今夜は台風が来るらしい、と軽い口ぶりで話題にしていたそれがついに洒落にならないほど大型化して、都市防災システムでも防ぎきれないほどの規模まで成長を遂げたようだった。
 十数年ほど前から都市中枢の天気や気温というものは管理をされ、ほとんどの災害を防ぐよう交通や情報の再構成がなされている。適度な雨や雪を気象庁がコントロールするのは勿論のこと、大型の台風や嵐なんかは被害が最小限に留まるよう抑えられているし、よもや人間は天候という神の領域にまでその食指を伸ばし、操ることに成功している。まったくコモディティ化の進む社会というのは便利なようで、単一的であまりに退屈が過ぎるように思う。雨音の跳ねかえる日に傘を差して歩くのが、革靴で初雪のまっさらな地面を踏んで歩くのが、季節を味わうというある種の通過儀礼であったと言うのに、そんな醍醐味さえも不意にしてしまったのだから。
 なんて僕が窓の内側から疑問を呈したところでこの社会はさして変化しない。ふと空を見上げると、先ほどよりもだいぶ雨脚が強くなっていることに気がついた。街並みを彩るホロアバターは湿度に弱いものが多く、雨の日には使い物にならなくなる。そこかしこでオブジェを成している投影機も今夜は電源を落として、災害警報を表示するパネルに様変わりするのだろう。

 つい先ほどまで平気そうな顔をしてディナーに舌鼓を打っていたも、今は携帯デバイスに滝のように流れ込むテロップを見て愕然としている。今夜は18時以降、都市中央線の快速電車が全便運休。災害専用高速に臨時バスが数便出るけれど、僕の家から駅まで向かっている間にも台風は本格化して、きっと往来で身動きが取れなくなるに違いない。さっきまでの楽しそうな表情は一転して、不安感と脱力感に苛まれ、まさに陸の孤島に取り残された者といった顔をしている。

「泊まっていけばいいじゃないか」
「……ここに!?」

 むしろ他にどこがあるって言うのだろう。はしばらくあれこれと悩んでいたようだが、ついに携帯をぽいっと放ってソファへ横になった。考えるのをやめたらしい。そうこうしている間にも、テレビからは地方での土砂災害警報、河川の洪水、ホロ・アバターの不具合による交通渋滞なんかのニュースが次から次へと流れてくる。のそばに近づいてしゃがみこむと、まさしく苦渋の決断、とでも言いたげな様子では眉を寄せた。

「……やっぱり泊めてください」
「うん。喜んで」

 ――今日、は学校でずいぶんと疲れて帰ってきたようだから、美味しいものを食べようとそそのかして、近頃は贅沢だから控えろとばかり言われていたケータリングのディナーを注文したのだ。ボンゴレ・ロッソのスープパスタはそれはそれは美味で、エシャロットとビーツのサラダをが満足そうに平らげたちょうどそのとき、の携帯ホロアバターが最初の警報を知らせてくれた。それは時間にして、ちょうど時計が19時を回ったところだった。
 不運とは重なるものだ。もう帰れないね、と笑えばうらめしそうに睨まれて、慌ただしくニュースを見たり交通機関のサイトをチェックしたり奔走していたけれど、どうやらそんな努力もとうとう諦めたらしい。ひとりをうちに泊めるくらいどうってことはないし、そもそもこんなアクシデントでも起こらなければ、を一晩ここに引きとめることはできなかったのだろうとも思う。そう思えば台風も一概に悪いとは言えない……のかな。なんて言ったら本当に殴られてしまいそうだけど。

は明日も学校だったっけ」
「はい。えっと、ここからなら、10時に出れば間に合うかな……」
「そうか。じゃあ、のんびりできる」

 お風呂を沸かそう、新しい入浴剤を入れるから、ゆっくり浸かっておいで。予定が狂ったことを嘆いている小さな額をひと撫でして、子猫にするようにあやせばは寝そべったままそっと目をつむった。ふて寝でもするつもりだろうか。かと思えば、はっと立ち上がって、「親に連絡しなくちゃ」と焦った様子でデバイスを操作しはじめた。
 相変わらず真面目だなあ。だけどこんなに無防備でかわいい娘がいたら、そりゃあ親御さんも心配をするに決まっている。おまけに今こうして僕のような男の家に泊まる、なんて決意までしているところなのだ、母親と電話をしながら、友だちのだれだれの家に泊まって帰ると小さな嘘をついたを、くすくすと笑っているとグーにした拳が僕の腕にぽすんと飛んできた。
 さすがに、恋人の家に泊まって帰ります、とは言えなかったらしい。僕とのことを親は知らないという訳ではないけれど、妙に勘ぐられたらいやだからと語尾を掠らせる。

「妙に、ってたとえばどんな風に?」
「それは……ええと……」

 一体その口がどんなことを紡ぎだすのか、楽しみにしていたのを見抜かれてしまったようで、は真っ赤な顔をして拳を振り上げて、もう一度僕の腕にパンチをお見舞いした。そのまま僕を突っぱねるようにして、バスルームへと向かってしまう。
 からかいすぎて、怒らせてしまったかな。足早に去っていくその後ろ姿を追いかけて、バスタオルや石鹸のことを教えようと思って声をかけると、一足早くバスルームに入っていたは途端におどろいて肩を持ち上げた。そんなに驚くことだったかい?

「新しいバスタオルをおろしていいよ、って言おうと思ったんだけど」
「う……はい」
「なんだか落ち着かないようだね」

 まるで、熱でもあるみたいだ。
 わざとらしくそう囁いて、洗面台のあいだに閉じ込めて、前髪を掻き分けたところにキスを落とす。はピクリと肩をふるわせて、泣きだしそうにくちびるを噛んだまま僕を見上げた。はいつも僕ばかりを悪者にしたいようだけれど、自分が今どんな表情をしているのか分かっているんだろうか。そんな顔を見せる君の方が、僕なんかよりもずっと狡いと思うんだけれど。可愛らしくって、ひどく罪深いよ。
 すがるように僕のシャツを掴んだははあっとため息を吐きだして、槙島さん、とか細い声色で僕を呼んだ。バスタブにはもうすぐ湯が溜まる。湿度の高い脱衣所にいると、二人の声がやけに近く聞こえるようだった。

「……なあに」

 は自分から声をかけたくせに、それきり何にも言わずに僕の胸を押し返す。ほんの少しの間、体温が重なるほどの距離にいた、ただそれだけなのに、離れるともう名残惜しさを感じた。

「お風呂に……入るので」
「うん」
「向こうに行っててください」

 恥ずかしそうに何を言うかと思えば。妙にしおらしく、歯がみするように僕を見上げているから、その必死さがおかしくってつい笑ってしまった。分かったと返事をしてその髪をそっと撫でて風呂場をあとにする。今のにはあらゆることが棘のような刺激になってしまうようだ。
 まったく複雑なモラトリアムを生きている現代の学生らしいと言えばそうなのかもしれない。子どもと大人の境界線にいる、シビュラ世代の申し子である彼らは、嘘をつくことを非と教えられてきている。PSYCHO-PASSが濁るから胸に罪悪感を残してはいけないと、口を酸っぱくして擦りこまれているのだ。それをたった今、まして肉親に対して打ち破ったばかりのの心中には、狂おしいほどのもどかしさが渦巻いているに違いない。それが彼女自身を守るためにつくべきだった正しい嘘だとしても、彼女が能動的に築きあげてきた美徳に、背いていることには間違いないのだ。
 そう考えると、僕の胸中を満たすのはやはり嬉しさにほど近い満足感だった。にそうさせたことに、喜びすら感じている。が僕のために日々その内側を変化させていること。自分自身で善なるものをかぎわけて、是を選び、非を排除していること。その枠組みを作るのに少なからず僕の存在が影響していて、彼女の生命に、僕という意思が介在していること。それはたった少しのほころびに過ぎないが、僕を満たすのには十分すぎるほどの革命と言っていい。

 僕は間違いなく幸福を感じているのだ。ここにこうして、ソファに座って彼女が戻るのを待っているのも、これから柔らかなベッドで眠るまでのまどろむのにも、一つだって孤独は存在していない。こんな夜は今までに一度も過ごしたことは無かった。ただそれだけのことが、僕をこんなにも幸福に揺蕩わせるのだ。




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