あんまり触れたらあぶないよ、と主の声がうしろから聞こえた。
 ゆうべの雨が朝方に冷えて軒下に氷のはしらが出来ている。細く伸びている透明のそれに少し触れれば、ぽきりとあっけなく落ちて行った。あぶないものか、ただの氷じゃないか。指の温度で溶けはじめたそれが、滴をたらす。
 冬のおわりとは言え二月の朝は寒い。主は袿のような薄っぺらなよそおいをして、白い息を吐きながらこちらを見ている。風邪を引くから、ちゃんと厚着をしろと言っているのに、主はいつもそうだ。自分のことにはなんにも気づけない。そばにきて俺を覗き込んで、氷柱が気になるのかとやわく笑って問いかける。
「別に。ずいぶん長い氷柱だなあと思って」
 久しぶりに見たから、ちょっとさわってみただけ。もともと雪や雨は、好きじゃない。風が強いのも、寒いのも。髪が乱れてしまうし、寒くては身だしなみを整える手が震えてしまうから。
 いたずらに手を伸ばして、もし顔やからだに落ちてきたらどうするの、と俺をいさめる主は、あまりにも過保護だ。……笑ってしまうくらいに、うれしい。
「まだ七時にもなっていないのに、清光は早起きね」
「当然でしょ。早寝早起きは美容の基本だよ」
 二月の朝は寒いのに、どうして早起きをするのか知ってる? 主よりも早く起きて、顔を洗って髪を梳いて、爪の手入れをして、身だしなみを整えるためだよ。手が震えるけれど、主に不細工なところを見られるよりずっとましだから。寒くてたまらない冬にだって、早起きをしてるのは、全部主のためなんだよ。
 主はきっと気づいていないんだろうけれど。俺たちにはやさしくって、気をばかり遣うくせに、主は自分のことにはからっきしだから。俺がここにいるのも、主がきっと薄着をして出てくると思ったなんだよ。
「寒いんだから、ちゃんと綿入りを着なよ。主が風邪なんか引いたら、俺たちはどうするの」
 やっぱり持ってきてよかった。羽織をそっと肩にかけてやると、主は申し訳なさそうに笑って袖を通した。ねえ、もっとしっかりしてよ。戦のときはあんなにきりっとしているくせに、本丸では途端に頼りないんだから。なんて、少しだけ照れくさくってつい、軽口を叩いてしまう。
「ありがとう、清光」
 ねえ、俺、主の役に立ててるよね。近侍はきっと俺にしか務まらないよね。早起きな主に付き合ってこんな時間に起きるのも、こうやってあたたかい羽織をさしだせるのも、きっと俺だけだよ。
 つるぎのような氷柱がなる寒い朝でも、俺は少しも辛くない。主が心配をしてくれるなら、氷柱に触れて、たとえば手の先を凍らせたって、かまわないよ。主がきっとあたためてくれるんでしょう?
「ねえ、主、今日の俺もかわいい?」
「ええ、とってもかわいいわ。その爪の色もね」
 さすが主、よく気づいたね。新しい爪紅を引いたんだ。この色、どうかな。主は好き? もしよかったら、俺が主の爪にも引いてあげるよ。みんなが起きて、朝食にそろうまでまだ時間があるから、それまでは俺とふたりでいて。
 もし俺が氷柱のように折れる日が来たら、そのときは、主の手のひらで溶かしてよ。あっけなく水になって落ちてゆくのかもしれないけれど、どうせ透明になるのなら主の手のひらの上がいい。最期の瞬間までずっと、あなたに愛されてるって感じていたいんだ。


15/2/10 つめたいあさに爪紅を引く
お題「加州清光」「氷柱」




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