その過去を売ってください





 朝、駅から学校までのバスに乗っていると、混みあった車内にぎりぎりになって誰かが飛びこんできた。柔らかそうな髪が風を受けてくしゃくしゃになって、ドアが閉まるなりだらしなく制服のボタンを開けた襟元をぱたぱたと仰いでいる。彼はバレー部の3年、わたしの小学校からの幼馴染の菅原孝支だ。音楽の流れるイヤホンをつけたまま、目が合った彼に口パクで「遅い」と苦言を呈すると、苦笑いをしたその口元が「悪い」と動くのが見えて、わたしは薄っすらとほくそ笑む。他愛のない時間だった。バスを降りてから、何事もなかったかのように隣に並んできた孝支がよう、とわたしの肩をせっついて、歩きなれた通学路を辿ってゆく。
「悪い悪い、寝坊しちゃった。」
「誘ったのはそっちのくせに、ほんとありえない。」
「いや、昨日なんか眠れなくってさ。」
 部活を引退してから、ずいぶんと時間を持て余しているらしい孝支は、それまで朝練のために早く登校していたのもなくなって、わたしに一緒に登校しようと何気なく誘いかけてきた。小学校の頃も中学校の頃もそんなことはなかったのに、今になってどうして一緒に登校する気になったのかは、よく分からない。ただ一人で、生徒の群れに混じって学校へ向かうのはなんだか寂しかったから、なんて適当な理由をこじつける孝支にそれ以上聞くことはとてもできなかった。
 特別な理由が欲しいわけじゃない、と謙虚なことを言うつもりはさらさらないけれど、特別な理由がないことを明確にさせたくはないのだ。十年ほどの時間を一緒に過ごしてきた彼にとって、わたしという存在がどういうものであるのかを、確かめるのは少し恐ろしかった。小学生のときはグラウンドでよく一緒に遊んでいた。中学生になってからは、離れたクラスから彼のことを眺めているだけだった。高校生になって、会話が前より少しだけ増えたけれど、何をしているのかはまだお互いによく知らないままだ。
 幼馴染だけど、たったそれだけ。わたしたちは子どもの頃の自分を知っているからこそ、高校生になって少しだけ変わった線引きをあきらかにするのは気恥ずかしいし、二人で居るときはどうしても昔の面影ばかりを探してしまうし、あの頃のように笑いあうことしかできないのだ。
 今さら取り繕うのもばからしい。孝支が何を考えているかなんて、昔から知らない。彼もきっと同じことを考えているのだと思う。だからこそ、どうして「一緒に登校しよう」なんて誘ってきたのか、まったく理解不能だった。
「そうだ、明日から数学の講習じゃん。前日課題やってる?」
「やってるよ。けっこう量あったし。」
「それ見してくんね? まだ全然終わってなくてさ。」
「えー? 自分でやんなよ。受験で使うんでしょ?」
「そうだけど、そう言わずにさあ。っていうか教えてよ! も復習になるだろ。」
 孝支は昔から人当たりがいい優等生のくせに、さらりと甘えるのが上手だ。嫌だと断っても「ちぇー」と唇をとがらせるばっかりで、きっと顔をしかめたりはしないのだろう。ごめんと言って柔らかく笑ってくれるはずだ。わたしはそう分かっているから、仕方ないなあと頷いて、彼のその清流のように通りすぎてゆくやさしさを捕まえてやろうと思った。
「じゃあ放課後、教室で教えて。」
「いいよ。どっちの?」
「あー、そっちの。俺が行く。」
 今までの十年間、孝支のことをこんな風に考えたことはない。ようやく埋まり始めた、幼馴染としての距離感を互いにはかりながら、昔の自分ならどんな顔をして笑いかけたろうかと思いを巡らせてばかりいる。
 孝支はいつの間にこんな風に大人びた笑い方をするようになったのだろう。わたしが知らないうちに、孝支は変わったのだ。昔よりも話し方が優しくなった。男子とか、女子とかそういう区切りに戸惑っていた時期も終わって、誰にでも朗らかな笑顔を見せるようになった。だけど孝支の中にいるのが十年前から変わらないわたしだとしたら、わたしはそれに準ずる存在で在り続けなければならないのだろうと、そう思えば何かが萎んでゆく感じがした。





 終礼のチャイムが鳴って、掃除も終わった静かな教室で席に着いていると、「よう」と我が物顔で教室に踏みこんできた孝支がわたしの前の席に腰かける。こんなことも、初めてだ。男子と、放課後に二人きりで勉強なんて、他の誰ともしたことがない。
「これやる。さっき旭にもらったんだ。」
 手のひらをぱっと開いて、机の上に小粒のキャンディがころころと散らばる。パステルのかわいらしい包み紙は、久しぶりに見たミルク味のソフトキャンディで、懐かしさにほんの少しときめきながらそれを手に取った。わけもなくお菓子をくれる、なんていうことを孝支がするとは少しも思っていなくて、わたしは怪訝に思いながらキャンディの包みをゆっくりと開く。食べてもいいんだろうか。なにか意図があったりする?
「どうしちゃったの。最近の孝支、なんか変。」
「変って。ひどくね?」
「だって、変なんだもん。」
 きっとわたしは変化してゆくこの距離感に戸惑っているのだ。決して嫌なわけじゃない。だけど今さらになって、面影のないものを、必死になって後追いしているような、焦りを感じる。漫画の幼馴染みたいに、ずっと一緒に過ごしてきたとか、特別な思い出があるとか、そういうわけじゃないのに、わたしたちは駆け足で思い出をつくりかえている。
 孝支は「うーん」と、考え事をするように天井を見上げた。体重をうしろにかけて椅子の足をあげて、バランスを保って、言うべきことを整理しているようだ。
「俺さ、ちょっと後悔してんだよね。」
「後悔?」
「うん。部活を引退してから暇になって、ちょっと考えてみたらさ、今まで気づかないふりして色んなこと無駄にしてきたなーと思って。」
 いったい何の話をしているんだろう。とりあえず続きを待ってみようと、孝支の声に耳を傾ける。やっぱり優しい話し方をする。穏やかで、胸をくすぐるような、今の孝支の声。椅子を座りなおして、孝支がまっすぐわたしの方に向き直る。机一つ分の距離で向かいあう、なんていうのも、わたしには初めてだ。
「……高校生活もあと半分だろ。だから、後悔したくないんだ。」
 芯の通った瞳にじっと見つめられて、心臓がドキリと音を立てる。色の白い肌に、印象を残すような泣きぼくろが、ふいにゆがめられて笑顔にかわっていく。その清流のように流れてゆくやさしさをわたしはまた掴み損ねた。孝支がその目にとらえているのは、決して過去の面影なんかじゃなくて、まだ形のない未来なのだ。
 目の前にいる孝支は、目の前にいるわたしを見ている。……そう気がついた途端に鼓動が速くなった。
「うん。まあ、そういうことですよ。」
「……分かったような、分からなかったような。」
「ははっ、いーよ、それで。」
 今はまだ。孝支が何を考えているかなんて、昔から知らない。彼もきっと同じことを考えているのだと思う。だからこそ、わたしたちの未来はどうにでも広がってゆくのだろう。淡いばかりの思い出は、もう売り払ってしまえばいい。特別な理由はそれから生まれてゆくのだ。
「明日こそ一緒に登校しような。」
「ちゃんと早起きしてね。」
「おう。頑張る。」




(160314) その過去を売ってください



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