後先のことを考えていたかと言われると答えはノーだ。
 別に勢いに任せていたわけじゃないけれど、未来のことを考えていたかと言われると答えに詰まってしまう。確かな未来が約束されてるわけじゃない。それでも自分の気持ちに素直にならずにはいられなかった。だって欲しいものは一つも取りこぼしたくないから。届く距離にそれがあるのなら、本気で手を伸ばさなくちゃ。行動しないで選択肢を失うなんてバカのすることだ。
 分析官と執行官の恋なんて今まで聞いたことがないけれど――――好きだと思ってしまった瞬間から、もうぜんぶが走りだしているのだからしょうがない。
 わたしは雛河くんが好きなのだ。だから一緒にいたい。わたしが考えていたことは、ただそれだけだ。




「――――ちょっと待って。ここ、注文と違わない?」

 1係まで仕事の進捗を確かめに向かえば、いまだに雛河くんはギクリと肩をすくませてわたしの顔色をうかがうように首を傾げる。もう癖なのだと思う。頼み事をされたときの頷き方とか、質問されたときの狼狽え方とか。もっとしゃんとしろ、って言っても変わらないのだから、猫背の上目遣いも彼の身体に染みついてしまっているのだろう。

「う……えっと、ここは、こっちを使ったほうが……いいから……」
「そうなの? クライアントはこれを使ってって言ってたのよ」
「う、うん……でも、こっちの方が、軽いから……」

 問い詰めるみたいにじいっと見つめる。雛河くんは眉尻をめいっぱいに下げて困った顔をした。ああ、すっごい申し訳なさそうな顔。冗談! と笑って思い切り背中を叩けば、止めていた息をはあっと吐きだして恨めしそうにわたしを見上げた。
 だって雛河くん、あんまりビクビクしてるから、からかいたくなっちゃうんだもん。なんて言えばまた「意地悪」と言って唇を尖らすのだろうけれど、安心したときのその表情が見たくなってしまうのだ。
 進捗は、予想よりもだいぶ進んでいる。このままよろしく、と肩を叩いてきびすを返す。ふと後ろからわたしたちのやり取りと見ていた宜野座さんが、コーヒーを片手に横目でちらりとわたしを見て、ニヤニヤと笑みをこぼしていた。

「仕事中にイチャイチャするなよ」
「なっ……! し、してない!」

 宜野座さんが変なことを言うから、みんながこっちを見てる!
 もう! と宜野座さんの肩をパンチしてさっさと1係を後にする。イチャイチャなんか……してない。ただ仕事の話をしていただけ! ……だけど何かと理由をつけて、彼の様子を見に行っているのも事実なのだ。宜野座さんはわたしの気持ちをすぐに見抜くから困ってしまう。監視官時代からのつき合いだから、わたしが雛河くんを特別視していることにも、そういえば一番最初に気づかれてしまったのだった。
 大人はずるい。だけどしがらみがない分、わたしのほうがよっぽど自由だ。後のことも未来のことも、考えるべきなのは分かっているけれど、そんなことに気を取られて気持ちをないがしろにはしておけない。
 欲しいものは手に入れなきゃ。宜野座さんにも何度もそう言ってるのに、意気地がないんだから。誰かに取られてからじゃ遅いのに!









 数時間後わたしのデバイスにメッセージが飛んできた。差出人は雛河くん、要件はさっきの案件が終わったから、チェックをして欲しいとのことだった。
 来ると言った時間に合わせてふたり分のコーヒーを落としておく。これも宜野座さんからもらい受けたドリップ式のコーヒーメーカーで、雑賀先生におすすめの豆や淹れ方を教えてもらったばかりなのだ。これがまた予想以上に時間がかかるけれど、味は比べられないほど美味しいのだから我慢しなければならない。
 待つのは嫌いだ。雛河くんが来るのを待っている時間は、特に。だって無駄にドキドキして疲れるのだ。なんだかそわそわして、落ち着かなくなってしまうし。……なんて悪態をついているけれど、ひとたびインターホンが鳴れば、それまで気負っていたのも全部忘れるくらいに舞い上がってしまうのだから、わたしも大概現金だと思う。

 ――――ゴウゴウと音を立てながらカップに注がれていくそれを、ぼんやり見ているうちにインターホンが鳴った。どきりと胸が高鳴る。入って、と叫べば雛河くんはドアからひょこっと顔を覗かせた。わたしの姿を見つけて、ちょっと安心した様子で部屋に入ってくる。
 最初のころに比べればだいぶ慣れたものだ。今はわたしが何も言わなくったって、一人でソファに腰かけて待っているんだから。

「ずいぶん早く終わったね。簡単だった?」
「……まあ。そんなに……複雑じゃなかった、から」
「すごいね! わたしはさっぱりだったのに」

 素直に褒めれば、素直に喜んでくれる。雛河くんのこういうところ、すごく可愛いと思う。急いでコーヒーを持っていって、シュガーポットとミルクを用意する。雛河くんもわたしも甘いほうが好きなのだ。急いで彼の隣に腰かけて、香ばしい匂いのするコーヒーを一口啜った。うん、やっぱり美味しい。

「コーヒー美味しいでしょ? 宜野座さんが譲ってくれたんだ」
「そう……なんだ」
「時間かかるけど、これで淹れたほうが美味しいの」

 だから雛河くんに飲んで欲しかった、っていう言葉は恥ずかしいから黙っておく。
 彼が作ってきてくれたデータをデバイスに移して、さっそく確認をする。今回は分析室に依頼が来たとあるデータを解析して、公安のホロアバに移転して内部システムを入れ替える仕事を頼んだのだ。わたしはホロ作りにまだ疎い部分が多いし、抱えてる案件がいくつもあったから、こういうことが瞬時に出来るのは彼しかいないとすぐにピンと来た。
 案の上、随分と出来上がりがいい。予想よりもずっと早く結果が返ってきたし、わたしはそれだけでもすごく嬉しくなる。期日を前倒しで守ってくれる人なんて、周りにはほとんどいないから。特にここ公安局の分析室は人手不足で、案件の数も規模も大きくて一つひとつにそれほど時間をかけていられないのが現状なのだ。
 よくないことだと分かっている――――けれど、雛河くんみたいな優秀なプログラマーが点在しているから、仕事を割り振るのは簡単だったりする。要領よくやれば全部上手くいくものだ。早く分析室にスカウトしたいのに、執行官の適性のほうが優先だからと、彼が分析室に来る日は目途も立っていない。

「うん、大丈夫だと思う。よくできてるわ」
「よ、かった……」
「ほんとにありがとう! 今日中に提出しておくね」

 やっぱり雛河くんの分析の仕方、分かりやすくってシンプルで良い。わたしが作るのとは全然違って面白いし、勉強になる。
 デバイスを閉じて、まだ熱いコーヒーの二口目を啜る。そういえば今回のお礼、どうしようか。なにか食べたいものとか、欲しいものある? 隣に座る彼をなにげなく見上げて、そう問いかける。目が合えばいつものようにぱっと逸らして、「ない」と口ごもってしまうから、わたしはそれを追いかけて身を乗り出した。

「なんでもいいよ? 前回はピルケースだったよね」
「う、うん……。でも欲しいもの、もう、ないから……」
「ふーん。そうだ、じゃあお酒にする?」

 宜野座さんからまた年代物のワイン譲ってもらえそうなんだ。
 言えば雛河くんは、うつむきがちだった瞳をパチパチ瞬かせた。付き合う前のクリスマスにふたりで過ごしたときみたいに、ふたりでお酒を飲むのも悪くないと思う。それに本物のアルコールなんてなかなか手に入らないけれど、宜野座さんはお父さんから譲り受けたワインセラーや酒蔵があって、色々なお酒を持っているのだ。たまに飲ませてもらったりしているけれど、焼酎やカクテルリキュールにも美味しいのがたくさんある。そのせいか宜野座さん、最近はやたらとお酒にうるさくって、この前も――――。
 なんて、何も考えずにぺらぺらと喋っていたわたしの、ソファに置いていた手を、雛河くんはいきなりグッと掴んだ。不意の出来事に驚いて、思わず彼を見上げる。
 ど、どうしたの。雛河くん?

「……ね、ねえ……もしかして、わざと?」
「な、なにが……?」
「……自覚、ないんだ」

 雛河くんの雰囲気が、なんだかいつもと少し違う。あれ、と思ったときには随分と距離を詰められていて、すぐそこまで顔が近づいていた。
 ゆっくりと首を傾げて、雛河くんはわたしの顔を覗き込んでくる。ソファに手の平を縫いつけられているせいで、これ以上後ずさりができない。顔……近い。いつもならキスだってせがまないとしてくれないのに、まるでわたしに迫るみたいに、少しずつ近づいて、もうあと少しで鼻先が触れてしまう距離だ。

「さすがに……僕も、我慢、できない……っていうか」

 よく分からないままのわたしを見兼ねて、彼は困った顔をする。そのまなざしがやけに大人っぽくて、思わず息を飲みこんだ。
 わたしはまたおしゃべりが過ぎて、酷いことを言ってしまったのだろうか。自分の行動を思い返して、心当たりがない分余計に不安になっていく。雛河くん、と呼びかけた声もかすれて、ひどく弱弱しいそれに自分でも驚いた。
 なに、わたし、ビビってるの? 目の前にいるのは雛河くんなのに。
 ――――なんだか知らない男の人、みたい。

「宜野座さんのことばっかり……」
「え!?」
「……さっきから、ずっと」

 宜野座さんの話ばっかりしてる。
 そう言われてようやく、気がついた。そういえばお酒の話から宜野座さんの話に移って……、でもそんな、ただの世間話のつもりだったのに。自分の浅慮が恥ずかしくなって、雛河くんの目を見ていられなくなって下を向く。雛河くんも嫉妬するんだ、と思えば途端に、顔がかあっと熱くなった。なんだか、すごく照れてしまう……嬉しくて。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ、」
「ん……分かってる、けど……」

 掴まれたままの手にぎゅう、と力がこもる。距離が近いまま、雛河くんはわたしの表情を伺って首を傾ける。ああ、キスされる――――と思えば、身体が硬直してしまった。こんなに近い距離で、雛河くんからじっくり見つめられたこと、今まであまりなかったから。
 顔を背ける瞬間を見計らうように、雛河くんは鼻をすり寄せて、そのままわたしの唇に自分のそれを重ねる。妙に慣れた仕草にたじろぐわたしを、全部見透かしながら、それでも熱い瞳で見下ろすのを止めてくれない。
 どうしちゃったんだろう。こんな雛河くん、わたしは知らない。

「……ちゃん、僕のこと、好き……?」
「ひ、雛河く……」
「僕は……好き」

 きみのことが、すごく。
 吐息のような囁きが聞こえた瞬間にはもう、頭の中が目の前の雛河くんのことでいっぱいになっていた。わたしの手を掴んだ反対の手が、頬にそっと伸びてくる。彼らしい優しい手つきでそっと撫でて、ちらと視線をよこしてキスをしてもいいか、と許可を取る。
 ……たった今、ほとんど強引にキスしてきたくせに。雛河くんがよく分からない。火照る頬をごまかすように唇をとがらせて、返事を渋っていれば困った顔をしてわたしの名前を呼ぶ。眉根を下げたその表情にわたしは弱いのだと――――もしかしたら彼は気づいているのかもしれない。

「…………好き、だよ」

 たどたどしく言って頷けば、雛河くんは嬉しそうに口角を上げて笑った。そういう無邪気な表情を見せるくせに、いつもは自信なさそうに猫背で小さくなっているくせに、たまに訳分からないくらい男前になるから、困ってしまう。
 ちゅ、と気恥ずかしくなるリップ音を立ててキスをする。雛河くんはキスが上手だ。わたしだって大して経験があるわけじゃないけれど、こればっかりは特別に意外だった。もっと恥ずかしがって躊躇うとばかり思っていたのに。
 思えば一番最初にけしかけたのはわたしが先だったけれど――――、彼が拒まないだろうっていう自信はあったにしろ、本当にキスをしてくれるかどうかはまた別の話だった。ああ、そうだ最初から、雛河くんには思った以上に余裕があって、慣れている様子が垣間見えていた。最近は少しずつそれが気のせいじゃなかったと実感して、彼の指先がわたしの頬や髪なんかに触れるたびにドキドキと、壊れてしまいそうなくらいに鼓動を激しくさせているのだ。
 わたしを撫でる手は――――優しくて少し強引で、どこに触れたらいいのかをちゃんと知り尽している、男の人のそれ。

「っふ、……雛河くん、ちょっ、と」
「……ん、なに?」

 彼をこうさせた、前の彼女はどんなひとだったんだろう――――なんて少し別のことに思考を巡らせていた、わたしの意識を引き戻すのはやっぱり、ほのかに頬をくすぐる彼の体温だった。鼻先がこすれ合うほどの距離間を保って、たまに熱い視線がかちあってたまらなくなる。
 その目。そういう表情……、わたしの知らない雛河くんの顔。

「待って……、」

 やばい、今ぜったい、顔が真っ赤になってる。顔を背けようとしても雛河くんの手の平がそれを許さない。ぐいっと体重を寄せて、どんどん後ろに重心がずれて――――不格好に唇を重ねたまま、わたしの背中はソファに沈んでいった。
 押し倒された。焦って見上げた雛河くんの顔は、驚くほど平静を保っていて、かえって慌てているわたしのほうが変なのだろうかと、目まぐるしく思いが駆け巡る。こめかみにじわりと汗をかく。行き場がなく彼の肩に乗せた手の平が、そのまま顔を下ろしてきた彼に置いて行かれて宙に浮いた。
 息が苦しいくらいの長いキス。頭の芯がぼうっとして、無意識に雛河くんの後ろ頭に手を回す。ふわふわと跳ねた赤っぽい髪――――、ゆるく伸しかかってくる重み。まぶたを開ければまぶしさと、雛河くんの瞳に射抜かれて心臓が止まりそうになる。

「……っん、雛河、くん」
「ん……、ごめん、苦しかった……?」

 そうだけど、そうじゃなくって!
 伏し目がちな長い睫毛が、その奥にあるぎらついた瞳を隠している。心臓を跳ねさせながらじいっと見上げると、小首を傾げて、雛河くんはわたしの機嫌を伺う。いつもの雛河くん。わたしを押し倒していること以外、いつも通りの彼だ。
 どうしちゃったの――――なんて聞いたりしたら、彼を傷つけてしまうだろうか。わたしは色々と気がつかないことが多いから、今だって、冷静に頭を働かせることは正直言って無理だし、彼に圧倒されて緊張しすぎて、自分がどんな顔をしているのかもわからないのだ。
 なにを言おうか、迷っている一瞬のうちに雛河くんはおもむろに自分のネクタイを緩めた。ラフに開いた首元にだらりとネクタイを下げて、はあと息を吐く、色っぽい仕草に目を奪われて、身体がもっと熱くなる。なにこれ、どうしよう。心臓がドキドキうるさくって、このまま止まってしまいそうだ。

「……ね、もっかい」

 ああ、その声。いつにも増して吐息がちな、熱におぼれた声色にゾクリと鳥肌が立つ。彼の声、唇の温度、かすかに香る男物の香水、ぜんぶが化学反応を起こして、麻薬のようにわたしを支配していく。
 薄く開いた唇のすきまから入ってきた熱い舌が、わたしのそれを舐め上げる。ちゅくと音を立てながら吸いついて、思わず、ん、と声が漏れた。胸が詰まるようで、うまく息が吸いにくい。キスの合間に大きく呼吸をしても、すぐにぜんぶを奪われてしまうから。

 雛河くんは、いつも通りの雛河くんなのに、知らない男の人みたい。少し怖くなって押し返した手の平は、そのまま彼の服をつかんだだけで、何の効果もなかった。苦しくて薄っすらと目を開けたとき、わたしを見下ろす視線に知らない感覚が身体を突き抜けた。
 まるで征服されるみたいだ。赤くなった彼の耳たぶを引っ張って、苦しいと、わずかばかりの抵抗をした。わたしの知らない雛河くんがわたしに触れている。それだけでわたしの心臓は、破裂寸前だ。



ロスト・ハレーション (150628)

inserted by FC2 system