槙島さんの家の広いお風呂は、前に一度入ったことがある。あの日も今日のような大雨で、学校帰りにずぶ濡れになってしまったわたしを見かねて、槙島さんがお気に入りの入浴剤を使ってお風呂を沸かしてくれたのだ。
 白く丸いバスタブに張ったたっぷりのお湯に身を沈めながら、リビングでわたしを待っている槙島さんの背中を想像して、背筋がぴんと伸びるような緊張感を覚える。あのときよりもずっと不安を感じているのは、わたしたちがいわゆる彼氏と彼女という恋人同士になって幾ばくかの月日が流れているからかもしれない。ラブストーリーの映画や漫画では、そういう関係の男女は、きっとこういう偶然の夜に、……。ああ、だめだ、想像するだけでやっぱり色相が濁ってしまいそうだ。うすピンク色のお湯をぱしゃりと頬にかけて気合を入れ直す。あまり変なことは考えない方がいい。また見透かされたように微笑まれて、恥ずかしい思いをするのはきっとわたしの方に決まっている。
 槙島さんの家で一晩を過ごす。……なんて、ただ嵐が呼び寄せた偶然のイベントだけど、なんだかひどく浮足立っている。今まではいつも夜遅くなる前に送ってもらっていたのに、今夜は時間を気にせずずっとここにいられる。そう考えるだけで胸がドキドキと高鳴ってしまうのだから、槙島さんのことを考えずに過ごすのはきっともう一秒だって無理なのかもしれない。

 お風呂を上がると、バスタオルのとなりに着替えが一揃い置いてあった。パジャマ用の白いワンピースのようだ。裾にはオートサーバに注文をした証であるシビュラの既製品マークがついている。高級マンションにはホテルのルームサービスのようなシステムが常設されていると噂に聞いたことがあったけれど、こんなものまですぐに用意してくれるのだから、さすがセレブ御用達のマンションと言ったところだろうか。少しドキドキしながら、温まった身体にそのワンピースをまとうと、シルクでできているそれは自分が持っているどのパジャマよりも寝心地がよさそうだった。
 夏頃からずっと伸ばしている髪は、いつまでもドライヤーを当てていてもなかなか乾きそうにない。あきらめて、タオルを肩にかけたままリビングへ向かう。裸足にスリッパをはいてバスルームを出ると、空調の利いたリビングは少し肌寒いくらいに感じた。
 槙島さんはテレビを見ている。ソファに背を預けている白い頭がゆっくりと動いて、わたしの方へと振り返る。ああ、心臓が今、ドキリと音を立ててしまった。槙島さんならそれも聴きとってしまいそうだから油断ならないのだ。

「おかえり。湯加減はどうだった?」
「……すごく気持ちよかったです」
「そう、良かった」

 おいで、と言うその声をなんだか意識してしまって、顔を上げることができないまま、槙島さんのとなりに腰かける。毛先から落ちてきた水滴がワンピースの裾にぽたりと滲んだ。細い爪先に耳元を撫でられて、思わず息を飲みこむ。気がつけば槙島さんの指先は、わたしの襟足をかき分けるようにして、首筋をくすぐっていた。

「まだ髪が濡れてる」

 ……きっとぜんぶ、いつも通りの槙島さんだ。それなのに、妙に意識をしてしまってたまらない。頬が赤いのをお風呂上りのせいにして、わたしはじっと押し黙る。そのままにしていると風邪引くよと、わたしがいつも槙島さんに言っているのと同じ台詞を呟いて、向かい合って槙島さんが髪をタオルで乾かしてくれる間、しばらくずっと唇を引き結んでいた。
 見上げれば優しい瞳と目が合う。タオルとほんの少しの距離が作るわたしたちの空間に、槙島さんの囁くような声がそっとほどけてゆく。

「ぼんやりしてる。眠いかい?」
「うーん……少しだけ」
「素直だね。夜はまだこれからなのに、」

 あまり意味深なことを、言わないで――そう照れ隠しに怒りだそうとしたのを、槙島さんはきっと見抜いていたのだろう。わたしが口を開く前に、まだ温かい熱をともしていたわたしの唇に、キスをして言葉を塞いでいた。
 柔らかな体温がそっと触れて、惜しむように音を立てる。驚きに目を瞑るのも忘れてしまった。ゆっくりと離れていくきれいな顔が、その瞳いっぱいに自分を映しだしていることが、無性に恥ずかしくってたまらなくなる。身体中にますます緊張が走る。熱い。目を合わせながら、槙島さんがこぎみよく笑いだすそのときまでわたしは、何も言えずにただ黙っていた。

「面白い顔だ」
「……そ、そうですか」
「じゃあ僕もシャワーに入って来ようかな」

 ちゃんと起きて待っていてと、わざわざわたしの頭を撫でてくぎを刺していく。……槙島さんはわたしを子ども扱いしたいんだか、恋人として扱ってくれているんだか、いまいちよく分からない。彼が去っていった方をじっと見やりながら思わずため息をひとつ吐きだした。
 夜は本当にまだ始まったばかりなのに、窓を大雨が打ちつけているせいで、世界中のどこからも隔離された場所で過ごしているような、そんな錯覚を感じてしまう。明日はまっすぐ帰れるだろうか。いや、もし帰れなくても、またここに戻って来ればいい。それはそれで楽しいかもしれない、なんて思ってしまう愚かな自分がいる。





 槙島さんがシャワーに向かって10分も経たないうちに、玄関の方から物音がした。オートロックのマンションだけど、PSYCHO-PASS認証の登録の仕方によってはもちろん、家主の許可がなくとも部屋のロックを開けることができる。耳を澄ませばガチャと玄関のドアが開く音がして、明らかに誰かがこの家に入って来たことが分かった。
 誰だろう。こんな風に音もなく入ってくるなんて、まさか、他の女の人とか。……いや、ドロドロした恋愛ドラマじゃあるまいしありえないか。だけどすごい美人がそこに立っていたらどうしよう。色気たっぷりの年上美女がぐうぜん遊びに来て鉢合わせてしまった、なんてことが起こったら、わたしの方がみじめな気分になるのは明白だ。
 色んな意味でドキドキしながら足音の続きを待つ。恐る恐る様子をたしかめるように、ソファから立ち上がって玄関の方へゆっくりと近づいてみる。すると、

「旦那、いきなりすいません。この雨で地下通路が冠水しちまって。悪いんですけど今夜――――」

 男の人の声が聞こえてきて、思わず廊下を覗きこんだ。一体誰だろう? こんな時間に、ロックを解除してやって来るくらいだから、槙島さんの知り合いなのは確実だけれど……。玄関先に立って雨に濡れたバッグや靴をほろっているその人は、乱れていた髪をおもむろにオールバックにかきあげて、ふいに顔を上げてこちらを見やった。――あ、目が合ってしまった。

「…………あれ?」

 狐顔の男の人は、見た感じ槙島さんよりも年上のおじさんで、シャープな雰囲気の異国風の顔立ちをしている。わたしを見て驚いて目を丸くしていたかと思えば、はっとなにかに気づいたらしいその人は慌ててバッグを持ちなおして、「それじゃあ」と何食わぬ顔で出て行こうとした。
 え、帰っちゃうの? 今、大雨に降られて飛び込んできたばっかりなのに! 一体どうしたものかと、微妙な距離で顔を見合わせながらうろたえていると、ふいに後ろから肩を抱き寄せられる感覚があった。細く長いその指先は槙島さんのもので、顔を上げると、お風呂上りで温まった槙島さんの薄っすら桃色に染まった頬が見える。いつも真っ白なその肌が色づいているのを見るのは、けっこう好きだ。思わず見惚れてしまっていると、槙島さんはこちらを見ないまま抱き寄せる手の平に力を込めて、わたしの身体を少しだけ強く近寄せた。

「――あ。グソンだ」
「旦那……! すいません。どうやら間が悪かったみたいで」
「本当にね。地下が冠水でもしたかい?」
「仰る通りで。この天気ですから、くだんの話も中止のようです」

 二人の話をそらで聞きながら頭にはてなマークが浮かび上がる。グソン……と呼ばれたその人はきっと、前に少し話を聞いていた槙島さんのお仕事のパートナーだろう。ようやく合点が行く。だからオートロックを抜けてこの部屋までやって来ることができたのだ。

「上がりなよ。君が来るんじゃないかって気はしていたよ」
「いえいえ。俺はお邪魔のようですから」
「まさか、戻るつもりかい? この雨の中」
「そ……そうですよ、帰れないですよ! 無茶しないで上がってください!」

 びしょ濡れだし、とこっそり進言をすると二人は顔を見合わせて、槙島さんは楽しそうに声を上げて笑いだす。「もこう言ってることだから」と冗談めかすような口ぶりで、わたしをリビングへ連れ帰りながら、グソンさんにシャワーと着替えとを勧めていた。
 交通網なんか数時間前からとっくに麻痺している。ベッドタウンまでの臨時便も長蛇の列で、結局は災害用の移動ライナーまで稼働しているようだった。わたしをソファに座らせながら、オートサーバでお茶の準備をしている槙島さんは、飛び込んでくる交通災害のニュースを聞き流しながら、まるで雨音のリズムを楽しむかのように笑っている。

「天災とは本来こういうものだ。雨はわれわれに平等にもたらされる。聖書にそんな一説があったけれど、日本の民俗学でも同じようなことを古くから題材にしてきたようでね」

 創造と破壊、併せ持つ対照的な二面性を文化的モチーフに、さまざまな伝承や神話が生まれてきた。これはとても素晴らしいことだと、槙島さんは歌うように述べた。
 槙島さんは雨が好きらしい。ふいに世界を切り取って閉じ込めてしまうような、閉鎖的で、だけどどこまでも底が無く溢れてゆくような、際限のなさに魅力を感じるらしい。槙島さんが言っていることはなんとなく分かる気がする。わたしも雨は好きだ。今日、前よりも少し好きになった。槙島さんが好きだと言ったから、きっと降りしきる無数の雨たちの一つひとつが、よりうつくしいものに感じられるのだ。

「たまにはこんな日も良いね」

 君がいて、グソンがいて。そういう訳の分からないことのすべても、雨がもたらした恵みかもしれない。
 ――そろって温かいお茶を飲みながら、適当にクラシック音楽をBGMにかけ流して他愛ない話をする。時間を気にしなくて良い、そう思えば開放的になる。どこへも行けない閉ざされた世界の中でかぎりない自由を感じる。ふと見上げたときに槙島さんは嬉しそうに笑っていた。これから何が起こるか分からない、そういう無作為な時間をゆったりと過ごすことに、無性に意味と理由とを探したくなる。きっとそんなものどこにも存在していないのに、わたしにはそれが幸せなことのように思えたのだ。




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