少し仕事が立て込んで、やるべきことを片づけているうちに気づけば十数日が経っていた。
 忙しいのは一過性のものだからと伝えてあったけれど、一週間もしないうちにからメッセージが送られてきたときには、思わず頬を緩めたものだ。僕の安否を確認するだけのシンプルな文面。たったそれだけでも、その内情を推しはかるのは容易い。の落ち着かない様子が目に見えて浮かぶようでなんだか愛おしくなった。自分の存在を確かめてくれる誰かがいる、というのはくすぐったくて、野暮ったくて、どうしようもなく嬉しいことだ。たとえ相手が誰であっても、僕という存在が望まれているような気がして嬉しくなる。
 久しぶりにこういうのも悪くはない、と思う。ビジネスの利害関係があるわけでもなく、特別な理由がないのに、いっしょにいたいからいっしょにいる。そんな恋愛ごっこに身をやつせるほど若くはないと思っていたけれど、案外とそういうわけでもないようだ。人間という、有限の生を受けたわれわれは、どうせなにをしなくても枯れてしまうのだから、限りなく美しく咲くべきだ。なにを餌にしても、なにをうるおいの源にしても。
 そうすれば飽きない日々が来る。




「…………ちょっと、なんて顔してるんですか」

 部屋に入って来るなり、僕を見下ろしてそんな冷たい言葉を吐いた。ソファに転がっていた僕をあきれた、みたいな顔をして見ながら、顔色が悪いと言って頬をつついてくる。昨日遅くに帰ってきてから、なんにも食べてないんだ。疲れてなんにもする気になれなくて。
 ソファの横にしゃがんで、は僕をじっと見つめている。二週間ぶりに会ったけれど、少しも変わった様子はなくて安心した。僕が他人にこんなふうに弱っているのを見せるのはまれなのに、はそんなことも気づかないのだろうと思えば、少しおもしろい。
 他人に役割を求めるのは舞台の上だけじゃないのだ。じゃあ僕がに求めているものは、なんだろう。

「なにか作りますか? 食べたいものは?」
「……君、料理なんかできるの?」
「少しくらいならできます。たぶん」
「ほんと? 心配だなあ」
「うるさいです、もう! 食べたいものないんですか?」
「……あったかいものが食べたい」

 冷蔵庫のものはなんでも使っていいから、と言えばはうなづいて、僕の額をそっと撫でてキッチンのほうへ向かった。の手はいつも冷たいけれど、その指先が触れた場所がほんのりと熱くなったような気がする。どうしてだろう。気怠くて動けないでいるのを見られても、特に嫌悪感はなかった。日常を楽しむほうの、幸福な生活に戻ってきた実感のようなものを得られるからだろうか。僕にとってのはそういう存在かもしれない。楽しむほうの生活。僕が僕としてどこまで行けるのかを試す、そういうベクトルであることには違いないのだが。


 …………横になってぼうっとしているうちに、少しうとうとしていたみたいだ。料理をする音が聞こえて、そのうちに良い匂いが漂ってくる。なにを作っているんだろう。身体を起こしてキッチンのほうを見やると、僕に背を向けていっしょうけんめい料理をしているのうしろ姿が目に入ってきた。
 けなげだなあ、君は。少し驚いた。わがままに呼びだした僕のために、慣れない料理なんかをしてくれてさ。君にとって僕が、それほどの価値ある相手だと思われていたのなら光栄だよ。君は他人との距離をなにではかるのだろう? 献身的に与える愛情こそが、君が欲する僕との距離なのかな。

「良い匂いがする」

 後ろから近づいて、僕の気配に気がついたを抱きしめるようにして鍋を覗きこむ。ぐつぐつと音を立てる鍋からはトマトとコンソメの香りがしている。ミネストローネかな。意外とちゃんとしてる、おいしそうだ。作り方、知ってたの?と聞けば、「調べながらやってるんです」とぶっきらぼうに返事が返ってきた。照れ隠しにしたって、素直で可愛い。本当にいじらしい子だ。

「冷蔵庫にトマトがたくさんあったから」
「いつもグソンが買い置きしてくれるんだ。僕の好物だからね」
「グソン、さんって、この前言ってた仕事のパートナー?」
「そう。できる男だよ、仕事も家事も、なんでも」

 に抱きついたまま、鍋をかき混ぜるのをじいっと見つめていると、ぴたりとそれが止まった。訝しむような目で振り返って、じとり僕を見上げる。

「前から思ってましたけど、もしかしてできてるんですか?」
「…………、グソンと、僕が?」 

 驚いたな、そんなことを言われるなんて思ってなかった。君も面白いことを思いつくね。まあでも、そう疑ってしまうのも仕方がないかな。なんせ君が来るまでは、家事のほとんどをしてもらっていたし、君からすると訳のわからない仕事のパートナー、なんて言われて怪しむのも無理はないのかもしれない。
 僕がくすくす笑っていると、はますますしかめっ面をして、「本当はどうなんです?」と追及してくる。そういうことをおくびなく言えるところは、間違いなく君の美徳だ。うん、すごく良いと思う。僕はどうやっても笑いをこらえきれなくって、不穏そうなその頬にキスをしてぎゅうと抱き寄せた。

「生憎そういう趣味はないよ」

 だって君みたいに可愛い女の子のほうが、抱き心地がいいだろう?
 こんなに良い香りがするし、どこもかしこもやわらかくって気持ちいい。男のそれとは全然違ってね。強く抱きしめる僕を引き離そうと、の手が僕の腕をつかんで、じたばたと暴れる。この細い身体も、簡単に征服できてしまいそうだ。ずっと思っていたけれど、君は僕に敵わないのをちゃんと知っているくせに、負けを認められずに抗うような、我の強さがあるよね。弱くてたまらない力で、めいっぱいにあがこうとする。そういうのすっごくそそられるよ。
 白い首筋に噛みつこうとして、ついに手の甲をバチンと叩かれてしまった。痛い。一瞬怯んだそのすきに、は「もう!」と憤慨しながら僕を突き飛ばす。

「あぶないから、あっちで待っててください!」

 ……これ以上は機嫌を損ねてしまいかねない。おとなしく退散することにしたけれど、ソファで一人待っているのもなかなか退屈なんだよ。君がいて、もうすぐ美味しい食事ができるのに、間に合わせで読書なんかをする気分にもなれないし。

「ねえ、そのバケット僕が切ろうか」
「いえ、間に合ってます」

 …………つまらないなあ。おなかすいた。でも、僕のためにキッチンに立ってくれるを見つめて、待っているっていうのも、なかなか新鮮で楽しいよ。僕は君にこういうのを求めているのかな。退屈な日に君を混ぜ合わせて、やっと賑やかな良き日になる。こういう、なんでもない日常。


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