さんが短期のバイトをするというから、ロックバイソンたちの行きつけのバーに僕も連れて行ってもらった。普段あまりこういう場所には行かないから緊張する。さん、一体ここで何のバイトをしてるんだろう? ヒミツって言われちゃったけど、ウェイトレスならウェイトレスだって言ってくれそうなものなのに。店に入るといらっしゃいませー、という声の中にさんの声が混じっていた。どきっと心臓が鳴って、僕の目は必死にさんの姿を探した。けれど。
「え……………」
「虎徹さん、アントニオさん、いらっしゃ――――」
 僕の前にいた虎徹さんたちはさんを見て、よう、と声をかけ、可愛いねえ、と口笛を吹かせた。それもそのはずだ。さんは黒いストッキングに、タイトな赤いバニーガールの衣装を着ていた。真っ赤なそれはさんの肌によく似合っていたけど、突然のことで立ち尽くしてしまった僕は、バニーガールなのに黒じゃないのか、なんてどうでもいいことを考えて少しぼうっとした。
 さんがバニーガールの衣装を着ている。
「…………っ、こ、これ、どういうこと!?」
「イワン君、ごめん! ちょっとこっち来て!」
 僕がようやく取り乱すタイミングで、さんが僕の手を取って、奥へ走り出した。トイレの横、倉庫みたいなところに押し込められて、埃っぽいそこに二人きりになる。さんが動くたび赤い耳がぴょこぴょこ揺れて、まんまるい尻尾がふわふわ揺れて、さんは小さいから本当にうさぎみたいだなあとその後ろ姿を見て思った。ああ、かわいい。かわいいんだ。だから僕はどうしていいか分からなくなってしまう。

 気まずそうな顔で僕に向かいあったさんは、顔の前で両手をぱちんと合わせた。
「ごめんね。驚いたよね。短期バイトって、バニーガールのことだったの!」
 イワン君、このお店には来ないと思って……。と言い訳するさんは今更恥ずかしそうにして、所在なさげに白い襟を直した。バイト……バニーガールって……。つるつるしたバニーガールの衣装はさんのボディラインがはっきりと分かって、まじまじ見つめると僕のほうが恥ずかしくなる。確かにさんはかわいいから、似合ってるし、時給もよさそうだし、条件はいいかもしれないけど……。
「こ、こんな衣装だなんて、僕聞いてないよ!」
「うん、ごめん。わたしもびっくりしたんだけど……」
 もじもじして足をすり合わせるさんを見ていると、いつもよりセクシーなその姿に思わず顔が熱くなった。ああ、僕いま、絶対に真っ赤になってる。だってさんがこんな格好してるんだもん。ごめんね、と申し訳なさそうな顔で僕を見上げてくるさんは、やっぱり本物のうさぎみたいにかわいくてずるい。
 こんなさんを他の男たちに見せていいわけがない!
「や、やっぱりだめだよ……さん、こんなの……」
 倉庫は狭いから、詰め寄るとさんの背中はすぐ棚についた。僕が手を伸ばすと、さんは少し怯えてるのか肩をすくめて、不安そうに僕を見上げる。だって太もものこんなところまで、見えてるんだよ? タイツ越しに肌に触れると、冷たい僕の指先にさんが身をよじって、その仕草がなんだかやらしくて、僕はこのまま止まらなくなってしまいそうだった。
 むきだしの鎖骨にキスをして、そこに痕を残してしまいたい。それくらいは許されるかな? さんが他の人に連れていかれないように、僕のものだっていうしるしをつけたい、だって、こんなにかわいいんだもん。
「イワン君、怒ってる?」
 うん、怒ってる……よ。さんのこんなにかわいい格好、僕以外の男に見せたくないし。ピンクのチークが乗った丸い頬にちゅっとキスをすると、潤んだ瞳をするさんにきゅんときて、僕の中の熱がますます上がってしまう。あ、やばい。これ……。誘われるようにくちびるに吸い付くと、もう止まれない。甘い吐息をこぼして、さんが僕の首に腕を回した。そんな顔されたら僕、その気になっちゃうよ。場所なんて関係なくなって、このまま……。
「イワン君、このバイト、あと2日で終わりだから……」
「うん……じゃあ僕が毎日、来てあげるよ」
 他の男に手を出されないようにね。それとも、僕がさんに擬態して働いた方がいいかな? あとで提案してみよう。とりあえず今は、僕に内緒にしてたさんにお仕置きをしなくちゃ。つるつるのからだを爪先でなぞって、薄暗いなかに白く浮かんださんの鎖骨に噛みついて、埃まみれの床の上にどさり倒れこんだ。




ホーリーナイトガーデン (140216)























 ああ楽しくお酒を飲んだなあ、酔っぱらってるなあ、って思いながらふらふらと、イワン君に掴まって歩いて、みんなにバイバイしたのは覚えてるんだけど、そういえば私、なんでイワン君と一緒に帰ってるんだろう? イワン君の家と私の家、別に近くないし、とつらつら喋りながら腕を引っ張ってみると、「ちゃん酔っぱらってるから、一番近い僕の家に帰るんだよ」ってまだ少し頬の赤い、お酒の匂いのするイワン君が、私の体を支えてくれながら、一人暮らしのアパートまで連れて行ってくれた。
 日本式の畳にごろんと寝転がる。ああ、やっぱり、気持ちいい。
ちゃん、靴脱がせるよ?」
 んんー。涼しい畳に頬を寄せてると、すぐにうとうとして眠ってしまいそうになる。今日ちょっと、飲みすぎちゃったなあ。潰れなくってよかった。そっと私の足に触れたイワン君の手が、ローヒールのパンプスを脱がしてくれたので、私はそのまま体をくるりと丸める。畳いいね、とうわ言のように笑うと、イワン君はちょっとだけ嬉しそうに「でしょ?」と返事した。目を開けると、ちょうどイワン君が、部屋の真ん中に布団を敷いてくれていた。
「ほら、ちゃん……こっちで寝て?」
「うん! ありがと、イワン君」
 明日の朝、すぐ帰るから、ってあんまり早起きする自信はないけど、一応伝えておく。ジャケットを適当に脱いで、そのまま布団に横になる。冷たい敷布が、酔っぱらいの熱い肌には心地いい。ぐっすり眠れそう。スタジャンを脱いだイワン君が、薄っぺらいロンT一枚になって、控えめに私の隣に寝転ぶ。あれ、一緒に寝るの?
「布団、一組しかないって言ったじゃん……」
「そうだっけ? ううん、まあいっか」
 一緒に横になってると、修学旅行みたいで面白い! なんてね。私がくすくす笑ってると、頬の赤いイワン君が少しむっとする。
「いいから、寝るよ。ちゃん」

 無理やり目をつむったイワン君は、近くでよく見ると睫毛が白くて長くて、鼻筋も通ってるし、輪郭だってシャープでスマートで、私よりもよっぽど綺麗な顔してるなあ、と思った。肌の白さだって負けちゃいそう。ニキビも一つもないし、同い年なのに体の作りとか、雰囲気とか私よりも大人っぽいし……。イワン君ってこんなにたくましかったっけ?
「……なに笑ってるの……」
「別にっ! ふふ、こうしてると、なんか楽しいね」
 向かい合って目が合って、たぶん私の顔はまだ赤いんだろうな、でも今のイワン君の顔も、けっこう赤くて、面白いよ。色白だとお酒がすぐ顔に出るから困っちゃうね。ああ、私お酒くさい。ぼーっとしてる。このまま寝たら、顔むくんじゃいそうだな。おなかもいっぱいだし。布団の中で動かした手がイワン君の手とぶつかって、その温かさがちょうど良くて気持ちよかった。私の手よりごつくて、骨っぽいイワン君の手。
「ね、寝てよぉちゃん……お願いだから……」
 困ったように布団にもぐるイワン君がおかしくて、声をあげて笑った。ああ、ほんとに楽しい。お酒まだ残ってるし、イワン君は可愛いし。おまけに明日は何もない。寝ちゃうのがもったいないなあ。からかうように手に触れて、冷たいでしょ、とぎゅっと握ってみると、しびれを切らしたらしいイワン君が、がばっと上体を起こして、恨めしそうな瞳でじっと私を見下ろした。
「ああ、もう……! 知らないからね、ちゃん!」
 急にぐっと掴まれた手首が、布団に押しつけられて、痛かった。じりじりと私に覆いかぶさるイワン君は、さっきとは雰囲気が全然違って、赤い頬も温かい掌も、優しいというよりは、男の人っていう感じで、荒っぽくてびっくりする。あ、あれ……? イワン君、もしかして怒った? 月光を背負うその表情はよく見えないけど、少し乱れた呼吸がまだお酒くさくて、あまりの距離の近さに、少したじろぐ。
「怒ってないよ……でも僕、もう我慢、出来なくなっちゃいそう」
「へ……? イ、イワン君……?」
「僕の家来てくれたってことは、期待してもいい、んだよね……?」
 差し込んだ月のあかりで、イワン君の白い頬が見えた。熱に浮かされた瞳は甘く、まんなかに私を映している。お酒に酔ってるのとはまた違った色っぽさに、体の奥がぞわりと粟立つ。え、あ、と戸惑った声を漏らす私の頬に、イワン君のくちびるがちゅっと触れた。ああ、濡れた呼吸が耳に響いて、びくっと肩が震える。なにこれ、イワン君? ほんとに、イワン君なの?

「僕ずっと、こうしたいって思ってた……」
「あ……イ、イワン君……」
「だから嬉しいんだ……こうやって、二人きりになれて……」
 するする、毛布の擦れる音だけが切なく響いている。早鐘のように脈を打つ私の首筋を、イワン君のくちびるがなぞる。熱い舌先がちろりと伸びてきて、思わず、イワン君の肩を押し返した。や、止めて……! そんな弱弱しい声すら、イワン君は嬉しそうに聞き流してしまう。お酒が回ってる? でも、そういうわけでもなさそうだし、この感じは、まずい。非常にまずい。酔いが覚めて冷静になっていく一方で、まだ頭がぼーっとしている。どきどきしすぎて、眩暈さえしてきた。でもこのまま流されちゃっていいわけがない。
ちゃんの心臓、すごくドキドキしてるね……。可愛い……」
「イワンく、っん! ん、んんっ……!」
 やめて、と叫ぼうとしたくちびるが、唐突に、ふさがれた。
 上唇を吸って、舌が割って入ってきて、ちゅっちゅっと小さく音が鳴るのと一緒に、熱っぽいイワン君の吐息が聞こえてきて、またぞわりと体が疼く。ああ、やだ、何この感じ。逃げる私の頬を固定するように、あごを掴んだイワン君の手が、彼とは思えないくらい力強くて、驚く。イワン君も男の人なんだ、って実感して、睫毛の触れる距離で目が合って、心臓が止まってしまいそうになった。
 どうしよう、どうしよう。イワン君ってこんなに、たくましかったっけ? さっきも同じことを思ったけど、それとは全然、ちがう。

「んっ、……はあ、ごめん、本当にもう、やばい……」
 細身の体がわずかに浮いて、私と距離を取った。はあ、と呼吸を荒くしながら、頬を赤く染めるイワン君が、舌で自分のくちびるをなぞる。やらしい!初めて見るイワン君の男っぽい仕草に、表情に、声色に、体が緊張してしまう。
「僕ほんとに、ちゃんのこと、ずっとずっと好きで……、キスとか、それ以上のこととかしたいって、ずっと……思ってたんだ」
 ぼうっとする私を見つめる、イワン君の瞳に酔いが回ったように見とれてしまって、動けない。このくちびると私は今、キスしてたの?ぞくぞくと背筋を走る妙な感覚に、呼吸が止まりそうになる。どきどきが止まない。気持ちいい、って思ってしまった。イワン君の思いが伝えられるみたいに、激しくて甘ったるいキスを……。
「好きだよ……ちゃん。僕のものにしていい……?」
 ああ、でも、こんなのどうかしてる!
 性急に求めてくるイワン君を、熱くて刺激的な瞳を、優しく気持ちいいくちびるを、理性との間で闘って、拒みながら、キスしようとするイワン君を押しのけて、なんとか止めた。自信はなかったけど強く押し返すと、イワン君はちゃんと止まってくれたからホッとする。やっぱりだめだよ、早すぎるよ、なんて今さら純情ぶって、でもビッチにもなりきれない心臓のドキドキを必死に押さえつけながら、がばっと起き上がってそのまま正座する。イワン君にも正座させる。とりあえず落ち着いて。酔いを覚まさなきゃ。すーはー、深呼吸して、物足りなさそうな顔するイワン君に向き直って、諭す。

「思わせぶりなことして、ごめんなさい、でもこういうのは、その、順番にやりたいっていうか……!」
「順番……? えっと、あ、大丈夫だよ、僕ちゃんと」
「そ、そそそうじゃなくって! あの……ちゃんと好きになってから……考えるから……」
 イワン君のこと、……。ぼそぼそした私の呟きを、イワン君は分かってくれたかな……もう不安でしかない……。多少の気まずさを感じながら、ちらっとイワン君のほうを見ると、私が想像していたのよりずっと優しく、嬉しそうな顔をして、幸せいっぱいみたいな顔をして笑っていたから、予想外すぎてすごく驚いた。ど、どういうこと? 分かってくれたの? きょとんとする私の手を、ぐっと両手で掴んだイワン君は、うっとり恍惚の表情で、私を見つめてにっこり笑った。
「やっぱり奥ゆかしいんだね……日本人って! ああ、本当に素敵だよ!」
 たまらない! というように、イワン君は私の指先にちゅっとキスをして、がばっと押し倒して、「絶対、大切にするね」と囁いて、大人しく私の隣に寝転がって寝る体勢を整えはじめる。今日はこのまま何もせず、寝よう、ということが伝わってくれた。んだと、思う。たぶん。ああ、彼が日本フリークで本当に良かった、と思った。象徴するような畳の寝床に横になりながら、疲れ果てた末のため息が零れ落ちていく。軽率な行動を反省しつつ、予想外の展開に混乱しつつ、これから起こりうるかもしれない未来に思いをはせて、どうしよう、と恥じらってしまう日本人らしい焦れったさが、またイワン君の興味関心を煽って綺麗に作用してしまうのを、何とも言えない気持ちで見ていた。
「おやすみ、ちゃん。大好きだよ」
 でもイワン君の笑った顔は、格好良くて、ちょっぴりセクシーで、すごく素敵だなあと思った。




恋とは夜の夢のこと (140220)























 雑誌のインタビューが押して、バーナビーがいらいらし始めているのが遠目にも分かってきた。不機嫌なバーナビーほど面倒くさいものはない。同い年にして大人びている人だと思っていたけれど、バーナビーはたまにびっくりするくらい子供っぽいところを持っているのだ。いちおうちゃんと笑顔を作ってはいるけれど、訴えかけるような目をしたバーナビーに一瞬睨まれてぎくりとする。
「ああ、疲れた。本当に疲れた」
「お、お疲れ様です。急な取材だったのにありがとう」
 ヒーロー事業部の広報をしている私の役目は、雑誌の取材に関してバーナビーや虎徹さんとコンタクトを取ることだ。もはやアイドル扱いになれっこのバーナビーは仕事を淡々とこなしてくれるけれど、最近は私に小言を言うことも多くなってきた。取材の頻度が高すぎません? とか、写真を何枚とれば気が済むんですか? 僕疲れたんですけど。とか、あまり遠慮のない愚痴を。これは信頼してくれている証だと思っていいのかなあ。
「まったく本当ですよ。今日はすぐに帰る予定だったのに」
 私服のジャケットを羽織りながら、やっぱりバーナビーは不機嫌そうな顔をしている。もう慣れたけど、最初はぴりぴりしたこの雰囲気に慄いて、おどおどばっかりしていたものだ。あのかっこいいバーナビーが、本当はこんなに現実的で愛想のない人だったなんて! ショックだ、なんて思いながら。適当にごめんねと謝って、バーナビーの帰り支度を見届けていると、ふいに彼が振り返って、じっとこちらを見つめた。
「ねえさん。貴女の仕事はもう終わりですか?」
「え? あ、うん、あとはチェック任せるだけかな」
「なら、このあと僕に付き合って下さいよ。夕食がまだで、お腹空いてるんです」
 そういえば、もう時計は20時を切ろうとしている。私も夕方におやつを食べたっきりでごはん食べるのを忘れていた。そう意識した瞬間、ぐっとお腹が空いてきた。仕事も終わることだし、ごはんを食べようというバーナビーの誘いがとても魅力的なものに感じる。お腹を押さえて、たしかに、と呟いた私を見てバーナビーはふっと笑った。
「行きましょう。僕に残業させた責任、取ってくださいね」
 こういうバーナビーの表情は柔らかくて、好きだ。責任は取るけど、奢らないよ? と念を押すと、バーナビーは怪訝そうな顔をして「はあ? 分かってますよ」とか言って、その生まれ持ったジェントルな一面をおしげもなく見せてくれる。バーナビーはこういうところがあるからなあ。散々文句つけたり、不機嫌な顔したりするくせに、肝心なところで男前なんだから。
「ほら、早く荷物取ってきて。僕をもう待たせないでください」
「わ、分かった! 急ぐから待ってて!」
「はい。ちゃんと待ってますから」
 やっぱり少しは私のこと、信頼してくれてると思ってもいいんだよね? 駆け出した私の背を見送るバーナビーの視線が、優しくて熱くて焦げついちゃいそう。なんて幸せなこと考えて、頬を赤くしてる私がいる。




こうして春が来るまで (140225)























 甘いカクテルを飲みほしたちゃんの、潤んだくちびるが可愛くて見惚れてた。僕よりも飲むペースは遅いのに、もう薄っすら酔ってるみたいだ。首のあたりまで赤くなってて可愛い。バイトのあとだからと言って真っ赤になった頬を手で隠して、ちゃんは美味しそうにピーチリキュールのカクテルを口に含む。そんな大人びた仕草とあどけない表情が、僕にお酒の回りを早くさせる。なんだか顔が熱いなあ、もう酔ってきちゃったのかも。ちゃんの横顔をぼーっと見つめていると、怪訝そうな顔したちゃんに覗き込まれて、ようやくはっとした。
「ご、ごめん。見惚れてて」
 こんなに近くにいるんだから、見惚れないほうがおかしいけど……ちゃんはひとしきり驚いて、何言ってんの、と僕の腕をパンチする。
「真面目に話してるでしょ」
 くちびるを尖らせて、僕をにらみつけるちゃんのその顔は、子犬の威嚇みたいで可愛いけど、これ以上言うと本当に怒られてしまいそうだから止めておく。ちゃんは今日、ずっと僕の相談に乗ってくれているのだ。ヒーローとして今後どうしていくか、とか、本当に僕にシュテルンビルトが救えるのかどうか、とか……かなり真面目な話。でもお酒が入ってきて、ふたりともだんだん話が横道に逸れることが多くなってきた。
「イワン君は素敵なヒーローだよ」
「え、」
 だから急に、目を見つめてそんなことを言われてどきっとしてしまった。あ、えっと、と狼狽える僕を見て、ちゃんはぷっと笑う。
 少し伸びてきた髪も、ちゃんが良いっていうから、まだ切ってない。ちゃんはどんどん僕の中に入ってきて、こうやって僕の全部を、ちゃんなしには生きられないように変えてしまうんだ。お酒のペースが速くなる。赤くなった頬を隠すように飲みほして、僕のとなりで足をゆらゆらさせて笑うちゃんをじっと見つめる。ああ、やっぱり可愛いなあ、キスしたいなあ、って思う。
「えっと……あ、ありがとう」
「もっと自信持っていいと思うよ。イワン君、ちゃんとかっこいいんだから」
 折紙サイクロンの一番のファンはきっとわたしだよ、って、そんな可愛いこと言われたら、僕、どうしていいか分からなくなっちゃうよ。ちゃん、僕ほんとうに、君のことが大好きだ……。こうやってふたりで過ごすことが多くなってから尚更、ちゃんの可愛いところがたくさんたくさん見えてきて、僕はその度にとりこになってしまうのだ。
 カウンタの向こうにいる、バーテンダーのおじさんが見てない隙を狙って、そっと顔を近づける。不意を狙ってその熱いくちびるに一度キスをすると、ちゃんの顔はもっと赤くなった。ああ、可愛い。僕がふふっと笑うと、拗ねた顔してちゃんは僕を突き返す。その小さな手のひらをつかまえて、ぐっと引き寄せて、抱きしめた。
「僕の一番はずっと、ちゃんだよ」
 バーテンダーのおじさんがこっち見てるけど、もう一回キスしてもいい? 可愛い君が僕のものなんだって、今ここで確かめたいんだ。




誘惑はほんの少し (140309)























「もう少し……そう、こうして」
 私の手を覆うように掴みながら、イワン君の手がダーツを投げる。真ん中に刺さったそれに、わあ、と歓声をあげると、イワン君ははにかんで嬉しそうな顔をした。私の手はただ引っ張られてるだけだけど、こうすると自分が投げたみたいで気持ちいい。こんなにダーツが上手いなら、もっと自信を持っていいのに。褒められて恥ずかしそうにするイワン君も可愛いけど、後ろから私にダーツの投げ方を教えてくれるイワン君は、いつもより格好良くて、薄暗いバーのせいか雰囲気が少しだけ大人っぽい。
「うん、上手だよ。ちゃんセンスあるね」
 吐息が近い。思わずどきっとしてしまって、上の空で返事する。ごまかすように慌てて投げたダーツの矢が、壁に当たって、間抜けに床に落ちて行った。
 ああ、これじゃあ動揺してるのがばれてしまう。けれどちらりとイワン君を見やると、そんなことも気にしてなさそうな、いつものイワン君がいてほっとした。良かった、私ばっかり意識してるみたいで、なんだか恥ずかしい。もう一回、と促されて矢を持った私の手に、またイワン君の手が重ねられる。心臓がどくりと音を立てて、つい声が震える。
「……ちゃん、もしかして緊張してる?」
 頭の後ろ、耳の上のほうで、イワン君が囁いた。熱い呼吸が耳たぶに触れて、背中がぞくりと粟立つ。
「顔、真っ赤だよ」
 ああ、どうしよう、どうしよう。ドキドキしてるの、気づかれてないと思ってたのに。私が、そんなことない、としどろもどろに答えようとすると、イワン君はおかしそうにふっと笑って、覆ったままの私の手をさらにぎゅうと握った。大きな手。イワン君がこんなに大人っぽい顔をするなんて思ってなくて、私はただただ固まってしまう。
「可愛い。ちゃん」
 ドキドキうるさい心臓をさらに跳ね上げるのは、イワン君のかすれた声だ。逃げようとする私を捕えて、イワン君は反対側の手を私の腰に回して、私の髪に愛おしそうに頬を押しつけてくる。身体がぎゅっと密着して、本当に息が止まってしまうかと思った。イワン君、と名前を呼ぶと、ん、と子供のような声が返ってくる。強引で男らしいかと思いきや、頼りない子犬みたいなところもあるから、イワン君はずるい。
「なんか、僕までドキドキしてきちゃった」
 すぐ後ろのカウンターでは、アントニオさんと虎徹さんが酔っぱらいながら語ってる。ばれたらどうしよう、なんて心配してるわりには、イワン君はにこにこ笑って、なんだか楽しそうだ。余裕を見せられるのが悔しくて、申し訳程度に睨みつけてみると、それもいつもの可愛い笑顔に受け流されてしまった。
「ねえ、このままふたりで抜けよう?」
 当たり前のようにそんなことを囁くイワン君って、こんなに格好良かったっけ? なんて思いながら、頷けば、耳たぶにキスが降ってくる。立ち尽くす私の手を引いて、イワン君はバーの扉を開く。外の風は少し冷たい。詐欺だ、と呟いた声は聞こえてなくて、振り返ったイワン君の無邪気な笑顔に、どうしようもなくドキドキしてしまった。




きみが世界を回すんだね (140311)























「もしかして、折紙先輩を探してます?」
 透きとおった声につられて振り返ると、そこにいたのはバーナビーさんだった。アポロンメディア所属の彼とは、事業部の取材で一度だけ会ったことがある。カメラの回っていないところでも、バーナビーさんは紳士的でハンサムだ。久しぶりに顔を合わせた私のことを覚えてくれているあたり、本当によく気のつく人なんだとも思う。
「折紙先輩なら、今着替えてましたよ」
「そうなんですか。ありがとうございます!」
「いえ。お疲れ様です」
 バーナビーさんの微笑み! 取材の時のそれと同じで、きらきらしている。私が見惚れてしまっていると、バーナビーさんはそのまま距離を縮めてきた。よく分からないまま身構えて、肩をすくめると、バーナビーさんは私にそっと耳打ちをする。
「やっぱり、付き合ってるんですね」
 …………えええ! からかうようなその口ぶりに、顔がかあっと熱くなる。私が飛び上がると、バーナビーさんは大人っぽくクスッと笑った。
「じゃあ僕はこれで」
 爽やかに去って行ったバーナビーさんの後ろ姿に、焦って手を振り返す。バーナビーさんって手ごわいかも……。私とイワン君が付き合っていることは、ヘリペリデスファイナンスの事業部内でもごくわずかの人しか知らないのに。あなどれない、と思ってぼーっとしていると、後ろから「ちゃん!」と私を呼ぶイワン君の大きな声が聞こえてきた。傍に来るなり、私の両肩をぐっとつかんだイワン君は、誰が見ても分かるくらい不安な顔をしている。
「ねえ、今、バーナビーさんと何してたの……?」
「え?」
 イワン君は必死に私を問い詰める。焦って走って来たというのがその表情から分かった。きっと遠目にバーナビーさんが私に耳打ちするのを見て、なにか誤解でもしたのだろう。イワン君は自分に自信がないからって、やきもち焼きでたまに困ってしまう。私が見てるのはイワン君だけなのに……。でもまあ、たしかに、バーナビーさんはハンサムだからドキッとしちゃうこともあるけれど。
「実はバーナビーさんに、イワン君と付き合ってることばれちゃって……」
「そ、そうなの? あ、でも、バーナビーさんなら、大丈夫かな……」
 それだけ? と心配そうに聞いてくる彼に頷くと、イワン君ははあっと大きなため息をついて、一気に肩を落とした。
「僕てっきり、キスされてるのかと思ったよ……」
 ああ、やっぱり、そんなこと考えてたんだ。しかもバーナビーさん相手なら勝ち目ない……なんて思ってるんだろうな。イワン君はネガティブなこと考えてると、すぐ顔に出るから。ばかだなあ。何も心配なんてしなくていいのに。少し赤い頬をしたイワン君は、じっと私の瞳を見つめて、こつんと額を合わせてくる。ゆるゆると指先が絡められて、そのままぎゅっと繋がれた。大きくて乾いたイワン君の手のひら。
ちゃんも、油断しないでね」
 男なんてみんな馬鹿なんだよ、と言いながら、トレーニングルームのすぐ傍だってこともお構いなしに、イワン君はこっそりキスをしてくる。不安そうな顔するイワン君が可愛くて、その手をぎゅっと握り返す。私はイワン君しか見てないよ、と言うと恥ずかしそうな顔をして、でも嬉しそうに「僕もちゃんしか見えないよ」と言って笑った。




まどろみのカデンツァ (140312)























 我慢してるんだよって言われた瞬間から体の奥が燃えるように熱くなった。男の人の欲情を見逃すほど私は子供じゃないし、かと言ってそれを受け止められるほど大人でもない。もう何度もしていることなのに、キスをするたびに胸が詰まるような思いに囚われる。触れてほしい、と私も思ってる。けれど怯えてる。イワン君はそれを全部わかっていたのだと気がついて、彼は思うより大人なひとだったのだなあと思った。キスをして離れていくときの、名残惜しそうなその瞳が切ない。
「ごめん。かわいこぶってるわけじゃないよ」
 彼の背に回していた手が少えていることに気づいて、ばれてしまわないように少し離れる。薄暗い彼の部屋、時計はもう明日の日付を回っている。畳にタイツがこすれて電線してしまいそうだった。まつげが重なり合うほどの距離で、イワン君の吐息がくちびるに触れる。熱くて甘いそれに、はあとため息が出る。本当に好きだと思った。彼の顔も声も、すがるように触れている白い肌も、全部。
「分かってるよ」
 なだめる声は大人びていて、背中のほうまでびりびりと痺れていく。瞳も呼吸も、苦しいくらいに求められているのだと感じる。
「でも、僕はこういうちゃんが、好きなんだ」
 イワン君はマゾヒスティックなのか、それともとんでもなくサディスティックなのか、その表情を見る限りでは分からない。けれど征服したいのを必死に我慢しているのは私にも分かった。獰猛な目をしている。今にもたかが外れて噛みついてきそうだ。私がまだ身体を許せなくても、イワン君はそれでいいのだと言う。待つからと言って、好奇心旺盛なキスだけで今はいいのだと。そんなの優しい嘘だって分かっているけれど、何も知らないふりをしたほうがいいのかもしれなかった。
「ゆっくり慣れてくれたら、それでいいから」
 大事に大事にしてくれる彼に甘えているのだ。私が彼に求めているのはそういう安心感なのかもしれない。イワン君の笑顔は優しい。ふだんは自信がなさそうな憂た表情ばかりしているくせに、ふたりきりの時はその顔すら色っぽくて、たまらない。
 私が頷くとイワン君はもう一度くちびるを重ねて、そのまま畳の上に優しく体を押し倒す。いぐさの肌触りが涼しく、心地よかった。髪が乱れるのも、タイツが電線するのも、本当はどうでもいいのだ。ただ言い訳を探しているだけで、強引なことをされればされるほどそれを求めてしまう。鼓動がこのまま破裂してしまうんじゃないか、と思った。ちゅっ、ちゅっと音が響くたびに脳が震えていく。私を見下ろすイワン君の熱い視線に、全部を見透かされているような気がして恥ずかしくなる。
「ねえ、触ってもいい?」
 出来ない出来ないとかわいいことを言いながら、本当は逃げれないところまで追いつめて、そのまま奪ってほしいなんて思ってる。そうでもしないと、羞恥心に勝てないのだと、イワン君はもしかしたら、全部分かっているのかもしれない。溶けてしまいそうな瞳がかち合う。もう何も分からなくなるくらいまで愛してほしいとも思う。彼の顔も声も、すがるように触れている白い肌も全部、愛しているのだ。求めてほしいなんて甘ったれた我儘も、かわいこぶった欲情も全部、このまま食べつくしてほしい。




ジェリーフィッシュの幻 (140316)























「イワン君、痩せた?」
 久しぶりに会えば、いつもの練習着がほっそりして見えた。両頬をぐいっと引っ張れば、もともとスリムだった輪郭がさらに細くなったように感じる。イワン君のことだから、またちゃんとご飯食べてないんでしょ?じいっと目を見つめると、あう、と罰悪そうに逸らされる。
「実は今、体絞ってて……」
 ぺたりと身体に触れてみれば、前よりも筋肉がついてしっかりした感じがする。背も少し伸びたのだと、申し訳なさそうに首をかしげて、わたしを宥めるように覗きこまれた。イワン君、まだ背伸びてるの?少し会わないうちに髪も伸びて、ぐっと大人っぽくなっているから驚いてしまった。ふとした仕草とか、もう少年っぽさはどこにもない。長い睫毛を不安そうにまたたかせて、イワン君はわたしの手首をつかまえる。
「ね? 少し、逞しくなったでしょ」
 そのまま自分のほうに引き寄せて、さりげなく腰を抱かれた。手の力も強くなった……気がする。中身はこんなに可愛いイワン君のままなのに、見た目はもう年の差なんて分からないくらい成長している。密着しているのが、なんだか急に恥ずかしくなってしまった。もう年下の可愛い男の子……ってだけじゃないみたい。
さんがお仕事頑張ってる間、僕も頑張ろうと思って」
「そ、そうなの?」
「はい。少しでも……かっこいいって思ってもらいたいので」
 少し照れてはにかむイワン君は、やっぱりこんなにも可愛い。でも、ちゃんとかっこいいところがあるっていうのも、知ってたよ?なんてわたしが言っても、イワン君は満足してない様子で小さく首を振る。
「釣り合うようになりたいんです」
 こうやって傍にいて、僕たちの間に誰も入り込めないように。イワン君はごく自然にわたしの額にキスを落として、ふふっと楽しそうに笑う。そんな仕草もふとした横顔も、なんだか色っぽくって、その目をまっすぐ見ていられなかった。イワン君はきっと気づいてないんだろうなあ。自分が今、どんなに可愛い顔してるのかってこと。
「でも体壊すから、ご飯はちゃんと食べてね」
「う……はい」
 少し頼りないくらいのイワン君も、わたしは大好きだけど。お返しに頬にキスをすると、反射的に目をつむったイワン君は眉尻を下げて、不満そうに目をぱちぱちさせる。唇じゃないんですか、と顔に書いてあったので、わざとらしく微笑めばイワン君は頬を赤くして、追いかけるようにわたしの唇を塞いだ。




この鼓動で教えてあげるよ (140705)























 ヘリペリデスファイナンスのヒーロー事業部総務課につとめているさんは、いつも僕に日本のことを教えてくれたり日本料理を食べさせてくれたりする社員さんだ。年はそれほど離れていないけれど、仕事に就いているからかさんはなんだか雰囲気が大人っぽくて、年上のお姉さんという感じがする。ヒーローに憧れてヒーロー事業部に入ったんだ、と嬉しそうに言うから、僕たちが守らなきゃならないのはさんみたいに、一生懸命なにかをがんばってる人たちなのかなあ、と思っていた。さんは優しくて笑顔が可愛くて、僕は彼女を見るだけで、どうしようもなく胸がドキドキしてしまうのだ。
 そのさんが最近ストーカー被害にあっているらしい。
「…………僕で力になれるなら」
 総務課のひとが僕に声をかけたのは、僕が能力をつかってさんに擬態して、ストーカーを捕まえるのはどうか、という助言があったからだ。この擬態の能力で誰かを救えるのなら、惜しむ理由はないし、対象がさんなら尚更、僕は協力したいと思う。さんはそのせいで最近あまり眠れていないらしいのだ。
 さんのいつもの帰宅時間に合わせて、僕が擬態してさんの一人暮らししている家へ向かう。ルートは教えてもらったから、あとはさんに擬態するだけ。はあとため息をつくさんを見て僕は胸が苦しくなる。僕が守りますから……なんて大きな声で言えるわけもないし。失敗しなきゃいいけど、ああ、不安だ。
さん、こっち……見てください」
 擬態するために触れなくちゃならない、という第一関門を突破するために、目を逸らしながらさんの頬に触れる。なるべく正確にコピーするために、しっかり見なくちゃいけないんだけど……。
「イワン君、よろしくね」
 そんな風にじいっと見つめられたら、見られない! よく分からないけど、さんに触れているだけでも死ぬほど恥ずかしいのに、この距離で見つめられたら、僕はもう本当にドキドキしすぎて死んでしまいそうだ。あ、ああの、と震える声で、目をつぶってくださいと、言ってから僕はもう一度、心臓が破裂するかと思うくらい、後悔した。
 目をつぶったさんの頬に触れているこの姿って、なんだかキスをするみたいだな、って。
「…………」
 ああ、どうしよう。僕はばかだ。さんはストーカー被害に苦しんで僕に頼んでるっていうのに、肌がきれいだなとか、唇がちいさくて可愛いなとか、触れたいなとか……そういう邪な思いがめぐって何にもはかどらない。いつも大人っぽい雰囲気だけど、こうして見るとさんの顔立ちはあどけなくて、ただの弱い女の子なんだと思わされる。
「…………さん」
 僕が呼びかけると、反射的にパチリと目を開いたさんは、ふしぎそうな顔で僕を見上げた。その目に見つめられるといつも、緊張してしまうのは、きっと僕がさんのことを、好きだから……なんだ。
「貴女は、僕が守ります。だから……安心してください」
 さんの笑顔は、僕が守らなきゃ。ストーカーなんて早くやっつけて、いつもの元気なさんに戻ってもらわなくちゃ、って、僕は心から、そう思ったのだ。




ヒーローになりたい (140706)























 どうして履きなれないヒールのサンダルを選んでいるのかも、買ったばかりのワンピースを下したのかも、何のためなのかきっと誰も分からないんだろうな。彼が本社での会議に呼ばれる毎週火曜日、わたしはいつも気合を入れて、服を選んだり髪を整えたりしてるんだけど、彼がわたしのことをまっすぐ見てくれることはほとんどない。
 イワン・カレリン君。当社の唯一無二のヒーロー、折紙サイクロンの中身の子。最初こそ、日本人だからって彼に話しかけるチャンスは訪れてくれたけれど、彼との接点はそれっきりだ。わたしの名前を覚えてくれているのかどうかも怪しいし、もしかしたら一方的に知り合ったつもりでいるだけで、彼はただの社員への社交辞令だったのかもしれない。ああ、初めて日本の話をしたときの、折紙君の目のかがやきと言ったら、本当に可愛くって……。あのときからわたしは、すっかり折紙サイクロンの素顔の虜になってしまっているのだ。ヒーローをしているときと普段とのギャップもまたたまらないし、ああ、彼の目にただの社員であるわたしが映ることなんて、きっと無いんだろうけれど。


「おはようございます」
「え?」
 なんという偶然の導きだろう。少し憂鬱な気持ちでエレベーター前に立ち尽くしていると顔を上げるとそこにいたのは、なんと折紙君だった。パープルの憂いた瞳がその中にわたしを映している。突然のことにパニックになったわたしは、早鐘を打ち始めた心臓をなんとか押さえつけて、精いっぱいの笑顔でそれに応える。
「お、お、おはようございます!」
「……お久しぶりですね」
 折紙君は、猫背のままぺこっと会釈をした。ああ、目の前がちかちかする、彼はわたしを覚えていてくれた。けれどこんなにも頬を赤くしているわたしを、きっと意味がわからないと思って見ているんだ! 避けなくちゃ、とふらつく足で急いで横にずれようとすると、せっかく履いてきた高いヒールが仇となって、足をもつれさせて、そのままバランスを崩してしまった。
「っ――!」
「っと、」
 がくんと、身体を抱き寄せてくれる力を感じて、まばたきしてみれば、わたしは倒れることなく、目の前の折紙君の腕のなかでしっかりバランスを取っていた。
「……大丈夫ですか?」
 鼻が触れるくらいの距離に、折紙君のブロンドヘアと、陶器の肌がある。見た目から想像つかないくらいのたくましい力で、ぐっとわたしの身体を抱き留めて支えてくれたのだ。さすがはヒーロー、なんて悠長なことを考えている余裕はわたしにはなく、ただ人形のようにコクコクと頷いて、あまりにも近すぎる彼の顔をただじっと見つめてしまっていた。
 ああ、どうして、どうしてなの。これ以上彼のことを想ったって、きっと辛いだけなのに! 彼があまりにも格好良いから、わたしは憧れ続けることも、気持ちを押し殺すこともできなくなってしまう。折紙君の腕の力とか、見た目より男らしい体つきとか、そんなの触れてしまえば忘れられるはずがないのに。
「あ、りがとうございます……」
 それでもこの手を離すのは惜しいから、もう少しだけバランスを崩したふりをさせて。折紙君がこんなに近くにいるだけで、わたしはもう泣いてしまいそうなくらい嬉しいのだ。よければもっと、こちらを見てくれませんか?なんてそんなこと、言えるはずもないのに、どうしてこんなに切ないんだろう。
 彼の特別になれたら……なんて、そんなの夢のまた夢だけれど。叶わない夢を追うのも、たまにはいいかもしれない。最後ににこっと笑って去っていった彼の背中を見つめて、愛おしさがまた胸を焦がして行った。




心のひと (140708)























「しょうがない人ですね」
 お姫様抱っこで抱き上げられてから、わたしの寝たふりがもうばれているのだと気がついた。わざと独り言のように、重たいですね、なんてたちの悪い冗談を言うのだから、つい眉がぴくりと持ち上がってしまう。バーナビーは寝室まで移動させてくれながら、「もう止めたらどうですか」と楽しそうにくすくす笑って問いかけてくる。観念して目を開けると、案の定にやにやと見下ろすバーナビーと目が合った。
「……いつから気づいてたの?」
「貴女に近づいたときからですよ。笑ってましたよ、口元」
 ああ、なんだ。バーナビーがすごいんじゃなく、わたしにだます力がなかったのだ。堪え切れなかったからと言って、笑って首元に手を回すと、バーナビーは少し不機嫌そうに眉を寄せて、「僕だから気づけたんですよ」と強調して自慢してみせる。
「貴女の寝顔はもう見慣れてますからね」
 ……さらっと、恥ずかしいことを言ってのけたけれど、バーナビーは気づいてるんだろうか? わたしが赤面している間にベッドに到着して、バーナビーはそのままわたしの体をそっとベッドに横たわらせてくれた。寝たふりしただけだから、別に眠たくないよ。ついでに毛布をたぐりよせてごろりと寝そべってみると、首元をくつろげながら、バーナビーはベッドに片足をぎしりと乗せてわたしに覆いかぶさってくる。
「じゃあ、一緒に寝ます?」
「な……」
 思わずどきりと緊張してしまったのを、バーナビーは見逃さなかった。くすっと笑って「冗談です」とすぐに退けて、てきぱきと服を着替えはじめる。ラフなVネック姿になって、ベッドでふてくされるわたしを見て、仕方なさそうに首を傾げた。なに拗ねてるんですか、なんて大人ぶったことを言うけれど、最初にからかったのは誰の方だと思ってるの。
「ほら、夕飯の時間ですよ」
「分かってるよ」
 今日は時間があったからちゃんと、クラムチャウダーとカプレーゼを作ったんだから。美味しくできたんだよ?
「知ってます」
 柔らかく笑ったバーナビーが伸ばす手につかまると、勢いよく引っ張られてまた彼に抱きあげられた。びっくりして目をぱちぱちさせるわたしの背を、子供をあやすように撫でながら、バーナビーはリビングまで移動する。バーナビーはわたしを抱き上げるのが好きだ。子猫や子供のように、わたしは逃げたりしないのに、彼はそうすると安心するらしいのだ。
「寝るのはそのあとにしましょう」
 ね、とウインクをするバーナビーは、やっぱり恥ずかしいことを言っているって気づいていないんだろうか。わたしが何にも言えなくなったのを見て、満足そうに笑っていた。バーナビーの無邪気な笑顔があんまり可愛いから、わたしは照れくさくなってその首に抱き付く。
 そんなに心配しなくてもわたしは逃げたりしないよ。ここにいるから、ずっとそういうふうに笑っていてよ。




愛しさはここからはじまる (140708)























 バイト終わりにうちに来るというから、ちゃんの働いているカフェまで迎えに行ってみた。夜のシュテルンビルトはあまり治安がいいとは言えないし、中心部から少し離れてる僕の家まで来させるのも悪い気がして。ばたばたと準備をし終えて駆け寄ってきたちゃんは、額や首うっすらと汗をかいていて、頬をピンクに染めていた。仕事用に束ねた髪が少しだけ乱れていて、急いで帰る用意をしてくれたんだと分かって胸がきゅんとする。ああ、可愛いなあ、もう。僕は君のためなら何分だって待っていられるよ。
「わざわざありがとう、ごめんね、イワン君」
「ううん。もうだいぶ暗いし」
 僕の隣にさっと並んだちゃんは、ぱたぱたと手で顔を仰ぎながら暑いね、と笑った。バイト忙しかったんだーって、まだ少しだけ高揚している頬を恥ずかしそうに仰ぎながら、僕はその細い首ににじむ汗に気を取られてぼうっと見つめてしまう。
「別に大丈夫なのに」
 日本人ってこういうとき、必要以上にエンリョするものなんだってタイガーさんに教えてもらったことがある。女の子の「大丈夫」は「大丈夫じゃない」っていう意味だし、「なんでもない」は「なんでもある」って意味なんだって。ちゃんもいつも、そうやって裏返しの言葉を使うのだ。
「僕が来たかっただけだから」
 ね、とちゃんの手を引くと、温かいその温度に安心する。ちゃんはもう一度ありがと、と呟いた。僕の手を握り返して、はにかんだその横顔に僕はぎゅっと心臓をつままれてしまう。キスしたいな、してもいいかな。でも日本人はあまり外でくっついたりするのは好きじゃないって、前にちゃんに言われてるし……うーん。したいけど、怒られるのは嫌だなあ。
 悶々としながら歩いているうちに、街灯の少ない路地に入った。暗くて月の明るさが目立つ静かさで、少し怯えながら僕についてくるちゃんが可愛くて、やっぱり抱きしめたくなってしまった。本当に、僕の恋人はこんなに可愛いんだ。僕が守ってあげなきゃ、って、僕を信じて頼ってくれてるんだって、そのことがただただ嬉しいから。
「ほら……ちょっと怖がってる」
「!」
「手、ぎゅってしたでしょ」
 わざと大きく手を振って歩けば、ちゃんは少し恥ずかしそうにだって、とうつむいた。なんだかつい、からかってしまいたくなるのはどうしてだろう。ちゃんといると僕は、色んなことが楽しくて、幸せで、噛みしめないと勿体ないって思うんだ。
「やっぱり、ちょっと暗いから」
「うん。僕が来て良かった?」
「……うん」
 ぎゅーっと僕の手を握る力が強くなった。けっこう力を込めてるんだと思うけど、僕からしてみたら全然大したことなくって笑ってしまう。可愛いなあ。今すぐ抱きしめて、キスがしたい。家に着くまで我慢するけれど、それまではこの手をずっと繋いで歩いていよう。
 君のためなら何処へでも行くよ。僕にしあわせをくれるのは、他の誰でもない君だけなんだから。




星またたき (140712)























 初々しいわねえとネイサンに微笑ましがられたけれど、はたして僕とちゃんは本当に初々しくて、ネイサンが言うように清らかなふたりなのだろうか。僕から見たちゃんはその通り清らかで朗らかで、いつも優しくてちょっぴり気の強い可愛いおんなのこなんだけれど、僕はその対になれるほど清々しくはないし、年相応の色事に興味を示さずにはいられない年頃の男子だ。そのことをネイサンなら分かっているはずなのにそれでもそんな風に見えたのなら、それはきっとちゃんの持つ貞淑な雰囲気がそうさせるんだろう。
 華やかで幼げな顔つきから想像できないくらい、僕とふたりでいるときのちゃんは淫らだ。清らかな面影をその赤い頬に残しながら、艶っぽい瞳で僕を誘ってみせる。白くやわらかい肌も突き上げるような甘い声も、誰も見たことも聞いたことも、想像したこともないんだと思う。だってちゃんは、本当に清らかな女の子だから。僕を求めるちゃんの表情はあまりにも毒々しいのだ。
「ん……、イワンくん……」
 何度もキスを交わしながらその身体を膝の上に座らせる。覗き出た太ももは僕を誘うようにもどかしく動いて、離れたくちびるからは熱い吐息がこぼれて肌に触れている。やっぱりちゃんはこんなときも清廉で、何度肌を重ねても毎度はじめてのように泣きそうな顔をする。身体や髪からあふれる良い香りが、その身体の甘さや熱を思い出させて、ちゃんの匂いを嗅ぐだけで僕の判断は鈍ってしまう。ぞくぞくする。切なくて張り裂けそうな欲情が、身体の芯を火照らせていく。
 ちゅ、と勿体ぶって離れたくちびるが、だらしなく開いたまま僕の頬やあごに触れた。吐息が掠れてくすぐったい。僕の体にそっと触れて見上げる、ちゃんの濡れた瞳が、いつも僕を誘う合図になる。
「……する?」
 恥ずかしくてたまらないと言った真っ赤な顔で、ちゃんは呟く。その顔を見ればもう、僕の答えはひとつしかなくなってしまうのだ。僕のこと求めてるくせに、まるで何も知らないみたいな顔をして。頬も鎖骨も、耳の裏も二の腕も、君の身体で知らないところなんてもうないのに、僕に火をつけたがるちゃんは狡くて、清らかで初々しい顔をして、やっぱりとんでもなく淫らだ。
 溶けていく蝋燭のように交わって、美しいところなんてどこにもないくらい、僕たちは互いの身体を求めて貪りあう。愛しくてたまらないとちゃんが笑うから、僕もこれ以上なくちゃんを愛して、愛して、愛してあげたいと思う。ちゃんの顔を見ればいつだって僕はどきどきするし、どれだけ色んなことをしても、まだキス一つで欲情してしまうほどに余裕がないのだ。
 僕たちはきっと初々しい清らかなふたりに見えているのかもしれないね。たとえふたりきりで獣のように抱き合っていても、まだ手を繋ぐだけで愛し合ってる実感を得られるくらい、清らかでうぶなまま。僕を求めて乱れるちゃんはあまりにきれいで、艶やかで、毒々しい。だってこんなにも清廉な顔をしているんだから。知っていることなど何もないと言ったように、清らかで、まるで穢れなどひとつも知らないように。




かくも麗しさを知る (140705)






























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