なにを仕事にしているのかと聞かれたから、誰かの願いを叶える仕事をしているだけだ、と答えた。
 誰しも願いや欲望を持つ。この社会では受け入れられにくいそれの背中を押して、他人が叶えるさまを見届ける。それがどのように成功するのか、あるいは失敗するのかも含めて、予想と事実とをすりあわせて結果を作りあげる。僕がしていることは作業に近いかもしれない。けれどそれをルーティーンだと思ったことはないし、つまらないと思ったこともない。
 この世にあふれる事象のうち、うつくしいのは、誰かがそれをしたいと欲望を抱いたものだけだ。此処のからだに内在する魂という意思。僕はただその輝きだけが見たいのだ。

 君が聞いて得をしそうなことは一つもないよと、何度も言ったのに、それを決めるのは自分だからとは聞き分けの悪いことを言った。そういう強情なところは僕は嫌いじゃないけれど、いつか蓼のように足にからまってその身を亡ぼしそうだ。君は賢い子なのだから、決してそんな愚かな真似はしないで欲しい。なに、もしも君の色相が濁ったそのときは、僕がいくらでもかくまってあげる。どうにでもなるんだよ。君の知りたがっていることは、そういう世界のことなのだから。

「……怖くなってきた?」

 ソファに背をあずけて、抱きこむように折り曲げられたの膝のうえで手指をからませる。伸びた爪をたしかめるように弄ぶと、控えめに親指をつかまれた。は首を横に振る。怖がっているくせに、分かりやすく強がるのが可愛くって、なによりらしいと思った。
 自衛をひとつの美徳、あらゆる正義の唯一の堡塁だと言ったのはバイロンだ。自分の正義が覆されるのを、恐れないわけでもあるまいに。僕のしていることを察せないほど無知でもないくせに、どうしてそんなに知りたいと願うのだろう。

「槙島さんのことをもっと知りたいから」

 ……それが君の願いなら、叶えないわけにはいかないな。君のそういうまっすぐな目が曇ってしまうのがいやなだけだよ。色相が濁るかもしれないリスクに挑む、その決意は、この社会では蛮勇に近いのかもしれない。
 線引をするならここだと決めていた。の意思がそう望むのなら、僕はただ本当のことだけを伝えなくてはなるまい。望んだのは自身だ。論理的なくせに感情豊かな君だからこそ、受け入れられないような気がして、少し怖れている部分があったのも事実だけれど。

「最初にねたばらしをしておくと」
「僕は色相が濁らない。昔からそういう体質でね」

 はきょとんとした顔でまばたきをして、もう一度聞き返してくる。にわかには信じられない話かもしれない。このチェス盤のような狭い社会で、シビュラシステムの目を逃れている存在がいるなんて。けれど僕は何度も試した。なにをしても、なにがあっても、僕のPSYCHO-PASSが数値を乱したことはないのだ。

「罪を犯しても裁かれない。たとえば人を殺したとしても、僕は公安にマークすらされないんだ。こんなにきれいな色相を持った僕が、まさか人を殺すなんてはずがないからね」
「だから槙島さんは……犯罪を?」
「別にだから、というわけじゃないよ。ただこの社会で、正義とは何なのかが分からなくなったのは確かだ。僕は不自然なほど、平穏に生きてきたから。まるで僕という存在が、この社会からまるごと無視をされているみたいで……退屈だったというのが正しいかもしれない」

 始まりはそんな理由だったかな。君くらいのころに、なにをしても咎められることのない、つまらない自分という存在に気づいたのだ。社会に認められ求められているようで、爪弾きにされているのと変わりはない。誰も僕を見ていない。見ているのは僕の、先天的に透明な色相だけだから。
 罪を犯すことへためらいがない、裁かれることもない僕への違和感は、にとって計り知れないものだろう。拒むのもわけはない。それでも知りたいと望んだのは君だ。

「この社会で正しいものはなにか。人間の意思がどこに介在しているのか。……僕は自分がイレギュラーだと気づいてから、自分の尊厳について色々な手段を尽くして考えてきた」

 顔色を窺うように覗き見たの表情は、困惑はしていたけれど、あまり取り乱している風ではなかった。そのまっさらな胸のうちでは一体なにを考えているのだろう。冷たいの指先が僕のそれにそっと絡んでくる。またたいて僕を見上げる瞳は、決して逃げないと、意思を表明しているように輝いていた。そんなまぶしい視線を向けるほど、価値のある人間じゃないと、僕らは互いにちゃんと分かっているくせに。

「人がなにかを渇望するすがたを見たい」

 そうすれば僕はこの世界で孤独ではないような気がするのだ。
 惹き合うような瞳を傾けるは、僕のその言葉にひどく辛そうな顔をしてみせた。孤独というのはあまりにも露骨で、痛みのあるかたちに思われたのかもしれない。が慈しむべきは僕なんかではないのに。そのことは自分が重々分かっているつもりでいた。それでもの白く美しい心の中に、僕という存在が愛おしいものとして存在しているのが、やはり僕にとってはこれ以上なく喜ばしく光栄なできごとのように思えたのだ。
 恐れを抱きながらも、僕のことを知りたいと望んでくれたなら、僕が求める安らかな、感情の果てを教えてくれるような気がして。

「……だから僕はなんだって知っているよ。壊すことも、殺すことも、君の知らない世界のことも、知りつくしたってなにも怖くはないからね」

 憂うまぶたでうつむいて、はほんの少し唇を尖らせる。なにを言うべきか選びながら、きゅっと唇を引き結んで、詰まった息をはあと吐きだす。それはまるで怒られて言い訳を探している子どものように見えた。あるいは子どもをしかる母親の、慈しみと願いのこめられた、しぐさにも。

「それが、槙島さんの幸せならだれにも止められません。でも危ないことは、してほしくないです」

 わたしは、と早口で続けて顔を上げた。は少しだけ身を乗り出して、ばつが悪そうな顔をして僕を見上げる。



「……わたしは……槙島さんのことが、好きだから」



 自ら命を危険に晒すようなことは、しないでほしい、と。
 僕の今までの人生すべてをひっくるめても、の愛情でそんな風に守ってもらえるほどの価値のある、真っ当な生活をしてきたとはとても言えない。それでもいなくならないでほしい。僕のことが、好きだから。……掛け値ない素直な言葉が、すとんと胸に落ちていく。
 僕が目を見開いて黙ってしまったのを、は気恥ずかしそうにして目をそらして、またそっぽを向いてしまった。まったく君は、どうしてこんなにも僕の気を引くのが上手なんだろう。思わず両手を伸ばして、その小さな身体を腕に抱きしめた。顔を伏せるように僕の肩に頬を寄せて、抵抗もせずに腕の中にいてくれる。それが笑ってしまうほど嬉しくてたまらなかった。

「……聞いて得したこと、ありましたよ。これで正々堂々と、槙島さんにまっとうに働けって言えますから」
「うん……まあ、働くかどうかは別としてね」
「どうせたくさん就職の案内来てるんでしょう? ずるいなあ」
「君だってすぐ決まるよ。こんなに賢くって、素直で、可愛いんだから」

 あるいは僕の傍にいればいい。保障は出来ないけど、不自由はさせないよ。なんて冗談交じりに囁けば、の頬がたちまち照れて赤く染まっていくのを見て、僕は、じわりと滲むようなこの感情が幸福なのだとようやく自覚した。シビュラの手筈ではあったけれど確かな幸運だった。まさか僕が、そんなふうに思うようになるなんて、一体誰が想像しただろう。
 手放してはいけないと今になって思う。26年も生きてきて、はじめて誰かのことを愛おしいと思った。この手で幸せにしてやりたいと思った。それが僕の孤独をおぎなって、得られなかったもののすべてを満たしつくしてくれる。そんな夢のような予感がしたのだ。


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