まぶしくて息をしている | 凛の幼馴染 (140629~140711)

01 鮫柄にて
02 鮫柄にて
03 地区大会にて
04 地区大会にて
05 地区大会にて
06 夏祭りにて
07 県大会にて
08 県大会にて
















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 鮫柄のプールは校舎の影になっていて、校門を曲がって左、路地を進んでいくと、ひっそりとした通用口があるからそこで待っていろと、やたら命令口調の凛から電話が来たので、おとなしく従って入口に座って待つことにした。鮫柄は男子校だから、きっと凛は色々と気をつかっているのだ。制服のままで来てしまったから、放課後とはいえ生徒は多くて、たしかに少し目立ってしまった気もするし。肩身が狭くて、膝をかかえて座り込む。凛、早く来ないかな。ぼうっと街路樹なんかを見つめていると、人影が見えてはっと顔を上げた。
「ん? 君、どうしたの」
 オールバックで、真琴くらい大柄な男の人がわたしを見下ろしている。邪魔なのかと思って、慌てて立ち上がると、「ああ、いいよ」と思ったより優しく笑ってくれたから、少しほっとした。もしかして水泳部の人かな、凛と同じジャージ着てるし……よく見ると、背中に水泳部、と書いてある。きっと3年生の先輩だと思う。大きくて、なんとなく雰囲気も大人っぽい感じがする。
「あ、あの……人を待っていて……」
「人? って水泳部のやつ?」
 そのひとはきょとんとして、不思議そうに首をひねって心当たりを考える。
「君みたいに可愛い彼女がいるやつなんていたかなあ」
 …………驚いた。まじめな顔してそんなことを言うからつい、えっ、と口を開けて呆けてしまう。か、可愛いって。そんなまっすぐ見つめられて言われたら、どうしていいか分からなくなってしまう。目をぱちぱちさせて見つめ合っていると、そのひとはぷっと吹き出して、おかしそうに笑った。
 あ、笑うと少し、あどけない……かも。
「そんなに驚いたかい? 悪いね」
「い、いえ! あの……」
「君の彼氏、名前は? 呼んできてあげるよ」
 わたしを通り過ぎて、そのひとはプールの中に入っていこうとした。彼氏じゃないんですけど、と微妙に訂正を入れようか迷ったけれど、それほど大事なことでもない気がして、松岡です、と小さく呟く。そのひとが名前を繰り返そうとしたちょうどそのとき、
! ……と、部長?」
 長い廊下を走ってきた凛が、わたしたちの間に割って入って、なんだかうやむやになってしまったのだった。



01 鮫柄にて
















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「松岡の幼馴染か! おい、こんな可愛い彼女がいるなら俺に紹介しろよ!」
「ちょっと……やめてくださいよ部長……」
 凛の肩をばんばん叩いて、そのひと――もとい部長さんは豪快に笑う。凜は迷惑そうにしてるけれど、その顔を見る限り、部長さんのことは本当に尊敬しているみたいだ。嫌な顔っていうより、どうしていいか分からない顔してるから。そんな凛を見るのも久しぶりで、部長さんの笑顔につられてぷっと笑ってしまった。
「お前も笑ってんなよ」
 だって、面白いんだもん。凛はもう鮫柄にすっかり馴染んでいるって、なんとなくそんな気がした。きっと部長さんのペースに凛が巻き込まれているんだろうな。
「俺たち別に、付き合ってるとかじゃないんで」
「へえ? まあ、いいさ」
 部長さんの誤解は本当に解けたのかな? 凛の話を聞いてるようで、聞いていないような、わりと大雑把なひとなのかな、と思う。
「ここじゃなんだし中で話せよ。時間には遅れんなよ、松岡」
 凛にくぎを刺して、最後にわたしに手を振って、部長さんはにっと笑って去っていった。
 なんだか本当に部長さん、って感じだなあ。たった十分話していただけだけど、頼りがいのありそうな雰囲気だったし、包容力を感じた。凛が懐くのも分かるっていうか。男らしくてかっこいいひと。
 後ろ姿をじっと見送りながらそんなことを考えていると、凜は訝しんだ目でわたしを見下ろして、おい、とその手のひらでわたしの頭を掴んだ。痛い。
「用あって来たんだろ、おまえ」
「あ、そうそう。この前借りたTシャツ返しに来たよ」
 バッグから取り出したショップ袋を引っ掴んで、凛はぶっきらぼうに受け取る。凛もたいがい男らしいタイプだけど、さっきの部長さんはもっとたくましい感じで……もっと大人っぽいっていうか。今まで周りにいなかったタイプだから、かな。こんなに気になるの。
「おまえ、あんまり一人で来るな」
「え?」
「危ないだろって言ってんの」
 校門まで送ってやると言って、凛はわたしの背中をせっつきながら帰るのを見届けてくれた。離れたところから手を振れば、控えめに振り返してくれて、姿が見えなくなるまでずっと見送ってくれる。凛は昔から変わらずに優しいなあと思う。岩鳶までの電車の中で、とりとめもなくそんなことを考えた。



02 鮫柄にて
















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「やあ。また会ったね」
 大会の控え室近くで声をかけられて、驚いた。振り返れば鮫柄の部長さんがこちらを見て、ひらひらと手を振っている。
「お、おはようございます!」
「おはよう。えっと、松岡の彼女さんだよね」
 えっ!?と困惑していると、部長さんはそんなこともお構いなしに「今日は応援頼むよ!」と朗らかに笑った。だから、彼女じゃないんですってば……。わたしが言いあぐねていると、後ろの集団にちらりと視線を送った部長さんは、わたしにこそっと耳打ちをする。大きな手が耳元に触れて、すこしだけどきっとしてしまった。
「あいつ最近、危なっかしいから。君が支えてやってよ」
 ……落ち着いたその台詞は、いつもの豪快な笑顔からは想像もつかないくらい、冷静で大人びて、凛のことをよく見てる保護者のようなそれだった。
 このひと、明るくて元気なだけじゃなくて、凛のこともちゃんと守ってくれてるんだ。そう思ったら急に、胸がどきどきと高鳴りはじめた。どうしてだろう、わたし。部長さんの顔を見上げると、優しい目と視線がぶつかって、鼓動がもっと早くなってしまう。
 凛のことをこうやって考えてくれてる人がここにもいることが、嬉しくてたまらない。それに部長さんが、思った通りの素敵なひとで良かった、なんて思っている自分もいたりして。
 じゃあね、と手を振られるまでぼーっとしていた。はっとして、その背中を引き止める。ええと、ええと。
「ぶ……部長さんっ!」
「ん? ……俺?」
 呼んでから気づいたけれど、そういえばわたし、部長さんの名前も知らないんだ。
「わたし、凛と付き合ってないです。あの……本当にただの幼馴染で……」
 だから、ええと。自分が何を言いたいのか、自分でも分からない。顔が熱くなってくる。部長さん、の名前を呼びたかったけれど、知らないから呼べない。焦りのようなじれったさが胸にくすぶって弾ける。
「その、ありがとうございます。凛のこと……よろしくお願いしますっ」
 目の前がちかちかするくらい、わたしテンパってる。でも、それだけは伝えなくちゃ、と思った。部長さんはきょとんとしていたけれど、すぐににこっと笑ってくれた。いつもの豪快な調子で、おう、と力強くうなづいて、部員のところへ戻っていった。
 たったそれだけのことなのに、なんだか嬉しかった。部長さんの名前が、知りたくて、わたしは急いで大会パンフレットを開いて彼の存在を探したのだ。



03 地区大会にて
















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「おまえ、また御子柴部長に話しかけられてただろ」
 ったくあの人は、江に対してもに対しても、見ればいつも軽い調子で話しかけるんだ。悪い人じゃないのは知ってるけど、幼馴染としてがちょっかいかけられてるを見るのは、なんか黙っておけないというか。俺の中ではも江と同じって言うか、姉とか妹みたいな感じだし。
「気をつけろって言ったろ。あのひと、江とかにも……」
「あ、で、でも、全然そういうんじゃないよ!」
 両手と首をふるふる振っては否定する。そんなに必死に弁明されると、余計に嘘くさいだろ、ばか。口説かれてたんじゃないならなんなんだよ?
「素敵な部長さんだね。み、御子柴さんって」
「はあ?」
 訳わかんねえ。まあ素敵というか、すげー部長だとは思うけど。部長はいったい、に何を言ったんだろう。見当もつかなくて訝しんでいると、はすこし頬を赤らめて、あのね、と声を小さくして、ぼそぼそと囁く。
「かっこいいなって……思った」
「…………は、」
「それだけ! じゃあ、頑張ってね、凛!」
 一人できゃあきゃあと騒いで、は走ってどこかへ走り去ってしまった。取り残された俺は、ぽかんとそれを見送って、言われたことを冷静にくりかえして考えてみる。
 かっこいい、って思った、って? ……御子柴部長が?
 本当に、部長がに何を言ったのかさっぱり分からない。がこんな風に誰かのこと、顔を赤くしながら話してるのなんて初めてだ。きっとはるや真琴にも見せたことない顔。俺たちはずっと幼馴染で、恋愛感情とかそういうのとは、遠い場所にいたし……。あんな顔、初めて見た。気恥ずかしそうで、泣き出しそうな、でもどこか嬉しそうな。
「…………え?」
 つまりどういうことなのか、誰か説明してくれ。



04 地区大会にて
















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 結果を残した大会のあとは気分がいい。ターンのときもっとタイムも縮められた気がするし、最後ストロークがすこし乱れたのが気になるくらいだ。次の練習の課題はその辺か。あとは似鳥のやつにタイムと調整のデータをもらって……。
 半分うとうと、ぼんやりとそんなことを考えながらバスに揺られているうちに、あっという間に鮫柄についていた。大会ってどうしてこんな風に疲れるんだろうな。精神的に削られていくんだろうか。あくび交じりにバスを降りて、荷物を背負いなおす。ふと顔を上げるとそこには御子柴部長がいた。
 ……さっきのことを思い出して、一瞬たじろぐ。、さっきの、どういう意味だったんだろう。
「なあ、松岡」
「はい」
 フォームについての指摘と、ストロークの乱れについては上がってからすぐに話をされたし、細かい反省は帰ってから、と言っていたけれど、もうその話をするのか、と思ってすこし身構える。
 部長がじっと俺の目を見たからぎくりとした。そんなに深刻な、
「おまえの幼馴染、可愛いな」
 …………。
「はあ!?」
 な、何を言うかと思ったらそれかよ?! さっきのといい、何なんだよ、どうしたんだよ急に! 俺が狼狽して取り乱すのもおかまいなしに、部長は腕を組んでうんうんと頷いている。何だよ、が可愛いって、んなこと……。
「名前は何ていうんだ?」
「な、名前? ですか? ……ですけど……」
「ほう、くんか。名前も可愛いんだな」
 立ち尽くす俺を置いて、部長は鼻歌交じりにすたすたと歩いて行ってしまう。大会の反省しなきゃいけないってのに、こんなところで心乱されてたまるかよ。頭を冷静にして整理しようと思っても、なんか上手くいかない。
 え、だからつまり、どういうことなんだよ!?



05 地区大会にて
















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 友達と合わせて浴衣を着て、いか祭りに向かった。
 お祭りに近づけば、匂いや音に引き込まれて気分が高揚してくるから不思議だ。いちばん最初に見つけたりんご飴の屋台でひとつ買って、人の流れに乗って屋台を見て歩く。浴衣のひとがたくさんいるし、お祭りの日にしか見かけないクレープ屋さんもあったりして、なんだか嬉しくなる。さっきははるや真琴ともすれ違って、浴衣を褒めてもらったし。おめかしして来て良かったかも。
、あっちでいか掴み大会やってるよ!」
 友達に連れられて行った先にはもう、だいぶ人混みが出来ていた。いか掴み大会はやっぱり人気のイベントなんだ。人がたくさんいるなあ、なんて思ってぼんやりしているうちに、隣にいたはずの友達がいなくなっている。
「あれ……? ゆりちゃん、どこ?」
 きょろきょろ探してみるけれど、見当たらない。ああ、こういうとき、もう少し背が高かったら周りが見えるのに……。
 いったん人混みを出ようと、振り返って進んでみる。せっかくきれいにアップにした髪ももうぼろぼろになっていて、人の群れから外れたところに一人で立って、浴衣や髪を整えることにした。ひとりになった途端、心細くなってしまうなんて、子供みたい。はあとため息づいて顔を上げると、まさか、本当にまさか、会うなんて思っていなかったひとの姿を見つけた。
「み……御子柴さん!?」
くん!」
 そのひとはぱあっと顔を明るくして、わたしのほうに駆け寄ってくる。え、え、うそ! そんな! わたし今、こんなにぼさぼさで、くたくたなのに。
「いやあ、まさか会えるなんて! 浴衣も可愛いね」
「そ、そんな、ありがとうございますっ」
 前髪を必死に整えるけど、頬の熱さは引いていかない。ああ、まっすぐ顔を見つめられない。私服姿の御子柴さん、新鮮でかっこいい……なあ。
 っていうか、わたし馴れ馴れしく御子柴さん、なんて呼んじゃってる。でも御子柴さんもわたしの名前、知っていてくれたのがすごく嬉しい。やっぱりおめかししてきて良かった。可愛いって、最初に会ったときも言われた気がするけど、今はもっと意味のある言葉のように感じる。
「って、君ひとりかい?」
「あ……友達とはぐれちゃって」
 ふむ、と御子柴さんは首をかしげる。後ろの方に、たぶん友達……か後輩みたいなひとが何人かいるけれど、わたしに構っていていいのかな。なんてすこし、不安に思っていると、御子柴さんはすっとわたしの横に立って、にっと笑った。
「じゃあ合流できるまで、俺が一緒にいてもいいかな」
「……え!?」
「変な奴らに声かけられたら適わないからな」
「は、はい……」
「……ま、本当は俺が一緒にいたいだけだけど」
 なんてな、と言ってはにかむ、豪快で、明るい御子柴さんの太陽みたいな笑顔。いつもよりすこし真面目なトーンで、大人びた雰囲気で、そんなことを言うからわたしは自分でも分かるくらい顔が熱くなって、その目をずっと見つめていられなかった。黙ってうなづけば、すぐ傍に御子柴さんの体温を感じる。となりにいてくれるだけで、こんなに心強くて、嬉しいなんて。
 ふと見上れば目が合って、どうしようもなく緊張してしまった。ああ、お祭り、来てよかった。ゆりちゃん、ごめん。しばらくは、はぐれたままでいさせてね。



06 夏祭りにて
















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 凛が今すぐ自販機のところに来い、なんて急かすから、人を掻き分けて走った。そんなに急ぎの用事って、なにかあったかな?少し不安にもなりながら、江ちゃんに一言告げて岩鳶水泳部の応援席から抜け出す。背泳ぎ200mの一試合目がスタートする笛の音が鳴り響いた、ちょうどそのときのことだった。
「凛、」
 鮫柄のジャージを見て慌てて声をかけてからはっとする。人もまばらなそのベンチの脇に立っていたのは、御子柴さんだった。今まさに自販機でジュースを買ったところみたいで、開けたばかりの缶に口をつけながら、わたしにひらりと手を振っている。くん、と名前を呼ばれて、心臓が一度どきんと大きく跳ねる。
「急いでるみたいだけど、どうかしたのかい?」
「え……あの、凛は?」
「松岡? さっきは更衣室にいたけど」
 ふしぎそうな顔する御子柴さんをと目が合ってようやく合点がいった。凛に、してやられたのだ。ここにわたしを呼んだのは、きっと御子柴さんと合わせるため……。そう気づいてから、なんだか恥ずかしくなって、適当にいえ、その、とつくろいながらうつむく。凛のばか。なんてことしてくれたの、もう……。
「松岡の応援に来たのかい?」
 見上げると、御子柴さんが少し寂しそうな顔をしているように見えた。気のせいではないと思う。なんて言っていいか分からなくて、とりあえず肯定することしかできなくて、はいと答えてから後悔する。ああ、もしかしてわたし、凛と会うためにここに来たって思われてる?
「君がいるなら、松岡も心強いだろうな」
 大人びた笑い方と、その横顔に胸がずきずきと痛くなる。違います、わたし、凛だけを応援しに来たわけじゃなくって……。
 聞こえてしまうんじゃないかってくらい心臓の音が大きくなって、胸元をきゅっと握る。何も伝えられそうにはないけど、勘違いしてほしくない。無性にそう思って、顔を上げた。その目を見つめてしまえば、もっと胸がどきどきしてめまいがしてくる。
「御子柴さん、…………あの、頑張ってください」
 わたし、応援してます、とつぶやいた声が震えた。おかしくはないだろうか。変な顔してないかな、髪とか、走ってきたからぼさぼさかも。つい視線をそらしてうつむいて、恥ずかしいのをごまかして笑った。ただこれを言えただけで、満足だ。頑張ってくださいって、ただその一言だけを、言いたかったのだ。
「……ありがとう」
 きっと御子柴さんは豪快に笑って、にかっと笑顔を見せてくれるのだと思っていた。それなのに帰ってきた言葉はこんなにも優しく、どうしようもなく特別で。もう一度目が合って、その頬が少し赤くなっているのに気がついて、わたしは驚いて、恥ずかしくてその場を走り去ってしまった。
 ああ、そんな表情、見せるのはずるいです。



07 県大会にて
















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 大会新記録を出したのだと、なぜだか伝えなければいけない気がした。無性に彼女の顔が思い浮かんで、プールサイドからその姿を探したけれど見つけられなかった。彼女は小さいから、きっとここからじゃ見つからないのだと言い訳をして、少し寂しく感じたのをごまかすように背を向ける。
 寂しい、って俺は、何を言っているんだろう。彼女は別に俺を見に来てくれたわけでもないのに。
「……部長?」
 部員に肩を叩かれてようやく現実に立ち返った。ぼーっとするなんて、俺らしくない。せっかくいい結果が出たのに、何を気にしているのだろう。振り切るように顔を上げて、部員を引き連れて玄関ホールまで出る。するとふと見た廊下のむこうに、くんがいるのが分かって、やはり俺は自分の胸が踊るのを隠しきれなかった。
 彼女を見ると、心臓が高鳴るのはなぜだろう。俺はやっぱり、どうしても彼女に、今日の嬉しい結果を伝えなければならない気がする。知ってほしい。俺のことをもっと。
「……悪い。先に外、出ててくれ」
 先導を任せて、急いで彼女のもとに駆けていく。わだかまっていたのは、きっとこれが理由なのだ。彼女が俺に気づいて表情を変えたとき、わけもなくそう感じた。会いたい、話したい、と叫んでいるのは胸の内からで、俺の知るところではないのだ。
 くんは岩鳶のやつらと一緒にいた。そういえば幼馴染なんだった、と今更ながらに気がついて、なにも松岡だけが彼女の特別ではないのだとようやく考え付く。少し楽になれた。俺の頭の中ではどういうわけか、松岡の存在が彼女の中に深くあるような気がして、怖かったのだ。
「やあ、くん」
「御子柴さん! あ、お、おめでとうございます。新記録」
 俺が言うまでもなく、彼女がそれを知っていてくれたことが、ただそれだけなのに、どうしようもなく嬉しかった。高鳴る鼓動は燃えるように、彼女の笑顔を見ればより大きくなっていく。ああ、これだ。彼女という存在が、こんなにも俺の胸を熱くさせてくれる。
「ありがとう。見ててくれたんだな」
「はい。もちろん」
「ところでくん」
「は、はい?」
 そっと取ったくんの手は小さく、今まで触れたなによりも大切なもののように感じた。
「よければこのあと、俺と食事でもどうかな」
「……え!?」
「どうやら俺は君のことが相当気になるらしい」
 後ろで岩鳶の連中が取り乱そうが、慌てようが騒ごうが、そんなことはどうでもよかった。目の前のくんが頬を赤らめて困惑しているその様子が、あんまり可愛いから俺は笑うのを抑えきれなくて、このまま抱きしめてしまおうかどうか、とても悩んだのだ。
「君のことをもっと知りたいんだ。くん」



08 県大会にて (140711)




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