追い付けぬ星に祈りを乗せて あなたの横で、こうやって何食わぬ顔をして歩く誰かのすがたを思い浮かべるとそれだけで腸が煮えくり返って、できるだけ苦しく死んでしまえばいいのに、とヘドロのような感情が心臓の底のほうをドロドロと溶かしてゆくのだ。 わたしの身体は彼とは違って有機物でできているからヘドロなんかにすぐ溶かされてしまって跡形もなく腐ってゆくと分かっている。きっと錆びることすらできずに形を失くしてしまう。ブサイクになっていく原因はこの腐った性根なのに、そう分かっているのにあらゆるものに嫉妬をせずにはいられない、自分の醜さをただ持て余していた。 好きなのに、格好良くて優しいジェノスくんが憎くてたまらなくなったりする。 たとえば買い物をした帰り道にすこし重たいなあと思っていると、そういうときに限って彼はわたしの前に顔を出したりするのだ。偶然、爽やかな顔をして「俺が持ちますよ」と有無を言わさず荷物を奪っていく、きっとこうして女の子に優しくすることに慣れていて、ありえないほど心拍数を上昇させていたとしてもそんなのも当たり前すぎて気にかけるほどのことでもないのだろう。 過去に一度、言ってみたことがある。ジェノスくん、あんまり優しいと勘違いする女の子が出てきちゃうよ。それはまさしく自分自身を指して言った諸刃の剣だったのだけれど、まるでお姉さん目線からのちょっとしたアドバイス、くらいのニュアンスで響いてしまってあまりの可愛くなさに自分でも驚いた。 きっともう無理なのだ。成人してウン年、好きな人の前できゃあきゃあと頬を染める初々しさは忘れてしまったし、お酒の勢いでムードを作りあげるなんて上級テクニックも使いこなせない、恋愛下手の喪女でしかない。つまらない。それでもジェノスくんは会うたびに優しく接してくれるしか弱い女性のように扱ってくれる。……幸せな勘違いをして浮かれているのはわたしだけだと分かっているのに。 もう、抗いようがない。どうせ他の女の子にもこんな風にして、わたしにそうするのと同じように荷物を持ってあげたり、階段や段差でさりげなくエスコートしたり、優しく微笑んだり気づかいをしてあげたり、しているのだろう。彼の整った笑顔が他の女の子へ向いていると想像しただけで身体の底を這うようにヘドロが湧き出てくる。ああ、だめだ。彼の隣にいるときはせめて、彼が守りたいと思ってくれるようなか弱い女性でありたいのに、こんな風に嫉んでいると知られたら、中身までもがブサイクだと知られたら、わたしは一辺に全てを失ってしまうのかもしれない。 ふと恐ろしくなることがある。ねえ、ジェノスくん、わたしは一体いつまで、あなたのことを想っていればいいのだろう。 「――そういえば来週、サイタマ先生とたこ焼きパーティをするのですが、よければさんもどうですか?」 「えっ。たこ焼きパーティ? タコパ?」 「はい、タコパです。さんもお好きなら是非。」 「うん……じゃあ行こうかな。たこ焼き好きだし。」 ジェノスくんはぱあっと微笑んで「良かった!」とおおげさに声を張りあげた。横断歩道の手前でこちらへ振り返って、さりげなくわたしと歩幅を合わせ直してとなりに並んでくれる、まるでジェントルな彼氏のように振る舞ってくれるジェノスくんにわたしはいっそ怒りさえ覚える始末だった。 ぶすぶすと燻るその擬音の通り、ブサイクな感情がうごめいて止まらない。中学の頃に初恋に破れたときの感情にひどく似ている気がする。手に入れたいのに手に入れられない、もうどうにもならない、不条理な痛みを覚えてしまったあのときからわたしには報われない恋愛人生へ甘んじるレールが敷かれてしまっていたのだ。 痛みに慣れてしまっている。こうであることがもはや普通になっていて、手に入らないものだと最初から諦めてしまっている。だって、ジェノスくんがわたしのようなふつうの人間にも優しくて、強くて格好良いヒーローであるということは、誰が見ても一目で分かる不変の事実だ。そんな彼がこんな普通以下のブサイクなわたしに好意を寄せてくれるはずがない。ああ、それでも諦めきれないから片思いというのは不条理なのかもしれない。 辛いなあ。ぼんやり彼のうしろを歩いて微妙な距離感を堪能しているあいだに、一人暮らしをしているわたしのアパートに到着した。一人暮らしを初めて数年になるけれど、忘れもしない、ジェノスくんとの出会いはZ市に越して来た初日に運悪く災害に見舞われて、右も左もわからず戸惑っているときに助けられたあの瞬間だった。 「さん、鍵を。」 あのときもこうして手を差し伸べてくれたっけ。 絶望的なシチュエーションの中でジェノスくんの存在が輝いて見えた。あの日からもうわたしの命運は決まっていたのかもしれない。さん、ともう一度うながされてようやく妄想から戻ってきたわたしは慌てて鞄の中を漁って、てきとうなキーホルダーのついた鍵を取り出す。ジェノスくんはそっと受け取って鍵を開けてくれた。荷物を運んでくれたお礼にお茶でも、とあともうすこし引きとめたい一心で誘ってみると、なにも分かっていないジェノスくんは素直に頷いて、まんまと部屋の中へ誘いこむことに成功した。 だからって別に、何かがどうにかなるわけではないけれど。そうではなくって、ようは、あとどれくらい前に進めるかという話なのだ。あるいは後退するか、転回するか。あの日助けてくれたお礼なんかもうとっくに済ませているし、ぼんやりと友人関係を築いていること以外にジェノスくんとの間に絆はないのだ。悲しいことに、彼はヒーローでわたしはただの一般市民に他ならないのだから。 「ウーロン茶で良かったら、どうぞ。」 「ありがとうございます。お構いなく。」 わたしの部屋の中にジェノスくんが居る、という状況がなんだかシュールだった。違和感はあるけれど緊張感はない。脚の低いテーブルに膝を追って座りながら休憩をして、一息ついてからとりあえず買ったばかりの生ものや牛乳なんかを冷蔵庫にしまった。 しかしつまらない部屋だ、きれいでも汚れているわけでもなく、申し訳程度の女性らしさが詰まっているぶんかえって気恥ずかしくなるような。ちらと彼のほうを見やると機械の首がぱきりと音を立ててこちらを向く。目が合った。ジェノスくんは咳払いをして、「あの」と切り出す。 「来週のことは追って連絡します。その、サイタマ先生が、さんを誘ってみてはどうかと、おっしゃっていたので。」 「うん。ありがとう、楽しみにしてる。」 にしても懐かしいな、タコパ。学生時代に一人暮らしをしている友だちの家で何度かやったことがある。お金がなかったからタコを買わずにウインナーやチーズで代用したっけ。なにを入れたら美味しいとか、こうしたら良いとか、しょうもないマメ知識をつぶやけばジェノスくんは思いのほか食いついてきて、興味深そうにわたしの話を聞いていた。そんなにタコパが楽しみなのか、可愛いなあ。 しばらくそうしているうちに、ふと時計を見やったジェノスくんはサイタマくんの夕飯を作らなければならないからお暇すると言って立ち上がった。主婦みたいだ。しかし彼を玄関先まで見送る、まるで付き合っているカップルのような光景に思いを馳せたり妄想を膨らませたりしたけれど、ヘドロのような片思い根性が顔を覗かせないように必死におとなぶったふりをして微笑むだけにとどめておいた。 本当は叫びだしたいくらいなのに。ジェノスくん、好き。大好き。ぐっとこみ上げる感情を飲みこもうと首を上向ければ、ずっとこちらを見つめていたらしい彼の黒い瞳と視線がぶつかる。一体いつから見られていたんだろう。うろたえすぎて、あっ、じゃあ、気をつけてねとコミュ障のような不自然な切口で笑いかけてしまった。辛い。 「……あの、前から思っていたのですが、」 一度は開きかけた玄関のドアが、ばたんと音を立ててもう一度閉まる。彼の手がドアノブを離れてわたしのほうへ伸びてきた。玄関は一段、低くなっているから、背の高い彼とようやくちょうどいいくらいの身長差になる。わたしの上目遣いなんか、キョトン顔なんかすこしも可愛くないだろうけれど、すこしくらい彼が騙されてくれたらいいのに。なんて、次から次へとヘドロを生み出すわたしの胸中を知ってか知らずか、いや知らないジェノスくんは、か弱い女の子のふりをしたままのわたしの手首をつかまえて自分のほうへグッと引き寄せた。 「さんは不用心が過ぎます。もっと警戒したほうがいい。」 「……ジェノスくん?」 「俺が何にも考えてないと思ったら大間違いですよ。」 分かってます、全部、なにもかも。 きめ細やかな素肌が残った彼の頬が近づいて来たかと思えば、その瞬間に唇に柔らかい温度が触れる感触があった。わたしの身体はぜんぶ有機物で出来ているはずなのに思考回路がショートして火花を散らせるビジョンが浮かんだ。どういうこと。ああ、わたし今、たまらなくブサイクな顔をしている自信がある。 「……あなたは、こんなに可愛いです。我慢が利かなくなるくらいに。」 「あ……あの……、」 「だからもっと自覚を持ってください。こんな風に男を部屋に招き入れるなんて、危険です。無防備すぎます。」 吐息がかかるほど近くにある、彼のサイボーグの身体よりも、有機体のわたしの身体のほうがよっぽど比熱が高いんじゃないかと、沸点を超えた身体がドロドロと溶かされてゆくのを受け入れているうちに視界がブラックアウトした。見つめ合っていたはずの距離がまた縮められて、今わたしはジェノスくんの腕の中にいる。 「さんが好きです。俺に、あなたを守らせてください。」 ――いったい現実に何が起こっているのかにわかには信じがたい。 だけど身体は中身が抜け落ちたようにふわふわと軽くなっていく。もしかすると、わたしの心臓を巣食っていた醜く重たいブサイクなヘドロたちは、どんどん溶けだしているんじゃないだろうか。ジェノスくんの金属の熱にあてられて。もしかして彼の目にわたしはすこしだけ可愛く映っているのかもしれない。そうだといい。 わたしもジェノスくんが好き、と、阿呆のようなボキャブラリーで呟けば彼は力加減を知らない腕でギュウとわたしの身体を抱き寄せた。この痛みこそが幸せなのだろうか。慣れない痛みだ。たまらなく不条理で、理不尽で、どうしようもなく幸せでくるおしいほどのこれが。 (151226) きみは星よりもずっと先にいる |