教室に戻ればの姿はこつぜんといなくなっていて、近くにいたやつに聞けば「今帰ったよ」なんて抜かすから、俺はそいつを押しのけて走って玄関まで追いかければ、ちょうどローファーを取り出しているの姿を見つけた。
 、待て! まだ帰るんじゃねえ! ――慌てて叫んで引きとめると、俺の方へ振り返ったはなぜか泣いているような悲しげな顔をして、瞳を潤ませていた。泣いてるのか、と思えばギクリとしてしまうのが男心ってやつで、だけど俺の身体は考えるより先に動き出して、気がつけばを抱き寄せて、腕の中にぎゅうっと閉じ込めていた。
 いきなり何やってんだろう俺。また気持ち悪いって怒られるかも。様子を伺おうとしたけれど、はおとなしく俺の腕の中に納まって、それどころか顔を隠すように抱きしめ返してきて、俺は驚きのあまり変な声が出そうになる。やばい、カワイイ。強く抱きしめ過ぎたら簡単に壊れてしまうかもって、分かっているけど力が抑えられない。

「喜一……、くるしい」
「ああ、わり、っていうかなんで泣いてんだよ」

 は泣いてないよと首を振る。嘘つけ、そんなバレバレの嘘があるか。しかしまあこんな風に甘えられて悪い気はしないし、それどころか嬉しすぎて色々とヤバいし、無理に聞かずにいてやってもいいが、もし誰かを泣かせたヤツがいるのだとしたら、俺はそいつに報復するまで納得できそうにないのだ。

「何かあったのか? チビっていじめられたか?」
「いじめられてない。喜一じゃないんだから」

 うつむいたの顔をよく見るために、しゃがみこんでその手を捕まえる。こうすれば座っているときみたいに距離が近くなる。の頬や鼻の頭はうっすら赤くなっていて、じっと見つめていると「やだ」と悪態をついて、そっぽを向いてしまった。どうせ俺のマークからは逃げられないと分かっているくせに往生際が悪い。ぐっと両腕を引っ張ればの身体はあっけなくぐらついて、俺と同じようにしゃがむ体勢になった。
 は小さい。吹けば飛びそうだし、叩けば壊れそうだし、離れると見失ってしまいそうになる。まっすぐ見下ろせばは観念したのか、ふっと笑って、諦めたようにため息をこぼした。目の前にがいて、俺のことを見ている、今この瞬間には、もう他の誰の存在も必要じゃないと思った。
 いじめられたんなら、俺がいじめ返してやる。だからもう他の奴のことは考えるな。

「お礼するって俺、言ったよな」
「……うん、」
「じゃあ、今からする。のことは俺が守ってやる」

 これからずっとだ。今からずっと、いじめられたら俺がやり返してやるから。
 泣きやんだはずのの両目にはまた涙が浮かんで、まばたきをするとはらりと零れていった。他の誰とも違う特別で、よく分からないけど俺とはまったく別の生き物みたいな、神々しささえ感じさせるの、涙はすごくきれいだった。もちろん泣いて欲しくなんかない。だけど、もし流れてしまった涙ならば、それを見て慰めてやるのは俺だけであればいいと思ったのだ。


が好きだ」


 だから俺の彼女になれ。彼女に、なってください。彼女にしてやる。
 想いのままを口にしながら、色々と言い方を考えてみるけれど、どれもしっくりこない。なぜならが俺の彼女になる、それ以外のビジョンが俺の頭には無かったからだ。当然のことなのだ。俺がそうしたいと思っているのだから、そうなるに決まっている。
 特別なという存在を、どうしても俺のものにしたい。他の誰にも譲れない。がこんなに可愛くって、胸がデカくて、頭がよくって優しくて、実は怒りっぽくて、そしてこんな風に泣き虫なことを、知っているのは俺だけがいい。

「返事は?」

 は涙を拭いながら、くすくすと笑いだす。なんだ、どういうことだ。何を言いだすのかと俺が耳を澄ませていると、は頬を真っ赤に染めて、「うん」とうなずいた。って、いうことは。

「わたしも喜一が好き」

 蚊の鳴くような細い声で、だけどしっかり俺の瞳を見てはそう告げた。ああ、こうなるべきだと、こうなるに違いないと心のどこかで確信していたとは言え、面と向かって言葉にされるとたまらなく嬉しいし、感動するし、なんかもう言葉が出てこなくって、俺はただ頷いて、とにかく抱きしめたくなって、立膝みたいな変な体勢のままの身体を思いっきり抱きしめた。
 やった。嬉しい。まじで、めっちゃ、幸せ。近づけば近づくほど胸がドキドキするし、良い匂いがして、心臓が口から出そうになる。訳の分からない笑いが零れてしまう。ようやくはあっと息を吐きだした瞬間に、は「人が来るから」と至極冷静な理由で俺から離れて行ってしまった。

「なんか、泣いてるのばからしくなっちゃった」
「んだよ。誰に何されたのか正直に言えよ」
「なんにもされてない。しいて言うなら、喜一のせいだけど」

 はあ? 何を言ってるんだ、俺がを泣かせるわけがあるか。まあ、席替えしたばっかりの頃は色々と怒らせて、泣かせそうになったことが何回かあったけど。はため息をついて、もう平気みたいな空気を醸し出しているが、俺は何にもよくない。まだ何も解決していない。なんだよ、はっきり言え、との肩をガクガク揺らせば、ほっそい骨が折れてしまいそうで少し怖くもなったが、の身体は意外と簡単に壊れたりしないということを、俺はもう知っているのだ。
 答えを渋るの身体をがばっと抱きあげる。腕に抱えるようにして持ち上げれば、とつぜん視界が高く広がったは悲鳴を上げて、俺の首にとっさに飛びついてきた。

「ちゃんと答えるまでおろさねーぞ」
「ひ、ひどい! 高い! 怖っ!」
「俺のせいってなんだよ?」

 じっと見つめているうちに、は観念したように唇を尖らせる。いつもちゃんとしてるくせに、こんな風に子どもっぽい顔をしたり、甘えたりするのかと思えば、なんか気分が高まるというか、これを知っているのは俺だけなんだと思えばたまらない優越感が湧き上がってくる。だったら俺のせいでも別にいいかな。それでも、どういうわけか、俺はわがままを言ってを困らせていたくって仕方がないのだ。

「……もういいの。喜一、ちゃんとお礼くれたから」
「あん?」
「だけどわたし、まだご褒美あげてない」

 そう言うなりは俺の頬をぐいっと引き寄せて、反対側の頬にその唇を押しつけた。やわらかい、温かい感触が頬に触れて、思考停止する。
 、キスした、今、俺、キスされた? 頬だけど。思わず固まって、茫然としていると、は真っ赤になった顔を隠すように俺の首に抱きついて顔をうずめた。え、もう、まじで、何から言葉にしたらいいのか分からない、色んな感情が体の中をぐるぐるしている。震える。なんかよく分からない、喜びや興奮みたいなものが、心臓をドクドクと動かしている。

「……可愛すぎだろ!!」
「う、うるさい!」
「可愛いーーー!!!」

 思いのままに雄たけびを上げると頭をばしばし叩かれた。周りに人がいるからとは顔を隠すように、小さい身体をさらにちぢこまらせて俺に抱きついているが、正直そんな風にされると逆効果だし、人がいるからって言葉にせずにはいられないのだ。人の目など気にしていたら成功は掴めない。バイ俺。

「もっかい!」
「や……やだ」
「なんで! やだじゃねえ! もっかいしろ!」

 じゃないと降ろさない、と駄々を捏ねても、は唇をとがらせていつもの拗ねた顔をして、「いいから早く部活に行って」と諭すような口調で俺をたしなめる。ああ、なんか、こういうのも悪くない。俺はと出会ってからよく分からないセイヘキに目覚めてしまったのかもしれない、だけどまあそれでもいいだろう。
 しぶしぶを降ろしてやって、ずいぶん下の方にある小さな頭をぽんぽん撫でてやる。なぜだか、そうしたくなったのだ。わけもなく触れていたいというか、無性に撫でてやりたくなったというか。は俺にそうさせる不思議な力があると思う。他の男と話していればその間に立ちはだかったり、何か言われてたら庇ってやりしたくなるし、泣いてたら抱きしめてしまいたくなる。考えるよりさきに感情に揺さぶられる。

 ああ――、そうか、これが好きっていう気持ちなのか。
 部活に行けと急かすが俺を押し返した、その手を掴んで、ぐっと引き寄せる。の小さな身体は案の上すぐにふらついて、俺がそうしたいと思うように動いてくれる、まさに意のままというやつだ。油断していたの頬に、そっと触れるだけのキスをして、というか一瞬、触れることしかできなくて、かっこわるい気もしたけれど、が予想通り真っ赤になって照れてくれたからそれで良いことにする。俺からのお返し。お礼なのかお返しなのか、なんかもうよく分からなくなってしまったが。

「やっと俺のものになった」

 目が合えば嬉しくって、口角が緩む。赤い顔して俺を見上げたは、ぼそりと「喜一のばか」とつぶやいて、照れくさそうに少しだけ笑った。最初に言われたのと同じで、だけどあのときとはまったく違う思いの込められた言葉。

「もう一回言って」

 にならそう言われても許す。だから、言って、もっと俺の名前、呼んでよ。





 高揚感と興奮とで死ぬかもしれないと一瞬、命の危険を感じもしたが、部室に着いた頃にはなぜだか落ち着いていて、ジャージを着てグラウンドに立つ頃にはすっかり心凪いだ状態で冷静になっていた。そのくせさっきまでのことを思い出すたびにドクンと心臓が高鳴る。
 自分で自分がよく分からんが、さすがの俺も動揺しているということだろうか。いや、当たり前だ。こうなるべきだと分かってはいたが、いざ直面すると受け止めきれない嬉しさが溢れてしまいそうで、とにかく胸がいっぱいで……。
 模擬試合、しょっぱなにワンツーが決まって、皆皆の称賛を浴びながらよろこびに浸る。もっと褒め称えろ。なんたって今日の俺は無敵なのだ! 勢い余って全力のハイタッチをかましたら柄本がグラウンドに倒れ伏したがそんなことはどうでもいい。
 ああ、なんて良い日だ。世界が輝いて見える!





「大柴、なんか良い感じだな。ボールがシューンってしてる」
「何か良いことがあったんじゃないか?」
「……? なんで分かるの?」
「分かるよ。だって、顔に書いてるだろ」
「え? 俺は読めない……どこに書いてる?」
「さあ、どこだろうねえ」





08 TOPGOAL 160818
HAPPYEND!







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