手足に絡まって流れ落ちていく水が、染み出すように影を作っていく姿がとても美しかった。青白いふくらはぎ、細い足首に、らせんのように。カルキに触れた肌が光を反射させる。水面を見下ろすうなじに張り付いた髪の毛も、Tシャツから伸びた二の腕も、濡れたショートパンツと太腿のあいだを落ちていく雫も、ぜんぶがまぶしい。

「もっと入っちゃえ」

 プールに引きずり込むふりをして足首をからめ取ると、はそれとなく拒んでその場にしゃがんだ。右足のかかとから水面に沈み込ませて、左足の脛までをプールに漬ける。むきだしの膝に触れると少しくすぐったそうにする。濡れた俺の手に、の小さな手が重なって、目が合ったとき俺は、たまらずその唇にキスをしていた。からだを水に落としたまま、触れたのからだは、思うよりもずっと冷たくて、恐ろしく小さい。

「冷たくて気持ちいいよ」

 水を浴びたの太腿はやわらかく、温い熱で俺の手のひらをゆっくりと熱くさせていく。先生に怒られるから、とは俺の誘いを拒んだ。すでに一度からだを沈めてしまったのだし、同じことだと思うけれど。プールはもういいのだと言って、半分だけ濡れてしまったTシャツを乾かそうと扇いでばかりいる。

「誘ったのは俺だって言えばいいよ」

 だからこっちにおいで。水の中に手招きしてもは来ない。仕方がないから、首を振る頬をつかまえてもう一度キスをする。プールの味、日焼け止めの匂い。心臓がどくどくと鼓動を早める。中途半端に乾いた唇が、熱くほてる手のひらが、水中で俺に触れるの爪先が、近すぎるまなざしが、ぜんぶまぶしく光っている。

「……ごめん、止めれない」

 困った顔したが恥ずかしそうに俺を見る。頬が赤く染まって、体温が熱くなって、酸素がなくて苦しくて、水の中みたいに夢中になって。この腕を引っ張って、プールに引き込んでしまいたい。もう何も考えられなくなるくらい、の心の中が俺でいっぱいになればいい。この白い肌に噛み付きたいのを、必死になって抑えている。獰猛で理性のきかない獣。湧き出す感情のすべてが叫んでる。

 きみが好きだよ。この水中の自由のように俺を虜にするきみが、愛しくてたまらない。




きっと心臓は止まってるね/130723























 ひたりと音が鳴る。濡れた足のうらが落とした水が、でこぼこしたタイルの上に不恰好な形をつくって、陽のひかりに透けた跡をつくっていく。ゴーグルのレンズが鳴らす下手なカスタネットみたいな音も嫌いじゃない。水中には響かない雑音がからだ中を取りまいて、気だるさにからだの芯が強く引っ張られる。
 泳ぐのが好きだ。水の中に沈んでいるのが落ち着く。音も重力もない死のような世界。太陽だけがたまに差し込んで、ただ呼吸を求める欲望だけに身をゆだねるあの感覚。

「遙くん」

 更衣室に置きっぱなしにしてあったタオルを、が持ち出してきてくれた。プールサイドに脱ぎ捨てたはずの制服もきれいに畳まれていて、陽だまりのベンチに行儀よく乗せられている。そのままでも別に良いのに、俺が何度そう言っても、は俺のために何度だって世話を焼いてくれるのだ。

「準備しないでプール入るの、やめなよ」

 息を少しだけ弾ませる俺のからだに、タオルを巻きつけるようにして押し当てる。それを受け取って頭からかぶると、プールの塩素のにおいがつんとした。いい匂い。俺はこの匂いが、好きだ。浮遊感の匂い。まばたきをして落ちてきたしずくをタオルで乱暴に拭う。沈んでいく太陽のオレンジ色が肌に温かく、むきだしのままの手足が、もうゆっくりと冷たくなっている。

「……疲れた」

 の頭にあごを乗せるようにもたれかかると、少しだけよろけながら、は俺の背に手を回して抱きとめてくれる。湿ったからだに、のやわらかい頬が吸い付く。温かくて気持ちいい。乾いた髪の毛からは甘い香りがする。陽だまりの匂いもする。目を瞑ればこのままよく眠れそうだ。そんなことをしたら、はきっと怒って俺を叱るんだろうけど、それでもいい。唇をとがらせてるも、俺はけっこう、好きだから。

「冷たいね」

 プールから上がって、一番にを抱きしめられるなんて、贅沢だ。くせになる。もう、止められなくなる、と思う。風邪引くよ、と背骨を撫でるの額にキスをすると、は案の定おどろいて、顔を真っ赤にして笑った。




触れたいきみの温度/130724























 借りていたノートを返しに行くと、まこちゃん、ちょうどシャワーを浴びているところだよ、と渚くんが教えてくれた。きっと更衣室で着替えてるだろうから、と実にあっけらかんとした様子で、渚くんはわたしの背中をとんと押す。少しためらったけれど、プールサイドでノートを渡したって真琴くんの二度手間になるだけだ。だから思い切ってこんこん、と更衣室の扉をノックすることにした。

「ん……だれー? はる?」

 くぐもった真琴くんの声が聞こえてきて、少しだけどきっとする。曇りガラスの扉がすぐに開かれて、むし暑い空気が顔いっぱいに流れ込んでくる。「って、あ、!」タオルで濡れた髪を拭く真琴くんが、わたしに気づいて、視線を低く下げた。
 油断してたらわたしは、真琴くんの視界にも入らないんだなあ。こういうときにいつも真琴くんとの身長差を感じて、少し恥ずかしくなってしまう。仕方ないことだけど、なんかそういうの、悲しい。本当にしょうがないことなんだけど。

「ノート、返しに来たの」
「なんだ……そんなの、明日でも良かったのに」

 部活中の真琴くんを見るための口実、っていうのはナイショ。「今、手が濡れてるから、鞄に入れてくれる?」真琴くんは髪をがしがし拭きながら、自分の鞄のほうを指差した。靴を脱いで上がったタイルの上は、靴下だと少しすべる。更衣室の中は、シャワールームと隣接しているせいで湿度が高くて、蒸気の中みたいに暑かった。プールのにおいが外よりもずっと強くなって、独特の浮遊感をからだが思い出す。
 プールのにおいは不思議だ。太陽のひかりに水面がゆらゆら揺れる、そんなシーンをいつも想像させる。水の中がやみつきになるのも分かる。現実から少し離れた感覚をおぼえて、ノートをしまった鞄のファスナーを閉めると、その手に後ろから手が重ねられて、ぼうっとしていた心臓がどくん、と一度大きく跳ねた。

「っえ、真琴くん?」

 よく考えると、真琴くんは水着いちまいで、わたしの背中や腕に触れているのは、真琴くんの素肌だ。乾いたばかりで、ぬるく、しっとりと吸い付くような、熱い肌。固まったわたしの耳の上に、ちゅっとキスをする。髪から落ちてきた雫が、ぽたり、わたしの頬を濡らしていった。真琴くんからはプールのにおいと、あたたかい水のにおいがする。わたしを抱きしめる腕はたくましくて、触れていると、どきどきする。

「家だとあんまり、いちゃいちゃできないからさ」
「だ、だからってここも、どうかと思うけど……」
「だめだった?」

 大きな手がわたしのあごを持ち上げて、くちびるに小さくキスを落とす。真琴くんはずるい。そんな風に言われたら、もう何にも言えなくなってしまう。わたしの顔が赤いと言って、真琴くんはいつものように優しく笑う。あやすような声、熱を帯びた吐息、甘い瞳。湿度の高い更衣室ではうまく息を吸いにくい。目を閉じると塩素のにおいの真ん中で、浮かび上がるような感覚に捕らわれる。
 優しさに溢れたくちびるが降ってくる。そして微笑んで、奪うようなキスを、何度も、何度も重ねた。




焦げてくように熱い/130725























「いつまでそっち向いてんだよ」

 凛が少し手を動かすだけで水面が揺れて、ゆるやかな白い波がちゃぷん、と肌に触れてはねかえる。温いはずだけど、今のわたしには少しだけ熱い。吸い込んでた息をはあっと吐きだすと、すぐに白い湯気になって消えていった。クリーム色のバスタブ。シャワーのノズルからはぽたぽたと水滴が落ちている。

「……だ、だって恥ずかしいもん」
「おまえから誘ったくせに?」
「誘ってないよ!!」

 わたしはただ、怖い映画のせいでお風呂に入るのが怖くなった、ってぼやいただけだ。初めはわたしがお風呂に入ってる間、扉越しにいてくれるだけだと思ってたのに、いきなり入ってきて、なし崩し的に一緒にお風呂に入る羽目になっちゃって。ほんと、どこまで強引なんだろう。凛といっしょにいたらドキドキで心臓が持たないよ。

「……白」

 凛の指先がわたしの背中をやわく引っかく。わたしが肩をびくりと持ち上げて大げさに反応したのを、凛は面白そうにのどを鳴らして笑った。そのまま背中をなぞっていくから、鳥肌が立つ。「ほんとおまえ、色白いよな」……反響する声は吐息まじりで、透明な凛の声がいつもよりずっと近くに聞こえる。絶対いま、顔、赤くなってる。恥ずかしくて振り返れない。

「わっ……!」

 油断してると、凛の気配がぐっと近づいてきた。ぱしゃっと水をはね上がらせながら、狭いバスタブの中でぐっとわたしを抱きしめる。すくめた肩に触れる凛のくちびる。ちゅっ、と音を立てながら、凛はわたしの首の後ろや肩に何度もキスをしてくる。ああもう。「り、凛っ」とがった歯が首筋に噛みついて、痛い。身をよじると、は、と凛の熱い呼吸が耳元にかかって、鳥肌のようなざわめきがからだを突き抜けた。

「……噛まれたくなかったら、こっち見ろ」

 甘く艶めいた声。どっちにしろ噛みつくくせに、なんて文句は飲み込んで、振り返る。からだはもう熱い。大きくて骨ばった手がわたしを捕まえて、鋭い刃をのぞかせて挑戦的に笑う。逃がさねえよ、とその目が言ったのをわたしは見てしまった。
 ぞくりと胸の底から滲んでくるのは、壊れてしまいそうな緊張と、凛を求める愛しさだけ。目を瞑ればもうすべてが、鮫の水槽のなかの出来事だ。




噛んでゆめまで/130729























 えっ?と聞き返した。俺の聞き間違いだと思って、自分の耳の都合のよさに少し恥ずかしくなったのだ。まさかが、そんなこと言うはずないよな。まさか、と心の中を一生懸命なだめるようにして、の顔を見る。

「だから、一緒にお風呂入ってもいい?」

 どうやらそれは聞き間違いではなかったらしい。えっ、と瞬間的に脳みそがフリーズする。お風呂、一緒に、お風呂。と一緒に? えっ、嘘だろ、やばいって。それ絶対やばい。やばいやばいやばい! なに、もしかして俺、誘われてるの? うわ、やばい。どうしよう、やばい。落ち着け俺、冷静になれ。
 焦りだす心臓を必死に押さえながら、大きく息を吸って出てきた返事は、普段どおりを装って、なんとかひねり出した必死の笑顔だった。

「……うん、いいよ」

 正直俺は、平気な振りをしていたけど、ちゃんと受け答えできていたのか、今となっては全く自信がない。顔が赤くなってたり、にやけてたりしたんじゃないだろうか。心配だ。でも平静を装うなんて、俺には無理な話だったのだ。
 はあっ、とため息を吐くと白い湯気になって消えてゆく。乳白色のお湯が揺れるバスタブの、反対側に、がいる。その、やっぱりちょっと恥ずかしそうにしてる頬とか、湯船から細い肩とひざだけが覗いてるのとか。見ないようにしても、目に入ってしまうわけで、でも見るとああ、やっぱりだめだ、ってどきどきして一人悶々としてしまう。頬の熱さをお風呂のせいにして、額にかかる前髪をかきあげる。

「で、でも! なんで急にお風呂なんか……」
「んー、なんとなく。お風呂でしか話せないこともあるかなって」

 ふふっ、ては無邪気に笑うけど、このままじゃまともに話すのすら、俺には厳しそうなんだけど。せいいっぱいの努力で今はなんとか持ちこたえてるけど、これ絶対、やばいよなあ。部屋のベッドで見るのとはまた違って、水の中だし、熱いし、髪とかうなじとか、なんか生々しい色気があるというか……って、こういうこと考えたら、だめなんだって! 俺のばか。

「真琴?」

 だから、そんな顔で見るなよ、せっかく俺が我慢してるっていうのに。動くたびにお湯がゆらりと揺れて、はねかえってくる波が肌に当たって砕けちる。少し手を伸ばすだけで、狭い浴槽のなかだとすぐに手が届いてしまう。濡れたちいさな手。すべすべした腕をゆるく引っ張って、その頬に手を伸ばす。油断しまくってるその顔も、かわいいなんてずるいなあ。顔が近づいて、やっと慌てはじめるの口をふさぐように、唇をくっつける。

「ま、真琴、っ」
「ん……、黙って」

 あーあ、やっぱり無理だったよ。俺の我慢もここまでか。でも、俺は悪くない、とおもう。むしろここまでよく我慢できたなあ。ふつうに仲良くお風呂、だなんて、最初から無理って分かってたはずなのに。でも全部、が可愛いのが、いけないんだよ? 俺を誘ったんだから、その責任、取ってよ。




くちづけからください/130730























 お昼から勉強会をするというから、俺は急いで用事を済ませて、差し入れにお菓子を買って持ってきた。はるの家のインターホンを鳴らしても、誰も出てこない。もしかして2人とも、勉強しながら寝ちゃってるのかな。もう夕方の心地いい風が吹いてきて、ちょうど眠たくなるような時間帯だし。俺は少しだけ焦りを覚えながら、裏口からおじゃまして勝手にはるの部屋を目指す。家の中はおかしいくらいにしんとしている。

「……やっぱり、ね」

 部屋に入ると、そこには机に突っ伏してる寝ているはると、完全に横になっているの姿があった。落ち着いた寝息を立てて、俺が来たのにも気づかないくらいしっかり眠ってる。気持ち良さそうにしてるし、起こしちゃうのも悪いなあ。コンビニの袋を静かにおいて、なんとなく机の上を覗いてみる。のノートは半分くらいまで数UBの問題で埋まっていた。途中から、ずいぶんと形の崩れた「x」が出てきてるけれど、テスト範囲の進み具合としては順調そうだった。なんだかんだ言っては真面目だし、こういうところには抜かりが無いように思う。

「風邪、引くよ」

 床に投げ出されたの白い脚を見て、すぐに目をそらす。本当には、俺とはるの前で無防備だ。油断しすぎっていうか、男だと思ってない、んじゃないかな。俺たちのこと。
 はる、はとりあえず大丈夫だろう。はるのベッドから毛布を取って、手足を風にさらしたままのにそっとかぶせる。それがの脚をおおったとき、ううん、とは身じろいでうっすらと目を覚ました。どきり、と心臓が鳴る。悪いことをしていたわけじゃないのに、隠してた下心がばれてしまったみたいな、妙な罪悪感が湧いてくる。寝てる姿を勝手に見ていたからかもしれない。それはあまりに無防備で、見てて邪な気持ちが、浮かばないわけでもなかったし。

「ん……はる……?」

 けれどの口から最初に出てきた言葉は、それだった。喉の奥から、心臓をぎゅうっと抓まれたみたいに、胸がひどく痛む。
 一番に想うのは、やっぱりはるなんだよな。分かっていたはずのことなのに、どうしようもなく辛くなる。はるじゃないよ、俺、だよ。真琴。おまえの中に俺が、何番目にいるのかは知らないけれど。追いつけなくて、ただ焦る。怖くて伝えられないだけなのに、俺がいない間に、ふたりにきっかけが起こるんじゃないかって、勝手に不安になってしまう。

 本当にどうしようもないなあ。どうしてこんなに入り込めないなんて思ってしまうんだろう。俺だってこんなにおまえのこと、見てるのに、な。




こんなに傍にいるのに/130730























 この場所にあるはずのない後姿が見えて、思わず声をかけていた。
 こげ茶色の髪をゆらして振り返ったのは、やっぱり本人で、ぱっと表情を明るくしたは雑踏のすきまをくぐって俺に近寄ってくる。そういう犬みてえなところ、全然変わんねえのな。この前会ったときと同じ、昔のまんま。凛ちゃん、と懐かしいあだ名で呼んで、は俺に無邪気な笑顔を向ける。

「すごい偶然だね! どうしてここにいるの?」
「俺は……部活の遠征で。おまえは?」

 その小さな背中を見て、たしかに心臓が高鳴った。会うたび久しぶり、だけど、絶対に忘れることなんてない顔と声。でもの口からはどうせ、遥とか、真琴とか、そういう名前が出てくるんだろうと思った。勝手な憶測のくせに、それに少しむかついてる自分がいる。もっと別のやつの名前、出せよ。俺の知らないやつでもいいから、他のやつと一緒に来たんだって言え。そうじゃないと、このよく分からない感情に、頭の中がぜんぶ支配されてしまいそうになる。

「今日は買い物だよ。あっちに、真琴もいるよ」

 はにこにこしながら遠くのほうを指さして、呼んでこようか、なんて呑気なことを言う。やっぱり、と思った。胸の奥がぐっと熱くなるのがわかる。おまえはそうやって、いつも俺の気持ち掻き乱してくんだ。むかつく。むかつく。煮えたぎるような嫉妬に、胸が焼けていく。

「別にいい」

 でもせっかく会えたんだし、と振り返ろうとするの肩を、焦って「いいって!」と、強く引っ張る。つい声を荒げてしまった。でも、言わないと、行ってしまうと思ったんだ。真琴の元に。ぬるま湯みたいに甘くやさしいあいつの元に、が帰ってしまうって。

 は俺の顔を見て、不安そうな顔をする。そういう表情を見るだけで、罪悪感でいっぱいになる。何してんだ、俺。久しぶりに会ったに、こんな顔させるつもりは、少しだってなかったのに。

「凛ちゃん、」
「……ごめん」
「わたし……」

 なにか言おうとするの、細く、やわらかい手首をぎゅっとつかむ。こんなときあいつなら、お前のことを優しく迎え入れて、器用に甘やかしてやるんだろうな。はそれを願ってる?俺なんかよりよっぽど優しくて、穏やかな世界で守ってくれるあいつのそばに、いることを。
 こぼれるのはただの吐息だ。言葉になんか、ならないし、してやらない。俺の目をじっと見るの目に、ただこの3文字だけを思い浮かべて、伝わればいい、伝わればいいと、ただ思った。

「行くな」




脆い牙/130801























 水から顔を出すと、プールサイドのベンチに腰かけて、と怜がふたりで一枚の紙を覗き込んでいるのが見えた。話す内容や、シャーペンの動かし方からして、が怜に勉強を教えてあげているのだと思う。部活が始まるまでまだ時間があるから、怜が質問でもしているのだろう。

「そうそう、こうなるから……。怜くん、ちゃんと理解してるね」
「理論はすべて叩き込みましたから。ただ、この関係性だと……」

 怜が持っているプリントは、たぶん世界地図の略図で、ふたりが話しているのは世界史の内容だ。は世界史が得意で、自分でも好きだと言っていた。俺は履修してないから、何を話してるのかまでは、よくわからないけど。は少し楽しそう、な気がする。怜とプリントを交互に見て、丁寧に説明してあげている。

「なるほど! そういうことなんですね」

 怜は理系っぽいけど、何の科目にも一生懸命取り組む、そういう性格をしてる、と思う。もまじめだから、そういうやつと世界史の話したり、勉強のことで語り合ったりするのは、好きなはずだ。世界史を履修してるやつは、みんな暗記が面倒だと口に出してばかりいるし、好きだなんて言ってるの、くらいしか俺は知らない。まあわからないけど、少なくとも俺の周りではそうだ。

「でね、ここには書いてないけど、こっちはね……」

 はあ、と気がつけば、ため息が出る。このまま水の中に潜って、出ていかなければいいんだ。完全に上がるタイミングを失った。俺が気を使うことなんてないはずなのに、怜と小難しい話をして盛り上がってるが、遠く見える。なんだか窒息しそうな気がした。

 の世界はずっと俺のそばだけにあるんだと思っていたから、ショックだ。よく考えたら当たり前のことだし、今までに何度もこんなことを思ってきた気もする。でも、今はもっと痛い。俺の知らないを、怜が独占してる。ふたりとも楽しそうだ。と真琴のふたりを見ても、と渚を見ていても、いつも何の変化もなかったし、こんな風に思ったことは一度もなかったのに。

「…………知らなかった」

 怜の前でそんな顔するのこと。俺には見せない、知らない顔が、にもあるんだってこと、俺は初めて知った。




ちいさな欠落から/130801























 合同練習のあと、凛ちゃんとちゃんはふたりだけで何か話していた。僕たちが更衣室に向かっているとき、振り向きざまにプールサイドにふたりの姿が見えた。あとで何を話していたのか聞いても、ちゃんはうっすらとぼやかして、何も教えてはくれなかった。
 ちゃんは凛ちゃんを心配しているのだ。このところ最近ずっと、そうだ。

「でも良かったね。合同練習、すごくためになった」

 電車をに揺られながら、僕のとなりに座ったちゃんはにこっと笑う。疲れたみんなは電車に揺られるうちにうとうと眠りだして、今起きてるのは僕とちゃんしかいなかった。たったこれだけでも、ちゃんと二人きりになれてるみたいで、僕は嬉しい。ちゃんを一人占めしてるみたいだ。

「うん。室内プールって、やっぱりいいねえ」

 あたりは暗くなりだしてるけれど、まだ海に沈みきっていない夕日が、オレンジ色の光を僕たちにめいっぱい浴びせかける。
 凛ちゃんもいたしね、と他愛のない言葉を言うのにも、少しためらった。ちゃんはどんな顔するんだろう。それによってはきっと、僕は傷ついてしまうんじゃないかと思った。がたんごとん、電車が揺れる。ちゃんの小さな肩が、僕の肩に何度も触れては、離れてく。

「凛ちゃんも元気そうだったし」

 何の気なしに言った言葉、なんだろう。ちゃんはうつむきがちに目を閉じて、穏やかな顔でそのまま眠そうに頭をもたげる。
 凛ちゃんは、ずるい。ただでさえあんなに泳ぎが上手いのに、ちゃんの心の中にもこんなにたやすく入り込んでしまうんだ。離れた場所にいるのに。今いっしょにいるのは僕たちなのに、ちゃんの心を持っていかれてしまうみたいで、僕はすごく、いやだ。

「…………ちゃん」

 ちゃんはうとうと眠ってしまって、僕のはただの独り言になった。となりを見ると、傾いたちゃんの白い頬に、髪の毛が影をつくっている。電車の揺れにあわせて、じきに小さな寝息が聞こえてきた。ああ、やっぱりこのひとは、かわいいなあと、胸の奥がきゅっとなる。  ねえ、そのやわらかそうな頬に触れる権利をちょうだい。僕はこんなに近くで、ちゃんのこと見てるんだよ。気づいて、はやく僕を見てよ。




涙の魚にはおよばない/130802























 あのひとはいつも美しい姿をしている、と思う。
 小さく結ばれた髪の毛も、あまり日焼けのしていない白い肌も、すべらかな頬のラインも、まぶしそうに細められる円い瞳も。さんという存在は、計算し尽くされたかのように、すべて美しくつくられている。どちらかというとあどけなくて、幼い顔立ちをしているほうだ。美しいというよりは、可愛い、という言葉のほうが似合うのかもしれない。けれどふいに年上の女性らしく、大人びた表情で僕をなだめようとしてくれるさんは、いつも美しい横顔で、愛しげに、プールを見つめているのだ。

「……? 渚君、ですか」

 さんは、中央のコースで泳いでいる誰かのタイムを計っていた。クロールで泳いでいたから、遙先輩かとも思ったけれど、その背格好を見てすぐに違うと気がついた。渚君だ。部活を終えなきゃならない時刻はとっくに来ているのに、渚君はお構いなしに全力で泳いでいる。

「そう。計ってほしいんだって」

 時計をちらりと見て困ったように笑うけれど、さんは全然困っているようには見えなかった。プールを駆けるように泳ぐ渚君を見つめて、やはり、愛しげな視線を送っている。さんも渚君たちと同じくらい、水が好きなのだと思う。いや、水を自由に泳ぐ彼らを見ることが、好きなのかもしれないけれど。どちらにせよその瞳は羨んでしまうくらいに優しく、美しくて、焼けるような感情にただ胸を焦がされる。
 この感情は、一体。

「……ぷはっ! はあ、ちゃん、どうだったー!」

 0メートルの壁に触れて、水面から顔を出した渚君は、息を整えることもないままプールを上がり、一目散にさんの元へ向かって来る。渚君は水をびしゃびしゃ滴らせながらさんの手元を覗き込んだから、さんの緑のジャージが少しだけ濡れた。冷たい、と言って笑うさんも、やはり言うほど困っているようには見えなかった。無邪気に笑う渚君を受け入れるように、ふたりでストップウォッチを覗いて、目を見て、話し合う。

「ううん、ちょっと遅くなってるなあ」
「練習のあとだから、疲れてるんだよ。また次ちゃんと計ろ」

 何の変哲も無い光景だと言われれば、そうなのかもしれない。夕暮れの差し込む水面のゆらぎに吸い寄せられるように視線をはずす。僕の入り込めないふたりの空気が、やけに重くて遠い。となりに立っているのが、嫌だとさえ感じた。こんなことを思う自分にだって嫌気が差しているのに、これ以上他の誰かを嫉むだなんて、したくない。美しくない。それは分かっている。

 さんのことになると僕の心は過剰反応をする。見知らぬ感情がどんどん湧いてくる。もしかしたら、さんはもう誰かの大事な人で、それは僕の大事な仲間であるのかもしれない。もしそうだとしたら僕は、辛い、と思った。ただそれだけだ。




浅くなら触らない/130802























 ちゃんも誘って花火やろ!と渚が言い出して、夕暮れにはるを連れ出して3人で、の家の前まで行った。

「テスト期間だし、部屋にいるよね?」
「電話してみようか」

 2階にあるの部屋の窓は、玄関側に面している。窓が開いてるみたいだし、音楽とか聴いていないかぎり聞こえると思うんだけど。携帯を取り出して電話をかけると、はすぐに電話に出た。なあに、と平坦なトーンで返事が返ってきたので、驚かせるために、外を見るようにだけうながした。

「わっ! みんな、どうしたの?」

 がらがら、と網戸が開けられて、レースのカーテンがめくられて。ひょこっと顔を出したは、キャミソール1枚で、眼鏡で、あまりにも無防備なその姿に、俺はぎくりとして、瞬間的に動揺してしまった。……渚とはるは、あまり気にしてないみたいだけど。でもそんなはずはない。渚が大きく手を振って、ちゃん、と呼びかける。こんなとき無邪気にはしゃげる渚が、少しうらやましいと思った。

「これから花火やるんだけど、ちゃんも来ない?」
「えっ、花火? やりたい! 今行く!」
「うん! じゃあ、待ってるよ〜」

 窓から身を乗り出しそうに返事をしたが、すぐに窓の向こうに消えていきそうになったので、急いで「あ、!」と引き止める。

「ちゃんと、暖かい格好しておいで」

 はうん、と微笑んでうなづいた。すぐに網戸が閉じられて、カーテンがしゃっと引かれる。外に晒されていた肩や、胸元が、なんだかまだ目に焼きついている。昔は水着姿だって平気で見てたはずなのになあ。もう昔とは違うんだ、俺も、も。俺が一方的にそう見てるだけだけど、さ。

「まこちゃん優しいねえ」
「そ……そうかな」

 変わらずに在り続ける俺たちの関係もまた、少しずつ変わっていくのだろうか。渚とはるは今、どんなことを想ってるんだろう。



夜の空あかい星/130804























 太陽が燦々と照りつける午後。帽子とか持ってくればよかったなあ、と思いながら、いつものようにプールサイドに立つ。ホームルームが早く終わったから、部活が始まるよりずいぶん早い時間にプールに来てしまった。それでも渚くんはわたしよりも早く来ていて、もうプールで泳ぎ始めていた。ホームルーム抜けてきちゃった、なんて、遙先輩みたいなことを言って笑って。

 ストップウォッチを持って、練習メニューに目を通していると、くらりと視線が歪む。
 日差しが強い。暑くてめまい、してるのかな。頭も痛くなってきた。涼しいプールが目の前にあるのに入れないのが少し恨めしい。わたしも男の子だったら、みんなといっしょに水泳部にプレーヤーとして入って、気持ちよく泳げたのにな。夏は、いいなあ、みんな、気持ち良さそうで、涼しそうで……。

 あ、やばい、気持ちわるい、かも。

「――――ちゃん!?」

 あんなに暑かったのに、今は寒気がする。吐き気を必死に抑えて、冷や汗が額に浮いているのが、自分でも分かる。おなかが圧迫されて気持ちわるい。目の前がくらくらして、何も見えない。ついに立てなくなって倒れこんでしまったわたしの傍に、渚くんが駆け寄ってきてくれた。プールから上がったばかりで、渚くんのからだからぽたぽたと落ちてくる水滴が、冷たくて気持ちいい。

「大丈夫? 熱中症かな、それとも貧血?」

 渚くんの冷えた手は意外と大きくって、わたしの手首から脈拍を確認する渚くんが、なんだか頼もしく見えた。心配そうな顔でわたしを覗き込んでいる。ごめんね、と無意識に謝っていた。それでも必死にわたしを覗き込んでくれる渚くんを見て、安心して少しだけ、楽になっていく気がする。

「とりあえず、日陰に行こう」

 抱っこするよ、と言って、渚くんはわたしの背中と膝のうらに腕をさしこんで、そのままわたしを抱き上げた。顔色ひとつ変えないで軽々しくしてみせるから、おどろいた。渚くんは女の子みたいに可愛いなあ、なんて思ってたのに、やっぱりちゃんと男の子なんだ。力強くって、触れてる腕や胸も、たくましくて、ついからだを委ねてしまう。

「お水持ってくる。ちょっと待ってて」

 わたしを安心させようと、渚くんは柔らかく笑ってくれる。具合悪いのとは違うどきどきで、胸が少し苦しくなる。かっこいい、なあ。ここに渚くんがいてくれて良かった。目を閉じると、涙が流れた。気が付けば頭の中は、渚くんのことでいっぱいになっていた。




ミントグラフ/130804























 歯みがきしてる後姿って、無防備でなんかいい、と思う。
 立ち尽くしてる感じとか、ぼーっと手だけ動かして何も考えてなさそうなところとか。小さいがさらに小さく見える。歯ブラシだけを持って、歯を磨きながらテレビを見つめているの、隙ありすぎな背中から腕を回して、ぎゅうっと抱きしめてみた。

「んえ! りんひゃん」

 ださい寝巻きのTシャツの、肩口に噛みつく。肩をすくめた反対側の首筋にキスをして、がぶ、と歯を立てると、歯ブラシを持っていないほうの手で抵抗して、は俺を引き離そうとする。でも、だめだ。離してやらない。は戸惑いながら、俺をやりすごすのに必死で、歯をみがくのをすっかり疎かにしていた。

「いっ、いたい」
「ん、わり」
「危ないよ、はなひて」

 首筋や肩に噛みついて、髪が結い上げられて露になっている、風呂あがりのうなじに何度もキスをする。まともに抵抗の声も出せないは、泡の伝う口の端を手のひらで何度も拭う。んん、とうなって無理やりからだの向きを変えて、洗面台に向かおうとするを、引きとめてそのままソファに押し倒した。ぎゅっと閉じられている唇も、ただくわえられているだけの歯ブラシも、日常的なものなのに、今は少し違って見える。

「まって、りん」

 うそでしょ、とこもった声ではつぶやく。気にせずに首にキスを落としながら、ずるずるとTシャツをめくって、下着の中に手を入れようとした、そのとき。ぐいっ、と額を押し返され、困り顔のが、もごもごしながら俺を睨みつけていた。赤くなった頬。必死なその表情が可愛くてつい、見惚れる。

「おあずけっ」

 はそのまま腕をすり抜けて、洗面所まで走っていった。しばらくして、頬をふくらましながら戻ってきたは、ソファに乗り上げながら俺の顔を両手で挟み、「歯みがき中はだめでしょ!」と小さな子どもに諭すように怒った。迫力ねーの。思わずふっと笑うと、はもっと憤慨して唇を尖らせる。

「おまえが喋れないからチャンスだと思って」
「ひどい、もう、辛かったんだから」
「声我慢できなくて?」

 ちがう、と首を振るの両手首をつかまえて、引き寄せて、そのまま唇を奪う。まだ歯みがき粉の、涼しいミントの味がする。もう一度をソファに押し倒して、唇に噛みついたまま乱雑にTシャツに手を突っ込む。もう声、出せるだろ、と囁くと、は恥ずかしそうにぎゅっと目を瞑った。角度を変えて、舌を絡めて、何度も何度もキスをしてるうちに、徐々にからだが熱くなって、甘い声が漏れだす。
 俺の理性を揺るがせるのは、こいつだけだ。潤んだ瞳と目が合って、たまらずに、その白い素肌に噛みついた。




きみには叶わない/130805




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