誰も見てないよ、と言って私の首筋に触れた黄瀬くんの手は熱く、汗をかいてひたりと張りつくようで、綺麗なかたちをした瞳にじっと見惚れている間にその距離はゼロになっていた。お酒のせいで火照った唇に、同じくらいぬるい温度が重なって離れていく。流れるような一瞬のそれに、目をつむるのも忘れてしまった。満足げに笑う黄瀬くんの吐息にぞくりと背中が粟立つ。背徳感をかき消していくのは近い視線と、少し触れただけの甘い唇と、目の前にいる彼が自分を求めているという事実だけで、もうそれで十分なくらい、私はどうしようもなく空っぽで満たされているのだと気がついた。
 考えるのを止めたら落ちて行くのは、簡単だった。同期とその知り合いたちと、適当に集めたメンバーで入っていたカラオケを抜けて、もつれる足を絡ませながら近くのホテルを見繕う。黄瀬くんが選んだのはジャグジー付のロマンチックな部屋で、薔薇のような香りがしていたような気がするけれど朝になれば、そんなこともどうでもよくって少しも気に留めなかった。白いシーツの上に押し倒されて、お酒と汗でべたべたの身体を黄瀬くんの長い指がたどっていく。頭は鈍くなっているのに、感覚はより敏感になっているような、それとも黄瀬くんが上手に私の性感帯をくすぐっていくのか、分からないけれど、ひどく甘い声を漏らして乱れていたことは覚えている。
 生まれてきたことを恥じたのは、この日が初めてだった。だらしなくブラウスを押し上げて、下着を引っかけたまま、頬を赤く火照らせた黄瀬くんが私の中に挿入して、何度も何度も突き上げて、ただ快感を貪るだけのセックスに酔いしれて、二人ぐちゃぐちゃに汚れたままもつれ合って眠った。

 誰も見てない、と黄瀬くんは何度も言っていた。だから何が大丈夫なのか、私には見当もつかなかったけれど、それは特別な魔力を持った呪文のように私の中に流れ込んできた。誰も見てない。私と黄瀬くんがセックスしているのも、こんな風に淫らに抱き合ってるのも、誰も見てない、知らない。




さん、起きて」
 ぐったりと重たい身体を動かして、腫れぼったい瞼を押し上げる。まず視界に飛び込んできたのは、薄っぺらい毛布にくるまった自分の裸と、その隣に寄り添って寝転がる黄瀬くんの身体だった。
 さっと血の気が引く。ああ、と思い出して、途端ににじみだす罪悪感と後悔に、この気だるさのまま死んでしまいたくなる。記憶は全部ある。なぜここにいるのかも、昨日何をしたのかも、覚えてる。分かっていて私は選んだのだ。あの瞬間、目の前の彼の欲望に身を任せて、こんな風に全部をさらけ出すことを、選んでしまった。
「…………黄瀬くん」
「あ、やっと起きた。おはよ」
 寝ぼけた私を見てけらけらと笑う黄瀬くんは、一体どういう神経をしてるんだろうと疑ってしまう。昨日何をしたか、ちゃんと覚えているくせに、そんな風に爽やかに笑うなんて。ぼんやり彼を見つめていると、寝起きのくせに十分に整った顔がぐっと近づいてくる。お酒がまだ抜けていないのか、頭が少しだけ痛かった。近くで見る黄瀬くんの顔はやっぱり綺麗で、モデルをしているだけあるなあ、と思う。見惚れているうちに、私に覆いかぶさってきた黄瀬くんは唇を重ねて、かわいた私の唇を音を立てて舐め上げた。
 罪悪感に焦がしていた胸が、また別の感情に燃えていくのだから、人間という生物は浅ましい。馬鹿みたいだけれど、後悔をしながらもそれを正当化したいと思っている自分がいるのだ。黄瀬くんとセックスをしたことを悔いにしたくはない。清い自分のままでいるために、必要な防衛反応だったのかもしれない。昨日身体を重ねて、彼とは相性が良いことも知ってしまったし、目の前に触れているこの温度がどれほどの快楽を生むのかを、どれだけ快感をくれるのかを、知ってしまったらもう、戻ることは出来ないのだ。
さん」
 熱っぽい吐息を交し合って、黄瀬くんが呟くそれは、あまりにも他人のようだった。昨日まで私たちはただの友達で、本当はこんな風に同じベッドで裸でシーツに包まっているような間柄じゃあ当然、無かったのだから。
「もっかい、しよっか」
 ざわり、背中をくすぐる感触。いやだと胸が叫んでいるけれど、身体の中心はじわじわと熱くなっていく。黄瀬くんの瞳や手のひらは狡猾なほど丁寧に、私の身体をなぞって悲鳴を上げさせた。

「だ、め……黄瀬くん」
「……どうして? 昨夜で疲れちゃった?」
 身をよじって逃げる私を追いかけて、彼の手は敏感な胸をくるくると指先で弄ぶ。子宮がうずいて、すぐに感じてしまう身体が悔しかった。まだ覚えている黄瀬くんの指先や、熱いキスをいちいち思い出して身体が反応してしまう。こんな風にもっと、触ってほしい。本当はそう思っている気がする。駄目なことだと思えば思うほどに身体が焦れていく。
「ごめん、ほんとに、だめ」
 酔いが抜けて冷静になってしまった頭では、黄瀬くんとセックスはおろか、じゃれ合うことすらも、怖くて出来ない。昨日の私は本当に愚かだったのだ。それを見抜くように見下ろす黄瀬くんの視線は冷たくて、欲望に満ち満ちている。このまま食い殺されてしまうような気さえして、ぞくぞくと鳥肌が立つ。黄瀬くんは少し意地悪で、そういう意味を含んだ駆け引きが恐ろしく上手だった。
「だめ?」
 まるで揚げ足をとるような、乾いた笑いだ。答えなんて最初から聞いてないみたいな声色だった。
 ちゅ、と甘い音が鳴って、黄瀬くんが私の胸に吸い付いく。びくっと背中を跳ね上げて、漏れそうになる声を必死に押し殺して耐えた。目を閉じれば気だるさに任せて、もう一度彼にすべてをゆだねてしまいそうになる。どうかしてるよ、と言葉が零れていった。どうかしてるのは私だ。
さんあんなに、悦んでたのに」
「それは、」
「ほら、こうされるの好きなんでしょ」
 黄瀬くんは手首を押さえつけて、勿体つけるように舌先で乳首を舐った。赤い舌をちらつかせて音を立てるのは、私への挑発だ。昨夜もこんな風に愛撫されて、私は悦んでいたのだろうか。どうしていたのかよく思い出せないけれど、少なくとも彼の行為を拒んだような記憶は少しもないのだ。



 俺たち相性がいいねって笑いながら、高ぶった彼自身を私の太腿に擦りつけて、黄瀬くんは私の身体に念入りに舌を這わせる。寝起きの身体は鈍いどころか、昨夜の感覚を忘れずに繊細に眠っていたようで、まともな思考より炎のように揺らぐ欲望ばかりを目覚めさせる。下腹部が熱くなってじわり溶け出していくのが自分でも分かった。その周りを撫でる彼の手がじれったくて、ついに彼の名を呼んでしまえば、嬉しそうに首を傾けたのを見逃さなかった。
 愚かだと思いながらも、求めるのを止められない。
「触ってほしいんだ。さん」
 蜜を蕩けさせる入口を指先でこじ開けて、黄瀬くんはためらいなく指を差し込む。待ちかねた快感に身体が震えた。思わず跳ね上がった悲鳴は黄瀬くんを喜ばせて、きっと彼の加虐心を恐ろしいまでに高ぶらせているのだろう。そういう目をしている。本当にどうかしているのに、もう止められないことを心のどこかで気づいていて、それを口にするのがただただ怖かった。
 欲情に負けて、もうこんなにも、彼を欲しがっている私がいるのだ。どろどろに溢れたそれが証だし、黄瀬くんの目を見つめれば身体中の力が抜けてしまうのも、背徳感がそれを煽ることも、全部。
「もう入れていいかなあ」
 ぐちゅり、指を引き抜いて黄瀬くんは入口を押し広げて自身を宛がう。ゴムはもうないんだって台詞を昨夜、聞いた気がする。すっかり蕩けた頭では、もうまともなことが考えられなくなって、自分の身体が黄瀬くんを求めて疼いているのだけをただ感じていた。早く、早くして。触れた肌は汗でべたべたして、覆いかぶさる彼の身体が昨夜よりずっと細く、色の白い綺麗なもののように見えた。
 私のかすかな抵抗も聞かずに、黄瀬くんの身体は強引に覆いかぶさってくる。いきなり押し入ってきた質量に、身体が震えてだらしない声が出る。狭い肉を割り裂いて奥へ奥へと押しつけられるそれは、私のなけなしの理性を振り切るのに十分すぎるほど熱く、待ちわびた身体を確かに満たしてくれた。ひくひく中が脈打っているのが自分でも分かる。彼がそれを悦んで笑っているのも、窮屈そうな顔をしてゆっくり腰を揺らしているのも、この瞬間の興奮を呼ぶのには十分だ。
「っ……まじ、やばい……気持ちよすぎ」
「っあ、あ、黄瀬く、」
「ほら、悦んでるじゃん、さん……」
 ね、と確認するように、黄瀬くんは爪先でぬるついた肉芽を弾いた。じれったくもがく身体が痺れて、ひときわ高い声が漏れる。
 嫌悪のような感情を抱いていたのが、ただの瞬間的な出来事で、今のほうがよっぽど刹那的な行為をしているはずなのに、こうして繋がっているときの感情の方がより身体に爪跡を残すのだと気づいた。
「ちゃんとイかせてあげるから、安心して」
 額に薄っすらと汗を浮かべる黄瀬くんは官能的だ。身体を浸食されるような恐怖があって、快楽を煽った。



「ねえ、まだ、だめって言うんスか?」
 ベッドを軋ませて腰を打ちつけるたび、言いようのない感覚が身体中を支配していく。だめだと口にしていた声も掠れて、途切れた喘ぎだけが絶え間なく零れていく。いけないことだと思っているのに、その背徳感すら彼は快感に変えてしまうのだ。身体だけじゃなく心まで喰らいつくされているような気分がした。
「でもこんなに、気持ちよさそうっスよ? ここ」
「っ……! や……っ」
「っはは、すごい締まった」
 俺もうイっちゃいそう、と目をぎゅっと閉じて快感に震える黄瀬くんは、無防備で少しだけ幼く見える。はあはあと夢中になって声をあげて、私の身体に熱心にキスをして歯を立てる。
 本当にどうかしてしまったとしか、思えない。繋がったところから絶え間なく蜜が溢れ出て、どうしようもないくらいに感じてしまっている。彼から伝わる体温すら手放せなくて、たくましい背中に腕を回してもっと、とねだれば、嬉しそうにキスをして応じてくれることすら気持ち良くて仕方がないのだ。内側をぐいぐいと刺激されるたびに、あられもない声が漏れる。胸の先を抓まれるたびにびりびりと電流が走る。
「あ、ああ、……っ!」
 肉芽を擦られて、一度視界が真っ白になった。身体が震えて、荒い呼吸だけが取り残される。私がイったのに気づいても、動くのを止めない黄瀬くんは、ぎゅうぎゅうに締めつける奥を何度も何度も突き上げた。楽しそうに笑って、甘い声を惜しげもなく零しながら、気持ちよくてたまらない様子で擦りつける。
「んっ、さん、可愛い……っ、俺もイきそ、」
 はあ、あ、と泣き声のような声を上げて、黄瀬くんは私に覆いかぶさって体を震わせた。熱いものが溢れた感覚を下腹部に感じる。搾り出すように腰を動かした黄瀬くんは、目をつむって快感に酔ったひどい顔をして、そのまま私にキスをせがんで唇を甘噛みした。
 まるで恋人かなにかのようだ。私も彼も、どうかしてる。私の中から出ていった彼自身は、お互いの体液でぬらりと光っていた。肩で呼吸をしながら、じっとり濡れた瞳で私を見下ろす黄瀬くんは、まだ興奮が醒めないようで、熱い舌先で私の咥内をだらしなく冒していく。ぐちゃぐちゃに汚れた身体のままもつれ合って横になった。火照った体はまだ熱くて、汗をかいて気持ち悪い。はあ、はあと荒い呼吸が触れるたびに、黄瀬くんは猫のように私の首にキスをして、ひどい噛み跡を残していった。



 ――――何にも考えなくていいよ。ただ、俺とさんがセックスして、気持ちよかったってだけ。だってそうでしょ? 俺、夢中になっちゃいそうだよ。今の彼女はあんまり積極的なタイプじゃないんスよ。分かるでしょ? 俺はさんみたいな子とするほうが燃えるし、楽しいんだ。ねえ、さんは? 彼氏と俺、どっちが良かったの。



「2か月前?」
 そうだよ、彼氏とは2か月より前に別れてるよ。浮気されたの。きっとこんな風に他の女とセックスして、私に飽きたんだよ。あの時ほど男を馬鹿だと思ったことはなかったけれど、今はあの時よりもっと強くそう思ってるかもしれない。男も女も馬鹿だよ。こんな風に欲望に従って生きてたらいつか枯れてしまうのに。
「そっか」
 黄瀬くんは特に同情するでも、感嘆するでもなく素っ気ない返事をした。所詮彼にとって私の彼氏の所在なんかどうでもよくって、セックスできるかできないかが重要な問題なのだと思う。ああ、やっぱり後悔をしてしまいそうになる。嫌だ。
「じゃあ寂しくなったら俺呼んでよ」
「……え?」
「彼氏出来るまで、でいいよ。俺がさん、慰めてあげる」
 寂しいでしょと、ふいに絡めとられた手のひらは熱く、どうしようもなく情事のことを思い出させた。こんな風にセックスを連想させる相手を傍に作ったら、私は今度こそ堕落から逃れられないような気がした。黄瀬という男は、こうやって女を駄目にして行くんだ。もう全部がどうでもよくって、私は後悔しなければもうそれでいいと思った。後悔しそうなら、終わらせなければいい。結果的に、幸福だったと、間違いじゃなかったと、後悔はしなかったのだと言える結果になればいい。馬鹿な私はくすくすと笑って黄瀬くんの手のひらを握り返した。
 どうしようもなく求めた彼のうつくしい身体は、圧倒的な力で私のすべてを喰らってしまう。今こうして幸福を、快楽を得られるのなら、私もそれでいい。それでいいのだと、言い聞かせるように唇を重ね合わせた。まるで愛し合っている恋人のように、何度も何度も。



 何も考えなくていいよ。ただ、俺はさんとセックスするの、好き。他のことなーんも考えられなくなるみたい。ねえ、明日俺、22時に仕事終わるんだけど、それから二人で飲みに行かないっスか?





空っぽの引き算 (140708)


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