心させられる。叔父上に迷惑をかけなくて済む。
 肌に冷やりとした物が触れた。男の手指だ。手を包んでいた布を脱ぎ取った、素手がわたしの着物を肌蹴させて、小さく脈をうつ心の臓の真上に触れる。呼吸が浅い。自分の芯の音が、もうあまり聞こえない。目がかすむ。本能的におそれを抱いた身体が涙をつくって、目の際からはらりとそれを溢れさせた。

「――死にたくない。」

 ぼんやりと目の前に広がる景色の中で、男が笑うのが見えた気がした。







 下下の子どもが、足元に倒れている。
 家に残した幼い妹弟のために奉公をしに来ていた、北の集落の娘だ。名をよしのと言う。齢は十の頃を過ぎたと言っていたか、麻の薄っぺらな着物を来た肌は痩せて、わたしのそれと大差ないほど弱く出来ているというのが、傍目にも分かっていた。よしののくびすじには、雁のくちばしで突いたような二つの黒点がうがたれている。そこからだくだくと溢れだす、赤黒い血。血。血。
「たすけて、ください。」
 耳をつんざくような痛々しい悲鳴にようやく我に返る。掴んでいた麻布の着物を離してやれば、よしのは転がるようにして後ずさりをした。此方を見上げている素朴な瞳が、恐怖ですっかり震え上がっている。ばけものを見るような目を此方へ向けて、奥歯をかたかたと震わせて首を振る。
「よしの。」
「ひい様、ひい様、たすけて。殺さないで。」
 ――殺す?
 べたっとした何かがのど元へと流れ落ちて、あわてて指先で救い上げた。零すなんてはしたない。それよりも、わたしは、なにかを口に含んでいただろうか。ぬるりと指先をすべったそれに目を落とせば、浅黒い血がこすれているのを、見つけた。
 甘い香りを放つそれは、まごうことなき血液であった。どこにも痛みはない、わたしのそれではない。重くて仕方がなかった身体が、今は鳥の羽根のように軽い。あれほどに薄弱と脈打っていたはずの心臓が、ドク、ドクと高鳴り、息が詰まりそうなほどの昂揚感を引き寄せる。
 わたしは。

「ひい様は、鬼に成ってしまったのですか。」

 ……すべてを察したそのときに、膝からくずおれた。この世とのお別れというのは、此のことを指していたのだ。わたしはもう只の人間ではない。人のかたちを成した、ばけものに成り変わったのだと、目の前の少女の瞳に映った自分の姿を見て悟ったのだ。







 いまだかつて、こんな風に屋敷を闊歩したことがあったろうか。
 裸足をひたひたと摺り寄せて、ひと気の少ない廊下を渡りながら、この家がとっくに死んでいたことをようやく知り得た。人間の住まない家はたちどころに死んでゆくのだ。この広い屋敷に住まうのは、わたしとその世話をする数人の女中と、下働きの者を含めた十数人だけであった。
「しっかりと、さようならと言うんだよ。後悔を残すような思い入れなんか、じきに失くすとは思うけれど。」
 銀髪の男はふぇりど、と名乗った。どう書くのか字面は分からない。異国風のその名を繰り返せば、満足そうに笑ってかぶりを振る。わたしが自分の両足でしっかりと地を踏み、軽やかに辺りを見回すことさえ出来たそのときには、彼と同じ装束をまとった、似たような髪色をした、異人たちがぞろぞろと押し寄せて屋敷を占拠していた。
 彼らは自らを吸血鬼と呼んだ。人間の生き血を啜って、永い時を生きてゆく鬼だ。

 ――恩着せがましいことを言うつもりはないけれど、きみを殺さなかったのは、僕なんだよ。それがどういう意味なのか、よく考えてみて。

 彼は厳密にそう告げて、庭に集めた家人たちの手に縄をかけた。長い間、この屋敷で共に暮らしていた皆々は、わたしを恐れ慄いた顔をして見つめている。わたしのザクロのように赤い目を、見ている。
「きみたちは、今日から家畜に成ります。僕たちに血を差し出してください。そうすれば、殺しはしません。では一人ずつ、順番に、腕に焼き印を。」
 絶望がどんな物であるかを、此処にいるだれも知りはしない。京にいる宮様も、大臣様もすめらぎの女房も、町人も。残酷なことを平然と言ってのける男のことを、誰もが白けた顔をして見ていた。我が身に降りかかる災厄とは、数刻前まで思いもよらなかったであろうと、無残な光景を眺めてわたしはぼんやりと家族のことを思い出していた。
 天は曇っている。わたしは鬼に憑りつかれて死んだと、皆が口にするのだろう。

「さようなら。」

 もう此処には戻らないのだと、そう思った。男に手を引かれ、ゆっくりと見知らぬ路を辿って歩いてゆく。石畳もがれきの小道も、見知らぬ土地もなにも怖くはない。
 わたしは絶望を知らない鬼になった。丈夫な生命と引き替えに、矜持と尊厳を捨てたのだ。もう、何ものにも脅かされない。生にも、死にも。……その言葉だけが、がらんどうの胸にこだまする。







 屋敷の畳の入れ替えに併せて、来客用の洋室を二部屋しつらえた。
 乾いたサングィネムの空気ではイグサは長く持たず、畳を張り換えてもすぐに駄目になってしまうのだ。いっそのこと洋館に住み替えろと、手配の度に機関には嫌な顔をされている。
 この湿った手触りが良いのだ。時が止まっているわたしの身体に、柔く編まれた畳はよく馴染む。薄い麻布で誂えた浴衣も、黒い絹で誂えた着物も、うつくしい飾りをあしらえば誰しもの目を惹く一張羅になる。黒々とした髪や、白く透けた肌のことを好み、褒めてくれる同胞が、此処にはたくさん存るのだ。

「やあ、ちゃん。」
 扉を開けて入ってきたのは、フェリドだった。花を持っている。およそ夏らしさのない、真っ赤なバラと真っ白なユリが仰々しく束になって、彼の好みそうなリボンでしっかり結わえられている。
「改築祝いを持ってきたよ。リフォーム、終わったんでしょ。」
「ありがとう。相変わらず、暑苦しい花束ね。」
「そう言わないでよ。きみの色だ。」
 くれないは屋敷の燃える色、白は落つる雪の色。趣味が悪いとぼやいても彼の耳に届くことはない。
 館の奥に新しく造った洋室に案内をすると、フェリドは面白そうに喉を鳴らして笑った。なにを選ぶとか、なにを飾るとか、そういう心遣いの合間に抜け目なくいたずらを仕込んで、人をからかおうとする彼の仕掛けには何度も驚かされている。この洋室にも彼好みのテーブルやソファを置いて、彼好みのカーテンやレースを布いて、きっと彼のための応接室へと成ってゆくのだろう。
 フェリドといると退屈はしない。あの屋敷で暮らしていた頃とは比べられないほど増えた趣味のほとんどは、彼によって教え施されたものだ。
「そういえば、また新しい着物を下ろしたんだね。黒い着物も、なかなか似合っているよ。」
 ああ、そうか、とかぶりを振ってフェリドはわざとらしく、両の手を擦り合わせる。
「もうすぐザクロの季節だったね。」
 きみが家族とさよならをした日。くれないと白と、ザクロの日。

 ――――数百年までわたしには故郷があって、家があって、家族があった。どれも失くしてしまったけれど、今までに一つも後悔をしたことはない。日の光を浴びられなくなっても、人の生き血を啜る鬼と化しても、生きる以外のすべてのことが退屈になっても。
 あの日ザクロが招いたのは凶事だったか、吉事だったか。わたしを脅かしていたものは、いったい何であったのだろう。




(151215) 初めからすべて分かっていただろうか




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