からんと小石を蹴る音といっしょに、何か千切れるような嫌な音がした。ちいさな悲鳴に振り返ってみれば、月明かりに浮かび上がる白い肌がうつむいて、鼻緒の切れた下駄をじっと見下げている。

「才蔵、鼻緒が」

 顔をあげたは、素足を下駄のうえに置きながら、ずいぶん申し訳なさそうな顔をしていた。館まではあと数分で着く。の買い物が予想以上に時間を食って、予定していたのより帰りが遅くなってしまったのだ。館では幸村のおっさんが首を長くして帰りを待っていることだろう。はおっさんの大事な大事な婚約者で、俺はただのその護衛。にとって俺はきっと、それ以上でも以下でもない。

「……仕方ねえな。おぶってやるから、下駄持っとけよ」

 うなづいて、おとなしく背負われたの手には、市で買ってきたものが色々と入った巾着が提げられている。大方、幸村のおっさんへの贈り物とか、そういうものなんだろう。歩くたびに音を鳴らすそれが少し鬱陶しい。の体はちいさくて軽かった。触れている素肌や耳元できこえる呼吸が、やけに艶っぽい。月夜にさらされているせいか、透き通るその肌の青白さが、やけに目についた。

 こんな風に背負っていると、いやでも考えてしまう。この温度のぜんぶがもう、俺以外のやつのもの、だということ。

「才蔵、今日は付き合ってくれてありがとう」
「別に。暇だっただけだ」
「そうそう、市でね、かわいい飴を買ったの。帰ったら才蔵にあげるね」

 いたずらに袋を揺らして、は笑う。この巾着のなかに入っているのは、どうやらその飴であるらしい。が飴を好きなのを知っている俺は、なんて返せばいいのか、すぐには思いつかなかった。これは幸村のおっさんに贈るものじゃないのか。……いや、何もは俺だけにやると言っているのではない。中には飴といっしょにおっさんへの贈り物が入っているのかもしれないし、伊佐那海や、他のやつへの物もあるのかもしれない。当たり前だ。なのに俺はどうして、思い上がったことを、考えようとしたのだろう。馬鹿みたいだ。いや馬鹿だ。

「そりゃあ、どうも」

 飴をころがすのと同じように可憐な音で、でもたまに鬱陶しくてしかたがない声で、は俺を呼ぶ。にとって俺がただの護衛、というのは半分がうそで、きっと半分が本当なのだと思う。月はもう雲に隠れてしまいそうだった。見えてきた館を前にして、名残惜しさが俺の袖を引く。着けばは俺から離れて、違う男のもとに行ってしまうのだ。あと数尺の距離が、倍になってくれたらいいのになんて、馬鹿なことを考えてしまう自分を呪った。




焦がれる (120218)























 いけないと分かっていることが、そのものの価値を助長して、焦らすほど望ませてしまうものがある。背いているという自覚があるから、それは尚更まぶしく見えて、近くに在るからこそ、切なくて苦しいのだ。

「針と糸を持ってない、六郎」

 若の着物をかかえた様は、部屋で書状をしたためていた私を楽しそうな声色でたずねた。言われたとおり裁縫道具を取り出してやると、様は受け取るなりそこへ座って、おもむろに着物のほつれを縫いはじめる。細い指さきは器用に動かされるが、布を抜き取った針がたどたどしく、自身に刺さってしまわないかどうか心配になった。才色を備えた様は、若の婚約者にほとんどふさわしい女性だが、まだ若く、その立ち振る舞いはどこか少女のようでもあった。自身の手元に向けられたその横顔も、何とも言えず幼げで、男に守ってやりたいと思わせるような、果敢ない成りをしている。

様、私が代わりましょうか」
「え? いいのいいの、六郎は気にしないで自分の仕事をつづけて」

 そうは言われても、こう近くで縫われていては、私だって落ち着かない。邪魔ということは決してないが、針を持っているということもあるし、万が一様が怪我でもされてしまったら、若に示しがつかなくなってしまう。……縫い針1本でそんなたいそうな怪我をすることは考えにくいが、念を入れるに越したことはないのだ。様は若が、本当に大切になさっている大事なお方なのだから。目が離せない。

「……六郎、手が止まってる」
「え」

 顔を上げずに、様はふと笑みをこぼされる。私がじっと見つめていたことに、気づいていたのかもしれない。

「ここにいたら邪魔かしら」
「いえ、そんなことは。……ただ心配なだけです」
「ふふっ、大丈夫だよ。もう何度もやってるのよ」
「はあ…………」

 初めこそ、箱入りの姫であった様だが、ここへ来てからは以前より色々なことに挑戦しているようだった。縫い物や料理もそうだし、裏の森で動物を追いかけたり、市へ買い物に出かけたり、勇士たちの戯れの仲間に入れてもらうことを様はいつも楽しみにしていた。そしてそんな様のご様子を、本当に愛おしいという表情で、若が見つめているのだということも、私は。

「ねえ六郎、幸村様には内緒にしておいてね。あとでびっくりさせるんだから」

 うつむいた様の頬は雪のように白く、丸い頬がわずかに桃色に染まっている。そんな顔を、私のような者に見せるなんて、あまりに迂闊だ。腕を伸ばせば届くこの距離が果てしなく遠い。けれどそれは幸せで、壊れることのない形なのだということを、私が知るには少し我慢が足りなかった。隙間を埋めたいと望む心が、浮かんでは消える。泡沫のように。

 いけないと分かっているから、焦がれてしまう。背いていると分かっているから眩い。あまりに近くにあるから、こんなにも切なくて、苦しくて、ただ、いとしいのだ。




奪いたい (120219)























「姫」

 縁側で、姫が横になっている。呼んでも動かない。近づくと、陽だまりで気持ち良さそうに、眠っているのがわかった。こんな所で寝ていたら、危ない。垣の外には警護がたくさんいる、けど、珍しくうたた寝している姫の姿を、他の誰かに見せるのは、少し、嫌だった。ゆっくり、頬に触れる。姫は起きない。もういちど呼んでも、起きない。仕方ないから、膝と背中に手をまわして、起こさないようにそっと、抱き上げた。

 姫の体は小さい。細いのに、やわらかくて、抱き上げていると、妙な気持ちになる。もっと触れてたい、とか。でも姫は嫌がるかもしれないから、できない、とか。畳の上は、痛いかもしれない。でも縁側よりは、きっといいはず。夕方が来ても、風が当たらないし、襖を閉めたら、誰にも見られること、ない。

「ん…………」

 畳に降ろすと、姫は少し動いた。起きた、かと思ったけど、違う。身じろいで、すぐ寝息を立てる。だけど、姫はちょっとだけ笑った。夢、見てるのかもしれない。楽しい夢。眠ったまま、笑う姫を見ていると、我も面白くなって、少し笑う。姫の手、動いている。思わず、触れると、ぎゅっと握られた。びっくりした。

「姫…………起きてる?」

 返事はない。姫は、寝てる。寝ぼけて、我の手をつかんでいる。誰の、何の夢を見てるのかは、分からない。でも幸せそうに、笑ってるから、きっと良い夢。この手をずっと、離してくれなければ、いいのに。姫の手は、温かい。いつも我に、向けてくれる笑顔も、温かい。我はそれが嬉しい。姫の笑顔を、もっと見たい。幸村様の傍にいるのが、たぶん姫にとって、一番の幸せ。だから我も、それがいいと思う。

「…………」

 でも、本当は半分、くらい、うそだ。思っちゃいけないこと、だけど、本当は少し、寂しい。姫が微笑むのは、我にだけじゃない。当たり前のことなのに、それが、すごく悲しい。だから今、くらいは、我が姫を独り占めしていたい。姫の目が覚めるまで。姫の手が、我の手を離すまで。そんなときは、ずっと、来なければ良い、と、思うけど。




ひとりじめ (120219)























 布団の上から、誰かに体を揺すられている。名前を呼ばれているのも聞こえる。まだふだん起きる時間より、よっぽど早い時間だ、と思う。気だるくて、ずっと無視していると、その声の主はあろうことか俺の毛布を剥いで、中に入って来ようとしたので俺ははね返して飛び上がった。

「お前っ、……! 何してんだ!!」
「才蔵、やっと起きた! おはよう!」
「だ、だから一体何を……!」
「何って、今日は大掃除を手伝ってもらう約束でしょ。早く起きて!」

 ああ、そういえばそんな約束、してた気がする。でも、いくらなんでもまだ早すぎる。そのために俺の部屋にまで来て、布団まで捲ってって、ばかじゃないのか。お前。朝からだいぶ驚かされた。脱力して、起こしていた体をもう一度布団に沈める。眠い。は不満そうに、また俺の肩を揺すって起こそうとする。才蔵、と何度も何度も、俺の名前を呼ぶ。

「…………今、何時だよ。朝早すぎんだろ」
「朝早いほうがいいって、六郎に言われたのよ。屋敷は広いから」
「っていうか、それ、そもそもお前がやることか?」

 その広い屋敷の主人の、奥さんなんじゃねーのかよ。寝転がる俺を覗き込むにそう言ってやると、何がおかしいのかぷっと吹き出したは、俺の胸を軽く叩いた。

「だって、私、まだ奥さんじゃないもの。それに掃除なんて、誰がしたっていいものでしょ」

 まるで俺が変なことでも言ったみたいに、は不思議そうな顔して笑う。けれど、まだ、と言ったことに俺は少し嬉しくなる。はまだ誰のものにもなっていない。だからこうして俺を起こしに来たり、戯れに触れたりも、する。そんな些細な言葉が、俺の気分を高揚させるのに十分な力を持っていた。自分でも驚くくらい単純で、短絡的で、笑ってしまう。けれど、それでも俺にとっては、ひどく重要なことなのだ。

「何笑ってるの、才蔵」

 俺の胸に垂れるの長い髪に、手を伸ばして触れる。このまま引っ張って、抱き寄せて、口付けをするのは簡単なことだ。嫌がられてはかなわないから、しないというだけで、本当はこんなに近くて、脆い距離にいるのだと、気づかされる。もどかしくて、物足りない。口には出せない。

「……何でもねーよ。ほら、着替えるから出ていけよ」
「え?」
「別にお前の目の前で着替えたって、俺はいいんだけどな」

  立ち上がって、わざと着物の帯をほどいてみせると、あんなに威勢のよかったは顔を赤くして、すぐに後ろを向いてしまった。そのまま俺のほうを見ないようにして、急いで部屋の外に出る。いつも大胆なことをするくせに、免疫が無くて、そういう所はお姫様らしくて面白い。「才蔵、意地悪だわ」とふすまの外から聞こえた恨み言も、今は俺をただ喜ばせるだけだった。




おはよう (120219)























 いつものように襖を開けて、その内様にぎょっとする。

「…………」

 声を、かけるべきか否か迷って結局やめた。襖を閉めて一度呼吸を整える。何も取り立てて狼狽するべきことではない。あまり予想していなかったといえば、していなかったが、思い至っていたといえばまったくそうで、想像していたより衝撃を受けている自分に気づかされる。……こういうもの、なのか。行き場のない思いが胸で焦れるのを感じる。しかし若を起こさぬというわけにも行かず、襖の外から少し声を張った。

「若、朝です。…………起きて下さい」

 衣擦れの音がするのにも、いちいち神経が澄む。寝起きの悪いほうではない若は、眠たげな声をもらしながら身体を起こされて、布団の上で胡坐をかいて欠伸をした。私が言いよどんでいるのに気がついたのか、若は、「ああ、構わん。襖を開けよ」と言葉を下さるが、それでもやはり少しためらわれて、数寸開くのみに留まってしまう。

「…………若」
「そんなに気にするな。ただ此処で眠っただけじゃ」
「は…………?」
「夕べにした怪談のせいで眠れなくなったと、夜半に文句をつけに来てのう」

 まさかあれほどに怖がるとは思わなんだ。そう言って若は、横になっている様の、前髪を掻きなでる。ただ此処で、眠っただけ…………? 思えば、若と様は、まだ正式な婚儀を交わされてはいないのだ。定められたもの故に、時期を待っていたものの順序がずれたに過ぎず、ふたりが相愛なさっていることは、見ても明らかだが、その辺りは少し曖昧で、時を急ぐようなことでもなかった。このような事態に出くわすのは初めてで、戸惑ってしまったが、本来なら狼狽するような場面ではない。本来、ならば。

「おーおー、ぐっすり眠っておる。これを起こすのは酷じゃな」

 様の寝顔を見つめる若の視線は、ひどく優しく、様への想いに溢れているというのが、よく分かる。若は様を本当に大事になさっているのだ。それは私がこんな思いを抱くのが、罪であると、改めて審らかにされてしまうほど、深く素直な愛情で、様を、想っている。だからこのような、ことを、考えるべきことじゃない。それは重々、分かっているつもりだ。

「女中が驚くやもしれんなあ。の部屋に人を呼んでおけ」
「御意」

 立ち上がり、若は洗面場へ向かおうとする。後につづいて襖を閉めると、視界の隅に身じろぐ様が見えて、また胸のあたりが焦れた。私が私自身に警告しているのが聞こえる。逃れられないのが、ただ辛い。行き場のない思いが裾を引き、それは振り払おうとする私をさえぎって、何度も何度も、私に足踏みをさせるのだ。




めまい (120220)























 お姫様が突拍子もなく、花札をやろうと誘ってきた。

「はい、また私の勝ち」
「だーー!! なんで勝てねーんだよ!」

 やり方を教わって、こんなの楽勝と思ってたのに、遊んでみるとそういうわけにもいかなくて、どういうわけか姫にはまだ一度も勝てていない。意味がわからねえ。こんなの、ただの札遊びじゃなかったのか。気がつけばどんどん点数を失っていって、涼しい顔で札をめくる姫を見ていたら、なんか悔しくて、次つぎと遊びを繰り返したけど、結局最後まで勝てることはなかった。

「くっそー……姫、強すぎ」

 好きなだけあって、姫は花札が得意だ。俺が投げ出した札をひろって、山の札と重ねて片付けながら、姫は少しだけ笑う。

「今度、伊佐那海ちゃんも誘ってやりましょうか」
「はあ!? なんであいつなんかと!」
「人が多いほうが楽しいじゃない?」
「そんなんぜっったいやだね!!」

 勢いで畳に寝転がると、外の夕暮れが目に入る。昼過ぎに遊び始めたはずなのに、いつの間にか、こんな時間になっていた。ずいぶん夢中になってたらしい、俺。自分にびっくりだ。横を向くと、札を片付ける姫の横顔が見えて、疲れてるせいか少しぼうっとする。夕日の色で橙色がかって、瞳に映っているのが、きれいだ。その弱弱しそうな顔で、俺に勝ってばっかりいるんだから、信じらんねえ。勝負事で負けるつもりなんてこれっぽっちも無かったのに、一回も勝てないとか。

「きれいな夕日ねえ」
「え? あ……うん」

 なんか変な感じだ。目を閉じれば、そのまま眠れそうだった。疲れてるせいで動けない。夕日に視線を奪われる。視界の隅に姫がいるのが、今更、気になって落ち着かない。それも意味わかんねえ。今の今まで向かい合って、顔見合わせて、遊んでたのに。やっぱ変だ。

「鎌之介、また遊んでくれる?」

 負けてばっかりなんて嫌だし、次やるときは絶対勝つ。……みたいなことを、言うつもりだったのが、手前で引っ込む。改めて選んでる言葉は、しょうもないものばっかりだ。でも身体が重くて、他に浮かばない。こんなこと言ったら、姫は笑うんだろう。たぶん嬉しくて。それがなんか、癪で、胸に引っかかる。でも他に何も、言葉はないのだ。

「…………お前とふたりなら、いいよ」

 言ってから、やっぱり照れくさくなって、つい顔をそむける。何だこれ。なんかすげー、恥ずかしい。こんな感情抱くのは生まれて初めてで、戦いのときとは、ぜんぜん違う思いが、胸の奥を熱く焦がしていく。夕日が差し込んでて、よかった、と思った。俺はきっと今、ものすげー阿呆みたいな顔で、にやけてるはずだから。




こいこい (120222)























「才蔵、いる?」
「…………いるっつーの」

 くぐもった声と、かすかに流れてくるほの熱い空気。戸を一枚隔てた向こう側では、風呂から上がったが服を着替えている。昨夜おっさんに怪談を語られたせいで、一人で風呂に入るのが怖くなってしまったらしい。一体いくつだよ、なんて言って茶化してみても、「才蔵にしか頼めないの」とか言って、必死に俺を丸め込もうとするのだから、俺としては正直、たまったものではない。

 (そんなの、断れるわけねーだろ)

 数十分の間だが、はその間何度も俺がいることを確かめた。何か話せと迫っては、俺が何もないと断っての繰り返し。たったそれだけでも、人がいるのといないのとでは気の持ちようが違うのだと、湯船の中からが言った。水の跳ねる音や、帯をほどく音に、俺がどれだけ神経をとがらせていたのか、はまったく分かっていないのだろうと思う。脱衣所から出てきたは、いいお湯だった、と息を吐きながら俺の隣に並ぶ。

「ごめんね、お待たせ!」
「上がったのか。じゃあ、さっさと部屋まで戻るぞ」
「うん。ありがとう才蔵」

 簪でまとめられた髪からしずくが滴る。熱に染められた頬が、ふだんとは違う気色で緩んでいて、結び損ねた髪のひと束が、すきまから覗く鎖骨に伸びている。赤く潤んだくちびる。髪を伝う水滴は肌のほうに落ちて、汗のように顎から流れていく。陰をくぼませる白い肌から、乱暴に目を逸らしても、すぐに意識が寄せられた。

「…………」

 体の奥のほうに、揺らめくなにかが顔を覗かせる。端のほうで押しとどめられて、ようやく消えていくようなそれを、の声は執拗に引きずり出そうとする。にそんなつもりがなくても、こればっかりは、許されて過ぎてゆきはしないのだ。思いのほうが先立って、都合のいいほうに身体を支配していく。意思とは反対に。もういっそ、請け負わなければよかったとさえ、思った。俺だけがこんな風に悶々として、が少しも、俺と同じようには思っていないなら、ただ苦しいだけだ。

 の歩幅は小さくて、置いていきそうになるのを何度か振り返った。そのたびには俺の目を見て、いつもと変わらないように、穏やかに笑うから、俺はやっぱり馬鹿な期待をしてしまうのだ。




湯あがり (120223)























「鎌之介はきれいな顔してるわね。女の子みたい」

 どいつもこいつも俺のこと女女って、好き勝手言いやがって、挙句には姫までそんなことを言ってくるもんだから、思わずいらっとして、姫を少しおどかしてやるつもりで、その手を強くつかんでぐっと迫ってみた。ほら見ろよ。手の大きさとか、ぜんぜん違うじゃん。俺のほうが大きい。姫の手のほうが小さくて、白くて、細くて、俺の手なんかよりずっときれいだ。

「俺、男だよ。分かってんの?」

 顔を近づけると、姫はまばたきをしながら俺を見つめ返す。何の悪気もなさそうに。こんなに近づいてるのに、何の抵抗もなさそうに。……何だよそれ。俺のこと、男だって思ってねーのかよ? 襲われるとかって、考えねーの。くそ、こんなに近くにいたら、俺のほうが、どうにかなりそうだ。姫のことビビらせてやるつもりだったのに。

「そうねえ、鎌之介は男の子よね」
「…………はあ?」

 でも姫は、少しも動じることなく、まっすぐに俺の目を覗き込んでくる。

「分かってるわよ、そんなこと」

 変な鎌之介、なんて言いながら、姫は笑う。ああもう、だめだ。そんな顔で笑われたら、怒る気とかもう無くす。俺、そんなに信用されてんの? こんなに近づいて、触ってんのに、少しも警戒しないって。姫って実は、馬鹿なんじゃねーの。花札上手いのに。そうじゃなかったら、ふつう自分に惚れてる男の前で、そんな顔しない。

 うつむけば額と額がぶつかって心臓に響いた。姫は馬鹿だけど、たぶん俺のほうがもっと馬鹿だ。だってこんなにどきどきして、自分でけしかけたことなのに、ちょっと後悔したりとか、してるし。つい目を逸らして、唇を噛んだら、何にも分かってない姫は不思議そうな顔をして、楽しそうに笑った。乱暴につかんでいたはずの指先が、いつのまにか指の隙間に絡んでいた。




手をつなぐ (120312)























「まだ起きていらしたんですか」

 様は襖を開けて、夜風に当たっているようだった。夜は深く、静寂が訪れて久しい。十六夜の月が辺りを照らしている。

「少し夜更かしをしていたの」
「……そのような姿では、お体に障りますよ」
「六郎、怒る?」

 気持ちを試すような物言いで、様は笑ってみせた。私をからかってでもいるように、ひどく楽しげに。冷たい風に触れて、風邪でも引いたらどうするつもりなのだろう。心配するのは若だけではないのに。

「怒ります」

 突き放すような言い方をしてみれば、様は驚いて顔を上げる。少しいらついていたのかもしれない。様があまりにも無防備すぎて。私以外の誰かにも、そんな姿を見せているのだろうか? ……だとしたらそれは、嫌だ。たとえ相手が若であったとしても、だ。

「六郎がそんなことを言うの、初めて聞いたわ」
「…………申し訳ありません」
「どうして謝るの? 六郎はいつも私に遠慮しすぎなのよ」

 遠慮? ……言われてみれば、そう、かもしれない。でもそれは敬意を払うための、仕方の無い距離で、相応のもののはず。それを様は遠慮と、言うのだろうか。妙な解釈だ。様にとって私とは、一体何なのだろう。

「――――では、今日はもうお休みください」
「やっぱり怒っているのね、六郎?」
「いいえ。そうではありません」

 心に素直になっては、いけない。そんなことは分かっている。でも少しでも、許されるのならば。私はこの方の、傍にいたいと、心から願う。若の隣にいるその傍らでは、私は満たされないのだということも分かっている。けれど望めばすべてが壊れてしまう。ならばせめて近くで、その幸せを、願っていたいのだ。

「私にも、貴女を大事にさせて下さい」




真夜中 (120316)























 桜吹雪にまぎれて、男の人がひとり、花びらを割いてこちらに歩んでくる。

「お花見ですか。これはまた風流な」

 ふしぎと足音はしなかった。その人は編まれた赤い髪を揺らしながら、手のひらに桜をつかんで握り締めている。見知らぬ存在には注意しなければならないと、知っていたはずなのに、とっさに声が出なかった。蛇のような鋭い目に、射止められてしまったせい、かもしれない。

「花は良い。可憐なまま、散り際までうつくしい」
「貴方は…………誰?」
「さあ、誰でしょう。貴女に教える義理はありません」

 その人は、いつの間にか私が座っている縁側にまで近づいていた。そして私に振りかけるように、潰れた花びらをその手からはらはらとこぼす。薄く色づいたそれらは私の頬や、着物に落ちて、風に流れていく。どうしてかその人を、怖いとは思わなかった。ただ危険だ、と。それだけを、私を貫く冷たい視線が、痛いほど教えてくれている。

「まるで籠の中の雀のようですね。外を知らずに、花を見てしか過ごせない小鳥…………」

 桜のせいで、手が伸びてきているのが見えなかった。距離はもうひどく近い。布で顔の半分を隠しているその人は、私の輪郭をとらえて、指先でゆっくりとなぞる。やめて、と言った。恐ろしさでのどが震えて、声が出ないと思っていたのに。

「ふん……雀、ではなく雲雀くらいにしておきましょうか」
「貴方、何をしに来たの?」
「それも言う必要はないでしょう。雲雀の姫君」

 からかうだけからかって、この人は私で遊んでいるのだ、と気づくと苛立たしくなる。けれど私がそう思ったのにも気がついたらしいその人は、私の耳を引っ張って、やさしく唇を寄せる。笑っていた、のかもしれない。その表情はほとんど見えないけれど、私を映す目が少しだけ揺れたのが、まつげが触れてしまいそうな距離で分かった。


「貴女を、攫いに来たんですよ」




からかい (120317)























 姫が、散歩に出たいと、言い出した。花のきれいな時期だから、裏山に行って景色を見たい、と。幸村様は許可した。だから我は護衛のため、姫についていく。道端の野花をみて、鳥のさえずりを聴いて。遠くの空を、ふたりで眺める。いつもと同じ景色なのに、姫と一緒だと、少し違って見えるから、不思議だ。

「ねえ佐助、あっちにいるの、この前の子ねこ?」
「そう。親ねこと一緒」
「ちょっと大きくなったね。元気そうで安心した」

 細い道をまっすぐ進むと、少し傾斜になる。我が先に坂を下りて、姫の手をとって支える。足場が悪い。姫の足が、不安定で、案の定、小さな石を踏んで、前のめりになった。転ばないように、両手を伸ばす。けど、急に足場が崩れて、我の体勢も一緒に崩れる。まずい、後ろに倒れる。一人なら平気だけど、今は姫がいる。姫の身体を受け止めながら、姫に傷、つけないように、ぎゅっと抱きしめて守った。

「佐助!」
「…………っ、姫、怪我は」
「してないわ。佐助、ごめんなさい、大丈夫?」
「無問題。姫が無事で、良かった」

 我の上に乗っかったまま、姫は首を振る。よかった。本当に、姫に何かあったら、我、困る。安心して、一気に脱力する。

「佐助……? どこか痛むの?」

 我を覗き込んで、心配そうな顔する姫の頬に、思わず手を伸ばそうとして、はっとした。冷静に、なってみれば。不可抗力だけど、我、姫を、抱きしめてた。細い体……やわらかい、じゃなくて。姫が我の上にいるから、無理に、退けられない。触れてる部分が、温かい。距離が近くて、無性に恥ずかしくなる。なんか変。姫の目、見てられない。急いで起き上がって、姫から少し、離れる。

「ひ……姫。屋敷に戻って、本当に怪我ないか、確かめたほうがいい」
「私は大丈夫よ。佐助が守ってくれたから」

 うわ、なんか。嬉しいのに、すごい、恥ずかしい。




きみに触る (120322)























「おや、怪我ですか」

 その人は音もなく現れて、いつの間にか縁側に座っている。今日で二度目だ。どこの誰とも知れなくて、何をしに来ているのかも分からない、不思議な来訪者。ただ会ってはいけない人、であるような気はしている。まとう雰囲気が夜のように重たくて、響く声のしらべが不釣合いなほどやさしい。

「目立ちますねえ。その首筋にとても映える」
「…………そうかしら」
「ええ。貴女の肌は、傷つけ甲斐がありそうですからね」

 振り返るとその人は私のすぐ後ろまで来ていた。おどろいて、身体が少し飛び上がる。忍びのような軽装だけれど、身高なその体は筋肉質で、本当に捕らえられてしまうのもわけないのだと思い知らされる。やっぱりこの人は近づいてはいけない人だ。怖い。その赤い瞳に、じっと見つめられるのが、とても。

「私に傷をつけたいの」
「いいえ。そんなことはありません」
「ねえ、少し離れて……」
「私はただ、貴女のその身体に――――」

 離れてと言ったのに、その人は私を壁に追い込んで、楽しそうに笑う。

「もっと深い傷がついてるのを見たいだけ」

 口にしているのは私を脅えさせるための言葉だ。けれどその声色は、愛を囁くように甘いから、妙な錯覚をしてしまう。この人はもしかしたら本当に、私を捕らえようとしているのかもしれない。傍にいるのは、こんなにも怖いと感じるのに、どうしても突き飛ばすことが出来ない。
 赤い目のひとは自身の口元を覆っていた布を下ろして、指先で私の首を引き寄せた。そしてのけ反った私の首筋に、やさしく口付けをする。男の人にこんな風に触られたことは今まで一度だってなかった。怖くて震えた手のひらで、肩に触れて押し返そうとすると、その人は待ちわびたような笑みを浮かべて、何のためらいもなく離れていった。

「……冗談ですよ。そんな顔しないで下さい」

 少しだけ生まれた距離を縫うように、あたたかい春の風が吹き抜ける。こんなのは、おかしい。私はもっと強い力で拒まなくてはいけないのに。私が顔を背けるその一瞬まで、その人は刺すような視線で私を見下ろしていた。鼓動がうるさくて何にも聞こえない。赤い髪がひるがえって縁側から出て行くのを、私はただ黙って見つめていることしか出来なかった。




戯れの傷 (120323)























 初めてその姿を見たのは、雪の降る日だった。色の白いかんばせがうつむいて、その頬にまつげが影をつくっていた寒い午後。なにかを憂う瞳のまたたきは、若く小さなその存在に儚さを与えて繰り返される。彼女が瞬きをするたびに、そこから涙が溢れてしまうのではと不安になって――――。今にも泣き出しそうなその横顔に、私はどうしようもなく、見惚れてしまっていた。




「姫君。こんな所においででしたか」

 柔らかな髪を風になびかせながら、姫は廊下の隅で庭の景色をながめていた。振り返って向けてくれる朗らかな笑顔は、ほんの少しだけ幼さを交えて、私の目にとても可愛らしく映る。庭の木々に花が咲き乱れているのは、その儚い様子が姫によく似合う。それは彼女が、このまま花びらとなって消えてしまうのではないかと疑ってしまうほどだ。

「石田様、いらしていたのですね」
「はい。けれど、幸村はいま留守にしていると聞かされて」
「行き違いのようですわ。じきに帰ってきます」

 隣に並ぶと、初めて姫を見た日の動悸がふいに蘇ってくる。花々をいとおしく見つめる姫の横顔に、私はまた目を奪われる。可憐なこの姫は親友、――――幸村の、奥方となる姫だ。政略結婚だとは言うが、幸村は彼女のことをずいぶんと大事にしているように思う。それが夫となる立場から生まれる愛情であるのか、弱く小さな彼女を護りたいと思う、単純な同情心であるのかは、私にはわからない。

「今日の桜を、貴女と見ることが出来て良かった」
「石田様?」
「…………私が次に此処に来るときには、もう全て散ってしまっていたでしょうから」

 花が散ることが、暗に別離を示しているようで苦しい。どのように名づければ良いのかも分からない想いが体中を巡る。どうして私はこんなにも、この姫を美しいと思うのだろう。どうして目を離していられなくて、ずっと見ていたい、などと。

「では、次にいらしたときは、一緒に藤の花を見ましょう」
「藤を……ですか?」
「はい。とてもきれいなはずですよ」

 ――――ああ、やっぱり。姫はその愛らしい笑顔で、私のわだかまる想いをすべて消し去ってしまう。
 貴女が可愛いのだと、このまま口に出してしまいたい。そうすればきっと彼女ははにかんで、可愛く照れてしまうに違いないのだ。許されない想いに身を焦がして、姫の微笑みだけを願い続けることが出来るだろうか。もしもあの日のように、姫が花曇りの空のしたで涙を流すとき、それに私の傍を選んでくれたなら、一体どれほど救われるか分からない。




花のことば (120325)























 桜の花がすべて散った。庭から部屋へ戻ると、私のすぐ後ろに誰かひとりが着いてきて、私より先に襖を閉める。

「御機嫌麗しゅう姫君。お久しぶりですね」

 その赤い髪と目は、いきなり見るには少し心臓に悪い。最後に会ったのは数週間前の午後だ。諜報をしに来ているのなら、こんな風に人目につくところには来たりしないはずだし、かといって勇士の誰かの知り合いというような雰囲気でもない。彼は一体何者なのだろう? 此処へ来ても、何をするでもなく、私とただ話をして帰るだけで、その真意は未だつかめない。

「昨日ふと貴女のことを思い出しまして、此処へ来たくなったんです」
「どうして?」
「さあ。桜が散ったからでしょうか」

 襖の向こうに目配せをして、私の視線を誘ってから、私の手のひらをつかまえた彼は、手首ごと私を壁に押し付けた。こういうことをして私が困ったり、焦ったりするのを、彼は楽しんで見ているのだ。

「愚かですねえ。これなら捕らえて行くのも簡単そうだ」
「…………っ」
「駄目ですよ、離しません。そんな顔をする貴女が悪いんです」

 私の輪郭を撫でて、彼は面白くてたまらないといった表情で口元をゆがめる。痛い所はどこもない。その声すらもやわらかくて、あやすように優しい。まるで私をその手の中に捕らえたいと言って、愛を囁いてでもいるように。その目を見つめると心臓が止まりそうになる。

「貴女も私を、待っていたはずですよ」

 彼のつむぐ言葉に、かあっと顔が赤くなるのが分かった。私がうつむこうとするのを強引に阻んで、彼は、私のくちびるに自分のそれを重ねる。その瞬間呼吸も心臓もすべて、射止められてしまった気がした。頭の中が真っ白になる。これは口付け、だ。生まれてはじめての。私は力のかぎりに突き飛ばして、すぐに自分の口を拭うように押さえた。鼓動がうるさくて眩暈がする。

「…………私の名は服部半蔵。覚えておいて下さい、姫」

 飄々とした笑みを残して、彼はたちまちに姿を消した。初めて聞いた彼の名前を、口に出して思い返しながら、私はその場に崩れ落ちる。口付けをされた。されてしまった。くちびるに残された微かな温度は、私の胸を存分にかき乱して消えていく。込み上げて零れていく涙を拭うと、切なさだけが、釘を打つように胸に響いていた。




奪われる (120326)























 様が怪我をされたと聞いて、大急ぎで部屋へ向かった。

「――――ご無事ですか、様!」

 開室の言葉もろくにかけず襖を開けると、女中に包帯を巻いてもらっているらしい様が、きょとんとした顔で私を見て素っ頓狂な声をあげる。あら六郎、どうしたの、そんなに慌てて。…………どうしたもこうしたも、様が怪我をなさったと聞いたから、飛んできたのだ。けれど、それなのに、様子が少し妙だ。状況がつかめず立ちすくんでいると、手当ての終わったらしい女中が、くすくすと笑いながら退室していった。

「ひょっとして、幸村様か誰かにからかわれたんじゃない」

 ――――ああ、そのようだ。様はちいさく包帯の巻かれた右手の人差し指を私に差し出して、花の棘を刺してしまったの、と言ってはにかむ。

「怪我っていうほどじゃないわ。驚かせちゃってごめんね」
「…………いいえ、貴女がご無事なら、私はそれで……」
「じゃあお詫び、っていうことじゃないけれど、貴方に渡したいものがあるの」

 様はいそいそと立ち上がって、隅の机に置かれていた白い薄紙の中から、淡い紫色の、小さな花びらを私の手のひらに取り出してみせた。姫菫のようなその花は先ほど採られたばかりのようで、まだその花弁の先をぴんと伸ばしている。意図が読めずに黙っていると、様はいつもと同じ明るい顔をして微笑んだ。心臓がどくり、と跳ねる。

「このお花で押し花を作ろうと思って。栞にしたら、六郎にあげるわね」

 このような愛らしい笑顔を目にしていると、本当に様に大きな怪我がなくて良かった、と安堵せざるを得ない。この笑顔が蔭るとき、私はきっと一つの太陽を失うのだ。私に贈り物をくださろうとする優しさも、私を安堵させるためにしてくれる気遣いも、すべてが心地よく、心から望んでいたなによりの、想いであるように感じられる。思い上がりでもいい、この方はその心の隅に、私のことを――――、たとえそれが、ほんの少しであるとしても。

「完成するまで黙っておこうと思ったんだけれど、やっぱり私って、だめねえ」

 幼くて頼りなさげで、でも優しくて、たまに驚くほど、大人びた顔をする。私の主は、いつも私に心配をかける困った方々だ。けれどそんなこともすべて許してしまえるほどのものを、私にくれる。だから愛おしく、護りたいのだと。せめて微笑みを返すことで、それが少しでも伝わればいいと思った。




すみれの栞 (120409)























「貴方が何を考えているのか、分からないわ」

 赤い目に見つめられると、心臓が奥から焦れて行く感じがする。その人は気がつけば真後ろに立って、いつも私を驚かそうとして現れた。黒装束の腕で掻き抱いたり、爪先で耳を引いたり。私が小さく悲鳴を上げるのを、いつも面白がって見ているのだ。からかわれているだけなのか、それとも本当に私の命を狙っているのか、分からない。これもすべて彼の作戦のうちなのかもしれない。

「知りたいのなら、教えてさしあげましょう」

 強い力で手首を捕らえられて、そこから鼓動がどくどくと脈打っていくのが分かる。会うたびに私の言葉はなめらかになって、彼の表情は豊かになっていった。こんな風につくられていく関係に、一体何の意味があるのだろう。

「貴女の周りにあるもの全て、ぶっ壊してあげるつもりです」
「…………!」
「外の世界を知りたいでしょう? 私が教えてあげますよ。全てを壊したあとにね」

 甘くやさしい声が私の上から囁かれる。大きな手に込められる力は強くて、振りほどけそうにない。忍であるらしいこの人に、私は武器を取られるまでもなく捕らえられてしまうだろうということは、最初から明白だったことだ。私は非力で、弱くて、男の人を相手にしてまともな抵抗すら出来やしない。やはりこの人は近づいてはいけない存在だったのだ。私は初めから間違いを犯していた。だとしたらこれほど辛いことは、ない。

「駄目よそんなこと……離して……」
「聞けない言葉だ」
「ここにいる皆を傷つけたりしたら、私、貴方を許さないわ……」

 その人は私の手の甲に口付けをして、鋭い赤い瞳でまっすぐに私を見つめる。どうしようもない後悔が胸を支配する。初めから触れなければ良かった。このような結果を招くことを、私は心のどこかで気がついていたのに。

「どうして泣くんですか?」
「分からない…………でも、悲しいの」

 私は自分の感情に押し負けて、自ら傷つくほうを選んでしまった。後戻りは出来ない。思いが消えてゆくこともない。相容れない相手を目の前にして、気丈なままでいる勇気が、私には欠けているのだ。


「…………本当に、あの日に攫ってしまえばよかった」


 頬に伸ばされた爪先にひるんで目を瞑ると、それは流れた涙の一粒だけをぬぐって、すぐに離れる。瞳を開けるとそこにもう彼はいなかった。彼の声はいつも、私を脅かすためにあるのではなかった。不釣合いなほど穏やかで、私の内側を探す甘くやさしい声。




刺す想い (120325)























 おっさんの誘いで酒盛りをしてきた。屋敷に戻るとが、水差しを持って俺を迎え入れてくれる。おかえり、と言って微笑むその顔を見ていると、心臓の奥のほうが熱を持っていくように火照った。今になって酒が利いてきたみたいだ。酒になんて少しも酔っていなかったはずなのに、おかしい。

「みんながお酒を飲んで帰ってくるっていうから、待ってたのよ」

 俺の顔を覗き込むようにして、は近づいてくる。居心地悪くてつい目を逸らすと、はいぶかしむような目をして、小首をかしげた。

「才蔵、全然酔っていないみたい。本当にお酒を飲んだの?」

 …………忍の俺が、酒に酔うことはほとんど無い。そんなことも知らないはやっぱり、俺のように闇に生きる者とは、違う世界に生きているのだと思い知らされる。闇を知らないから、そんな風に笑えるのだ。俺とのあいだには果てしない距離がある。この頼りない溝を埋めたいと思ってしまうのは――――、ただ俺が、弱いせい? だとしたら腑抜けになったみたいで、少し癪だ。

「でも顔が、少し赤いわね。やっぱり酔ってるのかも」

 は俺を心配しながら、からかうように笑う。今日の俺はやっぱり変かもしれない。気がつけばそれに手を伸ばして、引き寄せていた。ちっぽけな細い腕。少し力をこめて、胸に飛び込んできたの小さな肩を抱きしめると、困惑したが声にならない声をあげる。俺は素直にかわいい、と思った。細い身体もやさしい声も、柔らかい髪の毛だって、このまま全て俺だけのものにしてしまえたら、どんなに、いいだろう。

「…………悪い」

 口ではそう言いながら、腕を放すつもりにはなれなかった。外は夜で、部屋には俺とのふたりだけ。誰にも見られない。いまこの瞬間くらいはを独り占めしたい。突き放されるかもしれない、と思えば少し怖かった。けれどそれならそれで、俺は馬鹿な考えをひとつ、捨てられると思ったのだ。

「才蔵、お酒の飲みすぎよ」
「…………別に、酔ってねーよ」
「私が介抱してあげるから、今日はもうお休みなさい」

 それまで傍にいるわ、と。は突き飛ばすのではなく、俺の背に手をまわして、ぎゅうと抱きしめ返してくれた。無性に泣きたくなるような、胸がちりと焼けていくような、そんな痛みがあった。この手を離せない。他の誰でもない俺の傍に、がいる。




酔っ払い (120423)























「こんな所に居たら落ちますよ」

 背を押され、体勢をくずしたのを、後ろにいるその誰かが強く抱きよせて止めた。

「貴方が押したんじゃない」
「そうですねえ。鈍臭そうだなと思ったらつい」

 戯れる子どものような声色で、彼は笑ってみせる。顔だけ振り返ると赤い瞳と視線がかち合った。顔の半分は相変わらず隠されたままだけれど、彼が穏やかな笑顔を浮かべてるのが分かる。

「もう来ないのかと思ったわ」
「どうして?」
「だって、貴方は私たちの敵なんでしょう?」
「貴女が来るなと言うのなら、もう来ませんよ」

 胸の奥がちくりと痛んで、目を逸らす。願いならある。叶うかどうかは分からないけれど、言う価値くらいならあると思う。

「誰かを傷つけるためになら、もう来ないで」

 彼がどんな顔をしているのか、見えないから分からない。でも伝えるのを止めようとは思わなかった。ただからかわれて、遊ばれているだけだとしても、私の言葉に耳を傾けてくれる限りは、彼を拒むことはきっと出来ないから。

「でも他の理由があるなら、来てもいいわ」
「…………ふうん。たとえば?」
「たとえばって……」

 おかしなことを言い出しそうになって、口をつむぐ。私を捕らえる彼の腕の力はひどくやさしい。どうやら力ずくで連れ去るつもりは無いらしい。私は脅しに乗るつもりはないし、この城にいる皆を守るためなら、危険を冒すことだって躊躇ったりしない。彼はそのことを分かった上で、私に話しかけているのだ。

「貴女が私に会いたい、と言うのなら、考えてもいいですけどね」

 私の耳朶に噛むような口付けを落として、その人は不意に姿を消した。桜の花が散っていくのによく似た余韻が残る。私たちは一体何を期待しているのだろう? 望む未来が来る可能性は、とても低いはずなのに、互いに手を伸ばすのをやめられずにいる。愚かだと分かっている。けれどあの桜の木の陰に、いつもあのひとが、いるような気がしてしまって、私は。




捕らえる (120326)






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