『今から行きます』というの連絡を受けてから、僕は読みかけの文庫本を手に取ってソファに腰かけた。
 優雅にコーヒーを落として小説の頁をめくる、実に贅沢な時間の使い方だ。栞を挟んでいた場面から読み始めて、の到着を知らせるインターフォンが鳴る頃には、ちょうど切りの良いところまで読み進めることができた。続きが気になるけれど、没頭するのはあとでいい。玄関先へ出迎えに行くと、頬を赤らめたがぴょんと室内に飛び込んで来た。小さな身体に厚着をして、マフラーをぐるぐると巻いて、すっかり真冬の装いに変わっている。

「やあ、いらっしゃい」
「お邪魔します!」

 寒い寒いとしきりにこぼしている、その後頭部を軽く撫でてみる。髪がたわんで丸いシルエットを作っている、そのふわりとした毛束は、外気に晒されてひやりと冷たくなっていた。そう言えば世間は師走を迎えて久しいのだ。が連れて来たその空気に触れて、僕はようやく冬の訪れのことを思い出した。

「もうそんな季節か。忘れていたよ」
「またそんなこと言って……。最近はなにをしていたんですか?」
「そうだなあ。考え事ばかりしていた気がする」

 は情緒がないなあ、なんて呟いて煙たそうな顔をした。部屋の中にばかりいると、どうも四季の移り変わりには無頓着になってしまうのだ。はしかめっ面のままマフラーをほどいている。さらさらと零れていくその茶色の髪を眺めて、ずいぶんと長くなったなあと感じた。
 思えばと出会ってから、すでに数か月もの時間が流れている。僕が最初に考えていたのより、遙かに多くの時間を共有しているのだ。僕らが出会ったのはいつのことだったろう。こうして、傍にいるのが当たり前になったのは、果たしていつからだったか。
 しだいに日常にまどろんでいく、ありきたりな物語の登場人物のような自分に焦燥を覚える。そういう区切りを特別に意識していなかったことも、同じように、得体の知れない物寂しさを感じさせるのだ。

「こうやって悠々自適に過ごしているのを見ていると、なんだか羨ましくもなります」
「君はせっかちだからね。真面目なのも良いけれど、すこし肩の力を抜いてみたら?」
「分かってますよ。でも、こういう性格なんです!」
「知ってる。君のそういうところ、僕はけっこう好きだよ」

 ふと笑いかければ、コートのボタンを外していたの手が止まった。こういう言葉にまだ慣れなくって、いちいち初心な反応をしてみせるのも、僕は気に入っているのだ。自身はそんなことに気づきもしていないのだろうと思えば、すこし面白くもあるけれど。
 玄関は寒いから中へ入ろうと背中を押せば、慌ててコートを脱いで外套掛けにかけた。ぱたぱたと僕の後ろを駆け足でついてくる、はきっと唇を引き結んで、照れた表情を必死に隠しているのだろう。
 そういう愛くるしさを、いつまでもからかっていたいと思ってしまう。本当につまらない、うすら寒い物語に出てくる登場人物みたいに、だ。

「それにしても、外はずいぶんと寒いみたいだね。温かいココアでも淹れようか」
「え? 淹れてくれるんですか?」
「もちろん。その間に向こうで暖まっておいで」

 子どものように嬉しそうに頷いたは、洗面所で手を洗ってからソファでブランケットにぐるりと包まって丸くなっていた。いつの間にか、家の中にの私物が置かれるようになって、気がつけばあらゆるところにのものが点在している。ブランケットもそうだし、ココアを注ぐマグカップにしてもそうだ。
 他人の存在を顕著に感じる、そういうモノを身近に置いておく、なんていうのはもしかすると僕にとっては初めての経験かもしれない。匂いの残るような、情を残すようなことは、なるべくしないでいようと無意識的に心がけていた節がある。なぜか、と聞かれると答えに詰まってしまうが、僕は自分の存在意義やヒトとしての指針などについて考えることは多いけれど、それを孤独以外の方法で埋めようと決意したことは一度も無かったのだ。
 香りを共有し、生活の中に溶けこみ、あるいはそれらを慈しんで情念を残すことは、恐ろしいことだ。ともすれば何よりも、取り返しのつかない、執着のはじまりになる。そういう気がして、忌避的になっていた。

「……美味しい。槙島さん、上手くなりましたね」
「そう、良かった。君の特訓のおかげかな」
「まあ、インスタントですけど」

 マグカップに温めてあげたココアに口をつけて、はいたずらっぽく笑う。ソファに膝を立てて座っている、横に並べば肩をすくめて距離を取る素振りをした。
 ずいぶんと意地の悪いことを言うなあ。つい仕返しをしてやりたくなって、その小さな背中にまとっているブランケットをはぎ取ってやる。あ、と口を丸く開けたは、呆気にとられた様子で、僕のほうへぐいっと押し迫ってきた。ああ、危ない、ココアがこぼれてしまうよ。

「寒いです、返してください!」
「これはさっきまで僕が使っていたんだよ」

 だからその台詞を言うのは僕のほう。一旦サイドテーブルにマグカップを置きなおして、はブランケットをたぐり寄せようと躍起になって腕を伸ばしてくる。「おとなげないです」なんて不満そうに文句を言うは、こういうときにだけ甘えた顔をするのだ。ずるいなあ、僕よりもずっと、卑怯で賢くって。どんな表情をすれば効果があるのかを、きっと無意識のうちによく分かって使い分けているのだ。
 油断していた腕をおもむろに引き寄せると、しまった、みたいな顔をしたの身体はくずおれて、そのまま僕の脚の間にすっぽりと収まった。寄りかかる背中をブランケットに抱きこめば、観念したようにため息を吐く。なかなかいさぎいいじゃないか。そういう決然としたところも、きっと君の美徳に違いない。

「すぐこうやって。ああ、もう、髪がぼさぼさになっちゃった」
「不意を狙わずにはいられないたちでね」 

 前髪を整えるいじらしいのを、ぎゅうと抱きしめて額にキスを落とすと、はやっぱり苦虫を噛み潰したような顔をして唇を引き結んだ。
 もとはと言えば仕返しのつもりだったから、僕としてはこれで十分に満足だ。無理な体勢を自力で建て直したは、すっかり諦めた様子で僕に体重を預けている。行き場をなくした無防備な子猫のように。髪や首のうしろ辺りを撫でれば、ようやくはっきり嫌そうな声を出して、は跳ねかえるように身体を起こした。

「くすぐったいです」
「そう。君は首が弱いんだ」
「……知らないですけど、やめてください!」

 照れているのか、ぷいっとそっぽを向いてしまった。きっと怒っているわけではないのだろう。そういう反応を見せられると、深追いをしてみたくなるのが、人の性だと思うのだけれど。
 抑圧や制限があるからこそ、実体のない不安が形を成し、思念に変わり、人々の興味の対象と成ってゆく。かつてのフランスで、ヴィクトル・ユーゴーによって我々の人間性とその深淵とが明るみに出され、他者と夢想する自我とのあいだにロマン主義の基盤が敷かれたのと同じ原理だ。
 人生最大の幸福は、愛されているという確信である。自分のために愛されている、否、もっと正確には、こんな自分なのに愛されているという確信である。なんて、まるでエゴイズムを赦すような恣意的な言葉を、受け入れるには僕はあまりに無知が過ぎるのかもしれない。

「今日は一日、なにをしていたんですか?」
「……午前中にグソンが来て、すこし仕事をしたよ。あとは本を読んでいた」
「また新しいお仕事?」
「うん。割りの良い仕事でね。お給料が入ったら、どこか旅行でも行こうか」

 何気ないその一言に、がはっと顔を上げる。そんなに意外だったかな。まばたきを繰り返す丸い瞳を覗き込めば、「どこへ?」と積極的な問いがその口をついて出てきた。

「どこでも構わないよ。強いて言うなら、温泉旅館とか」
「へえ! そういうの苦手だと思ってましたけど」
「たしかに、大衆浴場のような場所はあまり好きじゃない」

 だけど、あたたかい風呂に浸かるのは好きだよ。郊外にまだ残っている老舗の旅館ならいい。自然なんてほとんど残っていない現代で、そういうのに触れたくなるのは、人間として真っ当な感情だと僕は思う。
 どうだろうかと興味を問うように訪ねれば、は間を空けずに大きく頷いた。思ったよりずいぶんと素直な反応だ。色々なことを、分かっているようで本当はなに一つ分かっていないくせに、そのことを知らない。それは一体どれほど幸福な要素だろう。

「行きたいです、温泉!」
「じゃあ、決まりだね。君の学校が休みの日に合わせて」

 行こうか。二人で、宛てのある旅でもしてみよう。羽根を伸ばすのもたまには良いだろう。薄っすらと頬を染めて微笑んだ、の小さな頬にキスをして、腕の中に強く抱き寄せた。
 ――――人生は愛という蜜をもつ花である。ユーゴーはこんな言葉さえ残している。彼の辿った波乱多き人生も、現代では夢やまぼろしほどの価値しか認められていないが、彼にとって人生は、花にたとえるまでに愛おしく、慈しむべき価値があったのだろうか。僕がそれらを呑みこむまでに、あとどれくらいの時間が要るのだろう。
 
 お前達、今真実の中にいるのだという事を、よく頭に入れておきなさい。愛し合うのだ。そして馬鹿になるのだ。愛とは人間の愚かさであり、神の知恵なのだ。深く愛し合いなさい。……




(151222) レ・ミゼラブル、哀しき貧しきひと


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