昨日の大柴くんは調子が悪かったんだろうか。 小テストのときもボンヤリしていたようで、休み時間に追試を受けていたし(カンニングはさせなかったけど、答えを全部教えてあげてしまったから同じことだ)、いつにも増して寝ているなあと思えば放課後いきなり呼び止めてきて、思いつめた顔をしているから何かと思えば結局なんでもないと言って部活に行ってしまったし。いつも不遜な態度を取っているくせに急にしおらしくなられると落ち着かない。 静かに授業を受けられるし、セクハラ発言もされないし、チビとも呼ばれないし、この方が平和でずっといいような気もするけど。気づけば大柴くんの隣の席になって3週間と半分、もうすぐ期末テストがあって、夏休みになる。時間の流れの速さに驚いているあいだにも夏は過ぎて行くのだ。あっという間のようで、長いようにも感じるのは、密度の濃い毎日を過ごしているからかもしれない。 ◇ 教室の自分の席に座っていると、日直のペアの男子がわたしの席までやってきて、日誌のフリー欄に何を書けばいいのかと相談してきた。一緒に立ち上がって日誌に目を通してみる。前の子たちのフリー欄をさかのぼりながら、面白いのを見つけて笑っていると、ペアの男子がおもむろにわたしの頭上に手をかざした。 「ちゃんってけっこう背低いよね。何センチくらい?」 「うーん、4月に測ったときは……」 「あはは。ちっちゃいなー」 別に、背が低いのは自覚してるし、こうやって話題に出されるのが嫌なわけじゃない。そんなことより大柴くんだ。さっきからジロジロジロジロとこちらを見ている。いや、睨んでいる。なにか気に障ることがあるのだろうか、今にも噛みつかれそうだ。無視してやり過ごそうと思ったその瞬間、大きな影が動いたかと思えば、日誌を覗きこむわたしたちを遙か高くから見下ろし、仁王立ちする、機嫌の悪そうな大柴くんの視線にペアの男子が悲鳴を上げた。 「おめーもチビだろうが」 「……お、おう……」 凄んでいるんだろうか、ただ単に威圧するのが癖なのかもしれないけど、大柴くんに圧倒されたペアの男子はそそくさと去って行ってしまった。日誌は自分でなんとかすると言い残して。大柴くんはふんと鼻を鳴らして、何事もなかったかのように自分の席に座り直す。 ……もしかしてわたしを庇ってくれようとしたんだろうか? いつもは自分が一番、わたしのことをチビだのチビっこだのと言ってくるくせに。だけど、なぜだかそんな気がしてきた。なんて声をかけようか迷っていると、ぎろりと視線をよこした大柴くんは、やっぱり文句を言いたげにモゴモゴと口を尖らせている。わっかりやす。こういうところがバカっぽいんだよなあ、と思いつつも、少し可愛いよなあ、なんて思ったりもする。 「あの……なんかありがとう」 「うん」 やっぱりわたしを庇おうとしてくれたんだ。別にいいのに……。だけど、わたしがいつもチビって言われるたびに反抗していたのが、ようやく効いたのかもと思えば、頑張った甲斐を感じる。 「たしかにはチビだけど」 「え?」 「俺以外のヤツに言われてるのはなんかムカつく」 大柴くんは腕組をしてぐっと眉根を寄せている。ムカつくって言われましても。そりゃあ大柴くんより背の高い人なんてそんなにいないけど。まあ、大柴くんのトンデモ理論は今に始まったことじゃない。いちいち疑問を呈するのも骨が折れてしまう。 そっか、と返事をすると「そうだ」と偉そうに返された。どうしてこうも王様なんだろう、逆に感心する。 ◇ 期末考査が近いからという理由で、数学の先生が3時間目を自習にしてくれた。参考までにと言って配られたプリントを解いて、自分で答え合わせまでを済ませても、まだ時間はじゅうぶんに残っている。はたと顔を上げるとちょうど大柴くんと目が合った。頬杖をついていたかと思えば、おもむろに机を寄せてわたしの席にぴったりとくっつけてくる。……今度はなんなの。 「全然わかんねーんだけど」 「……教えろってこと?」 「イエス」 大柴くんのプリントはまだきれいなままだけど、1問目に消しゴムで消したあとがある。自習時間にじっくり物思いに耽るようなタイプでもないし、きっとすぐに突っ伏して寝るんだろうなあと思っていただけに、真面目にプリントに取組もうとしていた姿勢にまず驚いてまじまじと見上げてしまった。 「どうしたの、調子わるいの? 大柴くん……」 「なんでだよ。俺が勉強してたら変なのかよ」 うなずけばすぐさま手のひらが伸びてきて、頬を、というか顎を片手で掴まれた。痛い、ごめん、放して。じたばたしていると「顔ちっちぇー」なんて言いながらじっと見つめてきたけれど、わたしの顔が小さいんじゃなく、大柴くんの手が大きすぎるの間違いだと思う。近くで見るとなおさら大柴くんの瞳は大きくてきれいで、まっすぐ射抜かれると無性に恥ずかしくなってしまう。 なんだか癪だ。気を取りなおして、わたしが全部書き埋めたプリントを真ん中に置いて人さし指でなぞっていく。大柴くんは期末考査前はいつも、部活の先輩たちから、とりあえず勉強しろ、赤点を取るなとお尻を突っつかれているらしい。ああ、それもそうだろう、大柴くんは目も当てられないほど、勉強ができないのだ。 付け焼刃の勉強でなんとかなるレベルではあるんだろうけど、日頃からこつこつ努力をしないとテストを受ける意味もないと思う。なんていうわたしの持論を展開したところで、大柴くんは分かってはくれないのだと思うから、とりあえず1問目から解き方を教えてあげることにする。これはカッコの中を先に計算して、それから掛け算をして……。 「」 頭上の、耳元の近くで大柴くんの声がした。解説してあげたのにそれをまったく聞いていなかった、それにも驚きだけど、それよりも、今、もしかして、わたしの名前を呼んだの? プリントの左上にある記名欄には、手癖でわたしのフルネームが書いてあるから、きっとそれを見て何の気なしに声に出したのだろう。 「なんか声に出して呼びたくなる名前だ」 「……そうかな」 「うん、いいな。」 また呼んだ。思わず彼の顔を見上げると、思いのほか近くにあってなんとなく気まずくなる。近い。気がつけばこんな距離にいたんだ。ぶつかりそうで、ぶつからない腕とか、肩とか、そういうのを妙に意識してしまう。 何を言おうとしていたのか忘れてしまって、だけど彼はそれで十分だったみたいで、窮屈そうに身をかがめてわたしの表情を覗きこんでは、ニヤニヤとやらしい笑みを浮かべた。 「照れてんのか? 可愛いやつめ」 「だ、だっていきなりだったから」 「俺のことも名前で呼んでいいぜ。特別に許してやる」 「いや、別にいいです」 「はあ? なんでだよ! そこは呼べよ!」 断ったわたしに詰め寄るようにして、ほら、呼べ! 喜一! ……などと耳元でバカでかい声で叫ぶので、あまりのうるささにしょうがなく復唱してみると、大柴くんは満面の笑みでふんぞり返り、「悪くねえ」といつものごとく偉そうな感想を述べた。 ――かと思えば、おもむろに机に突っ伏するように腕を乗せて、うつむきがちに表情を隠してしまう。なんだろう急に。また何か企んでいるんだろうか。なんて勘ぐったのもつかの間に、よく見ると大柴くんの耳は、真っ赤に染まっている。 え、うそでしょ。大柴くんが照れてる? 「……あんまりこっち見んな」 気恥ずかしそうに顔を隠す彼の様子を見て、なんだかこっちまで照れくさくなって、わたしたちはそれから少しの間じっと押し黙っていた。教えるはずだったプリントは一ミリも進んでない。別に、ただ名前で呼ばれたから、名前で呼び返した、それだけのことなのに、どうしてこんなにも、意味のあることのように思えてしまうんだろう。意味なんかきっと無いのに、なんだかとても嬉しいのだ。 ◇ 休み時間、自動販売機で買った紙パックのジュースを飲んでいると、教室にドカドカと男子たちが入ってきた。まっすぐに近づいてくる。どうやら大柴くん、じゃなくて喜一に用があるらしい。(この通り、うっかり大柴くんと呼んでしまいがちだけど、呼ぼうものなら彼は険しい顔して返事もしてくれないから、しばらくは意識的に呼ばなければならないようだ。)よく見れば先頭にいるのは眼鏡の君下くんだから、おそらくサッカー部に関する話をしに来たのだろう。 「何しに来た」 「ああ? 分かってんだろ。今週の土曜の練習終わり、てめーの家で恒例のアレだ」 恒例の、ってよく分かんないけど、なんか部活って感じがするなあ……。込み入ったことまで聞き耳を立てるのは悪いと思いつつも、君下くんも喜一も声が大きいものだから、教室中にふたりのやり取りが響いていて、聞かずにいる方が難しいくらいなのだ。 「ヤダ!!」 「ヤダじゃねーよ! てめーは強制参加!」 「絶対ヤダ!!」 雲行きが怪しくなってきたかと思えばどたばた揉み合い始めた。邪魔になったら悪いからどけよう、巻きこまれたくないし……とこっそり席を立とうとしたその瞬間、誰かにものすごい力で腕を引かれ、あっと驚いているうちにわたしは、なんと、君下くんの目の前に差し出すかのように、立たせられていた。 わたしの両肩を後ろから捕まえている犯人は喜一だ。力、強すぎ。わたしの影に隠れられるはずもないのに、めいっぱいに身体を小さくして、わたしの背中に頭を押しつけている。なにこの状況。わたしと君下くんはお互いポカンとした顔で見つめ合っている。 「俺にはがいるから!!」 ……全然、話が読めないんですけど。何が起こっているんだろう。 03 SPECIAL 160809 |