先生に弾いてほしい曲があります。
 ショパンの『別れの曲』と言いう曲なんですが、先生はピアノをずっと習っていらっしゃるようなので、きっと弾けるのではないかと思って。どうか僕の我儘を聞いてくれませんか。僕はその曲がどうしても好きなんです。
 かつて音楽は貴族にも民衆にもひらかれた文化だったようですね。自由に作曲し、自由に演奏することが何にも規制されずに許されていた。どのような曲調でも歌詞でも、人々はそれを愛したそうです。今では僕たちはシビュラ指定音楽しか聴くことをよしとされていませんが。先生の奏でるピアノがすばらしいのは、その音にしっかりと感情が込められているからかもしれません。少なくとも僕にはそう感じられました。


「ショパンはこの曲を最高の出来だと自賛していました。これほど美しい旋律を見つけることは、きっともう出来ないだろうと」


 ピアノの弦が揺れる、その振動をじかに感じるのが僕は好きです。デバイスから流れてくる電子音もたしかに便利で、音を保存するのには良いツールだとは思っていますけれど、やっぱりオーケストラの生の演奏を、本物の音を、この耳で聴くことには大きな意味があるような気がするんです。僕たちの人生はシビュラによって創られていますが、こういうクラシックで感傷的な曲を聴いていると、僕はどうしてもここを飛び出してしまいたくなります。この足で大地を踏んで、この瞳で世界を見たいと思ってしまうのです。僕はきっと、おかしな生徒でしょうね。あなたの目にも、僕はあまりに異端に映っているのかもしれません。
 勉強をするのは好きです。本を読むのも、音楽を聴くのも、身体を動かすのも。不得意なことはあまりありません。サイコパスだってこんなにきれいですよ。ねえ先生、あなたは前に僕を褒めてくれましたね。僕はそれがとても嬉しかった。色相がクリアなことをではなく、趣味のことを褒めてくれたから。


「槙島君はどうして、この曲を聴きたいと思ったのですか?」


 分かりません。でも、聴いていて切なくなります。これは悲しみと似ているのかもしれません。先生、僕は、自分の色相を美しいと思ったことはないんです。色相をきれいに保つのは、僕にとってはたやすいことなんですよ。こんな事を言うとおごりのように聞こえてしまうかもしれませんが、僕は優等生であることに美徳を感じたりしていないのです。


「感傷的に思うことは、いつから罪になったのでしょうか」
「罪ではないわ。でもそれは、心の病に近づくことなのよ」
「果たして本当に、そうでしょうか? 何かを思い、嘆き悲しむことは、自我や人間性の形成に重要だと本で読んだことがあります」
「それは、数百年も昔の話ね。あなたの色相はクリアカラーだから、あまり分からないかもしれないけれど、わたしたちは少しの苦しみや、悲しみに対して、とても弱くできているの」
「人間的な感情や、欲動に関しても? では先生は、何かを強く求めたことはありませんか?」


 たとえば、何か欲しいものがあって、どうにかして手に入れたいのに、どうやっても手に入らないこととか。手を伸ばせば届きそうで、一歩届かない。そのようにして焦がれた経験はありませんか。この社会では、人間の欲望や関心についてとても保守的で、一見してポジティブであるように見せかけて、実はその本質を他人に委ねるほど開放的で、ネガティブなのではないかと僕は思うのです。


「焦がれることは、人間のあたりまえの本能なのに」


 ねえ先生、僕は欲しいものがあるんです。手に入らないのかもしれないけれど、それを求めることが、僕と言う存在を僕たらしめてくれる。そういう気がしているんですよ。周りは僕を異端だと思うのかもしれません。それは一般的には、心の病に近づくストレスなのかもしれない。でも、この世界に孤独でない人間などいません。みな一人として、一人の人生を生きている。そんな中で、たった一人でも自分を思い、焦がれてくれる存在がいるのなら、何があっても強く生きていける気がしませんか。


「ねえ先生、僕のお願いを、聞いてくれますか?」


 僕は誰かに求められていたいのです。たった一人でいいから。僕のほんの些細な、それでいてひどく重要な感傷を褒めてくださったあなたが、もし僕を求めてくれたのなら、僕は幸福に生きていける気がする。
 この世界に孤独でない人間などいません。だからこそ僕は確かめたい。この世界の中にたしかに眠っている、人間の欲望、魂の意思を。僕は異端な子供かもしれません。それでもあなたが認めてくれれば、それでいい。それだけで不思議と生きた心地を得るのです。


「欲望を手にすることは罪なのに、この手を取ることが罪ではないのはなぜでしょうか」


 この社会は間違っています。どれだけ模範とあがめられようとも、何とも嬉しくない。異端であるほうがまだましだ。他人の目に映る僕が、他の誰とも違う僕であるのだと、誰か一人でいいから、知っていて欲しいのです。


 ねえ先生、弾いてください、『別れの曲』を。この世界に別れを告げる、あなたのために。




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