授業のおわりを見計らったかのようにメッセージが届いた。
 送り主は槙島さん。開けば『あそびにおいで』と記されているだけの、シンプルな文面が目に入る。槙島さんが唐突なのはいつも通り。よく分からないのも、たった7文字のメッセージに、驚くくらいドキドキしてしまうのも、いつも通りだ。
 あの日、槙島さんに告白をされてお付き合いをすることになったけれど、いわゆる恋人になったという実感はあまりない。何度かご飯を食べに行ったり、家に遊びに行ったりはしているけれど、槙島さんは相変わらずのマイペースで掴みどころがまったくないのだ。そのくせいちいち格好いいのを見せつけられるのだから、たちが悪い。このひとの正体はなんなのだろう、本当はどういうひとなんだろうと、深追いをしたくなってしまう。
 すっかり罠にはまってしまった、ということかもしれない。よく分からないから興味を惹かれてしまうなんていうのは、ただ流れに身を任せている自分を正当化しているだけで……。まあ最終的に自分にマイナスにならなければいいのだ。シビュラが引き合わせた相手に間違いはないのだし、色々と規格外ではあるけれど、相性が良いことに違いはないのだろうから。
 もっと楽観的に考えよう。素直に楽しんでみても、いいのかな、なんて最近は、そういうことを考える。





 おじゃまします、と玄関を開けても何の声もしなかった。いつもなら出迎えてくれるのに、あやしみながら部屋へ入ってみても、人の気配も足音もなんにもしない。遊びにおいで、とか言っておいて留守……なんてことありえる? いや、槙島さんに限ってないとは言い切れないか……。きょろきょろと辺りを見回して、ふと洗面所のほうからかすかにシャワー音がしているのに気がついた。
 え、お風呂入ってるの? なんで。
 恐る恐る、お風呂場のほうへと行ってみると案の上、誰かが入浴しているような感じがあった。あたたかい上気と石鹸のいい匂い。ドアの擦りガラスを視界に入れないようにして、コンコンとノックをしてみる。あの……槙島さん?

「――――あれ、? 早かったね。もう来てたんだ」
「は、はい。あ、じゃあわたしあっちで……」
「ねえ、ちょっとこっちにおいでよ。君に見せたいものがあるんだ」

 は? なにいってんだろう……? セクハラ?
 わたしが黙ると槙島さんは取り繕うように、「変な意味じゃなくて」と付け加えた。そんなこと言われると余計にあやしいけれど、槙島さんに限ってこんな下らないセクハラをするはずもないし……本当に他意はないのだろう。多分。

「いい香りの入浴剤。面白い色をしているんだよ」

 あんまりいつも通りのテンションで言うから、ついにわたしのほうが折れることになった。さっきからずっと甘い香りがしているし、面白い色と言われるとなんとなく気にもなる。それに槙島さんが使っているくらいだから、きっと高級なものなんだろうと興味が湧いてしまった。我ながら現金なものだ。
 控えめにドアを開けると湯気のむこうの白いバスタブに人影が見えてくる。槙島さんはわたしの姿を見つけるなり、「おいで」と笑顔で手招きをした。お風呂に入っているから当たり前だけど、近づけば近づくほどその身体が目に入って、なんだか気恥ずかしくなってくる。ああ、やっぱり止めるべきだったのかも……。なんだってこのひとは、お風呂にひとを招いておいて、こんなにも普通でいられるんだろう。やっぱり慣れてるんだろうか。怖いなあ……。

「見て、星空の入浴剤。まるで夜空に浸かっているみたいだろう?」

 ゆっくりと覗きこんだ白いバスタブの中には、紺色の湯いっぱいに金の星が散らばっていた。本当に夜空のように輝いている。思わず目を奪われて、息を飲む。きれい。なにこれ、すごい! 予想していたのよりもずっと美しい光景に、うまく感想も言えずにただすごい、と呟く。お風呂場はホロが使えないからきっと天然の素材で出来たものに違いない。なにで出来ているんだろう? きらきら輝く、星のような、宝石のような……。
 はっとして槙島さんを見やると、嬉しそうにくすくすと笑いながらわたしを見ていた。ああ、またずっと見られていた。距離が近いことや、槙島さんが裸なことを思いだして少しだけ距離を取る。濡れた手で掻きあげられた槙島さんの毛先から、ゆっくりと水が滴っている。上気の中で浮かび上がるような白い肌。骨ばった鎖骨、筋肉質な腕……ああ、だめだ、色相が濁りそう。いや、ちがう、どちらかと言うと、心臓が止まりそうだ。

「ど、どうしたんですか? これ!」
「最近仕事をした相手に貰ったんだ。限定品らしいよ」
「限定品って! もしかして、すっごく高いやつじゃ」
「さあね、どうだろう。君も試してみる?」

 僕といっしょに。両手で星空をすくってちゃぷん、と湯船を揺らしながら、槙島さんは蠱惑的な微笑みを向けてきた。そんな顔をするのはずるい。使ってみたいに決まってるのに! きっとわたしの反応を見てからかっているのだ。思わず睨むように見つめると、バスタブの縁に一冊の本が置かれているのに気がついた。
 よく見るとずぶ濡れで、側面が波打っている。ああ……もしかして。わたしの視線を察した槙島さんは、つまらなさそうな顔をしてバスタブに背をもたれさせる。手のひらからぱしゃりと、星を浮かべた夜空がこぼれていった。

「……読書しながら半身浴をするつもりだったんだよ。でもやめた」
「落としたんですね」
「美しいものに見惚れていると、手元が疎かになるみたいだ」

 ね、と首を傾けた槙島さんはおもむろに腕を伸ばして、わたしの後頭部を引き寄せた。バスタブの水が跳ねる。濡れた手のひらが首に触れて、ぞくりと鳥肌が立ったのと同時に、くちびるを食むように重ねられた。
 驚きすぎてとっさになんの反応もできず、あわてて体勢を支えているその隙に、こじ開けるように伸びてきた舌先が、まったく油断していたわたしのそれをざらりと舐め上げる。「ん、」鼻に抜けるような声が漏れて、まつげの触れそうな距離でじっと見つめられて、かあっと頬に血が上っていくのが分かった。槙島さんの腕をつかんで、離そうとするけれどびくともしない。柔らかいくちびるが角度を変えて、執拗にわたしの呼吸を奪っていく。ああ、苦しい、熱い。
 口の中をおかすように動く舌が、ためらうような呼吸が、吐息に混じる声が、触れ合っているところ全部が熱くて溶けそうだ。ようやくくちびるを離れていったかと思えば、ついに腰が抜けてしまった。こんなに息苦しいのはお風呂場のせい。顔が熱いのも湯気のせい。……ほんとは全部、槙島さんのせい。はあ、と深く息を吸いこめば、めいっぱいに甘い香りがした。

「やっぱり君は隙だらけだ」

 口元を押さえてうずくまるわたしを見下ろして、槙島さんは湯船を揺らしながら楽しそうに笑っている。文句を言おうか迷ったけれど、なにを言えばいいのか分からなくってただくちびるを噛みしめた。……悔しい。翻弄されているだけの自分が、ちっぽけで恥ずかしくって。

「本当に免疫がないんだね」
「う、うるさいです……」
「こっちを向いて、
「いやです! わ、わたしあっちに行ってますから」

 甘いささやきを遮るようにお風呂場を飛び出した。靴下がびしょびしょだし、スカートの裾も濡れてしまった。膝をついて座ったせいだ。赤く火照った頬をおさえながら、リビングルームのソファに座って靴下を脱ぎ捨てる。濡れた脚が少し冷たい、甘いシャボンの匂いが残っている。目を閉じても、耳を閉じても、槙島さんに触れられた感触を思いだして、無性に恥ずかしくってたまらなくなる。
 もう、どうしようもないのだ。からかわれてるって分かっているのに。


 少し経ってお風呂を上がってきた槙島さんは、白いシャツに濡れた髪を垂らしながら、わたしに入浴剤をいくつも渡してくれた。本当はたくさんもらったんだって。やっぱりからかわれていたのだ。機嫌を直してと、間近い距離であやすように頭を撫でるから、心臓の音を聞かれてしまわないようにあわてて離れて座った。

 全部、持っていかれそうだ。訝しんでいた迷いも、揺れるような感情も、全部をひっくるめて。怖いけれどそれが幸福のような気がしてしまう。ちらと見上げると、お風呂上がりで頬を桃色に赤らめた、あたたかい身体にぎゅうと抱き寄せられて、甘くてもどかしい香りに全部を奪われてしまいそうになるのだ。
 触れられたところから、熱くなる。まるで恋みたいに。


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