急に勉強にやる気を出したかと思ったら喜一は5分くらいで「飽きた」とシャーペンを捨てて、真面目に机に向かっている1年生たちを見回してふんぞり返って鼻を鳴らした。大変だなあ、みたいな顔をしてるけど、たぶん一番ヤバイのは喜一だし、そんな余裕な顔をしていられる理由が分からなくて怖いんですけど。

「勉強やめるの?」
「やめる。俺はサッカーがしたい」
「じゃあわたし君下くんに数学のこと聞いてきていい?」

 喜一が勉強しないなら、わたしは自分の課題に取り掛かろうと思ったのだ。君下くんと一緒に勉強できるチャンスなんかそう回ってこないし、臼井先輩とか、勉強ができそうな先輩たちに質問をする機会なんか、運動部じゃないわたしには訪れるはずのないものだ。せっかくのタイミングを逃すわけにはいかない。
 だけど喜一は何を勘違いしたのか分からないけどハッとして、怪訝そうな顔をしてわたしを見やった。今度はなんだろう。

「おまえ……すげーな」
「なにが?」
「だがこの俺と駆け引きしようなんて百年早えぜ」

 ……何の話かやっぱりよく分からない。まるでわたしの言うことを無碍にでもするように得意げに笑った喜一だったけど、どういうわけか大人しくシャーペンを持ちなおして、課題のページを開きなおした。まだ勉強を続けるということだろうか。あと何分持つかは分からないけど、集中力を切らさず机に向かっていてくれるのはありがたいことだ。
 手が止まるたびに(しょっちゅうだけど)解き方を教えてあげていると、気がつけば1時間ほど時計は進んでいて、思いのほか真剣に取組んでいる喜一の様子を目の当たりにして、少し見直したというのも事実だった。あれだけ勉強会はいやだとごねていたのに、わがままを押し通すかわりにちゃんと努力する姿勢を見せてくれるのだ。喜一はバカだけど素直だし、分からないことをはっきり伝えてくれるから教え甲斐もあるし……。って、なに感心してるんだろう、わたし。

「お茶淹れてくるね」

 喜一が真面目に取組んでいる横顔なんか初めて見たかも、そう考えると急に意識してしまって、そういえばわたしは喜一がサッカーしているところも、今までちゃんと見たことがなかったかもしれない、と思い直した。渦巻いていた感情がにじみだして、次々と新しい色になってゆく。自分の鼓動の音だけがそれを教えてくれるようだった。





 台所を借りてみんなの分のお茶を淹れていると、ふと誰かがやって来た。監督役として来ていた臼井先輩だ。サッカー部の面々は有名だからわたしでも顔と名前を知っているけれど、相手からするとわたしはいきなりやってきた見ず知らずの後輩だし、ただのミーハーな女子だと思われている可能性がないわけではないので、少し脅えていたりする。
 手を止めて会釈すると臼井先輩は「手伝うよ」とそれとなく隣に並んで、お茶を注ぎやすいように空いたグラスを並べてくれた。臼井先輩はうわさどおり、穏やかでやわらかい感じの人だ。気構える必要はないのかもしれない。だけど、何かを見透かされているような、そういう気分にさせられるのが不思議だった。

「ありがとうございます」
「いえ。むしろこっちこそありがとう。無理やり連れて来られたんだろ?」
「あ……はい。でも、来て良かったです」

 わたし自身も君下くんや臼井先輩に教えてもらって勉強になったし、喜一に教えることでさらに復習ができて、頭の中がどんどん整理されていく感じがあった。わたしはそういう意味で言ったつもりだったけれど、臼井先輩はくすっと笑って、「そっか」と、なんだか意味ありげにうなずいた。何か誤解されていないだろうか。そう思ったけれど、言い出すこともできずに唇をとがらせる。

「大柴がさ」
「はい?」
「いつもさんの話をしてるよ」

 なんだって。きっと俺のファンだとか、胸がどうとかそういう話なんだろう。臼井先輩はわたしが苦々しく思っているのをそれとなく感じ取って、「いつも大変だな」と労わるふりをしたからかいの視線をわたしへと向けた。臼井先輩は意外と、いじわるなのかもしれない。
 教科書を見せてもらったとか、答えを教えてもらったとか、起こしてくれたとか、何気ない毎日のやりとりを喜一は部活のメンバーに伝えているらしい。一体どうしてそんなに自慢気に振る舞えるのかわたしにはよく分からないけれど、少なからず、気に入られているようで、そのことはただ素直に嬉しいと思う。隣の席で喜一のお世話、まあまあ大変だし。最初は怖かったし、いきなりセクハラ発言してくるとんでもないヤツだと思ってたけど、ただバカなだけで、意外と笑った顔は無邪気で可愛かったりして……。

さんは?」

 あいつの隣の席、どう。
 わたしがとっさに言葉に詰まっているのを、臼井先輩は見抜いている。どう、って、漠然とした問いかけに、はっきりとした答えを返すのはなんだか躊躇われる。恥ずかしい。だけど先輩の手前、楽しいです、と言っておくべきだろうか。少し癪だけど、楽しくないわけじゃないし、かといって一言で片づけられるような感覚でもない。

「いつも、すごいバカだなって思ってます」
「あはは。それは事実だ」
「だけど……気づけばいつも引っ張られてる感じがして」

 だから今日、わたしはここにいるのだ。強引でわがままで俺様な喜一に、いつの間にか振り回されている。臼井先輩は、わたしが呟くのを優しく見守っていてくれている。副キャプテンなだけあって面倒見のいいひと、だと思う。喜一には皆無の大人っぽさや落ちつきみたいなものがにじみでている。あと、賢さも。だからつい安心して、何でも話してしまいそうになる。

「うん。それなら良かった」
「よ、良かった……ですか?」
「大柴をよろしくな。バカだけど、素直で可愛いやつだから」

 なんか、そんな風に言われると、まるでわたしと喜一が、…………。色々と言いたいことはあったけれど、否定してもかえってわざとらしくって、意味がない気がして、わたしはただ黙ってうなずいた。臼井先輩は喜一のことをよく分かっているのだろう。きっと、最近距離を縮めたわたしなんかよりもずっと。
 よろしく、と言われてしまったらなんだか急に恥ずかしくなる。思わずうつむいたその瞬間に、出入り口の方で影が動くのが分かった。誰かいる、もしかして、聞かれていただろうか。慌てて視線をやると、そこに立っていたのは喜一だった。
 よりにもよって、だ。どうやって取り繕おうか、言い訳が瞬時に頭に浮かんだけれど、喜一はなんだか不満そうな顔をしてずいずいとこちらへ向かってくる。唇を真一文字にむすんで、わたしと臼井先輩とを見比べている。

「…………」
「き、喜一?」
「そんな顔するな。ただ話してただけだ」

 不機嫌な喜一を残して、臼井先輩はグラスの乗ったトレイを持って台所をあとにした。なんてスマートな去り方だろう。だけどこの状況で二人きりにされるのは、どうしようもなく気まずい。なぜ怒っているのか、とりあえず様子を伺おうと思って喜一のほうを見やると、喜一は腕組をしてあごを上げて、いつにも増して高い位置からわたしを見下ろして、ふんと鼻を鳴らした。

「好きなのかよ」

 唐突すぎる質問に、思わず茫然とする。





 誰が、とか誰を、とかそういうのを聞き出してみると、喜一はわたしと臼井先輩の仲を疑っていたようで、勢いよく否定することで彼はようやく機嫌を直して、「ならいい」と高らかに言い放ってリビングへと戻って行った。疑ったわりに、すぐ信じてくれたのは、彼が単純ゆえだろうか。とりあえず一安心して、喜一についてみんなのところへ戻ることにした。
 ――ああやって聞いてくるということは、喜一は臼井先輩に嫉妬したということで、つまりそれは、そういうことなのかもしれない。そう思うと、なかなかどうして、まんざらでもない、どころか、嬉しいとさえ感じてしまう。
 いつの間にか、そういう風になってしまっていた。認めるのは悔しいけれど、気づけば喜一のことばかり考えている。見ているし、想っている。臼井先輩と話して改めて分かったけれど、わたしはきっと喜一のことを好きなのだと思う。ずっと彼の隣にいられたら、なんて考えている自分がいる。





05 AWARENESS 160814







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