珍しく髪をひとつに括っていた。細い顎のラインがむき出しになって、余計に顔が小さく見える。手元のデバイスに夢中になっている横顔を、くすぐるように撫でるとは驚いて、肩を跳ねさせながらこちらを見やった。少し耳に触れただけなのに、ずいぶんと敏感のようだ。もう頬が赤くなっている。

「髪を結んでいるの、珍しいね」
「……今日は実習授業だったんです。髪が邪魔だったから」
「そうなんだ。うん、似合ってるよ」

 宝石のような飾りのついた髪ゴムを指して、言えばは呆れたようにため息をつく。それが照れ隠しなのは知っている。は褒められると、分かりやすく困った顔をするからつい、からかってみたくなるのだ。
 はさっきよりも少し距離をあけて座りなおして、もう一度デバイスに目を落として作業の続きに取り掛かった。急ぎの課題があるのだとずっと切羽詰まった様子でいるから、少し気を紛らわせてあげようと思っただけなのに。そんなに慌てても、時間は止まらないし質は上がらない。いいかい、こんな言葉がある。時間があるときに薔薇を摘め。時は絶えず流れ、今日微笑む花も明日には枯れるのだ。つまり、今この瞬間にすべきことが、かならず――――。

「もう、槙島さんうるさい。提出が迫ってるんです。わたしは今、なによりも課題をやらなきゃならないんです」
「だって酷いとは思わない? 君が僕に聞きたいことがあると言っていたから、楽しみにしていたのに、ただ課題に関する質問だけだったなんてさ」
「だって詳しいかと思って。進化経済学ですよ」
「まあ興味がないわけではないけれど……。そういうことじゃなくって」

 はいつの間にか、僕の興味を煽るのが驚くほど上手くなっていた。僕の存在があやしいだのうさんくさいだの散々に言っていたくせに、授業で分からないところがあれば僕に講釈させたり、レポートに使えそうな本をアドバイスさせたり、使えるものはすべて使ってやろうという強かな一面を出すようになってきた。おまけに甘えるのがずいぶんと上手いのだ。小動物のように擦りよって来られると、どうにも無碍にするのがためらわれてしまう。ああ、ずるい。君がそんなに狡い女だったとは、これっぽっちも知らなかったよ。
 それでもは頭の回転が速くって、思考力も十分にある。僕の話をよく理解して、ときには分からないことを素直に問うたりする。興味の対象もよく似ている。僕たちはふたりきりで会話をしながら、いつしかそれがだいぶ心地良いことに気がついた。同じレベルの視点を持ち、互いに知識を共有することを楽しむことができる、そういう相手に出会えるのは本当に、稀なことだ。
 だから楽しい。胸が躍る。と話すたびに僕は、いつも言いしれぬ高揚を覚えるのだ。

「退屈は究極の罪悪だよ。人間が行ってきた非道徳的なおこないの大半は、退屈を恐れることによって生み出されてきた」
「……つまり、暇だから構えってことですか?」
「簡潔に言えばそうかな」

 結ばれたの髪を梳くように指先に絡ませると、は僕の手を跳ねのけて、レポートを書き終わるまで待っててください、と冷たく言い放った。なんてつれないんだろう。僕がどれだけ構えとちょっかいをかけても、かたくなにデバイスを離そうとしないのだから、ますます僕の退屈ばかりが募ってしまう。しかもラッセルの『幸福論』を持ち出したのを、心底あきれた、みたいな目をして見てくるんだから。

「冷たいね」

 もうあきらめて読書をしようか、と思った矢先にはこちらを見た。ようやく僕の機嫌を取るつもりになったのか、少し申し訳なさそうに首を傾けている。なんだい、今さら。君は今日、そのレポートのためだけにここへ来たんだろう? ほら、僕にかまわず続きを書きなよ。
 「槙島さん」と、甘やかな声で僕を呼んで、はデバイスをソファの上において、ゆっくりと身を寄せてくる。僕の膝に触れながら覗き込んできて、僕の表情を確かめては無邪気に笑って。ああ、仕草がいちいち、狡いよね。反応しないつもりでいたのに、つられて僕もその瞳を見て、笑ってしまったじゃないか。

「怒らないでください。あとで、好きなもの作ってあげますから」
「……本当かい?」
「もちろんです。レポートのお礼も兼ねて」

 じゃあ、考えておくよ。君の作ってくれる料理が、僕はいちばん好きなんだ。見つめ合ってふふと笑うと、はまたレポートの続きに戻るために僕から離れていく。その腕をつかんで、引き止める。まさかこんなことで僕の機嫌を取ったつもりでいたのかい? 君のおかげで僕がどれだけ期待を裏切られて、退屈な時間に身をやつしたと思っているんだ。せめてもう少しだけ、僕につき合ってよ。

「少し休憩したら?」

 むき出しの細い首をつかまえて、ぐっと引き寄せてくちびるを奪う。あいかわらずうぶなくちびるが怯えるように震えて、その表情が困惑から羞恥に移っていくのを近い距離でじいっと見つめてやった。そのぬくもりを感じながら、僕はずっとこの温度が欲しかったのだと気づかされた。だからずっと、こうして気を引くたくてたまらなかったのだ、と。
 ラッセルの言うように退屈に耐え忍ぶことは、幸福を味わうための不可欠なスパイスだ。もし君がそれを知りつくして計算しているのだとしたら、まったく僕は君に感服せざるを得ない。

 幸福は、たいていの男女にとって、神の贈り物であるよりも、むしろ、達成されるものでなければならない。そして、それを達成する際には、内的ならびに外的な努力が大きな役割を演じなくてはならない。かならずしも誰かの意思の介在している幸福というものが、君から与えられるものであるときに、僕はきっとこんなにも満足感を得ることが出来るのだろう。
 頬をめいっぱいに赤らめて離れてゆくを、見つめているだけで笑みがこぼれた。さっきよりも少し近づいた距離で、僕たちはまた互いの退屈をもてあます作業をするのだ。


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