「こんなのおかしいわよねえ」

 可愛いものやきれいなものが好きだと気づいたのは、まだ幼い絵本を読んでいるころだった。
 ピンクのりぼんをつけたうさぎが好き。ひらひらしたフリルがついた、お人形さんのドレスが好き。可愛いものに囲まれる姉の姿を見て、たくさんの憧れを抱いた。おんなのこという美しい生き物のことを知って、それとは違う自分のことを知ったのは、それからもう少しだけあとのことだ。
 最初に髪を短く切ったときに、初めて違和感をおぼえた。姉のように、髪を長くのばして音がなるゴムで結んだり、りぼんをつけたり出来ないと気づいたときに、私はようやく自分が男であるということをはっきりと自覚した。体は大人になって、私はどんどん男になっていく。陽々野学園を選んだのは、制服のアレンジが自由だったからだ。さすがにスカートは穿けないけれど、型にはまった男子の制服を着なくても良かったから。
 人に比べて私はずいぶんと自由に生きてきたと思う。別にこの体がいやなわけじゃない。男としての感情はたしかにあるし、それを特別厄介に思ったこともない。ただ女の子の生きる世界に憧れがある。姉が与えてくれた世界はいつも美しく、きれいだった。結婚式での姉のウエディングドレス姿がそのなかの一番だ。
 曖昧でふしぎなバランスだけれど、私の中にはきっとふたりの私がいる。ちぐはぐだけれど女の心を持っている私。そして、この体に正しく、男の心を持っている私の、ふたりが。


 可愛い女の子がいる。
 いつも一緒にいる優衣や美香も、そりゃあ女の子として可愛いとは思っているのだけれど、その子は、なんだか少しだけ違うのだ。そういうのじゃなくて、自分でもよく分からないけれど、目が離せなくなってしまうような何かがある。
 最初に見とれたのは、うつむいてノートを取る横顔の、やわらかい頬のラインだ。顔が小さくてシャープな形をしているのに、高い頬骨が女の子らしく丸みを帯びている。大きな目元はすっきりしていて、笑うとくしゃっと細められる。もし自分が女の子だったら、ああいう姿に生まれたい、と思った。体だって小さくて、簡単に抱き上げてしまえそうなくらい華奢で、細くって。

 17年の人生のなかでこんなことは初めてだった。意識すればするほど、胸の中で破裂が起こっていく。憧憬のような嫉妬のような渦巻く感情がたしかにある。私もああなりたかった? あんなふうに、可愛い小さな女の子に。本当に、なんて可愛い形だろう。髪の質感も、肌の透き通り方も、憧れてやまなかった『女の子』の美しい形をしている。
 名前も知らない、朗らかに笑う花のような子。ずるいわ。きっと今まで真面目に、清らかに育ってきたのだと思う。そうだったらいい、と思っている私がいるのだから、ますます訳が分からない。理想を抱いている? 勝手に。願望を、羨望をぶつけているの? ……分からない。

「おかしいって、何が? さっきー」
「何でもないわ。なんだか、私にもよく分からないのよ」
「えー? 変なの」

 そうねえ、あなたには分からないと思うわ。あなたのお兄ちゃんなら少し、分かるのかもしれないけれどね。




1.まだ声にはできない























ちゃん」

 声をかけると、つぶらな目で私を見上げて返事をしてくれる、可愛い女の子。
 まるで小動物かなにかみたい。近くで見るとますます顔が小さくって、その細い身体をより意識してしまう。遠くから見てもちゃんは可愛いし、理想の女の子の姿をしていると思う。こんな風に思うのはわたしだけなのかしら? 分からないけれど、ちゃんが傍にいると、守ってあげなくちゃいけない、と強く思わされる。

 ちゃんは大きな瞳をくしゃりと細めながら、朗らかに笑った。狭い肩から少し持ち上がったガーリーなボブヘアは、華奢なちゃんにとってもよく似合っている。でもこの柔らかい髪をピンで留めて、前髪をくるっと巻いたら、きっともっと可愛くなるわ。細いカチューシャを乗せてもいいし、髪を耳にかけて、ヘアピンを留めてもいい。ちゃんを見ていると、いつもこんな風にわくわくした気持ちにさせられる。やっぱり、うらやましいわ。

「さっきー、ちょうど良かった。漫画返すね」
「もしかしてもう読み終わったの?」
「続きが気になっちゃって。ありがとう、面白かったよ!」

 ちゃんは美香と同じ中学出身だったらしく、偶然が重なってつい最近、初めて会話をした。まさかこんなことになろうとは、3日前までの私は考えもしていなかった。しかも、私が買い揃えている漫画をちょうど読みたかったと言うから、最新巻までをまとめて貸してあげたのだ。それがおとといの話。

「読むのが早いのねえ」

 なんてことない会話を、しているつもりだけれど、私はどうしても胸に違和感を感じてしまう。一体どこから来るのだろう。不快だとか、嫌だとか、そういうわけじゃない。今目の前で、ちゃんが私に向けてにこにこ笑ってくれるのが、なんだか現実のことじゃないみたいで、実感がないのだ。ふわふわする。まるで私の心が身体を抜け出して、笑いあう私たちの姿を俯瞰で見つめてでもいるみたいだ。
 ぐるぐると目まぐるしく私の心は揺れ動く。憧れていた可愛いあの子。薄く色づいたその頬に、オレンジ色を差し込ませて、短い髪を編みこんでみたい。すっきりした瞳にはイエローのシャドウがきっと似合うだろうし、ああでも、色白のまぶたには、ブルーやグリーンのほうが映えるのかもしれない。レトロなワンピースも、襟の広いラフなチュニックも、私が大好きな大花柄のスカートや、真っ赤なカーディガンだって、ちゃんはきっと着こなしてしまえるのだろう。パステルカラーのほうが、その色白の肌には合うのかもしれないし、……。

「さっきー」
「…………、あ」

 はっとして、ふいに現実に引き戻される。私ってば、無意識に妄想してたみたい。じっと見つめていたんだわ。無性に恥ずかしくなって、あらやだ、と思い切り目を逸らす。

 「見すぎだよ?」

 それは、あなたがそんな姿をしているのが悪いのよ。なんて、照れくさそうな顔をして笑っている彼女には言えるはずもなく、ごめんなさいね、と苦笑いをこぼして、頬を掻いた。




2.追い越してゆくうそのこと























「さっきー助けて!」
「あら、ちゃんじゃない。どうしたの?」

 2時間目終わりの休み時間、教室で優衣たちとまったり過ごしていると、ひどく慌てた様子のちゃんが私たちの教室に駆け込んできた。体育が終わったばっかりのようで、白いポロシャツにハーフパンツを着たまま、手にはブラウスを持っている。ちゃんは大変なの! と言って、私の目の前にばっとブラウスを広げた。

「ここのボタンが取れちゃって。さっきー手芸部だったよね? ソーイングセット持ってる?」
「ソーイングセット? 勿論あるわよ。でも、そのくらいならすぐ出来るから、やってあげるわよ」

 ちゃんからブラウスを奪って、内ポケットにあったソーイングセットを取り出してすいすいと縫い付ける。ボタン1つくらい、1分もあればつけられるわ。そう言うと、ちゃんは「さっきーすごい! 女子力高い!」と感激した様子で、私が縫い付けるのをじいっと見つめていた。少し照れくさい。でもなんだか、複雑な気持ちもある。

「はい、できあがり」
「わあっ、さっきーありがとう! すっごい助かった! 着替えてくるね!」

 お礼は今度なんかするから、と言い残して、ちゃんは嵐のように去っていった。休み時間はあと5分ある。優衣とふたりで手を振って見送ると、優衣は私に向かって「ちゃん、可愛いね」と首をかしげて、くすっと微笑んだ。
 なんだか世話の焼ける小さな子の面倒を見ているみたい。優衣もそう感じたのかもしれない。二つ結びされた髪もぼさぼさのまま、あどけないジャージ姿のまま私のところへ走ってくるなんて、ちゃんにそんな一面があったってこと、私、知らなかったわ。少し嬉しい。ううん、とっても嬉しい、の間違いね。まだ胸が少しだけ落ち着かない。

 けれど、私を頼ってくれたのは嬉しいけれど、ちゃんは私のことを、ただの女友達のようにしか思っていないのかしら? 今まではそれで良かったはずなのに、どうしてか複雑な思いを抱いている私もいる。女友達、って思ってくれるなんて、幸せなことじゃない? 私は男なんだから。そう、私は、女の子にずっと憧れて、女の子になりたいとずっと思っていたんだから。
 …………ああ、何を考えているんだろう。私はどうしたらいいの?やっぱり少し、怖いわ。




3.まぶしさが泣いてる























「どうしてか分からないけど、気になるの。私、自分は男の子が好きなんだと思ってたから」
「じゃあさっきーは、男の子も女の子も愛せるってことじゃない?」
「優衣ったら、そんな簡単に言わないでよ。まだ分からないのよ」
「でもちゃんが気になるんでしょ? もっと一緒にいるようにしたら、何か分かるかもよ」

 あの子を見てるとね、守らなきゃって思うの。守りたいなって。他の男のものになるなんて堪えられないし、私はこんなだけれど、認めてくれたらうれしいって思ってる。ただ私が怖いのは、あの子を好きだと認めたときに、私自身が変わってしまったら、どうしようかっていうことよ。可愛いものが好きで、イケメンが好きで、こんな風に女言葉を使っているでしょ? 私にはこれが普通だったのに、何かをきっかけにそれが打ち崩れて、それこそあの子を好きになって、私は男に戻るのかもしれないと思ったら、自分がなくなってしまうみたいで怖いの。

ちゃんは、私の憧れなの。あんな風に生まれたかったなって」
「確かに、さっきーの好きな感じかも」
「そうなのよ。お花とかりぼんとかつけてあげたくなっちゃうのよね」

 本当はそれだけじゃない。今まで知らなかった感情が、私の中のどこかから溢れてくる。
 抱きしめたい、もっと近くにいきたい、って、そんなことばかり考えてしまう。男として人を好きになるって、こういうことなのかしら? 可愛いあの子が傍にいてくれたら私は、自分の羨望を注ぎ込んで、お人形さんのように飾り付けて、大事にして、女の子になりたかった私の願いをすべてあの子に叶えてもらえるような気が、してしまうのよ。自分勝手で呆れちゃうけれど。

ちゃんは物じゃないし、私に理想をぶつけられても困るだけよね。それは分かっているんだけど」
「でも、最近けっこう仲良くなってきてるじゃない? それでも可愛いなあって思うなら、もう恋してるんだと思うよ」

 そうねえ……ちゃんは意外と、面倒くさがりなところがあって……。だから構いたくなっちゃうのかもしれないわ。放っておけないっていうか、見てて危なっかしいっていうか、真面目でしっかりしてるのに、どこか不器用なところが可愛くて。
 うん、やっぱり私、あの子の傍にいたいって思ってる。男としての気持ちなのか、女としての憧れなのか、その正体はまだよく分かっていないけれど。

「何にも怖がることないよ。さっきーが男の子でも女の子でも、何にも変わらないもん。さっきーはさっきーで、わたしたちは親友でしょ?わたしはずっと、さっきーのこと応援してるよ」

 ねっ、と言って優衣はいつものように、柔らかい笑顔を見せてくれる。優衣ってば、すごいわ。かっこいいこと言ってくれるじゃない。そういうところ、少しだけお兄さんに似てるのね。ああ、なんだか少し、安心した。もしかしたら私が怖がることは、何にも、ないのかもしれないわ。




4.意識のサカナ























「さっきー、はい!」

 ちゃんの小さな手のひらが開かれた真ん中には、ミルキーの包みが三つ。私がきょとんとしていると、この前のボタンのお礼、と言って差し出してくれた。なんだ、あんなの、全然気にしなくてよかったのに。ただボタンをつけてあげただけなのに、律儀にお礼を返してくれるちゃんの気遣いが嬉しくって、私は自然と頬がゆるんでしまう。

「ありがとう。嬉しいわ」
「ううん、本当に助かったから。あのとき」

 さっきーがいなかったら胸元全開で過ごすところだったよ、とちゃんは恥ずかしそうにはにかむ。そうね、それは頂けないわねえ。また複雑な感情がもやもやと浮かび上がる。これはきっと、私の男としてのわだかまりなのだ。ちゃんのことを考えるとき、私はいつも自分の中に、ふたりの自分がいることを確かめる。小さな憧れと、小さな恋心。このふたつはとてもよく似ているから、私自身もまだ区別することができずにいるけれど。

「あと、このまえの漫画のお礼もしたいんだ」
「え? いいわよ、そんなの。気にしないで」
「駄目だよ、ちゃんとしたいの! ねえ、今日の放課後とかひま?」

 放課後は、いつもは部活があるけれど、今日はオフ。ただの偶然だけれど、運命的ななにかを感じてしまう。ばかみたい。ひまと答えながら、少し期待している私がいる。この気持ちは何かしら? ちゃんはにこっと笑って、良かった、と私の胸を余計に高鳴らせる。

「クレープでも食べに行こうよ。駅前の」

 おごるよ、とちゃんは頼もしく、ガッツポーズを作る。そんな動作も可愛らしくて、ついぷっと吹き出してしまう。顔が赤くなってないか心配だわ。ちゃんの前では、いつもそういう素直な感情を隠すように、必死に平気な顔をしているから。

「……うん、行く。行きたいわ」
「じゃあ、帰り待ち合わせね。楽しみ!」

 ああ、にやけないのって、大変だわ。本当はこれっぽっちも平気なんかじゃないのに、いつもどおりの涼しい顔してちゃんの背中を見送って、もう顔を上げられそうにないもの。嬉しい。嬉しい。まだ少し怖いままだけど、生まれていく想いにどんどん色がついていく。日に日に大きくなって、いつか花が咲くんだわ。もうそういうことなの。

 小さな小さな恋を、隠せない。隠したくない。私は、ちゃんが好き。ただそれだけだ。




5.ありふれた恋にのせて (130718~22)























 話しかけられているような気がしたけれど、羊と話すのに夢中で無視していると、しびれを切らした與儀が半泣きでわたしの肩を引っ掴み、「ちゃん!」と息巻いてそのままわたしの身体を壁に押しつけた。
「ねえっ、俺が帰ってきたんだよ! なんか言うことないのっ!?」
 ぶつけた背中が少し痛いけれど、悲壮な與儀のかおを見ていると、わたしよりもよっぽど痛そうだったので、飲み込む。
「あ……おかえり、與儀」
「そんな取ってつけたようなおかえり嫌だあ〜〜!」
 ついには泣き出しそうに眉を寄せたので、可哀想なことをしてしまったなあ、と少し思った。わたしよりずいぶん高いところにあるその頬に触れると、くちびるを尖らせながら愛おしそうに擦りよせる。さっきからぐすぐすと鼻をすすって、與儀は情けないかおばかりしている。少しだけ、可愛い。けど言ってあげない。
「次は一番におかえりって言ってっ」
「わかった。ごめんね」
「俺今日、ちゃんに会うために急いで帰ってきたんだからね!?」
 わたしを見て、與儀はころころと表情を変える。まるで心の中の感情ぜんぶを教えてくれるみたいに。うなづくと、「絶対だよ!?」と念を押して、わたしを腕ごと自分のほうにぐっと引き寄せた。顔をあげるとすぐに、まぶたにくちびるが降ってくる。與儀はいつもこうやって、幸せをぜんぶ真正面から教えてくれるから、好きだ。とても安心する。この優しい瞳が、声が、與儀のすべてが。わたしは本当に大好きなのだ。
ちゃん、大好きだよ」
 わたしの大事な與儀。落ちてしまう涙の一粒でさえ、愛してる。




引っかけて流れ星 (131010)























 泣きそうな顔をちゃんがしていたから、俺が慰めなきゃ、と思ってぐっと引き寄せてみた。しおらしく頭をもたげてちゃんはどんなふうに泣くのかなあなんて思ってたら、ちゃんは俺をどーんと突き飛ばしてものすごい怒った顔をして俺をにらみつけている。え、ええっ!?
「何するの!!!」
「な、何って……ちゃんを慰めようかなって……」
 髪の毛を逆立てそうな勢いで、ほんとに激昂ってこんな感じだ、というような形相でちゃんは口をぱくぱくさせている。え、俺、そんなだめなことした? 何、もしかしてちゃんって俺のこと大嫌いとかだったりする? だとしたらなんかこれ、すげー傷つくんだけど……!
「ご、ごめんね、そんな嫌がるとは思ってなくて……」
 言いながら俺のほうが泣きそうだよ。いい雰囲気になるつもりだったのに、何で俺こんなに怒られてるの!?
「よっ、與儀くん、軽々しくそういうことしたらだめだよ!!」
「え?」
「勘違いしちゃう子、いるんだからね! いくらわたし相手でも、だめだよ、いきなりこんな!」
 あれ……よく見たらちゃん、顔が真っ赤だ。怒ってるみたいだけど、それよりもっと泣きそうな顔してる。あれ、何これ、もしかして。
 ちゃん照れてるの?
「お、俺! 他の子にこんなことしたりしないよ! ちゃんだったからっ」
「與儀く……!?」
 子犬みたいに息巻いてるちゃんが可愛くて、俺は気づけばもういちどがばっと抱きしめていた。また拒まれるかと思ったけど、今度はちゃんは固まって俺の腕のなかでおとなしくしてくれている。頬は真っ赤だし、言葉がなにも出てこないって顔してる。おもしろい子だなあ。ついつい口元がゆるんで、だらしなくにやけてしまう。
「俺、ちゃんのことが好きだよ」
 君のそういう鈍感なところも照れ屋なところも、全部、ね。




ようやくその日がきた (131023)























 彼女いないんですか、と聞いてくるその顔は、何の悪気もなさそうだったので気が抜けた。そう言われてみたらしばらく、そういう親しい女性を作っていなかったな。どうしてと言われても、明確な答えなんてありはしないのだが。もしかして、私をからかっている?…………なんてね。先ほどからほとんど進んでいないのワイングラスに乾杯して、君も飲みなよとそそのかして中身をあおる。
「そういう君もいないんだろう」
 見てれば分かるよ。君は男っ気がないし、こうしていつも私の晩酌に付き合ってくれるから。だって普通、相手がいたら、こんな風に男の誘いに乗ったりしないだろう。だから好きな人とか、良い人とかも、いないんじゃないかと思ったんだ。
「冷静に分析しないでください」
「つい癖でね」
 ワインを飲みほしたの頬は、すっかり淡い桃色に染まっている。20を過ぎてしばらく経つのに、まだかっこよくワインも飲めないのだといつも嘆いていた。だから私はこうして、を誘ってたびたびお気に入りのワインを飲ませてあげているのだけど、その意図には少しも気づいていないんじゃないかと思う。はあまりにも無防備だ。酒を飲むとすぐに目がとろけて、色っぽい顔をするようなところとかは、特に。
 ボトルを持ってのグラスに注ごうとすると、「もう飲めない」とこぼしながらも、そっと杯を持ち上げた。酔ってくるとたまに敬語がなくなる。の砕けたその声が、私はけっこう好きだ。
「相手なんてしばらくいませんよ」
 はワインをひとくち舐めって、ぼそりとこぼす。少し飲ませすぎたかな、とは思うけど、頬杖をついてその表情を見守っていると、ころころと色を変えるから面白い。むすっとくちびるを尖らせた顔。恥ずかしそうに目をそらす顔。私を見て、少し不安そうにまばたきをする顔……。
「キスだって」
 ずっとしてない、と吐息まじりにこぼれた囁きは、目の前で揺れるように私を誘惑して、弾ける。今すぐこのダイニングから、すぐそこのソファに抱き上げて連れていきたい、と直接的な欲望がにじんだ。酔ってもには理性が残っているのだろうけれど、こんな顔をするほうが悪いのだ。まがいなりにも君に惚れている男の目の前で、そんな熱に浮かされた目をしたのが、悪い。
「飲みすぎだよ、
「そんなこと……ない」
「どうかな」
 しらを切ったってもう聞かない。私を誘ったのは、君だよ。そう心の中で呟いて、グラスを置いた手での頬を引きよせた。




今夜きみを奪います (140327)























「正常な脈が測れん」
 自分でももうどうしようもないくらいに心拍数が上がっているのが分かる。燭先生はため息をついて、わたしの手首を離して今度はあごの下の動脈に指を押し当てて、顔を自分のほうに向かせた。桃色の目、冷たくて鋭い燭先生の目。つい呼吸が浅くなっているのを見破られて、整えるように深呼吸させられる。
「…………分かった。注射は止めるから、落ち着け」
 面倒だ、迷惑だって燭先生のその顔にはっきりと書いてある。わたしは昔から注射が苦手で、いつも考えるだけで失神しそうなくらいドキドキしてしまうのだ。予防接種だから止めるわけにはいかないと分かっているのに。もしかしたらその言葉は、燭先生がなだめるために嘘をついてくれたんだろうか、なんて思った。燭先生は迷惑そうな顔ばかりするけど、結局いつも優しいのだ。
「ようやく落ち着いたな」
 首に触れた燭先生の手で、自分の鼓動のリズムがわかる。注射を打とうとして消毒までしていた左腕のくぼみを、燭先生がするりと撫でる。目を逸らすなと命令されたので、恐る恐るその目をじっと覗きこんでみた。
 少し近づいたその頬は、血の気が少なく透きとおって見える。長いまつげがゆっくり瞬きするのに気を取られ、ぽうっと見惚れてしまった。燭先生があんまりじっと見つめるから、このままくちびるが触れ合うんじゃないかって……ついそんな期待までしてしまう。ああ、わたしのばか。また心拍が乱れる、とぐっと目を閉じると、その瞬間、腕にチクリとした感触があった。
「う……!?」
「よし」
 不意を狙って打つなんて、燭先生も意地が悪い、でもあっという間に終わったから、結果オーライなのかもしれない。キスされるかも、なんてばかな期待をしたわたしの頭が沸いているのだ。あんな風に近づかれたから誤解するなんて、恥ずかしい。うつむいて、注射されたばかりの左腕からふいと目を逸らす。痛い……痛かった。どきどき脈打つ鼓動がまだ、注射の余韻に浸っている。
「今日は大人しくしているように」
「は、はい」
 よく頑張った、と帰り際に口角をあげて、頭を撫でてくれたから、やっぱり結果オーライだ、と思った。わたしの心拍が乱れてしまうのは、もしかしたら注射のせいだけじゃなくて、燭先生のせいも半分くらいは、あるのかもしれないなあ、なんて。




「……燭先生、いっつもちゃんにあんなことしてんの……? なにそれ、ずるい! 役得じゃんっ!!」
「與儀、燭先生はむっつりなんだ。放っておいてあげなさい」
「だって〜〜!! あんな距離で、あんな顔するちゃんが見れるなんて……ずるいよ〜〜!!」
「まあたしかに、に向ける優しさのひとかけらくらいはくれてもいい気がするが……」
「うるさいぞ、與儀、平門! 早く予防接種を受けろ。俺は忙しいんだ」




燭先生の診察 (140327)























 目を開けたら、うろこ様の神殿に横たわっていた。泣いたあとが自分の頬に残ってる。けれどなんで泣いたのかも、なんで自分がいまここにいるのかも、さっぱり分からない。わたしどうしたんだろう。学校が終わって、いつものように神殿の掃除に来て、それからの記憶がなにもない。
「起きたか」
 御霊火のほうを振り返ると、背もたれに気だるく体を預けながら、うろこ様がいつものように座っていた。なにも変わった様子はない。うろこ様は優しくて妖しいそのかんばせに笑みを浮かべて、指先でわたしを近くに呼び寄せる。
「うろこ様、わたし……」
「おまえは具合が悪いといって倒れたのだ。だからまじないをかけた」
 長い爪がそっと伸びてきて、わたしの頬に触れた。涙のあとをたどり、消すように親指のはらで擦る。優しい手つきに胸がちくりと痛んだ。なんだろう、この感じ。大切なことを忘れている気がするのに、思い出せない。うろこ様。
「気分はどうだ。まだ悪いか」
 首を横に振る。けれど心のどこかがざわついている。具合が悪いわけじゃない、よく分からない。わたしが不安な顔をしていることに、きっとうろこ様は気づいたのだろう。仕方ないと言ったように笑って、わたしを抱き寄せて、その手で髪を優しく掻きなでた。わたしは少し驚いて、無礼なことをしている気がして、すぐに離れようとしたけれど、うろこ様は強い力でわたしを抱きしめて、離してくれそうもない。
「怖がるな。まじないのせいで、記憶が曖昧になっているのだ」
「そ……そうなんですか?」
 ああ、そうだ――――。耳元でそう囁かれたうろこ様の声は、たまにわたしたちに呪いを振りかけるときのように、神秘的で、身体を支配されるような畏れを感じさせる。わたしは頷いて良いのだろうか。なにも分からないけれど、この手は心地いい。目を閉じればまた眠りに落ちてしまいそうだった。この気だるさはなんだろう? どうしてこんなに、泣いてしまいそうな気持ちがするんだろう。
「眠れ……私の。可愛い愛し子よ」
 いとしい、と、胸の奥が叫んでいる。痛くて怖い。辛くて愛おしい。優しくわたしを守ってくれている、この手が、どうしようもなく。




誰も知らない (131027)























 思えば最初から始まっていたのだし、ただわしが痺れを切らしたというだけで、そもそも何も始まってすらいなかったのかもしれない。すべて無くしてしまった今となっては、もう何も関係ない。いちから始めれば良いのだ。積木を重ねるように、土が花を芽吹かせるように、大事に大事にひとつずつ、また紡ぎ上げれば良い。
「もう、駄目じゃ。わしはおまえを失えない」
 掴んだの手首は小さく、さくらいろのその爪に唇を寄せると、恐れるようにびくりと跳ねた。鼓動が動くたびに、息を吸うのが辛くなる。目の前の愛しい存在が、今はもうわしを恐れて、遠ざけようと足掻いている。辛いけれどそれらもすべて枷を外す合図となる。もう進めないというのなら、何もないところまで戻るしかなかろう。可愛いおまえが、わしにそうさせるのだ。わしに鳥籠を編ませたのは、他ならぬ、だ。
「どこへも行かせぬ。わしのものにならぬと言うなら、すべて奪ってしまうぞ」
「うろこ様、お願いです。許して下さい。わたしには、大切なひとが――」
 いるのだ、と、聞きがたいことを紡ぐの唇を、強引に奪い、神殿の床に身体ごと押し倒してやった。やはり、もう、どこへも行けぬ。戻るしかない。
「愛し子よ。おまえの魂はずっとここに。わしと共に在るべきだ」
 呪いをかければ一瞬で、おまえはその大切なやつとやらのことを、忘れるのだ。気持ちだけでなく、存在そのものを一遍のこらず消してやることもできる。記憶を忘却した痛みは残るやもしれぬが、それはわしが撫でてやろう。おまえに痛みを与えたこの手で、優しく優しく、いつまでも。どこにも行けぬのなら、行かなければいい。ずっとここに留まり、わしの腕のなかにいてくれれば、それで良いのだ。、わしの、愛しい
「すぐに終わる。目が覚めればおまえは、そ奴のことなど忘れている。憎んでも良い。おまえがわしのものになるのなら、もう何も厭うことなどない」
 だから許せ。ああ、けれどおまえは、泣き顔さえも美しい。愛しているよ、。この魂をわしの傍に。未来永劫共に在ろう。泡になるその日が来るまで、ずっと。




まばゆく照るもの (131027)























 じゃあうろこ様ってずっと一人なんだ、とうっかり口に出したのが間違いだった。堕落してる姿ばかり見てきたけど、まがいなりにも海神様の御使い様なのだ。地上の大学に通ってのんびり生活している、呆けた大学生の私なんかとは土俵が違った。海神様の火がゆらゆら揺れたのに気を取られている隙に、うろこ様の冷たい手がするりと私に伸びてきて、引き寄せられた首筋にくんと鼻を当てられた。
「ずいぶん地上臭くなったのう」
 少しざらざらしたうろこの肌につい手が触れる。念入りに、確かめるように、うろこ様は私の首から耳のうらまで、唇が触れるほどの距離で匂いを嗅いでいく。
「誰の臭いをさせとるんじゃ? 地上の男か」
「なっ……」
「わしが誰の為に一人でいると思っとるんじゃ」
 青い瞳が、私の心の中まで見透かすように、じろりと覗き込んでくる。男か、と言われて心臓が跳ね上がったのを、うろこ様は見逃さなかった。私が幼い頃から、うろこ様の姿は変わらない。けれど私の背丈や身体はどんどん成長して、もう子供のものじゃなくなってしまった。きっと本当にうろこ様に見合うくらいに成長したのだ。うろこ様はそれを分かって、こんな風に私に触れてくるのだと思う。
「おまえが約束したんじゃろ。わしの嫁になると」
 ずっとずっと昔にした口約束をはっと思い出して、頬が熱くなる。ああ、そうだ。昔、うろこ様のお嫁さんになる、と言ったことがある気がする。私の方が忘れていたのに、まだ覚えていたなんて。そのせいでうろこ様がずっと一人だと言うのなら、地上の男が口にする甘い言葉のようだと思った。でもうろこ様のほうがよっぽど根深くて、陰湿だ。
「約束通り、おまえはまだ誰の物にもなっとらんみたいじゃの」
「そ、そんなこと……」
「わしは欺けん。匂いで分かる」
 じゃれるように首に唇が触れた。どくどくと脈打つ鼓動が、そのまま伝わってしまいそうで焦った。
 うろこ様の言葉は麻薬みたいだ。ぜんぶに呪いがかかっていて、だから耳元で囁かれると身体と心が麻痺をする。
「偉いのう。褒めてやる」
 地上の大学に通う条件は、うろこ様との約束を思い出すことと、忘れないこと、だった。今ようやく思い出して、もう忘れられないのだと思う。うろこ様、本当にあの約束をずっと守っていたの? 青い目に見つめられると、胸の奥がさざなみのように音を立てて揺れる。
 そうだ私は、このひとのことがずっと好きだった。これがただの誘い文句であったとしても、こうして触れてくれるなら、もうそれだけで嬉しいのだ。唇が重なる前に名を呼べば、うろこ様は愛おしそうに笑って私の頭を撫でてくれる。その瞳を見て、一瞬でいいから、私をうろこ様の物にしてほしい、なんて思ってしまった。




まぼろしよ死ぬなかれ (140310)























 神殿を掃除してあげているというのに、家主のうろこ様はぐうたら寝転がってお酒を飲んでばっかりで、手際が悪いだのどんくさいだの文句をつけながら、空になった徳利を転がして気持ちよさそうにしている。ほこりを叩いているこちらの身にもなってほしい。厚意でしていることだけど、掃除してほしいならほしいなりにもうちょっと誠意を見せてくれたって……。
 なんてぶーぶーぼやきながら雑巾をかけていると、何本目かの徳利を空けたうろこ様が起き上がって、私のを呼んだ。楽しそうなその顔にちょっと嫌な予感がする。
「もうよい。こっちへ来い」
 うろこ様は手でくいくいと呼び寄せる。にやにやした表情はほんとにやらしいこと考えてるおじさんって感じで、素直に言うことを聞くのもはばかられる。本当はお酒になんて酔わないくせに、酔ったみたいな顔をして。ずるいなあ。当たり前のようにおちょこを手渡してくるのを、日本酒は嫌いだからと言って断る。
「日本酒も飲めんのか。子どもじゃのう」
「別に飲めないわけじゃ……」
「じゃあ、何か。わしの酒が飲めんと言うんじゃな」
 ぐいっと私の手を取って、下からじろりと覗き込まれる。うろこ様の青い目に捕えられて、はっとしたときにはもう遅く、私は床に押し倒されていて、そのはずみでごんと頭を打った。痛い、と言うより先に、うろこ様の唇が私のそれに重なる。さらりとした液体が唇に流れ込んできて、すぐにのどがかあっと熱くなる。ごくんと飲み込んだのは、言うまでもなく、徳利の中でぬるくなっていた熱燗で、うろこ様の冷たい唇は勿体ぶって、舐めるように音を立てて離れていった。
「どうじゃ? 日本酒も美味いじゃろ」
「な……なにするんですか! ばか!」
 けほけほっと咳き込むとやっぱりアルコールの味がする。心臓がどくどくと鼓動を速めて、一気にお酒が回るのを感じる。だから日本酒は嫌いなのだ。すぐに体が熱くなってしまう。楽しそうに笑ううろこ様は、また熱燗を口に含んで、私の唇にゆっくりと流し込んだ。お酒の味のする舌と舌が絡んで、息がどんどん上がっていくのがわかる。口の端からこぼれたお酒が耳までたどり着く。
 ああ、熱い。お酒くさい。こんなことしていたら、私のほうが酔っぱらってしまいそうだ。
「はは、酒が回るのう」
 にやにや見下ろしてくるうろこ様は、本当はちっともお酒に酔ってなんかいないくせに。得意げに舌をぺろりとして、私の頬を伝っていたお酒まで美味しそうに舐める。やっぱり変態だ、このひと。無理やり押し返して起き上がると、うろこ様はつまらなそうな顔して徳利を手にした。
「もう終わりか」
 頭の奥がふらふらする。隙を見せれば、また口移しでもされてしまいそうだ。警戒して睨みながら距離を取る。けれどうろこ様は、立ち上がった私の手を勢いよく引いて、そのままぎゅうと抱き込んだ。私の耳に熱い唇が降ってくる。「駄目じゃ、逃がさん」……甘く響くその囁きに、胸が震えてしまう。やっぱりこのひと、変態だ。私は赤くなる頬を必死に抑えて、抵抗してみるけれどあまり意味をなさない。
「今日は朝まで付き合ってもらうぞ。なあ、?」
 力が抜けていく。もしかしてこれも呪いだろうか? ああ、頭が、痛い。




目のくらむ口実に (140312)






























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