海が始まるしるし





 友だちに肩をポンと叩かれて、振り返れば教室の出入り口には、見逃しようもない大きな人影が立っていた。
 リエーフだ。にこにこ笑ってこちらを見て、細長い腕をおおげさに振ってじっと黙っている。なんだか飼い主を待っている道ばたの犬みたい。応えるように一度だけうなずいて、荷物をまとめて立ち上がる。呼んでくれた友だちにお礼を言って、ドアのほうまで駆けよれば、大きな犬のしっぽが振り切れそうなくらい揺れているまぼろしが見えた気がした。


「おまたせ。」
「ううん。帰ろう、。」


 放課後になったばかりで、廊下には下校や部活の準備をしている人たちがいっぱいいる。それでもお構いなしにリエーフはわたしの手を掴んで、人の間をすいすい抜けて歩いてゆく。リエーフは背が高いから目立っているし、周りも避けてくれたようで、すぐに玄関へとたどり着いた。
 リエーフは恥ずかしいとか照れくさいとか、思ったりしないのかな。一度、手を離して向かった下駄箱からローファーを取り出しながらそんなことを考える。履き終わるころには、リエーフはもう準備万端でわたしを迎えに来ていた。


「早いねえ。」
「そう? でも、早くに会いたくて、急いだかも。」

 近づいたわたしの手を取って、自分のほうへ引き寄せる仕草もさりげない。当たり前のようにそんなことを言うから、照れる暇もなく笑ってしまった。リエーフは出会ったときからすこしも変わらない。素直で、まっすぐで、とっても可愛い。見上げても届かないくらいに背が高いのに、年下とは思えないほど涼しげで大人びた顔つきをしているのに、つい愛おしくなってしまうほど、彼は可愛いのだ。
 不便な距離も、お互いに埋めようと努力をしている。わたしがめいっぱいに上を向けばリエーフは屈んで、首を傾げてくれる。優しく耳を寄せてくれる仕草が、彼らしくてわたしは好きだ。
 ……ふとした瞬間にも、リエーフはじっとわたしのほうを見つめている。本人は気づかれてないと思っているかもしれないけれど、バレバレだ。だってリエーフの視線は痛いほどまっすぐだから。


「そろそろ首が痛くなってきた。」
「うん。じゃあ、その辺に座って話そう!」


 せっかく部活が休みだから満喫したい――と、リエーフは高らかに宣言をして、わたしを連れて河川敷のほうへと向かった。小学生くらいの男の子たちが数人、向こう岸で遊んでいるくらいで、人の気配はあまりしない。石段のすみっこに適当にバッグを下ろして、二人ならんで腰かける。本格的な夏が近づいた放課後には、ちょうどいい涼しさだ。


「部活が休みの日は、いつもなにしてるの?」
「なんだろ。先輩がたとか、クラスの友だちと遊びに行ったりしてるよ。」


 リエーフが思い出すように語ってくれるのは、全部楽しそうな遊びの話ばかりだった。黒尾くんたちとボーリングに行ったこと、カラオケではしゃいだこと。人の輪の中で、明るく振る舞っている彼のそれが本当の姿なんだって、その素振りを見ているだけでも感じ取れる。
 無邪気に笑っているリエーフを見ているとつい笑顔が移ってしまう気がする。つられるようにくすくす笑っていると、リエーフはいつものようにまっすぐな視線でじいっとわたしを見つめた。立って並んでいるときよりもその距離が近い。それでもずいぶんと上の方にある彼の瞳を覗き込めば、リエーフはすこし照れたような表情でそっと口を開いた。


「……だけどこれからは、といっしょに過ごしたいな。」


 ふとしたときに、こんなにも大人びた顔をして見せる。胸がどきどきして、ぐっと締めつけられる。小さく頷くだけで、わたしはいつものように言葉を返せなかった。リエーフ、出会ったときよりもずっと格好良くなった。きっとなにも変わっていないはずなのに、……変わったのはわたしのほうなんだろうか。
 ふだんは不躾なくせにリエーフは、たまに驚くほど勘が良かったりする。黙り込んだわたしに同調するように、不安げな顔をして首を傾げて、わたしが喋り出すのをずっと待っていた。健気だなあ、と思う。リエーフは、わたしに対していつも誠実で、まっすぐだ。


「……そのうち受験勉強で忙しくなっちゃうけどね。」
「うん。俺、応援するよ。部活も頑張るし――えっと、あんまり負担にならないように頑張るから。」


 だから、と言葉を詰まらせて、身を乗り出して真摯に伝えてくれる彼を見上げて、無性に嬉しくてたまらなくなった。ああ、リエーフはわたしの不安を、きっと同じくらい分かっていてくれたんだ。その優しい瞳が好きだ。きっとリエーフの見ている世界は、きらきら輝いているんだろうって思うから。
 その真ん中にわたしを映し出してくれて、見つめていてくれることが、何よりも嬉しい。向かいあっているわたしたちの間を、夏の風が通り抜けていく。肌をくすぐるうだるような暑さ。そんなこともすこしも気にならないくらい、胸がいっぱいだった。


「ありがとう、リエーフ。」


 手を伸ばして、リエーフの銀色の髪をそっと撫でる。さらさらと指の間をこぼれてゆく猫毛が心地よかった。驚いたように目を丸くする彼を見つめてくすっと笑みがこぼれる。じっと頭を撫でさせてくれる、長い手足を折りたたんで黙っているすがたが可愛かった。
 かと思えばおもむろにリエーフの手が伸びてきて、わたしの後ろ頭をやわらかく撫でた。大きな掌に捕えられて、彼のほうへと身体が傾く。腕、長いなあ。そしてやっぱり力も強い。近づいた距離のことを、意識すればするほど心臓が速く脈を打っていく。


「お返し。」
「……うん。」


 見つめ合ってすこしだけ笑う。しだいに彼の頬は赤くなっていって、熱いため息と共にぷいっとそっぽを向いた。離れていく手がなんとなく名残惜しい。頬を隠すように、小さな顔を覆った長い手指の間からこちらを見やったリエーフは、吐息のような声でぽつり、ああもう、と苦しそうに呟いた。


、可愛すぎるよ。」


 それは、こっちの台詞でもあるのに。色んな感情が溢れだしそうになるのを必死に堪えている。そういうのが、彼の素振りから伝わってくる。仕草、声、瞳から。同じように熱くなっていく頬が見られないように距離を詰めた。肩と肩が触れるくらいの近さに座っていたら、きっと此方を見られないだろうと思ったのに、リエーフはおもむろに身体を寄せて、すこし汗ばんだわたしの額にちゅっとキスを落とした。
 ああ、驚いて、心臓が止まるかと思った。地面に触れていた手がいつの間にか掬われて、リエーフの長い指に絡め取られてゆく。どうしようもない近さで視線をかわしながら揃ってうつむいた。
 世界がどういう風に見えているのかを、必死に言葉を探して伝えようとしてくれる彼の、きらきらした笑顔がまぶしくって目を瞑る。夏が来た。




(151228) ふたりの



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