外靴にはきかえてからふと窓を見上げて、3Aにまだ電気がついていることに気がついた。
大方消し忘れだろうと思って学校へ戻ると、教室にあいつの姿を見つけた。。耳にイヤホンを突っ込みながら、勉強しているらしかった。英語の辞書(電子じゃなく本!)をめくりながら必死にノートになにかを書きこんでいる。集中しているようで、俺が教室に足を踏み入れたことにもは気づかない。まあ音楽聴いてるからな、と、後ろから近寄ってそっと手を伸ばした。両耳のイヤホンを外す。大袈裟に肩をふるわせたの、耳元でちいさく囁いてやった。

「何、してんだ」
「うひゃああっ!!」

 辞書がダン!と重みのある音と共に床に落下した。目をしばたいて、耳をつんざくような悲鳴をあげながらふりかえったは、本当におどろいた様子で胸に手をあてた。この一連の動作がおもしろくて、俺は思わず笑ってしまう。そのまま移動して、辞書を拾ってやるついでにの前の席に腰を下ろした。「あ、ああ、跡部……」声にならないとでも言うように声を震わす。そんなに驚いたのか?ほんと面白いヤツ。

「で、何してんだよ。英語の勉強か?」
「み…見たらわかるでしょ!も、もう、ほんと焦った。何かと思った……」
「ドキドキしたーってか?」
「!!ばっ、バカじゃないの」

 顔赤いぜ、と言うとふて腐れたのかうつむいて、俺が拾ってやった辞書を乱暴にめくりはじめた。蛍光灯が影を作るの頬に、ほんのりと赤みが差し込んでいる。調べている傍らで、がウォークマン(たしかそう言った、ちゃちい機械)の音楽を止めたのを目にして、俺はなぜかうれしくなった。カバンにつっ込まれたイヤホンが雑に絡まりながらうなだれる。

「また調べなおしじゃん、gradually、gra…」
「‘徐々に’」
「……ほんとに?」
「俺がそんな下らない嘘つくと思うか」

 はいぶかしげな表情のまま俺を見上げた。しぶしぶと言ったようすで俺の言葉をそのままノートに写す。しばらくそれを見ていると、目線を教科書とノートを行ったり来たりしたまま、がぼそりと言った。

「っていうか部活は?行かなくていいの?」
「これから顔出す。もともと生徒会の仕事で、遅刻するって言ってあるんだ」
「ふうん。あ、跡部、‘disadvantaged’は?」
「‘恵まれない’」
「ん」

 曖昧な返事をするのは、興味が無いから、という理由じゃないと俺は知っている。うつむいたままの化粧っ気のない瞳が、たまに行き場をなくして彷徨っていた。時計の針と、のシャープ(安っぽい、派手なクリアピンクの)が文字を書く音しか、ここには聞こえない。

「こうやって一人で、放課後に勉強してんのか」
「うん」
「へえ。寂しいな」
「でも静かだからいいよ」

「また俺が来てやってもいいぜ?」

 目の前で揺れるの髪に手を伸ばすと、いともたやすく滑り落ちてしまった。は目を見開いて俺を見る。その拍子にシャープの芯が音を立てて折れて、開き損ねた英和辞書のページがくしゃりとしわを作った。より一層頬をあかく染めたは、恥ずかしそうにうつむいて、シャープを握る右手に力をぎゅうと込めた。ちっさい手。折れちまいそうだ。なにか言いたげなはたっぷりと間をおいて、やっと呟いた一言は、時計の音にかき消されそうなほど小さな「うん」だった。思わず込み上げた笑いを喉元でつぶすと、は手で顔を覆ったが、隠しきれてない耳の赤さが、どうしようもなく愛しかった。


gradually (091015)























 あたしのことちゃんと見なくなった。
 隣にいても、あまり楽しそうな表情をしなくなった。携帯をみる回数が増えた。あたしと電話する回数が減った。右手で耳に触れるのは、退屈なときにしてるクセだってこと、雅治は気づいてる? その仕草を見るたびに、あたしはどうしようもなく辛くなる。



、現社の教科書もっとらん?」
「あ、あるよ。ちょうど今終わったとこだし」
「貸りてもよか?」
「うん。はい」
「サンキュ。昼休みに返す」
「分かった」

 雅治と付き合ってることが、あたしの自慢だった。
 付き合い始めてからもう2年が経つ。それまで雅治には浮ついた噂話ばかりがあったから、彼があたしだけを見てくれているということは、あたしにとってたまらなく嬉しかった。あの『仁王雅治』を独り占めしている。他の誰とも違うあたしだけの優越。他の誰でもないあたしを選んでくれたということが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 中3のときから大人びていた雅治は、当時から他の子と一線を介しているように見えた。バカみたいにふざけたりしないし、あんまり笑わない。
 クラスが違うと話すこともなかったから、あたしの耳に入ってきたのは、遊んでるとか、年上の女の人と付き合ってる、みたいな噂ばかり。みんなの羨望によく似た好奇心が、噂を媒介にして、自分達と異質な雅治に向いていたのだと思う。
 共通の友達を通じて知り合ってから、打ち解けるまでに少し時間がかかったのは、あたしは噂を信じきって身構えてた上に、雅治のポーカーフェイスは何考えてるのかを全く悟らせなかったから、っていうのが大きい。事実、最初は照れてあまり喋れなかった、と雅治が言ったときも、そんな素振りが全く無かっただけに驚いて、思わず照れてしまった。

 中3の夏にあたしたちは付き合った。付き合ってるのが嘘みたいだって何度も思ったけど、雅治はいつもちゃんとあたしに気持ちを表現してくれた。
 あたしがメールはあまり好きじゃないってことを知っていたから、雅治はメールより電話をたくさんくれたし、デートにはよく映画を見に行った。周りが思うより、あたしたちはずっと純粋に恋をしていたように思う。初恋みたいにどきどきすることがたくさんあったし、あたしは照れてばかりいたから。
 雅治の、つかめないミステリアスなところが好きだ。だけどちゃんと笑うところが、あたしはもっともっと好き。何考えてるんだかわかんない顔してるし、いつも冷たい表情をしてるのに、本当にたまに、すごく無邪気に笑うから、その度にあたしの胸は愛しさでいっぱいになる。いつも同じ顔をしているようで、まったく違う顔をしているような不思議な感覚。雅治には、どうしてか人を惹きつける力があった。

 2年間なんてあっという間で、あたしたちはそれからすぐに高校生になってしまった。雅治はどんどんかっこよくなって行ったし、あたしはそんな雅治の隣にいれることが幸せだった。雅治の笑った顔を独り占めできることが嬉しくって、2年の長い時間を越えても、あたしの気持ちは際限なく高まって行くばかりだった。その間にはケンカもしたし、何度か別れてしまいそうにもなったけど、なんだかんだで雅治はあたしの手を離したりしなかった。そしてその度に、好きだって、言ってくれた。

 高2になってクラスが離れても不安なんてなかった。今まで浮気されたこともなかったし、雅治はあたし以外の女の子をその目に入れることはないって、あたしには絶対の自信があったから。だってもう2年も一緒にいるのだ。あたしは雅治のぜんぶが好きだ。雅治も絶対に、そう思ってくれているはず。

 ……今思えば、これはただの自惚れに過ぎなかったのかもしれない。
 あたしは雅治の全てを知ったような気になっていたけれど、ほんとうは、これっぽっちも、知らなかったんじゃ、ないのかな。


 高2の4月が終わるころ、急に、雅治からメールがぱったりと来なくなった。休み時間にも会いに来なくなったし、教室に会いに行ってもいないことが多かった。数少ない部活が休みの日に一緒に帰ることも減っていった。
 不安がたくさん募っていく。雅治の気持ちがあたしから離れて行っていることが、手に取るように分かって怖かった。つかみどころのない雅治が、余計に分からなくなってしまったみたいだった。あんなに魅力的に思えた、ミステリアスなところも、今はただ気持ちが読めない不安しか生まない。

 雅治とあたしは、付き合ってるんだから大丈夫。全部ただの気のせいであってほしい。雅治の、あんまりベタベタしない距離感が心地よかった。猫みたいにじゃれてくるところが好きで、あたしのことちゃんと大事にしてくれるところが、あたしだけ特別扱いしてくれるところが、あたしにだけ素顔見せてくれるところが、あたしは、好きで好きで、たまらないの。






 雅治の声にはっとして、あたしは焦って顔をあげた。目の覚めない思いが、あたしの心臓を早鐘のように打つ。急にいつもの昼休みの喧騒が聞こえてきた。現社の教科書を目の前に差し出されて、あたしはぼうっとしたままそれを受け取る。ずいぶん嫌なこと、考えてた。

「なんじゃ、寝とったんか?」
「……あ、いや……」
「眉間にシワ、寄っとるけど」

 あたしは指先で自分の眉のあいだに触れながら、ため息ともつかない苦笑をした。雅治はあたしの前の人の席に座って、持ってた紙パックのイチゴオレに一度だけ口をつける。雅治の伸びた髪のすきまから、きらきらした小さなピアスが光っているのが見えた。

「ねえ、それ」

 察しのいい雅治は、紙パックを持った手を少し浮かせる。変なことなんてひとつもなかった。雅治はいつもみたいにあたしの傍にいるし、「飲む?」ってストローを向けてくるのも、口角をそっと持ち上げて笑うのも、いつもと変わらない。
 あたしは怖かった。焦ってた。近すぎなかった距離がひどく遠いもののように感じていた。雅治が、あたしの知らない人になっていくみたいだった。

「……今日は、カフェオレじゃないんだ」
「ああ、赤也に勝手にボタン押されてのう」

 あたしは怖い。焦ってる。その言葉が嘘なことくらい気づいている。あたしは今、自分がうまく笑えてるかどうかわからない。あたしが勘ぐっていることを雅治に気づかれたら、本当に終わりが来てしまう。雅治の手の中にあるイチゴオレが、あたしの気持ちをかき混ぜるから、あたしは気がどうにかなってしまいそうになった。
 あたしは怖い。焦ってる。だって。だってだって。

 だって!

 教室のカーテンが勢いよくなびいた。
 あたしたちの髪をさらいながら風が通り過ぎてゆく。
 もうとっくに夏は来ていた。あたしたちが付き合ってから、もう、2年も経っていた。
 急にそのことが、風にさらわれて崩れていくように、思い出される。
 いやだ。
 そんなの、いやだよ。雅治。

「夏やのう」

 あたしは眠いと言って、そのまま机に突っ伏したから、雅治のその言葉はひとり言になってしまった。涙が勝手にあふれて行く。イチゴオレの紙パックが汗をかいて、あたしの机にいくつか水滴を落としていたから、涙はそれに紛れてわからなくなっていた。

 あたしは怖かった。焦っていた。このまま手を離すのに、2年はあまりにも長すぎる。
 ねえ、もうちょっとだけでいいから、あたしのこと見てて。この手はなさないで。どこにも行かないで。誰も、見ないで。

 あたしのこと見ててよ、雅治。




Promise your truth A (090820)























 ガラス細工によく似た瞳はいつも不思議な色をしている。人形のようなあの人の耳元では、いつも小さなピアスが銀色のまぶしい光を放っていた。熱を持った大きな手。相反したつめたい目が、いつもわたしの胸を震わせる。




 立海に入学してからというもの、わたしは戸惑ってばかりいた。各教室の場所を覚えるのには軽く1年を要したし、附属校というだけあって何かとお金がかかるから、わたしは家計のためにバイトだって始めた。おかげで睡眠時間がぐっと減って、目の下のクマが癖になって取れなくなってしまった。どうせ眼鏡の下のわたしの素顔なんて、誰も見ないだろうから、放っておいているけれど。

 昔から勉強は得意なほうで、勉強や学校が苦だと思ったことは一度もない。その代わりに、わたしは驚くほどの世渡り下手で、口べたなのを理由にして、あまり深く人と関わることをして来なかった。わたしのことを「さん」と苗字で呼ぶクラスメイトが、それを明らかにするなによりの証拠と言えるだろう。


 それなのにあの人は、わたしの気持ちを痛いくらいにかき乱して、ごく静かに、心の中へと入り込んできた。
 ……こんなことは初めてだ。少し前までは、わたしにとって彼はただのクラスメイトの一人でしかなかった。意識するべくもないと思っていたのは、彼の容姿は周りと比べたらとても奇抜で、わたしと相容れることはおそらく無いだろうと、確信に近い観念があったからだ。
 派手な男子。悩みなんてなさそう。友達に恵まれて、部活で活躍してて、勉強だって卒なくこなしている。おまけに美人で明るい彼女までいる。地味なわたしのことなんか、少しも気にしてなんていないんだろう。
 わたしの、仁王雅治に対するイメージは、こんな感じだった。




「イチゴミルク」

 真後ろで声がした。イチゴミルクの紙パックが取り出し口に落ちたのと同時に、わたしは驚いて振り返る。
 いつもの、飄々とした掴みどころのない表情をした、仁王雅治が立っていた。わたしは少しだけ身構えて、自分の顔が強ばってゆくのを感じる。

「………仁王くん」
「ずいぶんカワイイの飲むんじゃのう」

 彼はにっと笑った。わたしは妙に恥ずかしくなりながら、しゃがんで冷たいそれを取り出す。なんか、やっぱり少し感じ悪い。彼は蛍光灯の下できらきらと銀色の髪を揺らして、耳で光るピアスは小さいのに、それだけがやけに目立って見えた。
 彼は不思議な雰囲気を持っている。色気によく似た、人を惑わす性質のそれ。

「……好きなの。これ」

 わたしはそれだけ言って、彼の横を通り抜けて教室へ戻った。
 どうして彼が私に話しかけてきたのか、よく分からない。からかいとも違ったみたいだし、やっぱり、彼はどこか不思議だ。初めてあんなに近くで話した。顔を見た。あんなに整ったつくりをした顔を見たのは初めてだ。どこか現実離れしている。わたしの知らない世界の人間みたい。
 惑わされてる、わたし。しっかりしなきゃ。




 イチゴミルクの紙パックを机の端に置いた。あと5分で昼休みが終わって、5時限目の化学が始まる。教室はまだ騒がしくて、そこら中に笑い声が溢れていた。バッグに手を伸ばして化学の教科書を探す。ルーズリーフを机に乗せたとき、目の前に人の気配がした。
 右耳の銀のピアス。

「またコレじゃ」

 そのピアスの主は、イチゴミルクに目をやりながらそう言った。
 突然現れるからびっくりした。教科書を探る手を一旦止めて、彼の言葉に対する返答を必死で考える。なぜか心臓がひどく痛かった。今まで彼を苦手と思ってたから、いざというときに気の利いた言葉が出てこないのだ。
 あの日、自動販売機の前で話してから、彼は何かとわたしに話しかけてくるようになった。仁王くんの考えてることがよく分からない。面白がられてるのかな、とか、無駄に考えてしまう。だって、彼女がいるのに。いつも教室に会いに来る、明るくてかわいい彼女がいるのに、どうしてわざわざわたしの傍に来るんだろう。

「……だって、好きだから」
「ふうん?」
「今度、仁王くんも飲んでみたら?」
「そうやのぉ」

 さんのオススメやしの。仁王くんはそう言い残して、自分の席に戻っていった。
 すぐに予鈴が鳴った。化学の先生が教室に入ってきて、日直に号令を急かし、いつも通りの火曜日の5時限目が始まる。
 彼がよく、分からない。どうしてそんな風に無邪気に笑うのだろう。




 日にちが過ぎるのが早く感じる。仁王くんと話すようになってから、もうひと月も経とうとしていた。
 彼は相変わらずマイペースだし、昔から付き合ってると噂の、明るくて可愛い彼女が隣にいる。けれど最近はあまり教室に来ていないようだ。そういえば仁王くんが教室にいないことも多くなったっけ。
 私はと言えば、大して変わったこともない。バイトと勉強の両立はやっぱり大変で、考査では成績が少し下がった。勉強が手につかなかった、というのが正しいのかもしれない。本当のところ、わたしもよく分かっていないのだ。こんなことは初めてだ。全部が上手くいってないような気がする。
 分からない。けれど、苦しい。
 ……どうしてだろう。


 自動販売機にコインを入れて、いつものようにボタンを押そうとした。2段目の一番右端に置かれたイチゴミルク。
 わたしがこれを選ぶ理由は、もう、ひとつではなくなっていた。

「あ、、待ちんしゃい」

 後ろから声がした。振り返る。右耳の銀のピアス。
 仁王くん、と名前を呼んでみたら、それは思うよりも震えて響いてしまった。

「これ交換してくれん?」

 彼が左手に持っていたのは、うすいピンク色の可愛いパッケージをした、見慣れたイチゴミルクだった。彼はいつも飲んでるカフェオレを買おうとして、間違えてその隣にあるイチゴミルクのボタンを押してしまったらしい。ボーっとしてた、という仁王くんがおかしくて少し笑ってしまった。

「いいよ。じゃあ、わたしがカフェオレ買うから」
「すまんの」

 押しそびれてたボタンを押した。落ちてきたカフェオレの容器を取り出して、仁王くんに向き直る。
 
「はい」
「サンキュ」

 カフェオレを渡して、彼からイチゴミルクを受け取ろうと容器をつかんだ。ふと引っかかる。仁王くんはイチゴミルクを強くつかんだまま、思案げに黙り込んでしまった。
 ……またそうやって、よく分からないことをする。
 仁王くん、と呼んでみても、彼は反応しなかった。イチゴミルクのパックはだいぶ汗をかいていた。ふと顔を見上げると、ガラス玉みたいな目と視線がかち合って、それがあんまりきれいだったから、わたしは恥ずかしくて下を向いてしまった。
 「やーめた」、イチゴミルクを勢いよく持ち上げられて、わたしの手は容器から離れてしまう。彼の、現実離れしたきれいな顔は、心なしかいつもより楽しそうに笑っていた。そんな風にも笑えるんだ。思わず、見とれてしまった。

「やっぱ俺、こっちも飲んでみとぉなった」

 だからこいつはに返す。
 仁王くんはわたしの手をぐっとつかんでカフェオレの容器を持たせた。その拍子、イチゴミルクの冷たい水滴と一緒に、仁王くんの手の温かさが、たしかに伝わってきて、わたしは、思わず、動けなくなってしまった。

 おどろいた。色のない瞳をしてるのに、見たことないほどに透きとおったきれいな表情をしているのに、ちゃんと熱を持って生きている。
 そんなのごく当たり前なことにやっと気がついて、その瞬間から全てがリアルなことに成り代わっていった。彼がわたしの前で笑っているのも、彼がわたしの手をつかんだことも、全てが逃れようのない現実味を帯びはじめた。
 彼が、わたしの前で笑っている。彼が、わたしの名前を呼んでいる。

 仁王くんはさっさと歩き出してしまった。わたしは一人取り残されて、右手のカフェオレと仁王くんの後姿を交互に見つめる。
 よく分からない。苦手な人。きっと悩んだことなんてないんだ。友達にも恵まれて、部活でも活躍してて、勉強だって得意にしている。おまけに美人で明るい彼女までいる。地味なわたしのことなんか、少しも気にしてなんていないはずだ。そうに決まっている。……そうでなくちゃ、困る。だって、こんなことばっかりされたら、わたし、だめだって分かってるのに、意識してしまう。どうしようもなくドキドキしてしまう。だめなのに。
 だめだって、わかっているのに。


 仁王くんは、派手で、独特で、ちょっと感じが悪くて、怖い。
 だから絶対に相容れたりしない。きっと世界も、考えてることも、お互いに分からないはずだから。
 わたしは、わたしは、仁王くんのこと、好きになったりなんかしない。
 絶対に。




 ストローから流れてくるカフェオレは冷たくて、飲んでいるとなぜか気恥ずかしくなった。それはわたしがイチゴミルクを選んでいた理由と、全く同じもののせいだろう。
 つめたい。胸が痛い。仁王くんの机の上のイチゴミルクは、一体どんなことを意味してるの?
 分からない。分からない。……苦しい。




「俺も好きじゃ」

 どうしてそうやって笑うんだろう。
 わたしの心は乱されてばかりで、とてもじゃないけど勉強なんか、バイトなんかしてる場合じゃなくなっている。仁王くんのその言葉が指しているのは、イチゴミルクのことなのに、わたしはばかみたいに胸を痛ませた。
 彼女にだけ笑ってあげたらいいのに。どうしてわたしなんかに構うんだろう。

 仁王くんは、派手で、独特で、ちょっと感じが悪くて、怖い。本当は子どもみたいに笑うところも、わたしをからかうときの声も、ガラス玉みたいな瞳の色も、ちゃんと熱を持った手のひらも、わたしは知らない。知らないんだ。知らない方がよかった。
 彼は不思議だ。何を考えてるのか全然分からない。絶対に相容れたりできないはずの、わたしの苦手なタイプのひと。だってきっと、世界も考えてることも、お互いに分かることなんて出来ない。共有し合えることはないし、彼はきっと、わたしのことを、何とも思っていないはずだから。

「わたしも、好きだよ」

 仁王くんなんか嫌いだ。絶対に分かり合えたりしない、苦手なひと。

「…………

 分からない。仁王くんの考えてることも、わたしが思ってることの意味も。全部分からない。だめだよ。もうやめて。これ以上わたしのこと困らせないで。からかってるだけなら、もう、辛いから、やめてよ。
 分かりたいなんて思ってない。思ってなんか、

「俺、――――――」

 ねえ、仁王くん、わたしのこと、もう呼ばないで。
 (これ以上見ないふりは、きっとできないから)




Promise your truth B (090823)























 一緒にいるのにテニスのゲームばっかりで、どんだけテニスが好きなのあなた、ともやもやした気持ちを抱えながら蔵ノ介の背中を見つめることかれこれ30分。スポーツバーに行く終電に間に合わないから、一緒にサッカーの決勝を見ようと、酷くぞんざいな理由で私を誘ってきた蔵ノ介は、バイト終わりで疲れているのか少しいらいらしているようで、目に見えてぴりぴりした空気がさっきからここに流れている。一体何だって言うのだろう。こうやって家で遊ぶのも1ヶ月ぶりで、最近はお互いバイトが忙しくてまともに話す時間も取れてなかったっていうのに、なんでそんなに機嫌が悪いんだろう。私よりテニスのゲームがいいのか。そんな風にいらいらしてる意味もわかんないし、私の方をまっすぐ見てくれないのは、なんで?

「ねえ、それ終わったら話きいて」
「なに」
「それ終わってからでええよ」
「まだ終わらんし。ええから言いや」

 冷たいなあ。そういう小さなことから私が傷ついていくの知ってる?

「なんで怒ってるん? この前の飲み会くらいから、なんや機嫌悪いやろ」
「はあ? 別に怒っとらんよ。逆になんで」
「私が酔ってふらふらになっとったから?」

 蔵ノ介はぽん、とベッドの上にコントローラーを投げた。ゲームは終わったらしい。リモコンを拾い上げて、蔵ノ介は適当に合わせたチャンネルでやっていたオリンピックのニュースを観始める。これからやるサッカーの前回までのハイライトシーンが流れ出して、ぴりぴりした空気の中で賑やかなテレビの音だけが楽しげで、なんだか場違いだった。強いて言うなら、と蔵ノ介は体勢を変えて、私とは違う方向を向く。

「自分、酔ったら俺んとこ来すぎやねん。他の皆いっぱいおるやろ。俺人前でべたべたしとおないって言うたやん」
「……何それ。私べつに、蔵のとこだけ行ってたわけやないよ」
「なんや監視されとるみたいで、気い詰まるねん」

 なに、それ。今の、いちばん胸に刺さった。切ない気持ちで破裂しそうになってた心に、尖ったいらいらが湧き上がる。なんなの、どうしてそんなに冷たいの。そんなことまで言う必要ある?冷静な言葉が出てこない。ぐちゃぐちゃの感情がのどまで競り上がって、詰まる。苦しい。何を言えばいいかも分からない。

「それで怒っとるん?」
「せやから別に、怒ってるわけやないって」
「じゃあもう飲み会の最中は蔵のとこ行きません」

 浅田先輩に構ってもらうもん、と付け加えたら、テレビの音が余計やかましく聞こえた。4回生の浅田先輩はやさしくて、いつも面倒がらずに酔ってる私の話を聞いてくれるのだ。面倒見がよくて、少し意地悪で茶目っ気があって、皆が認める素敵な人。そういうところは蔵ノ介と似てるかもしれない。でも蔵ノ介と違って、浅田先輩はもっと大人だ。蔵ノ介は外面はいいけど、中身はこうだもん。気分屋で意地悪。甘やかしてくれないときは、こうやって極端に冷たい。さっきだってテニスのゲームを観ながら、わあとかきゃあとか言ってたら「そーいうのうるさい」とか一蹴されたし。面倒見のいいしっかりした先輩ぶってるけど、実は蔵ノ介はかなりの俺様男なのだ。付き合うまでまったくそんな素振りは見せてなかったのに。(それでも好きだなんて思ってる私のほうが、よっぽどだと思うけれど。)

「なんでそんな機嫌悪いん?」
「だから悪ないって。しつこいわ。あんまり言うとほんまに機嫌悪なるよ」
「もうすでに悪いやん。意味わからん。理由言ってくれんと謝れんもん」
「怒ってない。ほら、もうええやん」
「蔵ノ介は私のこと、もう好きやなくなったの?」
「何でそうなんの。そういう心配いらんて。自分ネガティブすぎやわ」

 面倒臭そうにテレビを消して、リモコンを転がした。サッカーまで寝よ、と言って。時計は2時を少し過ぎた頃だった。蔵ノ介はベッドを占領するように寝転がったから、私寝る場所ないやん、と言うと、気だるげに笑って壁側を空けてくれた。蔵ノ介が笑うのを見ると、安心する。大丈夫なんだなって思える。いつも壁側に寝せてくれるのも嬉しい。でも今日は蔵ノ介は私に背を向けて横になった。8月の初めで、蔵ノ介の部屋はひどく暑いから、触れる温度が気持ち悪いせいかも、しれないけれど。

「お前、絶対試合中寝るやろ。今寝とき」
「……ちゃんと起きて観るよ」
「途中で寝るような奴と観てもおもろないで」
「寝えへん。観るもん」

 ちくちくと痛みが溜まっていって、耐え切れずに私も壁側を向いた。このままで、寝れる気なんてしないよ。時間は一向に流れてはくれなくて、胸を詰まらせる思いにひどく泣きたくなった。目のふちににじむだけの涙は零れていかない。もう知らない、って言えたら、どのくらい楽になれるんだろう。もう帰るってタクシーでも呼んで、この部屋を飛び出して行けたら。二人で同じベッドに眠ってるのに、指先も触れない。前に遊んだときはこうじゃなかったのに。蔵ノ介の機嫌は悪くなくて、こんなに悪態つかれることもなくて、優しくてただ甘くて。

 本当にただ暑いせいなの?秋が着たら、寒くなったら、また前みたいにベッドに寝転んで、指先絡めてキスしてくれる? これでもう、お終いになってしまうんじゃないかと思って辛い。もう私のことを好きじゃないんじゃないかって考えてしまう。蔵ノ介は否定するけれど、そんなつまんないこと聞く女になってしまった自分が、情けなくて、本当に嫌われてしまいそうで、怖いよ。

「蔵ノ介もう寝た?」
「…………」
「寝たんや……早いなあ」

 たまに触れる足の温度がぬるい。こっちを見てよ。本当にまだ、私のこと好きでいてくれてる? 胸の奥がずっと痛くて、もう少し疲れてしまった。時計を見るとまだ2時半で、どうしようもなくて、壁側に転がっていたぬいぐるみを抱きしめて少しだけ眠った。




この手で愛していたい (120811)























 夏は好きだけど、暑いのは嫌いだ。大学進学を機に一人暮らしを始めたこの部屋は、夏になると異常なほど暑くなる。壁は薄いし、エアコンは先月の末に壊れてしまった。これでもう三度目だ。まだ直せていないのはバイトの休みが全然取れないからで、実際バイトのせいで予定をいくつも駄目にしてしまっている。サークルの遠征にも行けなくなったし、仲間と飲みに行く回数もぐっと減って、自炊することも少なくなった。金を稼ぐために始めたバイトのせいで、かえって食費が高くつくなんて皮肉な話だ。何のためにしてることなのか分からない。ひどく疲れた。忙しい日は休憩ももらえないし、夏場は酔った客が増えて面倒くさい。と遊ぶ時間もほとんど取れてないし、ほんと、何してんだか。

「まだ寝とき」

 時間は午前3時を過ぎた。1時間くらい眠って少し目の覚めた俺は、の横でテレビをつけて、もう一度ゲームをスタートさせる。眠そうな顔で起き上がったは、テレビの画面を見つめながらベッドにぺたりと座り込んだ。もう少し寝ろと言っても、首を横に振る。意地になっているのか、今日のはずっとこうやってじめじめしたままだ。俺の機嫌が悪い、と言って、泣きそうな顔ばかりして。

「もっかい、ちゃんと話しよ」
「もう話すことないやろ」
「あるよ。まだ怒ってる理由、聞いてないもん」

 原因はだけじゃないし、当然俺自身にもある。の言うとおり、この前の飲み会以来俺の機嫌が悪いというのは、紛れもない事実だ。あのとき俺はほとんど酔っていなかったが、は気持ちいいくらい酔ってべろべろになっていた。しかもは酔うと開放的になるタイプだから、色んな奴に話しかけるしちょっかいもかけられる。飲みすぎるなと何度注意しても「大丈夫」の一点張りで、まったく聞く耳を持とうとしない。
 だらしなく飲んでるときのは嫌いだ。俺の心配を聞き入れもしないで。浅田先輩なんかもきっと、をからかうのを面白がっているし、浅田先輩がそういう、みんなの憧れ的なポジションにいるとは言え、が自分が気に入られているのを自覚して喜んでいるのも、俺は気に入らないのだ。腕を引っ張って歩かせてもらったりしてるのを何回か見たし、が俺を気にして、何度も俺のほうを見ているのも、知ってた。けれどそういうので逆に苛立たせられるのだ。

 俺が無視してゲームを続けていると、も黙っていた。画面の中では観客が白熱して、俺はすぐに1ゲーム目を先取する。

「遊ぶの1ヶ月ぶりなのに、なんでこうなるん」
「さあ」
「寂しいとかって思っとったんは、私だけなんや、何か、もうええわ」

 ぽろりとこぼしたのは本音か。俺が少し笑いながら振り向くと、恥ずかしくなったらしいは自嘲するみたいに「もういや」と笑って、背を向いた。体育座りをして壁に寄りかかって、ちいさく鼻をすする。寂しい、とその口から聞いたのを、俺は無意識のうちに喜んでたようで、口角が勝手に上がるのが分かった。一人で悶々としているが、やっぱり可愛い、と思う。駄々をこねているのはきっと俺の方だろうけど、俺の態度に一喜一憂してみせるが、俺はやっぱり好きなのだ。(口に出してなんて、やらないけれど。)


 3時45分キックオフの試合は、それからすぐに始まった。腹が減ったから冷凍食品を温めて、はコーンスープを淹れて飲んだ。冷蔵庫からビールを取り出して口を開ける。テレビの前にかじりついて座る俺の、すぐうしろのベッドにが座る。頭を後ろに仰け反らせるとの膝にこつんと触れた。前半が終わるまでずっとこの距離が続いていた。途中、点が入ったときに伸びた腕と後頭部が、の太腿の上に柔らかく乗ったくらいで、ずっとこのまま。


「明日10時に起きる」

 外はもう明るい。試合が終わる前に夜が明けて、カーテンの隙間から朝日が洩れ出している。は試合の最後のほうからうとうとし始めていたが、ホイッスルが鳴るまでなんとか意識をつないでいたようだ。起きて観ると言い張っていたのを、どうやら本当に頑張っていたらしい。その証拠に、つけっぱなしだった電気を消して俺がベッドに行く前に、はもう横になって目を瞑っていた。俺が隣に寝転がると、壁側にずれて少しだけスペースを開けた。

「重い」

 ルームパンツから伸びたの白い足に足を絡ませる。避けはしないけれど文句を言って、シーツの上でみじろぐ。部屋が暑いから肌が触れていると熱かった。足を退けるとが壁側を向いたから、その後ろ頭を撫でたら少し笑みがこぼれた。の態度は全てが、俺に好きだと伝えてくれるから、俺はいつも意地悪をしてしまいたくなるのだ。からかいたくてわざと酷いことを言ってしまう。悪い癖だと自覚してはいる。真に受けて泣きそうな顔をするが、あほで可愛い。嫌いとかそんなの、なるはずがない。だって俺はこんなにもが好きなのだ。が喜ぶのも悲しむのも全部、俺のせいであればいいと思う。第一、は少し弱すぎる。俺の態度ひとつで泣いてしまうくらい、弱くて頼りなくて、だから俺は、こうして傍に居たいと思うのかもしれないけれど。


 夏は好きだけど、暑いのは嫌いだ。忙しいからってイラついてしまう自分自身も、べそをかいて拗ねてばかりいるも。すれ違ってしまうのはこのぬるい温度のせいで、悪いのはもしかしたら俺なのかもしれない。優しくしてやれなくてごめん。そんな言葉も器用に口に出せない、俺は。




やさしいナイフで傷 (120811)























 あーもう気がおかしくなっちゃいそう。まとわりつくような真夏の暑さがコンビニを出た瞬間からわたしの全身を覆うから息がしづらい。店内の明かりめがけておぞましい量の蛾が飛び交っている。これだから田舎の夏は嫌いだ、街灯が少ないからコンビニしか明るくないし虫が多いし、アスファルトだけがばかみたいに熱されてムシムシしている。大学に入って最初の夏休みは案外とすぐにやってきて、全くと言っていいほど待ちわびていなかった帰省の時期がわたしにも訪れた。お墓参りして親戚のおうちに行って、あとは実家でだらだらして終わり。いつ東京に戻ろう、ていうかこれから2ヶ月もある夏休みどうやって過ごそう。バイトはあまりにもシフトを入れてもらえなかったから辞めてきた。東京戻ったらまずバイト探すところから始めないとなあ。

 暑い。外にいるとおかしくなりそうだ。ポケットからスマホを取り出して、もういっかいコンビニの中に戻った。飲み物の陳列棚を見ながら意味もなく電話をかける。

「忍足げんき? 実家での生活はどうですかー」
か。自分今何時やと思てる? 1時半やで。よい子は寝る時間や」
「あのねえわたし暇すぎてさ。カラオケ行こうよ」
「せやなー行きたいな。東京戻ったら行こか」
「こっち本当なんもないんだよ、暇すぎ!」
「俺んとこはめんどくさーいイトコおるからなあ、鬱陶しいで」

 たぶんねえ夏の忍足のほうが暑苦しくて鬱陶しいよ。ふふふ。

「ていうか大学入ってから全然遊べてないじゃん」
「あー、確かにな。なんやかんや忙しいやろ自分も」
「そんなことないよ。バイト辞めたし」
「ほんま? ほなツタヤ来る? 人募集してんで」
「まじすか忍足先輩……そのときは色々お願いします」
「まかしとき。って、俺もまだぺーぺーやねんけど」

 コンビニの中には2人の店員さんとわたしだけ。店内を物色しながらけらけら電話してるわたしを、店員さんはちょっとジャマくさそうに何度かチラ見して来る。迷惑かな、でもこれからアイスを買うつもりだし、ちゃんと買い物もすれば文句はないはず。それまで涼しい場所で電話させてほしい。

「忍足彼女できた? あーでも医学部って男ばっかりか」
「や、意外とおるで。かわええ子も」
「まじ? 忍足ならすぐ彼女できるじゃん」
「と思うやろ。けどな、それがなかなか上手くいかへんのや」

 忍足みたいなイケメンでもだめなら、尚更わたしなんて彼氏できるわけないじゃん、ふざけてそんなことを言ってみたら、「せやろ?」ともっと調子に乗った反応が返ってきたから思わず電話を切りたくなった。相変わらず忍足はむかつくなあ。けど面白いから、許す。

「お前の彼氏はたぶん、俺みたいな男やないと務まらんで」

 忍足は一緒にいても気を使わないですむ、貴重な相手だ。頭の回転が速くて、わたしのどうでもいい話にだって付き合ってくれるし、くだらない話もしてくれる。理論ばっかりで口うるさいけど、いつも真っ当な理由で怒ってくれるし、当たり前のようになぐさめてもくれる。わたしの魅力だってちゃんと分かってくれてる。その辺の男になんて負けないくらい、忍足はわたしのこと知ってくれているのだ。忍足みたいな中身で、わたし好みの外見をした男が現われたら、わたしは絶対に好きになってしまうと思う。でも、忍足のことは好きにならない。だって忍足は忍足だもん。

 もうずいぶん長い付き合いになるなあ。忍足の傍にいるとき、わたしはいつも自由にしていられる気がするよ。

「しばらくは彼氏作る気ないからいいよ」
「ふうん? なんで?」
「別にー! とりあえずバイト探さなきゃだから」
「花の大学生やっちゅうんに、俺もお前も寂しいなあ」
「うるさい。とりあえず遊ぼ」

 はいはい、と電話越しに笑った声を聞いてから、じゃあねと言い合って電話を切った。忍足なら本当にすぐ彼女できちゃいそうだなあ。でもそれが嫉妬深い子だったら、またしばらく遊べない時期が来るのかも。それは残念だ。早く東京に戻って遊んでおかなきゃ。あと2ヶ月、バイトが見つかるまでわたしは暇だし、忍足を早くこっちに呼び戻して、一緒にカラオケでも行こう。

 ああなんか少しだけ幸せだ。うそ、わりと幸せだ。こういう毎日がずっと続いてくれたら、いいなあ。癪だから忍足には黙っておくけど、わたしあんたのこと、結構まじで大事に思ってるんだよ。恥ずかしいから直接言ってなんてやらないけど。




Hey, hello, how are you? (120817)























 は純粋さの塊みたいな子だった。酒に弱くて甘いカクテルで酔って頬を真っ赤にする。小動物のような黒目がちの瞳をうるませて、白石くん酔ってるの、と普段よりゆっくりした声色で俺に話しかける。セミロングの薄い茶髪は西洋の人形のそれのようで、色の白い肌によく似合って、その体は俺の手の温度より冷たくていつも驚かされた。

 出来すぎた女。その小さな唇はともすれば不機嫌にも見えて、彼女が放つ愛くるしさと妙なギャップを作るから、気まぐれで計算高い猫のようにも見えた。どこまでが彼女の策略のうちで、どこまでが彼女の魅力であるのか分からない。特別な美人というわけじゃない。ただその甘い視線につらぬかれて、正常な思考を奪われてしまうのだ。なんて馬鹿なんだろう、と思う。けれど一度可愛いと思ってしまってから、夢中になるまでにそれほど時間はかからなかった。
 その丸い頬に触れたい。柔らかそうな腕を引いて抱きしめたい。他の男に、いつかそうされてしまう前に。




「ごめんね、立てないの」

 は階段の踊り場に座っていた。フロントビルの2階のバーはサークルの打ち上げで盛況していて、その大声が階段にまで響いている。日付をまたぐかまたがないかと言った時間帯で、すでに潰れている奴も少なくなかった。も案の定、だいぶ酔っぱらっているようだった。いつも以上に目がとろんとして、顔が赤らんでいる。化粧の崩れた瞳が気だるげで、立てない、と言ったその足は靴も履いていなかった。素足の爪にはパステルカラーが塗られていて、彼女の色白さを際立たせている。

「白石くんも涼みにきたの?」

 人の往来のなくなった階段はたしかに涼しくて、素足でそれを踏むのは心地いいのかもしれなかった。隣に腰かけると、は俺を覗き込むようにして首をかしげる。酔っているというのは、どうやら本当らしい。こんなにへらへらとした笑顔を見るのは初めてだ。油断してるとしか思えない。俺の言葉にうふふと笑って、時折眠たそうに目を閉じてからだを揺らす。膝と膝が触れると何気なく、の右手が俺の膝に乗った。

さん、ちょっと酔いすぎちゃうか」
「そんなに酔ってないよ。全然だいじょうぶ」
「でも立てへんねやろ」
「ふふ。だって、楽しいんだもん」

 思わず手を重ねると、拒まれないまま、ゆっくりと指が絡んだ。急にアルコールが体中を回るような錯覚。鼓動が少し早くなってつい気も逸ってしまう。少し距離を詰める。の目のすぐ下に、溶けたアイラインが茶色くにじんでいる。近くで眺めて、改めて、はこんなに可愛い顔をしているのかと思った。

「白石くん……」
「ん?」
「ん、じゃない。近いよ」

 楽しそうに笑うその声は、やっぱり酔いの回ったそれだ。顔を近づければ伏し目がちに目を逸らす、の反応は新鮮で、うぶなそれに少し高揚した。もしかしたら彼女はイメージどおり、計算なんて一つもなくて、本当にただ純粋そのものなんじゃないかと期待してしまう。少し幼げな甘ったるい顔。不潔なことを知らないとでもいうような、あまりにも初々しすぎる態度。全部が俺の願望?

「ずるいなあ」

 その頬に触れたら、は案の定少し肩を震わせて、ふふ、と笑った。

「なにが?」
「そんな顔されたら、キスしたくなるやろ」
「やあだ、なにそれ」
「だめ?」
「白石くん、酔ってるの」

 酔ってない、と言いながら顔をぐっと近づける。もうあと少しで唇が触れる、そんなときに、の細長い指が伸びて少し距離を作られた。三日月を作る小さな唇を本当にこのまま奪ってしまいたいと強く思ってしまった。手首を捕らえて、酔った勢いで、と言えばなんだって出来る。けれどこれ以上拒まれでもしたら嫌だと、なけなしの理性が食い止める。自分でも気づかないうちに、ひどく酔っていたことを、今になって実感した。

「酔ってへん」
「ふふ、うそだなあ」
さんほどやないよ」

 酒というのは、便利だ。ふだんなら出来ないこんなことも出来てしまう。ここに最初に来たのが俺でよかった、と痛切に思う。他の男が、こんなふうにに近づいていたらと思うと、想像するだけで、たまらなく苦しくなってしまう。酔っているからだろうか? いや、今俺は少しだけ、自分の感情に素直になっているせいだ。出来すぎた人形のような、計算高い猫のような、純粋さの塊のような、二色三色もの顔をもつに、こんなにも虜になっていたことを俺は自覚する。

「だめだよ」

 熱に浮かされただらしない声で、は俺の肩を押し返す。拒んでるんじゃない、じゃれてるみたいな力に、余計に煽られてしまう。

さんは、俺のこと嫌いなん?」
「そうじゃないよ。でも、酔ってるからだめ」
「酔ってなかったらええの?」
「ふふ、どうだろ?」

 焦らされてる気しかしないのは、俺が自分のなかに燻る欲望に気づいているからだろうか。このまま触れたい。キスしたい。目の前で俺が不純なことを考えてると知ってて、そんなにも扇情的な顔をするのだとしたら、は相当の悪女だ。けれどそうじゃないほうを考えて、妄信的に信じようとする俺は、きっと、本当に愚かなんだろうと思う。

さんてさあ」

 ゆっくりと瞬きをしながら、ほど近い距離で俺を見上げる。こげ茶色の瞳に蛍光灯のライトが映りこんで、きれいだ。

「女の子らしいてよく言われるやろ」
「うーん、そうだね」
「お菓子作りとか、得意そう」
「ふふ。そう見える?」
「言葉遣いもきれいやし」

 女の子らしいよ、と、俺が並べる言葉を、はくすくす笑いながら聞いていた。少し汗ばんだ頬のてっぺんを真っ赤にさせて、うつむけば額と額がぶつかるような近さで。絡んだ指をはずしては、もう一度、今度はもっと強く、ぎゅっとつかまえる。甘ったるい酒のにおいがして、のまつげが俺を向いて揺れるたびに心臓が跳ねる。白石くん、とろれつの回っていない舌でゆっくりと、は俺の名を呼んだ。


「本当にそう見えてるなら、白石くんはばかだね」


 じわり、じわりと染みのようににじんでいくの、俺を誘うやさしい声。純粋さの権化のような顔をして、喉を甘く鳴らして、細くて長い指先で俺の手を引く。逃したくない、と思った。ぐちゃぐちゃに絡んだこの指先を離してしまうのは少し惜しい。もっと見たい。その出来すぎた人形のような、計算高い猫のような、純粋さの塊のような甘い顔で、乱れたやらしい言葉を俺に囁いて。清らかなおまえのその舌が、俺以外の誰かに愛を囁いてしまう前に、早く。




抜け殻になるのは僕か君か (120821)
























































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