毛布にくるまってうとうと、二度寝という幸せのまどろみに目をつむっていた。
 午前9時の仄暖かさを享受して、寝返りをうつ僕の耳にわあわあと声が聞こえてくる。餌をねだる小鳥のように軽やかなこれは、の声だ。朝からずいぶんと贅沢な夢を見ている。僕はそれほどまでに、のことを恋しく思っていたんだろうか。
 なんだか気恥ずかしい、まるで初めての恋に浮かれる少年のようだ。我ながらむず痒くなるような喩えに、思わずふふと笑っていると、おもむろに毛布をばさっと奪われて、肌寒さを直に受けた素肌に鳥肌が立った。
 ……寒い。顔を上げると、怒った顔をしたが僕を見下ろしている。ああ、なんだ。夢じゃなかったみたいだ。だとしたらこれが本当の贅沢だ。は僕の身体をがくがくとゆすって、早く起きて、目を開けて、と歌でも歌うかのように声を上げて急かしている。

「おはよう。ずいぶんと朝が早いね」
「ちょっと、なに寝てるんですか。今日から働くって言ってませんでしたっけ!」
「ああ、そうだ。そのことなんだけれど、実はゆうべ急な仕事が飛び込んできてね。今朝方それが終わったところなんだ。多分もうお給料が振り込まれている頃じゃないかな」

 口座を見てご覧、と言えばぽかんと口を開けて呆然としていたの腕を引いて、そのままベッドへと引きずり込もうとする。すんでの所で正気を取り戻したらしいは、はっとして僕の手を振り払って、両手に握り拳をつくって立ち尽くした。物騒だなあ、どさくさに紛れないで、という意思表示だろうか。

「それで、まっとうなお仕事は?」
「また今度にするよ」

 そんなことより、僕は朝方まで働いていたんだよ。家に着いたのだって、もう太陽が昇り始めていた時間帯だ。すこしくらい労ってくれてもいいじゃないか。僕が甘えた顔してすり寄ってみても、にはあまり効果が無いようだ。それどころか、いつまでも寝そべっている僕を覗き込んできたかと思えば、伸びてきた手にぐっと鼻をつままれてしまう。……苦しい。

「せっかく良いところからお仕事案内が来てたのに!」
「……また来月、同じところから来るよ。そのときに返事をしたって同じだ」

 どうしても真っ当な職に就いてほしいという、のその気持ちを察していないわけじゃない。
 正規のルートに則って、シビュラの思し召し通りに人生のレールを敷いてゆくことこそが、この現代が有する美的価値観だ。特にの世代はそのことを病的なまでに教育されているし、加えて職業訓練校の最終学年で就職活動中となると、僕が無碍にした求人を勿体ないと思ってしまうのも訳のないことなのだろう。
 まして僕のPSYCHO-PASSは模範的な数値を叩きだしている。シビュラ社会の木っ端になってやるつもりは微塵もないけれど、それを羨む『普通』の気持ちが分からない訳ではない。ただ、生きてゆくために金が必要なら、僕は僕なりの稼ぎ方でやらせてもらう。ただそれだけだ。たとえこの世界では罪と記されている、自由意思に基づいた判断に成り立つ危うい方法であったとしても――――自らの手で取捨選択できるのであれば、僕は迷いなくそちらを選ぶと決めているから。

 はむっと唇を尖らせて、文句を言いたげな顔をしてずっと黙っていた。
 とうとう呆れられてしまったかな。僕はこうだと知っているくせに、諦めずに説得しようとするのだから、は物珍しい存在と思う。大体の人は――――訳の分からない主張をする僕を諦めて、すぐに敬遠していく人ばかりだと言うのに。
 は僕を、世界の片隅に繋ぎ止めておいてくれる、碇のような存在なのかもしれない。なんてロマンチックなことを、ふと考えたりする。そんな自分にまた寒気がして、思わず笑ってしまうけれど。

、君は知っているかい。言葉を紡ぐべき時間もあれば、眠るべき時間もある。ホメーロスの言葉だ。古代ギリシア時代に吟遊詩人として活躍をしていた彼は、実は盲目であったという説があるんだ。彼は自分の作品を――――」
「はいはい! 分かりました! すごいです!」
「……もうすこしちゃんと聞いてよ」
「寝転がって言われたってなんにも格好良くないですから」

 手厳しい。僕はようやく覚醒を始めた身体を起こして、うんと手足を伸ばした。まだ寝足りない、けれど目の前にピイピイと可愛らしく囀る小鳥がやって来てしまっては、その羽ばたきや歌声に耳を澄ませるのに精いっぱいになって、眠ってばかりもいられないのだ。
 僕がベッドから立ち上がれば、は得意げな笑顔を見せて、「早く着替えてくださいね」と言ってきびすを返そうとした。さらと揺れる後ろ髪が恋しくって、その腕につい手を伸ばす。細い肩はすぐに捕まえられた。腕を回して、抱き寄せて、耳元におはようと呟いてやれば、ひとたび頬やら耳やらが薬缶のように熱を持つ。それまでやかましくしていたのに、途端に大人しくなってしまうのだから、可愛らしい。これだから、をからかうのを止められないのだ。

「君もいっしょに二度寝をすればいいのに」
「わ、わたしは枕が変わると眠れないたちなので……」
「そう? すこし意外だよ。この前、ソファでぐっすり眠っていたのは、どこの誰だったろう?」

 は照れ入る表情を俯かせながら、うう、と動物のように唸った。僕がすこし腕の力をゆるめると、ぱっと振り払って、軽快に走り去ってしまう。本当に小鳥みたいだ。どうしたってこの手の中に収まっていてはくれないのだろう。だからこそ鳥籠の中へ隠してしまおうと、躍起になってしまうのかもしれないな。その囀りを独り占めしたいあまりに、僕はなんだってしたくなる。
 まるでモーリス・メーテルリンクの戯曲、 青い鳥のようだ。僕にとって幸福の象徴がそれなのだとしたら―――― 触れようとした瞬間に、空の向こうへ飛び立ってしまうんじゃないかと、そんな風に恐れを抱いたりする。





 あれからすっかりへそを曲げてしまったお姫様は、僕がなにを喋っても「はい」と「そうですか」をナビ・アバターのように繰り返すだけで、まったく取り成してくれなかった。
 今日から働く、と安易にうそぶいてしまったことをまだ怒っているようだ。そりゃあ僕だって、君があんまり勧めるから、職業案内のお知らせくらいには目を通そうかなとは思っていたよ。職業案内システムを開けば、いまだにたくさんの求人が飛び込んでくるんだから、僕はきっと何にだってなれるのだ。きっと、不在の誰かの代わりとして。 その中には、君が理想とする『まっとうに働く僕の姿』があるのかもしれないけれど――――果たしてそれは本当に『僕』であると言えるのだろうか。 ただの屁理屈、狂人の戯言のように聞こえるかもしれないが、僕にはそのことを不思議がらない現代人のほうがよっぽど恐ろしいくらいだ。
 そういう考えを、君に押しつけようとは思っているわけじゃない。せめて分かっていて欲しいんだ。僕がこの世界に未練を残すよすがとして、せめて君一人くらいには、本当の感情を打ち明けてしまっても構わないと思っているから。

「無視をしないで。悪かったと思ってるよ」

 ソファに背を預けて、はじっと押し黙っている。隣に腰かけた僕を一度だけ見やって、何を言うでもなくすぐに視線を逸らす。……ずいぶんと意固地だ。

「急ぎの案件だから、手伝ってくれって頼まれちゃって。昔から世話になってるひとだから、どうしても断れなくてね。君を裏切るようなまねをして悪かったとは思ってるよ」

 だからどうか、機嫌を直してくれないかな。ソファの上に膝を折り曲げて、その上に乗せていた小さな手のひらを取って、指先をゆっくりと絡めていく。うらめしそうに僕を見上げたは、少しくらいは話を聞いてくれる気になったみたいだ。そのまま腕を引けば肩が触れ合うほど距離が縮まって、ぴたりとくっついて座るのを許してくれた。
 のこういう優しいところが、僕は好きだ。こうして拗ねて口を閉ざしているのだって、僕に甘えて、甘やかしてくれている、そういう証みたいでなんだか嬉しくなる。もちろんにそんなことを言えば、もっと口を尖らせて怒ってしまうんだろうけれど。

「僕の周りには、僕の能力を買って、可能性に賭けてくれる、そういう相手が何人もいる。好きにさせてもらっている代わりに、僕は求められてるだけの対価を支払わなくては」
「……分かってますよ。槙島さんにそういう才能があるってこと。だからそれを、もっと世間や社会のために使えばいいのにって、わたしは思うんです」

 跳ねるように顔を上げて、はようやく僕の目をじっと見つめてくれた。その子どものように愛くるしい表情に、甘えて許してもらいたいと思ってしまうのは、僕がのことをそれだけ特別に想っている証明になるのだろうか。
 いつまで経っても譲らない僕に根負けをしたのかもしれない。はいつの間にか牙が削がれたような顔をして、困ったようにため息をついた。ばつが悪そうに俯いて、槙島さん、と小さな声で僕を呼ぶ。

「……まっとうなお仕事してください。絶対に死なないような仕事」
「うん。気が向いたらね」
「それと、来月のお仕事案内はぜったいに捨てないように!」

 は僕の頬をきゅうとつねった。まだくちびるを尖らせているけれど、とりあえず今日のところは許してくれたみたいだ。良かった、このまま君に呆れられて無視をされ続けていたら、僕はとうとう気を違えていたかもしれない。君の笑顔を見られないまま一日を過ごすなんて、とてもじゃないけれど無理だよ。もう、無理なんだよ。
 すべてのスペアが存在しているこの社会で、換えが利かないのはきっと君の存在だけだから。僕はいつまでも、僕自身にしか出来ないことを探している。それを君のとなりに求めてしまうのは、今までの僕があまりに孤独だったからかな。

「ねえ、

 こっちを向いて、キスをしても良い? 君の照れた、可愛い顔を早く見たいな。
 ――――手に入れようと躍起になった瞬間に、影も形も無くなってしまうなんて言うのはありふれた話だ。がらくたの中に埋もれていた、幸せや喜びなんかを、僕はまだその形を知らないから掘り起こせない。この社会でそれをしようとする僕はあまりに愚かに見えるのだろう。だけど、そうでなくては、僕は僕ではいられない。そんな気がしているのだ。
 この身体を成すものは、すべて象徴かもしれない。さながら青い鳥のように。見つけてと、声を出して嘆くことはしない。ただそのサインを見逃せば全部を失ってしまう。そういう未必の恐怖に、僕はまだ怯えている。




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