あんなに華奢に見えるのに実は筋肉質で、力が強いのだということに気づいてから、槙島さんに触れられるのが無性に恥ずかしくなった。全部、あのときからだ。槙島さんにキスをされたあの日、とっさに押し返した瞬間から、近くでその目を見るのも、名前を呼ばれるのにもいちいち意識してしまってたまらなくなった。
 不思議な魅力のある人だと思っていたけれどそれは、もう言葉では言い表せられない。変な人。ほんとうに変な人。面白そうに笑いながら、興味深そうな目でわたしを覗き込んでくる。

「まさかキスもしたことがなかったなんて思わなかった」

 恋人がいたことはあるんだろう?と、からかうでもなく、槙島さんはただ純粋に問いかけてくる。恋人がいたことはある。それでも、手をつないで歩いたことがあるくらいだ。それも高校生のときだから、もちろんキスなんかしたことはない。
 正直に言えば真面目だね、とばかにして笑うのだと思ったから、黙っていた。わたしの態度ですべてばれてしまっているのだろうけれど、槙島さんの余裕な態度を見ていると、なんだか急に自分のことが幼く感じられて恥ずかしくなったのだ。シビュラ世代のわたしたちが性的経験から遠ざかっているのは世間がそういう風に取り締まっているからで、ごく普通のことなのに、ひどく世間知らずだと言われているような感じがして。

「怒ったかな?」
「お、怒ってないです……!」
「ごめん。君の反応がかわいくてつい、いじめたくなっちゃった」

 うつむいていたわたしを、槙島さんはいきなり抱き寄せた。驚いてる暇もなく、背中に腕が回されて、ぐっと身体が密着する。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえてしまうのではないかと怖くなった。ああ、こんなの。

「こういうのは、色相が濁るって怒るかい?」

 耳元にかかる吐息がくすぐったい。ぞわぞわと鳥肌みたいなものが背を走る。槙島さんの声、身体、ぜんぶをじかに感じる。

「……色相、濁ります……、こんなの、」
「僕に触れられることが苦痛ならば、そうかもしれないね。嫌なら突き飛ばしてくれて構わないよ」

 もっとも君に、それができたなら。
 槙島さんのくちびるがそっと耳たぶに触れて、思わず身をすくめる。ああ、伝わってくる体温や鼓動のような、生きているあかしを分け合うような行為は、なんだか丸裸にされて危険に晒されているような、そういう不安がある。槙島さんが抱きしめているのは、わたし。そのくちびるが触れているのは、わたしのからだ。その事実だけがわたしたちの距離感を測っている。
 強く押し返そうと、その胸に触れてみたけれど、まったく力が入らなくってだめだった。かえって頼りなく服を掴んで、震える指が、まるですがっているみたいで。頬が熱い。耳も、身体の全部が熱い。色相が濁っているような、鬱々とした気分は少しもしないのに。

「僕のことを生活力がないと叱るくせに、君はこの世のことを少しも知らないんだな」
「……、だって」
「敬虔なシビュラの申し子だね。感服するよ」

 やっぱりばかにするように、笑った。うつむいていた視線を少し持ち上げると、すぐに金色の瞳に射抜かれて、心臓が止まりそうになる。きっと、ずっと見ていた、わたしのことを。息を呑む。こんな感情、感覚は、今までに経験したことがない。
 まるで恋をしているときのように、身体中が熱に浮かされたように落ち着かない。ああ、いけない。このままじゃ、いけない。泣きそうだ。わたしがくちびるを噛んだのと同じに、槙島さんは少しだけ困った顔をして、小さく耳打ちをした。

「まいったな。……君への興味がやまない」

 親密に囁く声に身震いする。もう一度目が合って、熱のこもったその視線からもう、目が離せなくなった。ゆっくりと惹かれあうように重なったくちびるは、熱い鼓動や、呼吸を分け合うように、あまりに無防備でたまらなく恥ずかしくなる。
 わたしの名前を呼ぶ声。溺れるように目を閉じてはいけない。そう思っていたのに、耳元で願いのように囁かれる誘惑にわたしは、たまらずぐっと目を瞑っていた。なんだかこわい。体の芯が燃えるようなこの感情こそが、まちがいなく恋なのだと、槙島さんはそうやってわたしを喰らいつくそうとするから。


「…………僕の恋人になって。


 君が正しいと思うものを、君の手でつみとって。
 すこしも均衡のとれていない卑しく醜いものを、愛は美しく厳かなものに変えることができる。愛は目で見るのでなく、心で見る。だから、翼を持ったキューピッドは盲目に描かれている。 ――――夏の夜の夢のこと。


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