けがれがないなあと思うそのくちびるに、触れたかった。赤くてちいさくて、口角の少し下がったそれ。今までずっと一緒にいたけれど、はキスとかセックスとか、そういうものと関係のないところで生きているような気がしていた。はきれいなんだ。そういえば彼氏が出来たときも、3週間くらいですぐに別れていたっけ。
ッチ、キスしたことあるんスか」
 幼馴染ってどういう距離感だったっけ。中学で少し離れて、高校でまた少し近づいた。は昔と変わらず、ちいさくて花のような女の子で、はにかんだ笑顔が透明で可愛い。意味もなく気まずくなって離れていたのに、また意味もなく傍にいる俺のことを、拒まずに受け入れてくれる。
 家が近いから。親同士が仲良いから。今さら俺たちに間違いなんて起こらない、って誰もが思ってる。きっと自身も。
「ないよ」
 少し恥ずかしそうに言うその声も、まじりけなくきれいだった。何ともないと思ってた、最初のうちは、こんな風にお互いの部屋で遊ぶようになっても、彼女みたいな距離感にいても、触れることはないと思っていた。触れちゃいけないって。薄く張っていた予防線は、ただの恐怖のかたまりだったのかもしれない。冒してはいけないラインがそこにあるような気がして。
「じゃあ、俺がしてもいい?」
 のからだは、花の茎のように細く、ところどころ骨ばっている。でも綿のような脂肪がついていて、やわらかい。特別に痩せているほうじゃないけれど、きっとからだそのものがちいさいのだと思った。
「どうして」
「分かんない。けど、したくなったから」
 ベッドを背に、のからだを閉じ込めて、自分が思いのほか興奮していることに気がついた。のくちびるを目の前にして、めまいがしそうなほど、心臓がどくどく言ってる。ほんとうに触れていいのだろうか?きれいなこのくちびるに。俺が冒してもいいの?
 ぱちんと風船が弾けるように、そのときは一瞬だった。こみ上げる感情をそのままに、俺はのくちびるを奪って、離れた。
「……涼太」
「ごめん」
 抑えられない。のくちびるはやわらかくて、少し冷たかった。花びらのひだ、のように。あきらめのわるい俺は、の言葉を遮るようにもう一度口づける。なにも言わないで欲しかった。やめてとか、いやだとか、言われたら立ち直れない気がしたのだ。
 熱く、乱れていく呼吸が、にうつる。リップ音や吐息が聞こえるたびにからだが熱を持っていく。甘い声も、とろけた瞳さえ、のすべては純粋そのもののようにきれいだ。けがれなく花のようだった頬がどんどん赤く染まっていく。自分の欲望ばかりを押しつけているようで、気が引けたけれど、冒せないラインもう怖いくらい触れているのだ。
、かわいい」
 けがれがないなあと思うそのくちびるに、ずっと触れたかった。けれど触れたらどんどん溢れてしまった。俺のなかで清らかさそのものだったを、このまま冒して俺のものにしてしまいたいって、汚い欲望にまみれていく自分を見つけた。




優しく生きれば (140617)























 目の前で無防備な背中なんかを見せられたら、つい捕まえてしまいたくなる。手も足も細くてちいさくて、本人は痩せてないって言ってるけど、女の子の身体にしてもちいさいほうだと思う。おなかは少しやわらかいけど、ちゃんとくびれてて綺麗だ。首も細いし、手のひらもちっちゃくて、触ってたら、俺とこんなにも違うってわかる。
ちゃんさ、真ちゃんとかとエッチしたら、壊れちゃうんじゃない?」
「はあ?」
 いや、だって俺とでこの体格差だよ?ちゃんちっちゃくて、俺でも押し潰しちゃいそうなときあるし、バスケマンの体って相当重いでしょ。ガンガン攻めたら負担やばそうだね。って分かってるんだけど、いっつも攻めちゃってごめんね。
「まず、緑間君とはしないと思うけど」
「わーってるよ、てか当たり前っしょ。真ちゃんっていうのはたとえ話で」
 ちゃんより40センチ以上背高いって考えたら、なんかもう別の生き物みたいじゃない?ほら、こうやって押し倒してもさ、絶対ちゃんのほうがちいさいじゃん。俺がしてもこんなにちいさいなーって思うのに、真ちゃんとか俺よりさらに20センチくらい大きいんだぜ?それってどういう気分なの、怖いとか?
「たしかに緑間君、隣にいたらおっきくて迫力あるなって思ったけど……」
 エッチしたらどうなるかとか、考えもしなかった、なんて言うから、まあそうだよなー!と思った。そんなこと考えられてたら俺も自信なくなるっていうか、まあでもそんな淫乱なちゃんもそれはそれでいい……っていうか、いてっ。ごめんごめん、冗談だって。
「身長差ありすぎたら、やっぱり大変なんじゃない?」
「んー、だろうねー。じゃあちゃんと俺は、ちょうどいいかな?」
「どうかな、高尾君としてても、たまに壊れちゃいそうになるけど」
 ……!? えっ、もっかい言って、それ!
「や、やだよっ」
ちゃん、お願い!」
 ぱっと顔をそむけたちゃんに覆いかぶさって、顔をかくす手首を捕まえる。もっかい言って、とわざとらしく囁くと、恥ずかしそうに眉をよせて、だから、と勿体ぶって口を開いた。
「た、高尾君としてると、壊れちゃいそうになる……って」
 顔を赤らめて、目を逸らしてちゃんはぼそりとつぶやく。うっわあ……やばい、これ。ちゃんの恥ずかしがってる顔もたまんないし、俺とエッチしててそんなこと思ってたなんて、すっげーかわいいし、えろい。絶対壊さないよ、と言いつつも、壊してやりたいなあって思う気持ちもちょっとだけある。だから壊れない程度に、壊してあげるよ。やっぱり今日もガンガン攻めちゃうけど、許してね、ちゃん。




甘ったるくほどいて (140617)























「それはそれは、いい考えですこと」
 歩き慣れない高さ10数cmのヒールをかつと鳴らし、は憎たらしげに僕を冷たく見上げる。大理石にかかとを滑らせて体のバランスを大きく崩したり、恐る恐る前へ繰り出すつま先を不安げに見つめたり、まるで生まれたての小鹿のように弱弱しくちっぽけなその有様に、僕はつい声を上げて笑ってしまった。ああ、なんて可愛いのだろう。躾のなっていない飼い犬にようやく首輪をはめることが出来たような気持ちだ。もっともは十分なほど従順で、躾する必要もないくらいに利口な子ではあるのだけれど。
「これで少しは大人しくしてくれるのかな」
「したくなくても、そうするしかないわ」
「そうか。僕の読みは当たったようだ」
「あまりに酷いけれどね。これしか靴がないなんて」
 狂ってる、とは言う。他の靴はもうすべて処分してしまったのだ。の靴はそのハイヒールひとつだけ。よろよろと僕の少し後ろをついてくるは、頼りなくて小さくて、本当に可愛い小鳥のようだ。笑みが浮かぶのを耐えられず、僕が唇をゆがめて微笑んでいると、それすら許さないとでも言うように鋭い視線が飛んでくる。
「こうすれば君は僕の傍から離れられなくなるかと思ってね」
 君はいつも小鳥のように、目を離せばすぐにいなくなってしまうから。でも歩けないのならば遠くへ行くことも出来ないだろう?もっとゆっくり、僕の隣を歩いてくれないか。僕がいつまでも手を引いてあげるから、少しも不安なんて抱かなくっていい。それでも飛び立つというのならこの小さなかかとにキスをして、そのまま鎖に繋げてしまおう。けれどそんなことをしなくとも、君はもう十分に分かっているのだろう?
「聖護、手を離さないで。転んじゃう」
「分かってるよ。お姫様」
 他にはもう、何もいらないんだ。




シアータイツと踝 (131021)























「終わりがあるのは知っていたけれど」

 いつが始まりかというのは、気にしたことがなかったな。人の終わりは死にあるし、世界の終わりもきっと死にあるのだけれど、精神の終わりには未だかつて触れたことがない。過去の偉人の素晴らしい叡智も思想も、何百年の時を経ても今ここに残っているだろう。つまり死が存在しない、始まりと同義にあるんじゃないかな。始まった時点ではどこに終わりがあるのか見えないし、始まりそのものは終わりを持たないのだから。
 精神は始まりだ。消滅することのないもの。たとえ体が朽ちたとしても、思想は残るのだろう。

「こんなことを語ったら驚くかな。まるで僕が死を肯定しているみたいだって」
「……今更だよ。あなたには、いつも驚かされるから」
「そうか。それは、光栄だな。君を退屈させなくて済む」

 君のこの白い頬が、つまらないと言って歪むことは無いんだね。僕の言葉、僕の思考に、すべて賛同することはなくとも破片として受け入れてくれる。そうだろう? 君は僕の賛同者じゃないけれど、唯一の共鳴者であるから。
 生き物として正常な数値を持った彼女の身体は、小さく脆く、簡単に僕の腕の中に収まってくれる。触れると心臓の鼓動も感じられる。赤ん坊は母親の心音を聞けば安心して眠ることが出来るらしいね。だとしたら君の心臓のざわめきを聞いて、こんなにも凪いだ感情に身をゆだねていられる僕は、さしずめ赤ん坊のようにまっさらな生き物なのかもしれない。なんて、皮肉に他ならない僕の戯れを、心地よさそうに聞いてくれる君のことを、たまらなく愛おしく思うよ。僕の中で君という存在は確かで、終わりを持った唯一の始まりだ。

「……終末を見るのは楽しいよ。終焉を前にして人の生命はようやく、自らの意思で生きるという輝きを思い出すんだ」

 それがいかに滑稽で、可哀想なことであるのか、君はまだ分からないんだろうけれど。
 僕の世界はきっともうすぐ、誰かの手によって終わるのだろう。それは僕が望む結末でもあるんだ。意思を手にした人間の殺意によって抹消される結末も、僕が選んだ筋書としては正当なものだと言える。この小さな君の手じゃ、僕という始まりを終わらせることは出来ないよ。僕に意思を持たせるものの一つは間違いなく君だから。
 生きたい、なんて思っているのかもね。君と。この雑音ばかりの世界でも、君の鼓動が聞いて居られるならそれは楽園なのかもしれない。

「怖いかい?」

 僕を覗き込むの瞳は、黒くつやつやと潤んでいる。君のそんな表情を見るたびに沸々と新しい感情が芽生えていく。僕に見知らぬ精神を呼び起こしてくれる君は、言うなれば芸術の女神のような存在で、革新と、世界の終焉とを想起させてくれるのだ。やはり惜しいな。始まりに直面して居られるうちに、終末を望むのはあまりに早すぎる。
 僕にもっと色々な世界を教えてくれよ。知るに足る世界ならば、僕は君の隣で全部壊していってあげるから。

「まだ終わらせないよ」

 君は始まりなんだ。僕という始まりの中に、数多のシナプスを生み出していく。君の前では僕は、力を持たない赤子よりも弱い存在になる。
 面白いものはまだ世の中にもう少し眠っているのかもしれないね。端から壊していくのもきっと楽しいよ。世界が壊れたときに君が、どんな顔をするのかも知りたいし。泣くの? それとも、笑うの? 恐怖や無限や、世界が無音であることは、君の中でどんな風に死と繋がっている?

「もし僕が、この手を取って」

 終わるなと、君が渇望してくれるのなら、意思を持って望んでくれるのなら、そこに僕という存在の居場所が生まれる気がする。美しい思想の始まりのように、終わりのない無為の世界で、幸福にゆがめられた一つの存在として、君の隣に。それはどれほどの過ちであるのか、今の僕には分からない。きっと至上の幸福だなんて、思ってしまっているあたり、僕の世界の終わりは見えているのだから。その時、僕の凡庸な魂はどうなるだろう? ありふれた破片の一つになって、この世界を回すことの一端を担うのだろうか。ああ、なんて、つまらなく幸福な人生だったんだと、感嘆に満ちた終幕を選ぶのだろうか。

「二度と離さないよって言ったら……どうする?」

 精神は死なない。ならば世界の滅亡まで、君の感情の中に僕を住まわせてくれないか。これがきっと愛という、世界に道筋を与えるすべての元凶なのだから。




そこにいる亡霊 (140810)























「私に同情してくれよ」
 そんなこと微塵も思っていないくせに、そういう顔をしているくせに、サネトシさんは甘ったるい声でわたしを引き止める。黒いうさぎはもういない。運命は未来へ向かっている。わたしももう行く。電車を乗り換えるように運命を乗り換えて、先へ行く。
「もうなにも残ってないんですよ」
「私と君がここにいるじゃないか」
「サネトシさん。もう終わったんです」
 言えば少し辛そうに、眉根を寄せた。なに悲しんでるの。これっぽっちも思ってないくせに、思わせぶりなことをするのはよしてほしい。
「迷いがないね」
 名残惜しむようにサネトシさんはわたしの手を取って、爪先に口づけをした。そこから食われて闇に帰されるのかと錯覚するほど、くちびるは冷たい。だから一緒に行こうって言ってるのに。もうここには留まっていられない。運命の果実は、未来に行ってしまったのだ。掴んでいた指先を引っぱって、サネトシさんはわたしを抱きしめる。ふわりと甘い香りがしたけれど、これはもしかしたらわたしの匂いかもしれない。「いやだ」と、子供のようにだだをこねる声が耳元をかすめていく。
「どうせ君は私を置いていくんだろう」
 そんなこと一言も、言ってない。
「私と君の未来は交わらないんだよ。そういう風に出来ている。だからここを出たら、私たちはもう離れ離れさ」
「サネトシさんがそう思ってたらそのままですよ。でも、一緒にいたいって思ってくれたら、変わるんじゃないですか」
「それはどうかな。運命は非情だからね」
 サネトシさんにそう言われると、なんだかそうなんじゃないかっていう気がしてくる。わたしまで不安にさせないでよ。今から前に進もうっていうのに、どうして後ろ髪を引くんだろう。
「このままここで凍りついて消えてもいい。君とキスが出来るなら、それでいいよ」
 前向きなのか後ろ向きなのか、分からないひとだなあ。わたしは明るい未来でも、サネトシさんとキスがしたいんですよ。
「ふふ……痺れるねえ。ひどい殺し文句だ」
 くちびるを重ねても冷たいだけで、空っぽになってしまいそうだった。だからほら、早く行きましょう。踏み出してみないとなにも変わらないよ。乗り換えた運命はまた少し違う景色をしているのかもしれない。お互いの手を取って、わたしたちはゆっくりとレールの上を歩き出す。




まだこわい (131027)























 薄暗闇のなかで、彼女の身体は白く、人魂のように浮かび上がる。生気のない幽霊のようだと、思った。なぞればひとの温度があるのに、陶で出来たからくりのような、蝋で出来た細工のような、精巧でうつくしく、命など持たない無機質な、入れもの。
 俺が、そうやって言うのを、彼女は面白がるけれど、見る限りでは俺の腕より、俺の肌より、よっぽど綺麗で、不意の隙があるように、思う。
さん。俺はもう、寝ますぜ」
 かまどに立って、何かの準備をしていた、さんは、慌てて振り向く。人心地のしない肌色をしているくせに、さんの表情は、豊かだ。ころころと色を変える。
「私も寝ます」
 だから少し、待って。さんはもう一度、俺に背を向けた。薄い灯りの下でぼんやり、見えるうなじが、やはり妖のようで、けれど実体を伴うひとの気配をたしかに感じる。面妖な境界に、攫われちまうんじゃないかって、思わず考えつく。
 置いてゆきますよと、言えば、きっと焦って、待ってと泣きごとを漏らすのだろうと、思った。想像に易く、ふと笑う。俺が、こうやってよからぬことを、考えているのだと、さんは勘で気づいてしまうから、注意深く。
「さて」
 寝室に着いて、くしを梳くさんの背中を見るのが、好きだ。じっくり、髪が揺れるのを見つめて、しとやかな毛先がその背で跳ねるのを、撫でてやる。
「……くすぐったい」
 背中に爪が当たると、さんの身体がもぞと捩られる。そんな風にされるともっと、虐めてやりたくなると、知っているくせに、さんの甘えた声は隙だらけで、その白いうなじで、細い腰で、めいっぱいに煽るから、酷い。浅い夢に、何度も見るのだ。さんの身体は精巧で、うつくしく、絹で出来た上物のからくりだと。
 髪の一遍がはらりと落ちかかった、首筋に手を伸ばしてみる。
「貴女のこの線が、好きですよ」
 生身の人間らしく、首の付け根から、鎖骨に出来るくぼみ。蝋の灯りひとつだと、肌に出来るおうとつがよく見える。さんは照れくさそうに笑って、俺の手にその頬を、熱い温度を、分けた。
「私はこの手が、好きです」
 大事に大事に、撫でてくれるこの手が。柄にもなく、少し恥ずかしく、浅い夢ではなく、うつし世の中で、さんのすべては無機質にうつくしく、俺の腕に抱き寄せる、ちっぽけな隙があることを、嬉しく思った。ああ、いとしい。




貴女は自由のポラリス (140802)























 帰れば迎え入れてくれたさんが、いやに上機嫌だった。
「お隣さんが、蜂蜜酒を分けてくれて」
 帰って来るのを待っていたんですよ、と。さんは酒に強くないが、甘い酒を、舐めるのが好きだ。高級な蜂蜜酒だからと、俺を待っていたのだと、夕餉の用意をしながら、酒瓶を持ってよこした。蜂蜜酒。
「ほう……これは、」
 少し開いた蓋から甘い匂いがする。俺の帰りをわざわざ、待っていたとは、何ともいじらしい。向かい合って、夕餉の魚に箸をつけながら、さんはにこにこと、良かったですねと、嬉しそうに言った。何と可愛い、無垢な陶人形のさん。
「では、あとで、頂くとしやしょう」
 含みを持って見つめても、さんはにこにこ、笑っているだけ。肴は何にしようかとか、そろいの猪口はどこにしまったかとか、そんなことを言っている。さては、蜂蜜酒の、伏せられた意味を、知らないのだろう、か。やはりそのように、無防備にされると、虐めてやりたくなるのが、俺の性だと、知っているだろうに。ふと笑うと、さんは不思議そうにこちらを見た。
「お隣さんは、勘が良い」
「え?」
「ちょうど思っていたところ、なんですよ」
 今夜、貴女を、抱きたいと、ね。わざと、ゆっくりと、言ってやれば、さんの頬はたちまち赤く、熱く、染まった。
「ど、どういうことです?!」
「やはり、蜂蜜酒の意味を、知らなかったんですか」
「し、知りません。……もしかして、」
 ついに箸をおいて、さんは、その顔を両手で覆った。ああ、何とも、いじらしく、愛らしい。小さな耳の端まで、赤くなってしまっている。こんなに可愛い反応を見て、笑みを隠せるわけも、ない。
「どうやら期待、されている、ようですよ」
「な……」
「やや子はいつか……とね」
 じっと覗き込んでみると、羞恥に潤んだ、ビロードの黒色が、俺を見てゆらり、ゆらり、揺れた。最初の上機嫌は、どこへやら。さんのにこにこは、全部、俺に移っちまいましたね。美味しい酒が飲めて、さんを抱けるなんて、ああ、今夜はなんて、良い夜だろう。さんの頬は、すっかり赤く、赤く、甘く。猪口を引っ張り出して、ゆっくりと蜂蜜酒を注いで、一口舐めれば、甘く、染みて行った。




黄昏のアケルナルへ (140802)























「あら、薬売りさんじゃないの。行商からもう帰ったのかい?」
「……おや……お隣の」
 この前、名前さんに蜂蜜酒を分けたのはこの、ご婦人だ。手に持った籠には、土のついた野菜を持っている。ちょいと、あんた、と周りをきょろりと見渡して、俺に耳を貸すように手で招いた。
「どうだい? 蜂蜜酒の効果、あった?」
「ああ……それはもう。その節は、どうも……」
「ややがまだだって言うからさ。あんた、頑張んなさいよ、そんな白い顔してさ」
 ……どうもこの年代の奥方は、世話を焼くのが、好きらしい。適当に相槌を打って、もちろんと返せば、満足そうに頷いて、それで終わってくれれば、良かったのだが。しばらくは旦那の愚痴と、子供の他愛のない話が、続いた。ああ、日が暮れて、しまう。
「そういや、あんたの薬、効いたって。嫁さんにも、使ってあげたら」

 ……。

 そうは言われ、ましても。上手いこと薬を売れたと思ったら、まさかこんな形で、返ってくるとは、思わなかった。薬……さんに? 薬効は嘘ではないが、いざ、使うとなると、なぜだか、尻込みをする……。
「お帰りなさい!」
 ぼうっとして、どうしたの。かまどから顔を覗かせて、さんはいそいそと、俺に駆け寄ってくる。ああほら、このように邪気のない、無防備なさんに、一服盛るというのも、んん……まあ……。
、さん」
 じっと見つめれば、黒い瞳に、邪なのを全部、見透かされちまいそうで、迷う。
「……いえ。今日は、土産がありましてね」
「本当?」
「ええ……小さな、飴細工ですよ。さん、好きでしょう」
「わあ! ありがとう、薬売りさん。好きよ」
 飴が……。言葉が足らない、が、それでも良い。
「うん、甘くて、美味しい」
 貴女は子供の舌を、持っているからと、笑えば頬が赤くなる。でも、その赤い唇が、ぺろりと飴を食べてしまうのは、何とも、艶っぽい仕草だ。さっきあんな話を、したからか、妙な気分になる。ここは少し、謀ってみようか。ぞわり粟立つ、肌のように、狡猾な悪戯を、思いつく。
「……あと、これも」
 別の店で買ったと言って、鼈甲の飴、のような、丸薬を。数小粒入っている飴玉は、必ずひとつ味見をすると、俺は知ってるんですよ。案の定、指先で鼈甲を持ち上げたさんは、きらりと光る、それを、小さな舌の上にころりと、乗せる。
「不思議な味がする」
「そう、ですかい」
 さあて、それは一体どんな味で? 後でゆっくりと、教えて貰うことに、しましょう。




ベテルギウスのゆめ (140803)























 寒くて目が覚めた。肌に触れるソファの革が冷たくて、ここにも冬が来ていたことを思い出す。夕べ、思いのほか捗っちゃったから、ずっとここのソファで作曲をしていたんだっけ……。夏は良かったけれど、これからはもう寒くて出来ないかも。身じろぎをして、顔を上げようとすると、冷たいなにかがわたしの頬に触れて、慣れた手つきですっと上向かせた。

「お目覚めかな、レディ?」

 耳元をくすぐる低い声。甘いそれにはっとして、神宮寺さん、と名前を呼ぼうとしたけれど、のどが乾燥しているせいで少し咳き込んでしまう。寝ころんだわたしを覗き込む神宮寺さんは、物語に出てくる王子様のように膝をついて、熱い視線をじっと向けてくる。神宮寺さんは、わたしがこんなところで寝ていたからと言って怒るひとではない。ただ、わたしを翻弄するような仕草で諌めるだけ……。それは分かっているんだけれど、あまりにも距離が近いからドキドキしてしまう。

「レディの寝顔を見られるなんて、早起きはしてみるものだね」
「神宮寺さん……」
「無防備なその顔も可愛いよ。子羊ちゃん」

 できればこのまま、ずっと見ていたいな。掠れたささやき声に呆気にとられているうちに、神宮寺さんはわたしの頬にチュッと口づけをした。寝起きで少しぼうっとしていた頭に、急に血が上りはじめる。わたしが驚きの声を上げても、神宮寺さんは意にも介さない様子で、わたしの頬を撫でながらにこにこと笑っている。

「や、やめてくださいっ!」
「ふふ……そうだね、ここだと誰かが来てしまう」

 ちらりと神宮寺さんはドアのほうを見やる。そのとき廊下から、誰かの話し声が聞こえてきた。わたしは少しほっとして、神宮寺さんをはねのけて起き上がる。丁度、すぐにドアが開いて、翔くんや一十木くんが眠そうにしながらフリースペースに入ってきた。神宮寺さんは朝の挨拶を交わしながら、何事もなかったかのようにソファに座りなおす。
 神宮寺さんと一緒だと、いつだってドキドキさせられっぱなしで……落ち着かない。これじゃあ心臓がいくつあっても持たないなあ。わたしが一息ついていると、ふいに後ろから誰かに耳たぶを引っ張られた。冷たい指の持ち主は、やっぱり神宮寺さんで、うろたえるわたしの耳元で、神宮寺さんは誰にも聞こえないようにぼそりと呟いた。

「また可愛い寝顔を見せて。よければ今度は、俺の部屋で」

 耳に少しだけ触れた唇のせいで、わたしの耳と頬は真っ赤になってしまった。




レンの誘惑























「……君でしたか」

 紙とペンを持って庭で作曲をしていると、後ろから一ノ瀬さんがわたしを呼び止めた。寮の庭には薔薇やチューリップが咲き乱れていて、垣根をくぐってこちらへやって来る一ノ瀬さんは、立っているだけでも絵になるなあ、と惚れ惚れしてしまう。風にさらわれる髪を抑えながら微笑んで、一ノ瀬さんはわたしの五線紙に気づいてそっと覗き込んできた。

「作曲をしていたんですか」
「はい。今日は天気もいいので、外に出ようと思って」

 空や花を見ていると自然とメロディーが浮かんでくるのだ。聞こえてくる音をただリズムに乗せて、メロディーを与えてあげればいいだけ。だからわたしは、外で作曲するのも結構好きだ。ぐるりと辺りを見回せば、その景色はとてもきれいで――――夢中になってしまう。

「…………君は本当に歌が好きですね」

 ふと、気が付くと。わたしに影を作るように、一ノ瀬さんがわたしへの距離をぐいっと詰めてきた。至近距離で見下ろされて、心臓がどくりと高鳴る。伸びてきた指先に、あっと目をつむると、一ノ瀬さんの細い爪先はわたしの髪を梳いて、その手のひらから花びらを解き放った。髪に花びらがついていたんだ。気が付かなかった…………。

「夢中になるのは良いことですが」
「は、はい……?」
「ホールで寝てしまうのは頂けませんね。風邪を引いてしまいますよ?」

 昨日わたしがフリースペースで寝てたこと、一ノ瀬さん知ってたんだ!神宮寺さん以外、誰も知らないと思っていたのに。一ノ瀬さんは怒っているようではなく、困った苦笑いでわたしを見ている。恥ずかしくて俯くと、一ノ瀬さんの指先がそっとわたしの髪を撫でた。もう花びらは取れたはず、なのに。

「君はそんなに無防備だから……」

 つけ込まれるんですよ、レンに――――。一ノ瀬さんは聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた。はっと顔を上げると、前髪に小さくくちびるが落ちてくる。おでこにキス、された。一ノ瀬さんに。わたしがぽかんとしているうちに、一ノ瀬さんはふっと笑って踵を返してしまった。わたしが呼んでも振り返ってはくれずに、垣根の向こうに消えて行ってしまう。どきどきと鼓動する胸がうるさくて、わたしはしばらくそこに立ち止まっていた。




トキヤの嫉妬




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