「心配だからね、離れられないの」

 何度も歩いた波打ち際の、帰り道。潮の香りが、さざなみの反響が、怖かった。俺の手を離して縁石のうえを歩くの、痛んだ毛先がきらきらと光る。振り返る頬は白い。心配ならたしかにしている。はドジで危なっかしいから、見ていていつも不安になる。小さなそのからだに怪我をしてしまうんじゃないかって、離れてはしゃぐのを見るたびに思うんだ。昔から俺は、が転ばないように手を引いて、が一人で泣かないように、傍にいてやるのが、俺の役目だって信じているから。

 俺の大事な

「何かいやなことがあったの?」
「……どうして? 何もないよ」
「そういう顔してるから」

 妹のように愛しくて、姉のように縋らせてくれる。小道の石ころを蹴って、長い階段をとんとん、と跳ねるように駆け登る。振り返って手を伸ばすから、掴んで握りしめた。子どもの頃よくそうしていたように、俺たちはいまだに手を繋いで階段を登る。そうしないとはすぐに転ぶ。今はただ、そんな気がするっていうだけだけど。それでもは手を離さない。昔よりずっと小さく感じる、の手は、俺を何より安心させてくれる。

「部長、大変なの?」
「そうでもないよ。まだ部員、5人だけだし」

 家までの道は狭く、通るたびにする近所の夕飯の匂いが、懐かしくて温かかった。繋いだ手がゆらゆら揺れる。俺の顔を見上げるは、やっぱりとても小さくて、抱きしめたくなる。離したくない、と胸が叫ぶ。俺の中にいる幼いも、夕日のなかで何度も俺の目を見て、名前を呼んでくれるのだ。真琴、真琴。わたしは、死なないよ。

「ねえ明日、宿題の答え合わせしようね」
「あ……数学か。忘れてた」
「わたし当たりそうなの。たぶん真琴も、当たるんじゃない?」

 玄関が見えて、するりと離れそうになるの手を、名残惜しくなりながら見送る。じゃあねと言ったの目が、俺を呼んでいる気がした。真琴、真琴。家に向かうはずだった足を止めて、もう一度の手を握る。どうしたの、俺はここにいるよ。多分ずっと、おまえから離れられないよ。心配なんだ。妹のようで、姉のような

「また明日」

 依存のような寂しさをつないで、キスをしても、許されるのだろうか?可愛い。俺の大事な、。傷つけたくなんかない。けれど恋じゃないと言えばおまえは、泣いてしまうんだろう?いつまでこうしたままで、愛していられるだろう。きっと俺にとっておまえは、ずっと大事で、可愛いままだと、分かっているのに。




金魚の蜂/130808























 江ちゃんが水泳部に入ったから、帰宅部はついにわたしだけになってしまった。
 これでいっしょに帰る人がまたひとりいなくなっちゃった。江ちゃんも帰宅部仲間だと思ったのになあ。今はもう、水泳部の部員たちと楽しそうにやってるみたいだし、最近は江ちゃんが遠くに感じることもある。水泳部の部員は、ほとんどが江ちゃんのおさななじみらしい。そして江ちゃんのお兄さんと同級生で、みんな昔から、すごく仲が良かったんだって。

 放課後になって、江ちゃんに会いたかったから、ふらりとプールに立ち寄ってみた。明日はいっしょに帰れるのかどうか聞きたかったし、水泳部で江ちゃんがどんなふうに過ごしてるのか、気になったのだ。わたしから江ちゃんを奪った水泳部。江ちゃんが楽しんでるなら、わたしは別にそれで、いいんだけど……。

「あ、あの。江ちゃんいますか」

 プールから部室につながってる道を覗くと、すぐそばに水着姿の男の人がいてぎょっとした。すごく背が高くて、体格が良くて、でも優しそうな垂れ目が印象的なかっこいいひと。プールだし、こんな格好の人がうろうろしてたって当たり前だけど、なんだか緊張してしまう。

「ああ、江ちゃんならプールサイドにいるよ」

 わたしがためらっていると、その背の高い男の人は「おいで」と手招きしてくれた。この感じだと、先輩かなあ……。水泳部の人に間違いないだろうけど……。日差しの暑いプールサイドにそっと顔を出すと、塩素の香りと、特有の蒸し暑さがあった。ただ江ちゃんが言ってたとおり、風は涼しくて気持ちいい。
 水着姿の男の子と話してる江ちゃんをじっと見ていると、江ちゃんはすぐにわたしに気が付いたようで、「!」と笑顔で駆け寄ってきた。どちらからと言うこともなく両手を伸ばして、お互いに繋ぎあう。江ちゃんが紹介してくれて、わたしを手招きしてくれたのが橘先輩で、水泳部の部長さんだということを知った。

、見学していく?」
「えっ? わ、わたしただ、江ちゃんに会いに来ただけだから」

 橘先輩のうしろにひょこ、と顔を出した男の子が、「江ちゃんのおともだちー?」ときらきらした目でわたしを覗き込んでくる。あの子、たぶん同じ1年の……名前はわからないけど、目立つから顔は知ってる。その後ろから黒髪の男の人が、こっちをじっと見ている。一斉に3人に注目されて、意味もなく顔が赤くなるのが、自分でも分かった。慣れてないから、こういうとき、どうしたらいいのか分からない。

「か……帰ります……」

 水泳部のひとたちといっしょになってわたしを誘う江ちゃんは、もう完ぺきに水泳部のひと、みたくなっていた。わたしはなんだか、自分が外側にいるような気持ちがした。今まで江ちゃんの隣にいたのは、わたしなのに。江ちゃんの世界の内側は、ちゃんとわたしのそれと同じだったのに。
 胸の色んなところが、ちりちりと痛む。プールに背を向けて土を蹴りながら、わたしの知らない場所で楽しそうに笑う江ちゃんが、わたしはやっぱり大好きで、どれほど離れたとしても、やっぱり諦めきれない、と思った。わたしの江ちゃん。いつも一緒に過ごしてきたのに、どうして今になって、こうなっちゃうんだろう。

 今日会った水泳部の人たちが、頭をよぎる。わたしから江ちゃんを取った、あの人たちのこと、江ちゃんには悪いけれど、わたしは好きになれないかもしれない。




花の世界はありふれてる/130816























 なんか怖がられてるような、気がする。
 廊下ですれ違ったときも思いっきり目を逸らされたし、江ちゃんに誘われて部活を見に来てくれたみたいだけど、ずっと不安そうな顔、してるし。ちゃん、は多分、江ちゃんのことが本当に大事なんだと思う。女の子同士の友情はよく分からないけれど、ふたりはきっと特別な友情みたいなもので繋がってるんだろうなあ。

 日差しが強いけど、大丈夫かな。水泳にはあまり興味なさそうだけど、少しでも面白いって思ってくれたらうれしい。俺がプールに飛び込む視界のはじに、やっぱり少し不安そうな顔したちゃんが映って、水に沈みながらその色白の顔を思い出していた。…………。

「どうして見学に来てくれたの?」

 タオルで水を拭きながら、ちゃんの座るベンチのはじっこに座る。距離を取らないと、逃げられてしまうと思ったのだ。脅えられてるし。たぶん、だけど。

「……江ちゃんが誘ってくれたので」
「そっか。少しでも興味持ってくれたらうれしいよ」

 ちゃんは俺の顔をちらっと見て、すぐにプールの水面に逸らした。不安より、戸惑い、みたいな感じかもしれない。プールでははるが泳ぎ続けていて、ちゃんはそれをじっと見つめていた。やっぱりはるのフォームは綺麗だから、水泳に詳しくない子でも、見とれるなにかがあるのだ。誇らしくなって、少し笑う。

「きれいでしょ、はるの泳ぎ」
「え……あ、はい」

 俺がそう言うとうつむいてしまった、ちゃんの顔を覗き込むと、ふいにこっちを向いた白い頬にどきりとさせられた。「でも」、ちゃんにこんなにまっすぐ見つめられたのは、初めてで、少しだけ動揺する。

「真琴先輩の泳ぎも、かっこよかったです」

 …………驚いて、ただ、照れた。そんなこと言ってくれるなんて思ってなくて。
 あ、と言葉を探した俺は、たぶん相当まぬけな顔をしてたと思う。嬉しくて笑みがこぼれる。「ありがとう」と言うとちゃんはすぐに目を逸らして、またプールのほうに視線をやっていた。その横顔に、俺はなぜだか吸い寄せられるように、見入ってしまった。




焦燥のティアラ/130819























 江に言われていたけれど、遙先輩は本当に水しか見てないひとだった。
 メールしててもプールと水泳の話しかしないし、会っているときも泳ぎたいとか、プールに行きたいとか言ってぼんやりするし。遙先輩、もしかして、わたしと一緒にいてつまらないのかな?何も話すことがないから、水泳の話ばっかりするのかな……。わたしが好きになったのは、プールで楽しそうに泳ぐ遙先輩だけど、江のおかげで一緒に過ごすことが多くなってから、こんなことを思うようになるなんて今まで考えもしなかった。
 遙先輩と水泳以外の話、もっとしたいな。他に何が好きなのか、わたしにも教えてほしいなあ、なんて。




「あっ、! 今帰るところ?」

 生徒会の友達を手伝って残ってたら、もうこんな時間になっていた。すっかり日が暮れて、部活も終わってしまう時間。今日は江も部活があると言っていたのを思い出して、久々に一緒に帰ろうと探しに行くと、ちょうど水泳部の活動が終わってプールを閉めたところらしかった。江のうしろからぞろぞろと部員が出てきて、一番奥には遙先輩もいる。見つけて、ふいに胸がドキリと鳴る。

「う、うん。一緒に帰ろうと思って……」
「あ……ごめん! 実はこのあと、先生の所に用事なの。私と真琴先輩!」
「そうなの? じゃあ……」
「何時に終わるか分からないから、先帰ってていいよ。遙先輩、のこと送っていってくれます?」

 え!? ご、江!
 いきなり何言いだすの、と声をあげても、江はにこにこ笑うだけ。わたしは江を誘いに来たのに……でも居残りならしかたないか。遙先輩は顔色ひとつ変えず、ああ、と頷いて、行くぞとわたしをうながした。

「危ないから、送る」

 そんなまっすぐな目で言われてしまったら、頷くしかない。うしろにいる江と、真琴先輩たちに手を振って、わたしはいそいで遙先輩について行くことにする。ふたりで帰るなんて、初めてだ。どきどきする。話すことないなあって思ってた矢先のできごとで、わたしは少し焦っていた。遙先輩、つまんなくないかな? でも、何の話を振ればいいんだろう?どうしよう……。


「は、はい!?」
「…………いや」

 一瞬だけ目が合って、すぐに逸らされる。微妙に空いた距離が、なんだかわたしたちの気まずさを表しているようで、もどかしい。
 遙先輩はきっと海沿いの道を通って帰るんだろうなあ、と思った。水が好きならきっと海も好きなんだろうなって。ちらりと見て勝手に思いを馳せてるけれど、まだ直接聞くことなんてできない。さらさらした髪が潮風になびいている。まだ乾ききっていないそれからは、きっとプールのにおいがするんだろうなあ。遙先輩は後ろ姿もすっとしてて、かっこいい……。

「…………なんか、悩んでるのか」

 いつも通りの真顔で、遙先輩はふいに振り返る。え、とおどろくわたしを一瞥して、「そういう顔、してると思った」とちいさく呟く。遙先輩はさっきよりも遅いペースで、わたしに歩調を合わせてくれているみたいだった。表情が少ないから分からないけど、もしかして心配してくれてる? のかな……。気にさせちゃったのが悪くて、でも、なんで悩んでるのかなんて言えるはずもない。
 遙先輩、わたしと一緒にいてつまらなくないですか? ……なんて、聞けないよ。わたしが傷ついちゃうもん。

「なんでもないなら、いい」

 遙先輩のことばは、冷たい。きっとそんなつもりないんだろうけど、たまに遠く感じる。少しいやだな、と思った。せっかくわたしのこと、気にしてくれたのに。……もっとずっと、こっちを見ててくれたらいいのになあ、って思って、苦しくなる。

「あ、あの、遙先輩っ」
「…………?」
「す……好きなものって、なんですか。あの、水泳以外で」

 焦ってしぼりだしたわたしの質問に、遙先輩はきょとんとしている。そりゃ、そうだよね、唐突で意味わかんないよね。でも何かしゃべらないと、また無言になってしまうと思ったのだ。
 たぶん遙先輩は、わたしが何を言っても動じないでいてくれるし、恥ずかしがってばっかりいたら、何にも進まない。だったらもう、聞いてしまおう。江なら、好きなひとにもっとぐいっと行けって、背中押してくれる……気がするから。

「好きなものは……鯖だ」
「さ、鯖……ですか?」

 遙先輩はこくんと頷く。好きなもの、好きなもの……と反復して、一生懸命考えてくれている。

「あと、滝」
「た……滝……」

 出てくるものがことごとく予想外で、どうしようかと思った。滝……滝? 鯖はおいしいからわたしも好き……だけど、もしかして食べる鯖じゃないのかもしれない、と思ったらうかつなことを言えない。遙先輩なら泳いでる鯖って言い出しそうだし……。わたしが必死に相槌を打っていると、遙先輩はふしぎそうな顔してわたしを見た。「こんなこと聞いてどうするんだ」って、また答えにくい質問をする。

「遙先輩の好きなもの……知りたくて……」

 核心には触れないで、でも少しだけそれっぽいことを、言ってみる。そうか、って遙先輩は頷いた。なにか言われるかと思って横顔をちらっと見てみたけれど、遙先輩は顔色を少しも変えず、ただ前だけを見て歩いている。ほっとしたけれど、遙先輩ってもしかして、かなり鈍感? わたしの気持ち、たぶんまったく気づいてないし、ちょっとやそっとのことじゃ伝わらない気がしてきた。良いのか、悪いのか……。
 わたしが悶々と悩み始めたとき、遙先輩は「あ」と思い出したように顔をあげた。なんだろう、今度はどんな不思議なものが挙げられるのかな。

「あとは、のメールも」

 …………突然、わたしの名前が出てきて、立ち止まる。わたしのメール? な、なんで?

「おまえらしくて好きだ」

 じゃ…………じゃあ、わたしのメール、つまんなくなかったんだ。好きって、思ってくれてるんだ……?
 うそ! ああ、ああ、どうしよう。よくわかんないけどすっごく恥ずかしくなってきた。顔が熱い! 遙先輩のはくちびるの端っこだけを持ち上げて、静かに笑ってる。そんな顔でわたしのこと、話されたら、どきどきしてしまう。わたしは急に緊張しはじめて、ありがとうございます、と消えそうな声でお礼を言って、うつむいた。顔が赤いのがばれてしまったら、もう言い逃れできない。

「じゃ、じゃあ、また送りますね……」

 遙先輩はああ、と頷く。話しているうちにもう海岸線に出ていて、駅がすぐ見えた。いつの間にこんなところまで歩いていたんだろう、気がつかなかった。遙先輩と一緒にいたら、時間なんてあっという間だ。なんだか名残惜しくて遙先輩を覗き見ると、なぜか目が合って、びっくりして勢いよく逸らしてしまった。
 少し気まずかった距離も、今はただ甘くてもどかしい。涼しい顔して歩いて行ってしまう遙先輩を追いかけて、次は何の話をしようかと一生懸命考える。胸のドキドキ、はやく止まって。あともう少しの間、ちょっとでも長く話していたいんだから。




きみの瞳のはじまり/140330























 稚魚のように、人間の体温で触れたら熱くて、やけどをしてしまうんじゃないか、と思った。七瀬くんのエナの皮膚は、ガラスみたいにつるりとしていて、水のなかにいるのが自然なのだということが、わたしにも分かる。七瀬くんはからだごと水を求めて、水を探しているのだ。きっと今までずっと、そういう風に生きてきた。
 夕暮れの鐘の音が鳴ると、七瀬くんは帰ってしまう。それが名残惜しかった。でもその腕をつかんで、行かないでなんて言えなかった。
 ねえ七瀬くん、わたしと君との未来って、どこに、どんな風にあるんだろうね。

「なに考えてるんだ」

 水の底を映すみたいに、七瀬くんの目は深い。水の中でも全部が見える瞳。わたしにはぼやけてしまうのに。
 これからのことを考えて不安になってた、なんて言ったらどんな顔する? わたしの先祖は、どうしてエナを捨ててしまったんだろう、って聞いたら、どんな顔をするのかな。
 君と一緒に泳ぎたいよ。広くて美しい、海の街に、行きたい。

「七瀬くん」
「……」
「……七瀬くん」

 名前で呼んだら、もっと愛着湧いちゃうでしょ。何度もそう言ってるのに、七瀬くんは、遙、って呼んでくれ、っていつも、いじけた顔をする。  だって、ねえ、どうするの? わたしは海に行けないよ。涙がにじんだくらいで、もう視界がぼやけちゃうんだよ。
 君みたいに自由に息ができないから、こんなに苦しんでるのに。わたしに安心をくれるのも、君の声で、胸で、吐息で、温度なんだね。



 海に帰らないで、連れてって。遙って呼んだら、きっともう始まってしまうから。




そういう世界なんだよ/131012 (凪あすパロ)























「そんなに怒るなよー」
 後ろから細い腰に腕を回して、ぐいっと抱き寄せてみたけれど、は唇とがらせたままピリピリして機嫌を直してはくれない。こういう気の強いところ、俺は大好きだけど、こういう風につんけんしてからはあとで一人でじめじめ後悔したりするんだ。可愛いなあ。なんて言っても、どうせうるさいの一言で突っぱねられてしまうんだろうけど。素直じゃないし言葉足りないし、ばかだなーって思うこともあるけど、そういうとこ、俺けっこう好きなんだよね。俺のほうがばかかもしれないなあ。
「なによ、エッチ。触らないで」
「やだ、触るよ。エッチだもん」
「認めた! 真琴の変態。スケベ。ドスケベ」
 ほら、ボキャブラリー少ないからすぐ言葉につまるだろ。なんか小さい子を相手してるみたいに感じることもある。けどはまあ実際俺よりしっかりしてるし、よっぽど現実的に世界を見てるんだとも思うけど。頼り甲斐ある、優しい、とかって俺はよく言われるけど、本当は全然そんなことない。にやだって拒まれたくらいでムッとするし、あんまり頑なだといじめてみたくなっちゃうし、たまに俺、何にも考えてないんだなあ、って思うことも、あるよ。
「機嫌直してよ。ね」
「誰のせいだと思ってんの、ばか」
「んー、俺のせいかな?」
 わざと曖昧に首を傾げてみせると、怒りで口をぱくぱくさせたが勢いよく振り返って、俺の胸に頭突きをした。いて、
「もうやだ。真琴のばか。もう嫌い」
「ごめん、うそだって。泣かないで」
 あんまりいじめたら、また収拾つかなくなっちゃうな。泣いてないって顔を背けたの頬にちゅっとキスをして、謝って、宥めてあげたら、まだ恨みがましい目をしてるけど、どうにかその涙は止まってくれたようだ。ごめん、、泣かないで。本当に嫌いになられたら困るのは俺なのに、いつもが嫌がることばっかりして、ほんと懲りないなあと思う。でもがこうして俺に縋ってくれるから、安心できたりするんだ。俺はおまえのことが大好きなんだよ。本当に大事に思ってるよ。だから仲直りのキスしようよ、ね。
「やだ。真琴が反省するまでキスしない」
 …………ちぇ、なんだよ、けち。




ひどくなんてない優しい/131021























 大丈夫か、という俺の言葉に、は鼻声で気のないあいづちを打った。微熱のせいで随分とだるそうにしている。辺りに散乱している鼻をかんだティッシュをぽいぽい捨てていると、いま何時、と掠れた声が俺の腕時計を引っ張った。の手のひら、少し熱い。
「20時半過ぎだよ」
「もうそんな時間なの。ごめん、全然帰っていいよ」
「俺が帰ったら、だれがおまえの面倒見るんだよ」
 ぼさぼさした前髪を撫でつけてやると、は恥ずかしそうにすぐ指で梳きなおした。こんなこと言うと、少し可哀想だけど、は弱ってる姿も可愛い。メイクをしてないと少し童顔で、目をつむっている顔なんか赤ん坊みたいだ。俺の前ではいつも無防備な寝顔を見せてくれるけど、今日は一段と、なんか油断してる気がする。まあ風邪引いてるんだし、当たり前か。
「ありがとう、真琴」
 は少し咳き込みながら、気だるそうに寝返りを打つ。額を撫でて、いつものようにキスしようとして屈んだのを、に止められてからはっとした。
「風邪うつるよ」
「うん、いま無意識だった。癖って怖いな」
 もう、ってが笑って、その鼻声も可愛いなあと思った。その瞬間俺はにキスしてて、驚いたに肩口をグーで叩かれたけれど、気にせずに音を立てながら何度もくちびるを押し付ける。息苦しそうにしてるの表情も、扇情的ですごく良いなあ、可愛い。けれど調子に乗りそうな俺の頬を、の爪先がぐっと抓りあげたので、怒られる前に止めておいた。
「何してんの、ばかっ」
「ごめん、つい癖で」
 でもその赤い頬とか、熱っぽい目とか、実はけっこう誘われてるんだよね。
「続きは風邪治ってからね?」




週末のかけひき/131022























 ソファでごろごろしていたら、急にが飛び込んできて首筋にぎゅうっと抱き付いてきた。どうしたの、なんて言って子犬にするみたいに頭を撫でていたら、小さなくちびるがちゅっと当てられて心臓がどくんと大きく跳ね上がる。びっくりした。は甘えん坊だけど、こんな風にキスしてくれることはあんまりないから、今さら少しだけ照れてしまう。
「なに、どしたの。かわいいんだけど」
「キスしたくなったのー」
 やばい、なんか嬉しいな。のほうから誘ってくれるなんて。
「ん、」
 柔らかい舌がくちびるを割って、甘い吐息が可愛く音を立てて滑り込んでくる。いつになく大胆なに俺はだいぶやられてる。舌先の絡みあうキスに夢中になって、の後ろ頭を押さえてくちびるを押し付けて、どんどん呼吸が狭くなってるのが自分でもわかった。の漏らす声ひとつに身体が反応してしまう。たまらずの服の裾に手を伸ばしたけれど、やんわりと拒まれて、俺は少しむっとしながらのくちびるを噛んだ。
「だめなの?」
「ん、今日はしない」
「はー? なんだよそれ」
 言いながら強引に服に手を突っ込んで、するすると背中を手のひらで撫でる。は嫌な顔してたけど、どうせ押しのけられないだろうから気にしないでおく。息できないくらい長いキスをして、頬が熱くなって、じれったくなって身じろぎをした。ここまで来たらやっぱり、もっと、色んなことしたいんだけど。
「しようよ」
「やだ、もう寝る」
「誘ったのはだろ」
 俺もうその気になっちゃったよ。逃げられたら逃げられたぶんだけ、追いつめてあげたくなる。俺がそういう男だって分かってやってるんだろ?だめな子だなあ、は。でもまあ、かなり眠そうな顔してるし、珍しくからキスしてくれたし、仕方ないから特別に許してあげないこともないよ。俺ってば優しい彼氏だなあ。なんてね。
「ごめんね、まこちゃん。愛してる」
「うん。俺もだよ」




恋人はやめられないもの/131027























 今日がこのまま最後になるのかな、と思うと胸がしめつけられる思いがした。引き止めても、真琴はきっと行ってしまう。置きっぱなしの歯ブラシも、Tシャツも、ぜんぶ持って行ってしまうんだろうか。何かひとつくらい置いていってくれてもいいのに、冷たくなった思い出くらいしか、ここに残していけるようなものはないのだろう。
「忘れ物ない?」
「うん。大丈夫」
 どうせ取りに来ないんだから、ちゃんと持って帰ってよ。見て思い出して辛いのは、わたしなんだからね。
「じゃあもう、行くね」
 背の高い真琴には玄関の扉も狭そうで、いつも少し笑って見てたけど、真琴も同じようにわたしを見て、小さいなあって思っていたんだろうな。その目に優しく映して、見てくれていたの。一体いつまでだろう?溢れそうになる涙を、奥歯を噛んでこらえる。泣いたらだめだ。泣いたら優しい真琴は、これを拭ってくれようとするんだ。そんなことしてたらいつまで経っても、別れられないじゃない。

 いいよ、気にしないでよ。わたしはもう彼女じゃないし。その大きな手を見てたら、まだ撫でてほしいって思ってしまう。しょうがないの。
「真琴、優しすぎるんだよ」
「……そんなことないよ」
「でもそれ、逆に、辛いだけだから」
 そんな顔で見ないで。わたしが真琴を困らせてるみたいだ。どうせならこの扉から出て行くときに、思い出もぜんぶ連れて行ってほしい。一緒に過ごしたこととか、好きって言い合ったこととか、ぜんぶ忘れられるように。歯ブラシと一緒に捨てていいよ。Tシャツと一緒にしまっていいよ。もう何にも残さないで、いっそのこと無かったことみたいに、忘れさせてほしい。
「ばいばい」
 扉が閉まる最後の一瞬まで、真琴はわたしを見ていた。優しい目で。わたしが大好きだった、その目で。もう二度と戻らないのだと思った。何もなくなった。わたしの体を作っていたものすべてが、壊れだしたような、流れ出したような、失う感覚。
 やだ。やだ。やだ、こんなの、いやだ。
 ふたりで何度も眺めたプールの海に全部沈めて、わたしのすべてを、置き去りにしたいよ。そうでもしないと忘れられそうにない。あなたの手は温かくて、優しかった。内側を映し出すような優しいキスが、すべて、だったのだ。
 愛してた。心はまだこんなにも、あなたを想っているのに。




さよならずっとさよなら/130813























 泣いても駄目だよ、何をされたって俺は君を許してしまうんだし、それを知ってて甘えるなんて卑怯だ。こんな風に嵌っていくなんて思わなかった。きっかけが何だったかなんてわからないけど、君の声や仕草のぜんぶが俺を刺激するんだ。冷静でいられなくなる。つかんだ腕の細さとか、抱き上げた身体の軽さとか、俺を喜ばせるものを君はたくさん、たくさん持っているけれど、それを俺に与えてしまったのが間違いだったんだよ。
「ほら立って」
 泣き崩れるくらいならどうして、最初に俺を選んだの?
 こうなるって分かっていただろ。俺は自分の感情が歪んでいるのを知っていたよ。がそれに気づいてて俺を選んだことも、俺がその優しさにしがみついているってことも。初めのうちは俺の依存でも、ふたりの恋愛でも、どっちでも良かったんだ。それだけじゃ駄目にしたのは、が優しいからだよ。仇になったんだ。俺はもう自分の歯止めの利かせ方が分からなくなってしまった。
「しょうがないなあ」
 が離れないでいてくれるなら、俺はそれでいい。
 この小さな手のひらが、可愛い声が、俺の傍にあるならそれでいいんだ。涙できらきらした瞳とか、赤くて小さなくちびるとか、触れられる温度がここにいてくれたら、俺は他の誰よりも幸せでいられる気がする。なんて、声に出して言ったことはなかったかもしれないね。改めて言うのも恥ずかしいし、もう手遅れな気がするけどね。
は泣き虫だよね」
 泣かせてるのは、俺だけど。そんな面白くない冗談、笑ってもくれないか。濡れた手で涙を拭うは、ちっぽけな子供のように見えた。膝の頭が赤くなってる。手のひらで撫でると、は眉尻を下げて泣きはらした顔で俺を見上げる。
「泣いても、はるは来てくれないよ」
 間違った選択をしたのだということを、改めて突きつけてやればはぼろぼろと涙をこぼして、きっとどうしようもないくらい泣いてしまうんだろう。こうやって俺の腕の中に納まって、小さくなって泣いているを、大事に大事に守ってあげたいと思うのに、はそれが痛いと言って泣いてしまう。でもそれを選んだのはだよ。俺はもう、を手放したりできない。誰にも譲れない。どうせならこの涙ごと、全部抱いて奪ってしまえたらよかったのに。




おぼれる浅瀬/140604























 ついにここまで会いに来てしまったのを、凜ちゃんは嫌がるんじゃないかと少し心配していたけれど、髪を濡らしたまま真剣な表情で走って来てくれたのを見て、わたしはどうしようもなく嬉しくなってしまった。来るなら先に連絡しろ、って怒ると思っていたのに、凜ちゃんは塩素の匂いをまとったまま素肌にジャージを羽織って出てきてくれた。だからわたしは都合のいいように自惚れてしまうのだ。もしかして凜ちゃんは、こうやって一生懸命になってくれるくらい、わたしのこと想ってくれてるんじゃないかって。
 幼馴染の特権をこういう風に使って、傷つくのはわたしかもしれないのにね。
「なんだよ、急に。なんかあったのか」
 冷えた滴が凜ちゃんの髪から落ちる。真面目な顔して覗き込んでくるから、かえって言いづらくなってしまった。そんなに大した用事じゃないよって、ただ少し凜ちゃんが心配になったから来ただけだよって、言っていいものかどうか迷う。
「ごめんね、いきなり」
 そういえば久しぶりに凜ちゃんを見た。目を合わせれば急に恥ずかしくなって、わざとらしく目を逸らす。なんだかこれじゃ、大したことがあったみたいだ。凜ちゃんはきっと訳わかんなくて困るだろうな、と思ったけれど、わたしが取り繕おうと口を開く前に、凜ちゃんの手のひらがわたしの頭にぽんと乗せられたから、わたしはまた何も言えなくなってしまうのだ。
「ちゃんと話せよ」
 ごめんね、凜ちゃん。本当はそんなに大したことじゃないよ。大会前で不安定なのはわたしじゃなくてきっと凜ちゃんや、はるちゃんたちのほうなのに、なんでこんな風に心配かけちゃってるんだろう。ちらと見上げると、優しくわたしを見つめる凜ちゃんと目が合って、かあっと顔が熱くなる。
 手を伸ばせば凜ちゃんの素肌に触れた。プールから上がったばかりの少しだけ冷たい肌。なんだか、ふいに切なくなる。凜ちゃんに会ってついに、自分がこんなにも寂しかったことに気がついてしまった。凜ちゃんはわたしのそういう想いを全部知っているみたいに、頭をこつんと引き寄せて、その胸に抱きしめてくれたから、余計に。
「ごめん。本当に、なんでもない」
「……そうかよ」
 本当は不安になっただけなんだよ。次の大会、どっちが勝ってもわたしはきっと泣いてしまうのだ。頬をもたげた凜ちゃんの身体はたくましくて、懐かしいプールの匂いがした。
 あのね凜ちゃん。わたし、凜ちゃんのこと、好きだよ。




宇宙をただよう水槽/140615























 甘え慣れていないのだと言えば、甘えていいよとは両手を広げて笑った。突拍子もないその仕草に驚かされたけれど、掛け値ないその反応に心底安心させられたのも事実だ。そんな風に手放しで甘えろなんて言われても困る。どんな顔をすればいいのかも分からないし、本当にその手を取ってもいいのかどうかも俺には分からない。ただ強引に引っ張って、無理やり抱きしめるくらいが、きっと俺には丁度いいのだ。
「凜、力強すぎ」
「わり。痛かったか?」
「ううん。大丈夫」
 右手に荷物を持って、空いた左手で頭を引き寄せれば、額をぶつけて痛いと言われてしまった。の細い身体なら、こうやって簡単に抱きしめられる。痛いと文句を言いながらも、が楽しそうに笑って寄り添ってくれるのが嬉しかった。まるで隣にいるのが普通みたいに。すっかり馴染んだこの距離に、たぶん俺はもう十分すぎるくらい甘えているんだと思う。
「帰ったらすぐごはん作らないとね」
「ん。もうこんな時間か」
「22時からドラマ始まるから、それまでに全部終わらせる!」
 が毎週見てるドラマを、俺の家で一緒に見るのが恒例になっている。日中はデートをして、夜はスーパーで買い物をして、俺の家で一緒に夜ごはんを作って食べる。もう当たり前のような出来事だけど、ちゃんと幸せなんだって噛みしめるのが大事なんだと思う。少しずつ日の暮れていく道を歩きながら、他愛のない話をして、ゆっくり家まで帰って。もしこれがなかったら、俺はどうするんだろうってくらい、俺の生活の中にはの存在がある。
「なあ、
 いつもの通り道の河川敷は、夕日が照ってきれいだった。見慣れた景色だけど、大事な景色。この道を通るときはいつも、隣にがいるから。


「結婚しよう」


 振り返ったの顔はいつも通りで、胸が熱くなって、声が少しだけかすれてしまった。
 永遠とか愛とか、そんなロマンチックな言葉は苦手だけど。この瞬間を切り取って形に残せるならいいのかもしれない。夕日を映した瞳が波のように揺れて、赤い顔して頷いてくれるが、どうしようもなく愛おしくて、大切で、もう二度と手放せないのだと思った。
 愛してるんだ。絶対幸せにするから、どうか一生、このまま俺の隣にいてください。




優しい愛に触れて/140615























 キスをするのは初めてじゃなかった。寝ているの唇に自分のそれを押しつけて、はじめて自分の中に生まれた劣情について知った。俺はこうやって触れたいとずっと思っていたのだ。の肌が柔らかいのなんて、ずっと前から分かっていたはずなのに。触れるまで気がつかなかったけれど、唇を奪ってようやく、これが欲望なのだと思い知らされた。中3の夏、暑い夏。寝転がるはあまりに無防備で、水のように純粋だった。それがひどく綺麗だったから、俺は。
「行かないかって誘われたんだ。お祭り」
 あれ以来、に触れたことはなかった。変わらない距離が続くだけ。きっとこのまま続くと思っていたけれど、そうじゃないということに気づいたのは最近のことだ。が他のクラスの奴に言い寄られてる。教えてくれたのは真琴だった。急に焦りが生まれて、のことばかり考えるようになって、分からないことを誤魔化すように水に入ることが増えた。
「……誰に」
 隣のクラスの野球部のひと。ちらりと俺を見たは、きっと俺の考えてることをもう分かっているのだと思う。今までずっとそういう距離にいたのだ。水のように伝わりあうのに、混じらない。
「まだ返事はしてないけど」
 外を見やったが急に遠くに感じられて、どうしようもなく焦った。ずっと傍にいたのは俺なのに。がこんなに可愛くなったのも、昔と変わらずに優しいのも、全部知っているのは、一番知っているのは俺なのに。言わなくても伝わってくれると過信していた。水のように、触れていれば分かるって。あれから一度も触れられていないのに伝わっていないのは当たり前だ。
 自分の中に沸き起こる感情が、他のすべてを飲みこむようで恐ろしかった。触れてしまえば思いは溢れていく。もっと触れたいと貪欲になって、不安定な劣情をに知られてしまうのが怖くて、ずっと躊躇ってきたから。
「……駄目だ」
 純粋な水のようなお前の目に映るのは、欲を知った汚い俺かもしれないけれど。それでも俺じゃないと、駄目だ。この唇に触れるのは後にも先にも俺だけにしてほしいって、思う。うまく言葉には出来ない。けれど伝わってくれるのだと思う。触れていれば溢れていく。俺がどうしようもなくお前の傍にいたいと願っていることも、触れるのが怖いくらいお前を愛おしいと思っていることも。
 他の奴になんて渡せない。
「駄目。……俺じゃないと、駄目だ」
 泣きだしそうなの頬は赤くて、熱かった。触れるのは二回目だ。は知らない一度目を思い出すような、触れるだけのキスに心臓が痛くなった。




いるかの呼吸病/140616























 久しぶりに帰ってきた岩鳶の夜空は、東京のそれと比べものにならないくらい綺麗だった。星が散りばめられて、煙のような靄もなくて、見上げれば目の前に輝いているのが見える。冷たい夜風をいっぱいに吸い込んで、なんだか懐かしいなあと思った。海の匂い。ホームに降り立った瞬間から、帰ってきた実感が沸いてきた。
「真琴!」
 セミの声を割いて、俺を呼ぶ声が聞こえる。振り返るとがいた。素足にサンダルで、家着みたいなショートパンツを履いて俺に手を振っている。走り寄ってくるその姿も見慣れたものだったことを思い出した。髪が少しだけ伸びて、大人っぽくなったような気がして内心、どきりとする。
、ただいま」
 変わらないままのの笑顔を見てほっとした。隣に並んで歩きながら、お互い離れていた間のことを取り留めもなく話す。新しい友達が出来て、サークルにも入ったって。先輩も同期も良い人ばかりだと、俺の知らない世界の話をするが少しだけ遠く感じた。俺だって同じように、あっちの大学で新しい環境を作ってるのに、離れてしまったような不安があったのだ。わがままだなあ、俺。しょうがないことなのにこんな風に、寂しいなんてさ。
 星が落ちてきそうな夜だ。岩鳶はこんなに空が綺麗だったっけ。見上げてぼんやりしていると、がつんと俺の袖を引いた。
「いつまでいるの」
「えっと……とりあえず1週間くらいかな」
「そっか」
 とん、と石段を飛ばしてが先を歩く。色白の足が夜に浮かび上がるように照らし出されて、久しぶりに見たその後ろ姿が、妙に懐かしくて愛おしかった。俺の帰るところはここで、心の中心で俺を支えてくれてるのはなんだって。今までずっと言えなかったけれど、俺は本当はこんなにも、のことが好きだったのだ。離れてから気づくなんて、贅沢な話だけれど。
「寂しかった?」
 からかうように、聞いてみる。ぱっと顔を上げたは驚いた顔して、笑ったけれど、途端に泣きだしてしまった。砂の城が崩れるみたいに一瞬で、子供が泣きだすみたいに、突然。
「寂しかった」
 俯くその泣き顔が、あまりに可愛くて、俺は夢中で抱きしめていた。東京と違って静かで透きとおった夜。空も星も海も、も、変わらずに透明できれいなまま、俺もその中に入れてほしかった。俺のために泣いてくれるは、俺が今までに見たどんな世界よりも純粋できれいだった。の隣でなら俺も変わらない尊いもののままでいられる気がしたのだ。
「俺も」
 叶うならずっと傍にいたいよ。離れてから気づくなんて本当に、贅沢な話だけれど。




トワイライト・シンフォニー/140616























 がいつも乗る電車はもうすぐ来る時間なのに、まだ空はこんなに明るいから、本当に夕暮れは遠くなっているのだと思う。今くらいの時期が俺は一番好きだ。夜の風は涼しくて、セミの声もまだうるさくないし。手を繋いでいれば少しだけ熱くて、ふいに夏が始まるんだって実感が沸いてくる。
「もうすぐ来そう」
 携帯を取り出して時間を見て、はリュックの柄を握る。
「そうだね」
 この瞬間が、なんだか寂しいんだ。仕方ないことなのに、ばいばいって言ってこの手を離さなくちゃならないのが、なんだか切なくて。こうやってを送っていけるのは、俺の部活がないときだけでとても貴重なのだ。電車が来るまでふたりでここに座って、アイスを食べたり、音楽を聴いたりしてぼーっとするのが、いつものことになっていた。
 ホームに電車が入る音がする。ふとそれを見た、の横顔を見つめる。もしもこのまま、が俺の方を向いたら、キスをしよう、なんて願をかけて。
「暑いね」
 微妙に生まれた無言を埋めるように、は言いながら振り返った。
「うん」
 もう夏が来ちゃうんだ。俺の望みを叶えてくれたに、顔を近づけると、の頬はもう赤くなっていて、可愛いなあと思った。触れ合っている手がじわりと汗をかきはじめる。暑い。たぶん俺の顔も赤くなっているんだろう。
 くっついた唇からこぼれた吐息が、熱くてぼうっとする。初めてしたキスは、ぬるいリップの味がした。目を逸らして唇を覆ったは、俺よりももっと緊張してるみたいで、泣きだしそうなくらい真っ赤な顔をしている。なんで俺、こんなに落ち着いてるんだろう。心臓はうるさくて、に聞こえてしまいそうなくらい高鳴ってるのに。
「電車、行っちゃうよ?」
「…………次のにする」
 繋いでた手をぎゅうっと握って、がうつむいた。そんな仕草が可愛くってふと笑う。
 このままずっと夜が来なければいいのに。いつまでも二人で電車を待って、そのときまでずっと一緒にいようよ。




ふたりのあいだの海/140620




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