教室のドアを開けようとした瞬間、思いもよらぬスピードでドアが開いて、驚きの声をあげたわたしの視界が一瞬で白く染まった。見上げればはるか遠くに整った顔。やわらかそうな茶髪を軽くかきあげて、わたしの肩に大きな手が添えられる。
「わり、見えなかった。小さすぎて」
 学年で1,2を争うほど身長が高い、サッカー部スタメン。そして、わたしの天敵でもある、大柴喜一が颯爽と横切って行った。





 大柄だけどスタイルが良くって、顔もまあ良い、だけど鼻持ちならない自信家で、サッカーの才能に恵まれているおかげで多方面からキャーキャー言われているようだけど、彼は果てしないバカである。同じクラスになって3か月、隣の席になって早2週間。席を移動した直後、挨拶をしようと緊張しながら彼へ話しかけようとしたわたしに彼はこう言い放った。
って胸でかいな」
「へ?」
「背は小さいのに、ギャップってやつか」
 ――最悪。
 あげく、ちょうどわたしの背丈くらいに手のひらをかざして、「俺の半分くらいしかねーもんな」とニコニコ笑った。まさか、よかれと思って言っているだろうか。その上どさくさに紛れて、1限目の古文の小テストをカンニングさせるようお願いさえしてきた。
 信じられない。人のコンプレックスをド直球で刺激してきたかと思ったら、単語帳を直前に見さえすれば簡単に解けるような10問テストなのに、それを2問も解かないうちにわたしの手元を覗き込んできたのだ。背が高いから上から簡単に覗けるし、足が長いから少し身体をこっちに向けるだけで届いてしまいそうになるし、なんかやたらと距離が近いし。……あちこち見られているのかと思えばなんだか気分が悪い。
「サンキュ! 次回も頼むわ」
 嫌とも言えず苦笑いをしていたら、彼は長い腕をすっとこちらに伸ばして、わたしのノートの端っこにスラスラと筆記体のような記号のような何かを書き記した。これってもしかして。
「お礼に俺のサインだ。よきにはからいたまえ」
 全然意味が分からないし。
 とっさにありがとうと口走ってしまったのが仇を成して、彼は小テストを勝手にカンニングするたびに、わたしのノートの端や机にサインを書くようになった。良かれと思ってやってくれているのだろうから、なんとなく消すに消せずにいると、2週間の間で5つほど机に刻まれたサインを目にして、わたしのことを「可愛いとこあるじゃん」みたいなドヤ顔をして満足そうに見下ろしたりするのだ。全然そういうのじゃないのに、これじゃあ周りの子たちに大柴くんのファンだと思われてしまいそうで、なんか癪だ。





 サインは日に日に溜まっていく。机の左端が彼のサインでいっぱいになるのは本当にあっという間だった。彼は当てられそうになるたび目ざとくわたしに声をかけたり、小テストの類があるたびに答えを教えるようせびってきて、そのたびにサインを増やしていくのだ。っていうか、たとえこんなやりとりでも、大柴くんのファンに知られたらぶっ殺されちゃうんじゃないだろうか? まだたったの3週間しか経っていないのに、次の席替えまでにこれがどれだけ増えるっていうんだろう。
 考えるだけでぞっとする。教科書やノートで隠しながら数学の授業を受けていると、机をコンコンと指先で叩かれた。視線を送るまでもなく大柴くんだ。授業中は基本的に寝てるか、起きてわたしに解説を求めるかのどちらかなので、今日はその後者のようだ。
「テストに出そうなとこあったらあとで教えて」
「え」
「よろしく」
 言うなり、ばたっと突っ伏して寝てしまった。どうやら前者だったらしい、振り回されたみたいで、やっぱりなんかイラッとくる。
 だけど大柴くんの所属しているサッカー部は全国クラスで、練習も相当ハードだって聞いているし、毎日毎日練習している彼には勉強する時間がないのかもしれない。……だからって甘やかしていいわけじゃないし、わたしが面倒見てあげる義理もないんだけど。それでもなぜかいつもより授業に集中して、テストに出そうなところをチェックしてしまったり、休み時間になっても眠りこけている彼の肩を叩いて移動教室を教えてあげたりして、彼に嬉しそうに笑顔を向けられるたびになんとも言えない遣る瀬無さを感じるのだ。
 何やってんだろう、わたし。





 6時間目が終わってつい気が抜けて、うんと背伸びをすると「おい」と思い切り腕をつかまれた。考えるまでもなく大柴くんだ。席に座ったままの距離から当たり前のように腕がここまで届くのだから、リーチが長いっていうのは本当にやっかいだ。別に、だからどうっていうわけではないけれど、彼の手にかかればどんな距離にいても一瞬で捕まえられてしまいそうで、少し怖いかも。
「いいのかよ、そんなポーズして。バレるぞ」
「な、なにが?」
「胸でかいの」
 はああ? 何言ってるんだろう、まじで。っていうかなんでいつも思ったことをすぐ口に出すんだろう、ほんとに、バカじゃないの。何か大変なことが起こったんじゃないかと危惧したわたしもバカだった。ぱっと腕を振り払おうとしたけれど、なぜか大柴くんは離してくれず、大真面目な顔をしたままじいっとわたしを見つめている。
「……べ、別にわたしのことなんか誰も見てないよ」
「んなわけねーだろ。見てるよ」
「誰が!?」
「まず俺!」
 そんなことは嫌というほど分かってる! ――かあっと頭に血がのぼってしまったわたしは、どうしたらいいのか分からなくなって、思わず勢いよくその場に立ち上がった。それでもわたしの背が低いせいで、イスに座ってる大柴くんと目線が同じくらいだ。逃げ場がない。大柴くんは背も高くってサッカーの才能もあって人気者で、バカだけど頭の回転は速いし、わたしとは違って、怖いものなんか一つもないのかもしれないけど。

「大柴くんのばか!」

 教室中にわたしの罵声が響き渡る。辺りはしんと静かになって、ぴりっとした空気が一瞬にしてたちこめる。
 ――やってしまった。感情に押し負けて、声を荒げるなんて、子どもみたいなことをしてしまった。色々と積み重なった情けなさのせいで、滲む涙が視界をぼやけさせる。ああ、さすがに悪いことをしてしまったかも。はっと我に返っても遅い、しだいに気まずくなる中で、ちらと彼の様子をうかがってみる。
「……今の、ちょっとグッと来た」
 大柴くんはまんざらでもない顔をしてニヤニヤを抑えていた。
 挙句の果てには、もう一回言って、と身を乗り出して人さし指を立ててくる。そうだ、大柴くんは心底バカだったのだ。忘れてた。デリカシーのかけらもなく、無神経で、何か知らないけど自分が一番偉いと思ってる、注目を浴びてないと生きていけない人で、すぐ怒鳴るしうるさいし、女子にばかって言われて興奮するようなド変態だし。わたしが一番苦手なタイプなのに、いったい何の巡り会わせでこんな風にバカみたいなやりとりばかりを繰り広げてるっていうのだろう。わたし、ほんと何やってんだろう。
 なんだか泣くことさえバカらしくなってきて、ため息をつきながら席に座りなおしたタイミングで、ちょうど下校のチャイムが鳴り響いた。教室にがやがやと喧噪が戻る。女子の一部がひそひそ話しているのが視線で分かる。きっと大柴くんとじゃれ合ってるとでも思われているんだろうなあ、ああもう、腹立たしい。
「そんなに怒んなって」
「誰のせいだと思ってんの!」
「俺?」
「そーだよ!」
 疲れるからもう話したくない。……と言おうと思ったけれど、さすがに傷つけるかもしれないから飲みこんでおいた。というより、言ったところで効果はこれっぽっちもないのかもしれない。大柴くんはさっきと変わらぬ様子でわたしに絡んでくるし、「機嫌直せよ」とからかうような声色で、悔しいほどさわやかに笑っているのだ。つい彼を睨みつけると、いつも通りの自信たっぷりな顔で口角を持ち上げて、おもむろに立ち上がった。やっぱり背、高い。
「んじゃ、また明日」
 スポーツバッグをひょいと持ち上げて大柴くんは颯爽と教室を出て行く。彼が背負うとバッグも小さく見える。たしかに見た目はかっこいいかもしれないけど、とんでもないバカなのに、彼に熱を上げている女の子たちはそういうのをちゃんと知っているんだろうか。同じサッカー部2年なら君下くんの方が、ガラは悪いけど頭がよくって話が通じる人なのに。
 ……いったい大柴くんの何が魅力なのか、考えても分からないのでもう考えないことにする。下校中にまで彼の存在に心を悩ませているのはなんだか癪だ。明日からもう小テストは見せてあげないことにしよう。だけど結局、その対策を考えるのに夕飯が終わるまで時間がかかってしまって、家についてまで彼のことを考えている自分が悔しくって思いっきりベッドに飛び込んでクッションを殴りつけた。
 ああ、もう、何やってんだろうわたし!





01 WONDER 160807







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