「まだ起きていらっしゃったんですか」
 ベッドサイドの蝋燭はほとんど溶け落ち、薄暗闇のなかで様は退屈そうに寝返りを打った。様が眠れないのは、きのう朝帰りをして、午前中のほとんどを昼寝に費やしていたせいだ。夕食後からすっかり目の覚めているらしい様は、私の姿を視界にいれてほくそ笑む。退屈な夜の、いい遊び相手を見つけたとでも言うような、嬉しそうな顔をして。
「だってお昼まで寝てたんだもの。眠れるはずないわ」
様は、不良お嬢様でございますから。私の苦労を考えたことがありますか」
 勿論あるわ、と屈託なく笑う様は、さながら純白の子どものように無邪気に見える。けれどその顔つきや身体はもう、大人の女性として花のひらきかけた艶めかしいものだ。どうしたら男が悦ぶのかを知っている。私を見つめる、甘く挑戦的で、胸をくすぐる瞳。
「夜中に遊び歩いてるわたしが、何をしてるか知れたものじゃないんでしょ」
「おや。随分と舐めていらっしゃるようですね」
 何をしているかなど、全てお見通しですよ。にっこり微笑んでやると、分かっていたかのように、様はふっと笑う。ああ、どこまでも賢しい娘だ。ベッドサイドに寄った私の首に腕を回して、そのままベッドに引きずり込もうとする。
「エリック・オークウッド子爵の屋敷にて、夜通しのマスカレードですか」
「そうよ。セバスチャン、さすがね」
 やはり加虐心が、ゆらゆらとくすぐられる。私を誘っているのだとしか思えないその表情。本当に、いけないお嬢様だ。私はからかうつもりで身を屈め、唇を触れるか触れないかぎりぎりまで近づける。
「どうせ酒に酔い、だらしなく乱れていたのでしょう?」
 時計の針はちょうど深夜2時を過ぎ、梟が遠くで鳴いているのが聞こえる。私の声の冷たさに面食らったのか、ほんの少しばつの悪そうな顔をした様は、視線を逸らして、拗ねた声で甘えた。
「キスもしてないわ」
 私の機嫌を取るように、突き出した唇を私のそれに軽く押し付け、しょ気た瞳をしてみせる。ああ、その顔はなかなか悪くない。他の男とキスをしていないということも、知っているけれど、あえて何も言ってやらない。口付けをねだる唇に何度かキスをして、舌を一度だけ舐めて唇を離した。背中の手が私のスーツをぎゅっと掴む。
「さあ、お休みの時間ですよ。お嬢様」
 抱き合ってキスをするだけでも、こうやって十分に満たされてくれるのだ。賢しいお嬢様だけれど、こういう背伸びしきれていないところが年相応でひどく可愛い。いつか狼狽えるほど追い詰めて、泣くほど急かしてみたいものだ。この娘は一体どんな声で啼くのだろう? ――――ああ、けれど楽しみとは、最後に取っておくものだ。
「よい夢を。マイロード」
 扉を閉める前に笑ったのは、私とお嬢様の、どちらだろう? ――――。




仮面舞踏会 (121122)























「やっと捕まえたよォ、お姫様」
 後ろから首を引っつかんで抱き寄せると、姫は悲鳴もあげずにごほごほと咳き込んだ。小生の爪が食い込んで、痛いと眉をしかめるその顔も、ああ、悪くない。その慄いた表情のまま息を止めてしまいたい。
「いつになったらこのカラダを空け渡してくれるんだい」
 姫のカラダは、骨格から筋肉や脂肪のつき方、毛先の跳ね具合にいたるまで、全てが小生の好みだ。白骨にして飾るのもいいし、死体を披いて中身を調べてみるのもいい。痛みに歪んだ顔をそのままに、声もあげず涙も流さず、小生のモノとして静かに寝そべる姫のカラダなんて、想像するだけで興奮が止まらなくなりそうだ。
「早く小生のコレクションに加えたいねェ〜……」
 爪先で喉元をすっとなぞってやると、姫はカラダを仰け反らせて、小生の手を押し返そうとする。触れる生き人の温度が、小生には少し熱すぎる。やっぱり冷たくなった生き物がちょうどいい。泣かないし、喚かないし、それ以上に従順な玩具はない。
「こんなに熱いんじゃあ、火傷してしまうよォ〜?」
 ああ、この奥にある心臓を潰せば、姫は死ぬ。鎌で斬るより、この手で裂きたい。すぐに元通りにしてあげるから、白魚のような柔らかい皮膚に、どうか手を突っ込ませてほしい。飛び散る血も肉片も、きっと可愛い色をしているのだろう?ヒッヒ、待ちきれないねェ。早く欲しい。柔らかい腹に指先を押し付けると、すぐに尖った肋骨にぶつかって、姫はびくりとカラダを震わせる。
「痛っ!」
「…………あァ、姫。だから早く、痛みの感じないカラダになればいい」
 早鐘のように鼓動しているのが、皮膚ごしに伝わる。人間のカラダは、小生がこうやって少し触れただけで、死を怖れて震え上がってしまう。なんてちっぽけで弱いのだろう。むしろ痛みなんてつまらない感覚、死んで捨ててしまえばいい。ナイフで切り刻んで、そのたびきめ細かいその肌を縫合して、何度カラダを切り披こうが、小生がきちんと全て、元通りにしてあげるのに。
 この白い肌に針を突き刺すのは、簡単そうだ。ああ、縫ってみたいねェ。絹のような糸をそのカラダに貫通させてみたい。
「……死にたくなんてないわ」
「ヒッヒッ……姫は強情だなあ」
「生きてる人間のほうが素敵なのに、どうしてなの?」
 小生を睨む姫の眼球は、純粋で、透き通っていて、綺麗だ。その水晶も網膜も含めた姫の何もかもを、今すぐコレクションに加えたくなってしまう。簡単に征服されてはくれないのかい? 小生も、諦める気はこれっぽっちもないのだけれど。この柔らかいカラダがどうしても欲しいよ。この輪郭も、耳の形も、突き出た肩の骨も、全部が魅力的なんだ。早く、早く。その内臓はどんなカタチをしているのか、見せておくれよ?
「葬儀屋さん、この手を離して」
 ああ、でも姫の、小鳥のようなその声を聞けなくなるのは、少し寂しいのかもしれないねェ?




追いかけっこ (121123)























「お嬢様をお放しいただけますか。葬儀屋」
「…………おや。ついに執事くんの登場のようだ」
 ヴィクトリアン社のソファに我が物顔で腰かけながら、葬儀屋は様を掻き抱いて膝に乗せていた。人が少し目を離した隙にこれだから、死神というものは厄介だ。何処から入ったのか、一体誰の許可を得て様に触れているのか、この葬儀屋に限っては、問い詰めることさえ無駄に感じてしまう。
「セバスチャン! どこ行ってたの」
 申し訳ありません様、とすぐにその手を取って抱き上げようとするが、葬儀屋の毒々しい爪のついた手に阻まれる。様の身体に腕を回し、胸元に――――きっと心臓に、頬ずりしながら、葬儀屋は黄緑色の瞳で私を見上げた。
「ヒッヒッ……ずいぶんと怖い目をしているねェ?」
 黒く色づいた葬儀屋の爪が、つつ、と様の体側をすべる。左胸の下でその指を止めると、標的を示すかのようにトンと、心臓の真上で突いてみせた。
「そんなに姫に触られるのが嫌かい……?」
 気丈に振舞ってはいるけれど、様の表情は少し強張っている。いつも身体を奪いに現われる葬儀屋に対して、脅えがあるのだろう。――――それが嫌悪の感情じゃない、というところが、私には引っかかるのだけれど。
様は私の主人ですので」
「ヒッヒッ……本当にそれだけかな?」
「ええ……けれど静かなお嬢様、というのも新鮮で良いものですね」
 からかうつもりで、様の顎をやさしく上向けてみると、不機嫌なまなざしで強くにらまれてしまった。早く助けろ、とその瞳が訴えている。けれど気づかない振りをして、にっこりと微笑みかけてやる。こう易々と、何度も男に捕まえられている罰ですよ? お嬢様。少し痛い目でも見ていただけると、大人しくなって良いのかもしれませんから。
「小生もお人形になった姫を見てみたいよォ……」
「放して、葬儀屋さん!」
「ヒッヒッ……確かにこの五月蝿い口は、少し邪魔だねェ?」
 あ、――――と思ったときには、もうすでに遅く、死神は青白い手で様の頬をつかみ、そのまま噛み付くように、様の唇を奪っていた。胸の中でガラスの破片が弾けてゆくような、熱い感触。まさか私の目の前でこんなことが起こるとは。驚いそれを見ることしか出来なかった自分に、怒りというよりは、ただただ動揺が滲んで、破裂する。
「あァ……いい表情だよ。お姫様」
 葬儀屋が見ているのは様越しの、私の表情に相違ない。ああ――――むかつく。やはり早いうちに、殺しておかなければならないのかもしれない。




デルタの悲劇 (121125)























 好きな人がいるんだ、と打ち明けたらタクト君は星のように笑って「君ならきっと叶うと思うよ」といつもどおり爽やかな声で言った。夏の始まったばかりのころだ。流れてくる風が心地よいぬるさで身体にしみこんでゆく夏の始まり。どうして、と聞いたらタクト君はまた星のように微笑んで「だってちゃん、すっごく可愛いからさ」なんて言った。タクト君のきれいな顔が、憎らしいくらいうつくしく遠いものに見えた。空に輝く星のようだ。決して掴めなどしないと分かっているのに、私は、祈るように、手を伸ばしたくなってしまう。


恋をしている。


 「好きな人がいるんだ」と、秘密めいた声でちゃんは言った。驚いた。なんの根拠もなく僕はそれをスガタのことだと思った。ちゃんが好きになるような男は、スガタの他にはきっといないと思ったのだ。夏の始まりそうなときのことだ。ちゃんの制服が風にはためいてそこから素足が覗いていた。焼けたアスファルト。夏の始まり。太陽が痛いほど熱く照っている。きっと叶うと思う、くらいのこと以外僕には言うことがまったく見当たらなかった。だって君はとっても素敵なおんなのこだから。可愛いなんて言葉じゃ単純すぎるくらい、君は、とても、魅力的だ。


恋をしている。


 私が言ったありがとうに、一体どれくらいの気持ちがこもっていただろう。髪をさらってゆく風がやまなくて、私は何度も前髪を押さえて整えた。自分の丸い頬がきらいだった。いつもタクト君の周りにいる女の子たちのように、可愛くない自分のことが、私はだいきらいだった。


恋をしている。


 ちゃんは「ありがとう」と呟いて苦んだ顔をした。ちゃんは僕の前であまり笑ってくれない。スガタの前ではいつも自然な笑顔を見せるのに、僕の前ではそうじゃない。乾いた風が涼しげに通り過ぎていった。ちゃんは乱れた自分の髪をしきりに手ぐしで直そうとするけれど、強すぎる風を前にそれはあまり意味をなしていないようだった。彼女は恥ずかしそうに口もとを歪ませてうつむく。風で髪が乱れたって、君はひどく可愛いのに。君の素顔をもっと見たい。心からの笑顔を、僕にも見せて欲しい。


恋をしている。


 「髪がひっかかってるよ」、そう言ってタクト君は私の耳元に手をのばして、髪のひと束をすくいあげた。驚いて小さな声が漏れた。近い。くすぐるように触れた彼の指先が、頬をなぞって離れてゆく。近い。ありがとうと言いながら、恥ずかしくて顔を上げられなかった。タクト君が私を見ているのが分かる。「ねえ、ちゃん」けれどいつもの、優しく微笑んでくれる王子様のような、星のようなタクト君じゃなかった。


恋をしている。


 僕は気がつけばちゃんに触れていた。髪の毛なんてただの口実だ。耳の近くに触れてからわざと頬の方まで指を沿わせた。ちゃんが脅えるように肩を竦ませた。やわらかくて、少しだけ赤みを帯びているきれいな頬。うつむいて閉ざされていたまぶたがゆっくりと持ち上げられた。ねえちゃん、涙まで浮かんしまいそうなその瞳に、映しているのは、誰?


恋をしている。


 いつになく真剣な顔をしたタクト君が私を見ていた。目を合わせたらそこから魔法にかかってしまいそうだと思った。きれいな顔。まっすぐ見つめるのがためらわれてしまうくらいにきれいな顔だ。顔を背けようとすると、タクト君の手が私の頬をとらえてそれを阻んだ。さっきよりもっと触れている。心臓が痛くてなんにも聞こえなかった。けれどタクト君の声だけが、おどろくほど心地よく私の耳に飛び込んでくる。


恋をしている。


 言いたいことはたくさんあった。顔隠さないで。君はとっても可愛いよ。僕にその笑顔を見せて。なのに、どれもうまく言葉になってくれたりしない。スガタじゃなくて、僕を見て。僕だけに笑って。とびきり可愛い笑顔を僕だけに。可愛い君を、他の誰かのものになんてしたくないんだ。……だめだ、こんな言葉は、きっと君を困らせるだけだ。




 まるで星のようだ。こんなに心を惹きつけるのに決して手に入ることのない遠い星。
 こんなに心を惹きつけるのに、ただ焦がれることしかできない星のようなきみ。


恋をしているのは、僕だ。 恋をしているのは、私だ。




ながれる残星 (110302)























「タクト君はどうしてこの島に着たの?」

 夏の風はゆっくりと水面に小波を立てる。僕とちゃんの間をすり抜けていったそれは、もうじゅうぶん涼しげな温度をしていた。気がつけば夕陽のなかに溶け込んでいく。砂に埋まった素足がひやりとする。ちゃんの裸足の爪先が砂に線を描いて、薄く桃色がついたその指先は、小さくて女の子らしくて、とても頼りなかった。

「来なきゃいけない気がしたんだ」

 なにそれ、とちゃんはあまり信じていないような声色で笑った。その微笑みが、今は限りなく僕だけに向けられているということが嬉しくて、僕はどうしようもなく胸をぎゅうと締め付けられる。これは不思議な想いだ。むしろちゃん自身が不思議な力を持っているのかもしれない。だってちゃんが傍にいるだけで、僕の心はこんなにも満たされてゆくのだ。彼女は気がついていないんだろうけれど、僕はきっと、彼女という存在にとても救われている。

「じゃあきっと、それが運命だったんだね」

 けれど同時に辛くなったりもする。僕の目に映るのは彼女ひとりでも、彼女はとって僕はそうじゃないかもしれない。こんな風に何でもない放課後を一緒に過ごすのも、ただ暇なだけとか、誘われてしまったからとか、そういう理由かもしれない。……なんて寂しいこと、考えても仕方がないのは分かってるんだけど。今ちゃんは僕の隣にいてくれているんだから、それを喜んだほうがよっぽど幸せになれるって、分かってはいるんだ。

「そうかもしれない。此処に着てよかったって思ってるしね」

 夕陽はゆっくりと海に落ちていく。僕とちゃんの影が砂に伸びる。くっついてしまいそうなほど近くにいるのに、その影はまだ重ならない。僕はこの島に来て良かったと思っているのは、本当のことだ。かけがえのないことを知ることも、得ることも出来たし、思い出はこれからもまだ失われない光のように続いていく。その欠片には間違いなくちゃんの姿がある。僕が生まれて初めて手にした感情と一緒に、優しく甘く。損なわれることはきっと無い。

「タクト君がこの島を好きになってくれたなら、うれしいよ」

 いつも自信なさげな、ちゃんの横顔。僕にはとっても可愛く見えるのに、ちゃんは自分ではそう思ってはいないらしい。もし僕の言葉でちゃんの悩みが消えてくれるのなら、僕は何度だって君に気持ちを伝えて、抱きしめてしまいたいとだって思うのに。これは願ってはいけないことなのかな? 誰の言葉だったら、君は救われてくれるんだろう。

「…………ありがとう」

 君を幸せに出来るのは、他でもない僕であればいいのに。誰かじゃなくて僕だけ。君の瞳に映るのも僕だけ。我儘でもいい、どうしたって僕は、君への想いが溢れていくばかりで困ってしまう。

「どうしてタクト君がお礼を言うの?」

 ちゃんはまた不思議そうな声で笑ったから、つられて僕もなんとなく笑った。穏やかに、奔流のように過ぎていくこの時間を、僕はひどく大切に想う。それを彼女に伝えるのは、少し恐くて出来そうにはないけれど、ずっとこのままでいられたらどれくらい幸せだろう、なんてことを考えたりもする。でもきっと幸せは半分にも満たなくて、僕はすぐに焦れてしまうんだろう。もどかしい距離を埋めたくて、彼女を抱きしめたくて、僕は。

「さあ、どうしてだろう。でもなんだか言いたくなって」

 海に落ちていった赤い陽が一筋だけ海を照らしている。僕はふいにちゃんの手を取って、すっかり冷えた砂浜を引き返して歩き出した。ちゃんが困惑した表情で僕を見ている。驚いたまま頬を赤くしているちゃんが可愛くて、僕は少しだけ笑ってしまった。

「冷えるよ。そろそろ帰ろっか」

 うん、と一生懸命うなづきながら、ちゃんは僕の手をそっと握り返してくれた。胸がどきどきする。たぶん僕の顔も彼女に負けないくらい赤くなっているんだろう。ただ手を繋いでいるだけなのに、触れる温度は儚くて、ひどく意識を集中させてしまう。小さな指先。冷たくなっているそれに温度を分けようと、僕は知らないうちにちゃんの手を強く掴んでいた。




Why I want you to smile is (110303)























 お昼を食べたあと、課題の提出期限が昼休みまでなのを忘れていたらしいワコは、スカートが翻るのもお構いなしに慌しく学食を飛び出して行った。スガタはジンジャエールの入ったグラスに口をつけて少しだけ笑う。ワコらしい、というその言葉は尤もだと思ったし、他愛のない日常風景は平和の象徴のようで嫌じゃなかった。厭うことは何も無いんだと、何よりの幸福を感じさせてくれる気がするのだ。

「最近、と仲が良いんだな」

 最初に口を開いたのはスガタのほうだった。予想していなかった切り口に驚かされて、僕は思わず聞き返す。スガタは彼女のことを名前で呼んでいた。幼い頃からの友だちだというから、ごく当たり前のそれなのかもしれないけれど、僕はどうしても心の中に取っ掛りを感じてしまう。埋められない距離があることを気づかされて、そのたびに無性に寂しくなってしまうのだ。お門違いだと分かっているけれど、そんな小さなことまで気になってしまうのは、僕がちゃんに恋をしている何よりの証拠になるのだろう。
 ストローを回すとメロンソーダの泡がはじけた。焦りを気づかれないまいと、僕はいつも通りの態度を心がけてスガタに言葉を返す。

「どうかな。僕の一方的だと思うけど」
「ああ、やっぱりが好きなのか。そうだと思ったよ」
「……どうして?」
「分かるよ。昨日も海で一緒にいるのを見たから」

 遠くの空を見てスガタは穏やかに笑う。余裕な態度を見せるスガタに、僕はひどく嫉妬のような感情を抱いた。ちゃんがスガタのことを好きかもしれないということを、分かって僕にそんなことを言っているんだったら、僕はこのままどちらもを失ってしまうような、そんな気がしたのだ。それほど悲しいことはきっとないのに。胸が高鳴る。透明のグラスのなかで回りだすアイスは、緑色の中にじっくりと溶けていく。

「……ちゃんは好きな人がいるんだって」
「え? ああ、まあそうだろうな」
「スガタは、知ってるのか。それが誰か」

 焦っているのは僕だけ、なのかもしれない。スガタは頬杖を付いていた手を口元に持っていって、なるほど、と言って少し驚いた顔をした。何のことを言われているのか分からない。僕はごまかすようにストローに口をつけて、冷たい液体をぐっと飲み込んだけれど、焦りはこれっぽっちも飲み込まれてはくれなかった。夏はもう終わりに近づいている。この島に来て最初の秋が、来ようとしている。

「意外だな、タクト。お前がそんなに鈍いとは思わなかったよ」

 からん、と汗をかいたグラスの中で氷が空回る。スガタはさっきから、一体何の話をしているんだろう。読めない。たしか僕とちゃん、の話、だったと思うんだけど。鈍い?僕が?そんなつもりはどこにも、…………だってまさか、そんな。

「スガタ。一体何の……」
「実はから相談を受けていたんだ。恋愛相談」
「は……?」
「好きな人がいるんだけど、相手がどう思ってるか分からない……だったかな」


「良かったな。両想いで」


 ……頬杖をついたスガタが僕に向かってふと笑って、僕は自分の頬がこれ以上なく熱くなるのが分かった。ああ、嘘だろ。どうしよう。あと5分もしないうちに昼休みが終わってしまうのに、僕は今すぐ彼女に逢いたくてたまらなくなってしまった。




スウィート・スタート (110528)























 いたずらに耳朶を引っ張って、取ってやろうか、というとは目をぱちぱちさせて首を振る。もし嫌な顔でもしてみせたら、すぐに切り取ってやろうと思っていたのに少し残念だ。こんなことを何度も繰り返しているうちに、こいつも慣れて、おれの悪戯を上手く切り抜ける方法を覚えたのかもしれない。だとしたら生意気だ。耳朶から首に手を移動させてぐっと上向けるとはついに脅えた顔をしてみせる。心臓のある部分に手のひらを押し付けてその鼓動を聞く。少し速くて、不規則で、の左手はもどかしそうにおれの手の甲を動いている。ローさん、とおれの名をつぶやく喉を、このまま抜き取ってしまえたらどれだけ愉快だろう? ローさん、どうして意地悪するの? わたしのことが嫌いなの? 泣き出しそうなその瞳に吸い込まれて、ふと笑みが零れた。おれが見たかったのはその顔だ。待ちわびたそのくちびるに、おれは思わず噛みついていた。


「おまえをいじめるのが楽しいんだ」




だから仕方ない (130701)























 俺がはじめてお前を見たとき。通りすがりの茶屋で見るにしては得をしたもんだと、その日の雨は珍しく嫌じゃなかったから不思議だ。外に手を伸ばすと隊服に雨染みが出来て、雨の匂いがそこらに立ち込めていた陰鬱な日。俺の大嫌いな日。俺の嫌いな雨の日。雨宿りついでに入ったその茶屋は、幾分古びれている様子で黴臭かった。俺の嫌いな雨の日。唯一、好きだと言えたあの雨の日。


「総悟くん!また来てくれたの?」

 小さい身体をめいっぱいに、は店の雑用をしていた。細っこい腕で店の奥に木箱を運び入れている。狭い店内はがらんとしていて、一人も客がいなかった。こんな雨の日じゃあ、わざわざ出かけに来るヤツも珍しいだろう。俺が此処にくるのはこんな日ばかりで、店はいつも静かだった。

「暇だったんでさァ」
「そんなこと言って!もう常連さんじゃない」
「……。鼻の頭にクリームついてやすぜ」
「うそっ! どこ? えっ!?」
「冗談でさァ」

 鼻の頭を擦っていたが、口を曲げてもう、と呆れたように項垂れた。暖色のエプロンをまとって、はこの古びた茶屋で働いている。人通りの少ない道にあるせいで客足も疎らで、他の茶屋に比べるといくらか静かな此処に、店主と顔見知りなことを理由に置いてもらっているらしい。楽しいのかと俺が聞くと、とっても、とは言う。よく笑う女、というのが、最初の印象。雨の映える女だとも思った。いつも俺を見ては笑顔を向けるから、俺はよく、溢れてしまいそうになる。俺の中の、何かが。溢れそうになる。

「休んでいくでしょ?」
「ああ。少し」
「待ってて、今お茶持ってくるね」

 涼しげな暗がりを持つ厨房にが足を運んで、そこからお茶を汲む音が静かに聞こえてきた。ごく自然な素振りのそれに、そっと雨音が混じる。あの日と、似ている。そう思うと、途端に雨が恋しくなった。地表に吸い込まれるようにゆっくりと落ちる雨粒は、狭く黴臭いこの茶屋に俺とをぴたりと閉じ込めた。雨は、深く空いた隙間を無くしていく。俺の行き場を阻む。雨は依然力強く降り続いていた。手を伸ばして雨に触れると、隊服の袖がわずかに濡れた。運命なのかもしれない、と柄にも無いことを思っては、その度それを雨に投げ打つ。俺ァ、可笑しくなっちまったんじゃねェか。今日の雨も嫌いじゃない。

「はい。あと、これはサービス。おじさんには秘密ね」

 は俺の横に茶と団子を置いた。そして俺が茶に口をつけてる最中にエプロンを外し、そのまま盆を挟んで横に腰掛けた。今日はもうお客さん来ないから、上がっちゃお。戸口の外を流れる雨をみて、はふと笑みを零した。そうだ、お前は、雨が嫌いじゃなかったな。数分前の俺の腕のように、白く細いの腕が屋根の外に突き出されて、その上を雨粒がなめらかに滑っていった。つめたい、と

 ―――――きれいだ。

 触れたい、と思った。その時にはもう、の手をつかんでいた。天を仰いだままだったの手のひらに、俺の渇いた手が重なる。隅に雨景色を映したまま、の目蓋が動揺の色を孕んだまま二、三度しばたいた。

「そ、総悟くん」

 きっと俺は、なにか言うべきことがあったのだ。俺のひん曲がってる口じゃあ、簡単に紡げないような言葉が、言うべき言葉が、そこにはあったんだ。だけど言えやしなかった。雨が俺を閉じ込める。雨が俺らの、隙間を失くす。どうやら俺は雨音に酔ったらしく、思考回路が事切れたように止まってしまった。沈黙が続く。目を丸くしたままの。降り続ける雨。の手をつかんだままの俺の手。触れている、に、俺が、俺の手が。触れている。

「……冷てェ手だ」

 手を、はなすと、俺にはもう雨音が聞こえなくなっていた。瞳の隅では雨が降っている。水溜りが広がっていき、軒を雨水が伝った。雨音がしない。俺の手が、妙なほど、熱を持っている。とうとう雨に酔ってしまった俺は、勘定を長椅子に放るようにおいて、の声を無視してそのまま茶屋を出た。行き場をなくしているのは、俺じゃなく、俺の溢れそうな、気持ちのような、気がした。

 雨はまだ降り続いている。触れていた、手が、まだ熱い。




pain, rain (090612)























「どうして泣くんだ」

 白くやわらかな頬をなぞってみると、うつくしい手のひらがひるがえるように俺の手にふれた。人間はどうやったって人肌で溶けないようにできているのに、俺の手はどうしてか、溶け出しているような、もしくはの細い手が、俺の温度で溶け出しているような、気がしてならなかった。怖いとは、おそらく、こういう感情のことを言うのだ。

「なあ、お前は、何を見てる?その目に何を映してる?何を思って、何を、考えてる?」

 お前のその中に俺はいるか。そんなことを聞く勇気、人肌で溶けてしまう俺に、言えるはずもなかった。怖いとは、この感情のことを言うのだ。絶対に無くならないものなんか、ひとつもない。無くしてしまうと気づいたときに、俺はやっと、溶け出しているものの正体を知った。

「泣くな……」

 その涙のこぼれる頬から、手を放しても、の小さなそれが、俺の温度を追って来ることはなかった。怖い。二度とふれ合えない温度が、行き場をなくしてしまうようで、怖かった。




 冷たいなにかが頬にふれて、瞑っていた目をゆっくりあけると、不安げに俺の顔をのぞき込むの姿があった。はその手でもういちど俺の頬にふれた。そして小さな声で俺の名を呼んで、それから状況が分かるまでに、そう時間はかからなかった。知らずのうちに、俺は眠ってしまったらしい。
 かたい壁によりかけていた身体に痛みを感じて、くずれた着物を直しながら、重たい身体を気だるいまま起こす。ふとうつむくと、まばたきと同時に、足元になにかが落ちたのを感じた。畳に染入ったそれは、どうやら、涙のようで、の指先が俺の頬をなでていたのは、それを拭うためだったことに、やっと気づいた。俺は泣いていたのだ。とても、怖い夢を見て。

「晋助さん、どうしたの」

 あたたかな涙がこぼれた跡を、のか細い温度が、たしかめるようにふれていた。それははっきりと、生きている温度が、あった。俺はそれにひどく安心する。どうして俺は、あんな夢を見たんだ。

「……何でもねぇ」

 不服そうにのくちびるが歪んだ。そんなわけない、とでも言いたげに、俺の頬から指を離す。

「厭な夢を見たんだ」
「だからこんなに汗をかいてるのね」
「……本当に、酷い夢だ」
「晋助さん、辛そうな顔してたわ」
「、ああ」
「……寝言も言ってた」

 は笑うとき、いつも、ほんとうに愛しそうな顔をする。俺はそれが好きだった。が笑うたび、俺は自分が生きているということが、はっきりと分かるような気がしていた。
 もしかしたら生きるとはこういうことなのかもしれない、と、生まれて初めて、そんなどうしようもないことを考える。俺はそのうち死ぬだろう。目的さえ果たせればそうなっても構わない。死なんて怖くなかった。死なんて、どこにだってある、不変の、普遍の、たった一つの事実だから。

「そうか。俺ァなんて言ってたんだ?」

 だが今は違った。かぎりなく、生を、死ぬことを、惜しく感じている。自分が死ぬことよりも、もっと恐ろしいと思うものが、出来てしまったのだ。
 はまた愛しそうに笑った。照れたように目を伏せて、言葉をためらうように、不自然に間が空く。俺はの頬に手を伸ばした。あたたかく、やわらかい、生が、たしかに此処にある。の白い頬にうっすらと赤みが差した。

「わたしの名前を呼んでたわ」

 俺はいつの間にこんなに弱くなっちまったんだろう。目の前に幾度となくちらつくこの小さな灯が、俺のすべてを支えているような気さえしていた。
 どうしたら俺はお前だけを守って生きられるだろう? その笑みが俺に向いているうちは、不変を願ったって誰にも文句は言わせない。この温度を離したくない。この笑顔を、壊したくないんだ。

 お前を失いたくない。死が別つ不変も、血に見えた未来もすべて投げ打ったって、ごく普通に人が生き得る分だけの、確実さだけがほしいと、窓の外に迫る冬の色を思いながら、切に願った。




生と愛と死 (090922)























 世に平和が戻った。すべてが終わったのだ。静寂をとりもどした地上で私は、悟浄の手をとり、ふたりで永遠を歩いてゆくと決めた。
 いつも、夜になると思い出す。幸せはこの手にあって、厭うことなどもうなにもないというのに、思い出す。部屋を出て夜空をあおぐと一面に星が出ていた。一つひとつ、願いをこめるように目で追った。幸せはこの手にある――けれど、虚無のような感情は、私の胸から消えることはない。不安ばかりが私を脅かして、夜はいつもこうだ。
「……玄奘様」
 部屋で寝ていたはずの悟浄が、いつのまにか後ろに立っていた。
「悟浄……起こしてしまいましたか。すみません」
「いえ、大丈夫です。……それより」
 星だけに照らされた道を辿って、悟浄は私に近づく。おもわずうつむいた。瞳に涙がうかんでいるのを、見られたくなかった。私はこんなに幸せで、こんなに悟浄が好きなのに、泣くのはおかしいと、思ったから。
(満たされているはずなのに、不思議です)
「そのように薄着では、冷えてしまいますよ」
 夜は更けるほど冷えて、指先が冷たくなっているのが自分でもわかった。彼はふっと笑みをこぼす。私が顔を上げるより先に、悟浄が私の腕をひいた。自身の胸に隠すように、顔を見えないまま私を抱きしめる。
「あなたは……泣くのが下手なのでしたね」
 悟浄はやさしく笑ってそう言った。彼の温度は、私を一番に安心させる。どこへも行けない感情を全て吸収して許容してくれる。私は悟浄のやさしさに甘えているだけなのだろうか。――その問いへの答えは、必要ないと知っていた。
 あの日と似ている。私が決意をうそで隠して、それをあなたに見破られた日と。私の髪を手でといて、私の名前を切なげに囁く彼に、愛しさが雫になってこぼれおちてしまう。
「……悟浄、あなたは今、幸せですか?」
 答える代わりに、悟浄は私の額に口付けをした。愛をふくんだそれは弾けて、私の胸をいっぱいに満たして夜空へと消えていった。強く抱きしめられる。長かった髪をなくした彼のえりあしを見て、想い出を懐かしんでは涙へと変えた。





あたりまえです (091215)


















































































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