部屋の真ん中に位置するテーブルに、隣り合って座って、肩も腕も触れてしまう距離にがいる。
 テスト前にうちで勉強会をしたときは俺の部屋まで案内することはなかったから、部屋に入るのに少し緊張しているのがカワイイ、なんて思っていたのに、ゆっくりしようと一息つく前には「課題やろう!」などとおもむろに仁王立ちをしていつの間にかノートを開いていた。もっとダラダラと、っていうかもっとイチャイチャできるかと思っていたのに、こんなの計算外だ。普通、彼女が彼氏の部屋に来たら色々とやることがあるってもんだろ。ギューとかチューとか。俺があからさまに嫌な顔をしても、は平気な顔をしてテーブルの上に勉強道具を広げて俺を待っているだけだった(まあ、「早く」と可愛く急かされるのは、そんなに悪い気はしない)。
 しかし、まっさらな課題の一ページを開き、俺が閃いた解答を書き出すたびには「それ違う」と厳しく言い放つし、消しゴムをかけるたびに「消しすぎ」と慌てて止めてくるし、本当に勉強をさせる気があるのかは疑問が残る。俺のかわりに書いてとノートを渡せば、は呆れたように唇を尖らせたが、結局は仕方がないとばかりに頷いて回答欄を埋めてくれた。の字は相変わらずきれいだ。名は体を表すというやつか。

「このwhat、は疑問詞じゃなくって、関係代名詞だから……」
「カンケイダイメイシ」
「うん……えっと、つまりこの後ろにあるものが、whatにかかってくるんだよね」

 は印をつけたり線を引いたりしながら、俺によく分かるように言葉を砕いて教えてくれる。少しは真面目に聞こうと身を乗り出せば、はふと髪を耳にかけて、「分かった?」と言いながら上目遣いで俺を見上げた。思わずドキッとして、つい心臓を押さえる。なんか苦しい。目が離せない。っていうか、なんだかんだで課題に夢中になって忘れてたけど、今は俺の部屋で、二人っきりなのだ。まさに絶好のチャンスというやつだ。
 こんな貴重なシチュエーションを30分も課題に費やしているなんて勿体ない。いや、断じて、ありえない! 俺は返事をするのも忘れてとの距離を縮める。考えるより先に、身体が勝手にそう動いていたのだ。だけどはなぜか怪訝そうな顔をして、じりじりと身体を逸らすようにして俺から離れて行こうとした。おい、なんでだよ。俺は少しムッとしながらの肩を抱き、無理やりにぐっと近寄せる。

「……なに、この手?」
が逃げるからだろ」
「だって……なんかすごい見てくるから」

 見つめずにいられるか、と言おうとして俺はふと口を噤む。の肩が小さいとか、身体が細いとか折れそうとか、温かいとか良い匂いがするとか、そういう溢れそうな感情を全部ひっくるめると、やっぱり答えは一つしか存在しないのだ。俺がじいっと見つめるとは眉根を下げて、困ったような顔をしながらも見つめ返してくれる。その瞳はうっすらと潤んでいて、俺たちの間に流れるのはいつになく良い雰囲気だ。ああ、よし、やっとここまでたどり着いた。このチャンスを逃すわけにはいかない。

……」

 俺が何を言いたいか、何をしようとしているのか、は分かっているのだと思う。ドキドキと聞こえてくるのが俺の心音なのか、触れたところから感じるの鼓動なのか、もうよく分からない。額が触れるくらいの距離まで近づいて、その瞳に見つめられるたびに、理性がプツンと切れてしまいそうになった。
 可愛い。、好きだ。課題なんかもうどうでもいいから、俺の方を見ろ。……燃えるような思いが胸をちりちりと焦がしてゆく。ずっとこうしたいと思ってた。一人占めしたい、キスしたい、に触れていたい。ああ、あと数センチで唇が重なる。細くて小さなの頬に手のひらを添えると、待ちわびた瞬間に焦る呼吸が震えた。やっと、やっとだ。息を飲んで唇を押しつける。
 ――――すると、およそ唇とは似ても似つかない感触が俺を押し返した。

「……んむ?」
「ま、待って!」

 の手のひらが俺との距離を埋めている。はとっさに「ごめん」と弱弱しく呟いて、俺からぱっと視線を外した。耳や頬が、それはそれは真っ赤になっていて、おそらく嫌だとか、そういうことではないと言うのはなんとなく分かる。俺に背を向けようとするの、両方の手首を捕まえて俺の方に向けると、真ん丸に見開かれた両目がぱちぱちと瞬きをして、泣き出してしまいそうに歪んだ。笑顔だけでなく、こう慌てている、泣きそうな顔まで可愛いとは、ずるいやつだ。一体どういうことだ。

「なんで逃げんだよ」
「その……こ、心の準備が……」

 は恥ずかしそうに言い淀んでうつむく。ああ、やばい、今のはやばい。めっちゃ可愛い。ムラッときてついつい我慢がきかなくなる。いや、きっと我慢をしろと言うほうが無理な要望なのだ。俺はの手首を引き寄せて、もう一度、睫毛が触れそうな距離まで近づいて覗き込んだ。

「き、喜一、待って……」
「やだ。待たない」

 もう限界だ。
 がぎゅっと目を瞑ったのを見計らって、ついにその小さな唇を奪ってやった。やわらかく温い感触、触れているんだかいないんだか、よく分からなくって、俺はの表情を確かめてから、もう一度唇を重ね合わせる。は頬を真っ赤にして、小さな唇をきゅっと引き結んで固まっている、ああ、俺は今と、キスをしてるのだ。そう実感すればするほどに、高揚と興奮で頭がおかしくなりそうだった。
 どれくらいそうしていたのか、分からないけれど、俺的にはほんの一瞬のことのように思えた。震えるの指先が俺をそっと押し返す。長い、苦しいと言って俺の胸に顔を隠すように埋めた、の身体を抱きしめればつい「好きだ」と、思っていたことが言葉になって溢れてしまった。はただ頷いて、俺の背に腕を回してぎゅっと抱きしめ返してくれる。

「……わたしも、好き」

 ちゃんと息ができているのか、自分がここにいるのか、ふわふわとした感覚に飲み込まれて分からなくなるような感じだった。これが夢心地ってやつだろうか。心の溝を幸福感が埋め尽くして、ドキドキとうるさい心臓の音で周りの音がかき消えていく。聞けばはこれがファーストキスだったらしい。俺にとってそれ以上、嬉しいことはないと思った。の初めてのキスの相手が俺。ああ、誇らしい。実に最高の気分だ。





 ……それからというもの甘いムードはすっかり消え去り、は帰るその瞬間まで俺の課題に熱心に取り掛かって、その3分の2を終わらせるまで抱きしめることさえ許してはくれなかった。なるほど、これが飴と鞭というやつか。あるいはツンデレか、まあどっちでもいい。暗くなる前に車で家まで送ってやりながら、帰り際にもう一回くらいキスできるだろうかと画策していた魂胆はにバレバレで、近づいた俺の顔を思いっきり押し返しながら「こんなところでは無理」と手厳しい一言を残して車を降りて行ってしまった。

「残りの課題、ちゃんと自分でやってね」
「おう」
「じゃあ、部活頑張って」

 なんて、まるで残りの夏休み、もう会わないみたいな口ぶりだ。俺は車のドアから身を乗り出して、の腕を引き寄せる。驚いた顔をしたが、目が合うなり少し気恥ずかしそうに視線を逸らすのが、可愛くてやっぱりモヤモヤした。分かった、これは欲求不満という感覚だ。が全然足りてない。

「来週の午後休、ちょうど夏祭りの日だ」
「そうなんだ」
「うん。一緒に行こう」

 は小さく頷く。嬉しそうに目を細めて笑うのが、俺は嬉しくって胸が躍った。そんな風に可愛い表情を見せられたらこれ以上なんにも言えなくなってしまうだろうが。ちくしょう。名残惜しいのをひた隠して、手を離せばは車から離れて、またねと手を振った。我儘を言えばきっと、は仕方がないと言って叶えてくれるのだと思う。けれど、呆れられて嫌われてしまっては敵わないと、そんな風に考えて自分を抑えている俺がいるのだ。
 色んな物が次々に形を変えてゆく。カレンダーの上では八月も終盤、夏休みだってそろそろ終わる。上手く行っていること、上手く行っていないこと、変わったこと、変わってないこと、変わるべきこと。ついため息が零れてゆく。だけど今日、俺が幸せだったことに変わりはない。次にと会うときはきっと、今よりもっと幸せを感じるのだろう。そう思えばワクワクする。待ち遠しくって、無性に、切なくなる。運転席の爺に車を出すように言って、俺は背もたれに身体を預けて目を瞑った。


「……爺。俺は今、世界征服できるかもしれない」
「それはそれは。すごいですねえ」


 勢い余って座席のシートに倒れこんだら、反対側のドアに頭をぶつけた。いてえ。だけどそんなこともどうでもいいと感じるくらいに、心も身体も充実感でいっぱいだった。ああ、まじで幸せかも。思い出したら興奮してきた。あー。やばい!





12 FIRSTKISS 161022







inserted by FC2 system