ハレー彗星よりきっと速く





「えっ。突き指したの?」


 俺がずいっと差し出した手の平に、は触れることはしなかった。ただ文字通りの腫れものを扱うようにまじまじと眺めて、小さな眉間にしわを寄せている。いつも穏やかに微笑んでる表情が、俺のために歪んでいると、そう思えばなぜだか特別感みたいなものが胸に広がっていく。なんでだろう、が俺よりもずっと辛そうな顔をして心配をしてくれるのが、たまらなく嬉しく感じるのだ。
 うん、と頷いた声はすこし弾んで響いた。中指はずきずきと痛むけど、きっとすぐ治るから大丈夫。部活を見学中、転がったバレーボールを取りに外へ下りれば、ちょうどが通りかかったのはもはや運命だと俺は思う。


「バレー部でも突き指するんだ。」
「黒尾さんが言うには俺、まだ初心者っぽいから。」
「っぽいって。だけど、上手くてもやっぱり、怪我はするんだよね。」


 しばらく安静にしていろと言われた俺はここ数日、身体を持て余している。部活中も練習に混ぜてもらえないし、ボールに触りたくってウズウズするし、ランニングや筋トレだけじゃ毎日が全然物足りないのだ。
 は持っていたジョウロを端に置いて、石段に座っていた俺の隣に腰を下ろした。一緒に座ってくれるとは思わなくってつい、胸がドキッと鳴ってしまう。小さな足、膝のうえに揃えられた華奢な手。肩も首も細くって、俺とは全然違う。中途半端に浮いていた手の平をとっさに引っ込めて、と同じように膝の上に乗せた。
 なんだか今更になって緊張する。じりじりと日差しが暑く照りつけて、は困ったようにそれを見上げて、薄っすらと汗をかいたこめかみの髪を耳にかけた。


「早く良くなるといいね。夏休み始まったら、合宿があるんでしょ?」
「……うん。」
「リエーフの指は長いから、ぶつかったら折れちゃいそう。」


 地面にかざすように広げた俺の手を、が覗きこんだから、自然と距離が近づいた。すぐ傍に座ってこうして見下ろしていると、色んなものがよく見える。伏せられたの睫毛が長いこと、耳の縁に小さなほくろがあること、柔らかそうな桃色の唇が潤んでいること。ふいに顔を上げたが、丸い瞳のまんなかに俺を映しているのが――――嬉しくて胸がドキドキと高鳴ってしまうこと、とか。
 思わずのどが詰まるような感じがして、大きく吸いこんだ空気がため息のように出て行った。酸素はすこしも補給されない。それどころかもっと苦しくなって、指の先まで神経がふるえている。そういう気がした。
 ふと浮かんだの手の平に、ほとんど無意識に手指をすり寄せる。水遣りの途中で、すこし濡れている、冷たいそれをあたためるように小指を絡ませる。薬指も中指も、俺の手に比べると子どもみたいに小さくって、手の平のなかにすっぽりと収まった。
 肌がこすれるほどの距離。あともうすこし近づけば、睫毛や鼻先が触れてしまいそうだ。


「……、おまじないをして。」
「おまじない?」
「早く治りますようにって。」
「どうやって……。」


 色の白い頬が、すこしだけ赤らんで見えるのは気のせいかな。俺の願望、かもしれないけれど。
 ぱちりと瞬きをしたその拍子に顔を近づけて、引き結ばれた小さな唇に自分のそれを押しつけた。ただ触れるだけで、俺の全部が満たされていく感覚があった。の唇は小さい。温くて、やわらかい。もっと触れたい、と思えば途端に手に力がこもった。
 目の前では驚いた顔をしている。目を見開いて、間近にいる俺のことをじっと捕えて、はっと息を吸いこむ音がちいさな聞こえた。


「リエーフ。」
、好きだよ。」


 好き、大好き。俺はの瞳を覗き込んでただそれだけを何度も何度も伝えた。本当はもっと気の利いたことが言えたら良かったんだけど、を前にすると頭がオーバーヒートして、馬鹿正直な言葉しか出てこなくってしまうのだ。
 俺はのことが好き。初めて会った3か月前のあの日から、ずっとずっとのことだけを、可愛いって、抱きしめたいって、キスがしたいって、好きだって――――そんな風に想って来たのだ。


「年上とか年下とか、関係ないよ。俺はが好きだから。」
「う……うん。あの……。」
「俺と付き合ってください!」


 突き指のことも一瞬忘れて、の手をぎゅうっと握りしめた。いて、ああでも、あんまり力をこめたらの手のほうが粉々に砕けてしまうかもしれない。
 慌てた様子で俺を見上げているを見つめていれば、俺は色んな制御を忘れて、思いのままに抱きついてしまいそうだった。でも、嫌われそうだからそういうのは絶対しない。……勢いあまってキスはしちゃったけど、でも、があんまり近くて良い匂いがして可愛いから我慢できなくって。なんて情けない言い訳だ。
 それでもこらえきれない感情が俺の胸にある。腕を伸ばしたくなるのを必死に抑えて、もう一度大きく息を吸いこむ。苦しい、心臓の奥のほうが痛い。うまく呼吸がしにくい。


「いきなりキスしてごめん。でも、好きだって思ったら、我慢ができなかったんだ。」
「リエーフ……。」


 は視線をふらりと泳がせて、困った顔をしたあと、言いにくそうに唇をぐっと引き結んだ。ダメかなあ、なんて一瞬でも思っただけで心臓は針を突き刺されたみたいに痛くなる。ああ、なんか苦しい。やっぱり息ができない。この手、離したくないなあ。なにを言われたって、どうせ俺は諦められないんだから。
 じっと見つめていると、はゆっくりと息を吐きだして、一度だけ頷いた。決心したみたいな、そういう仕草。よく分からないけど、泣きそうになる。


「……すごいなあ。」
「え?」
「こんなにはっきり好きって言われたの、わたし、生まれて初めてだよ。」


 ぱっと顔を上げたは、笑っていた。丸い瞳を潤ませて、花みたいに綻ぶような笑顔を見せてくれたのだ。眉尻を下げてくすくす笑って、空いている手で恥ずかしそうに口元を隠している。の頬は赤い。目元も、涙のせいで。その照れた顔が可愛くて、俺の眉まで下がってしまう。


「わたしもリエーフのこと、好きだよ。」
「……! じゃ、じゃあ俺と、付き合ってくれるの?」
「うん。わたしでよければ。」


 後悔しないでね。
 小さな声でそう呟いたは俺の手を握り返した。突き指をしてテーピングをしていた中指に触れて、愛おしそうにそっと撫でてくれる。なめらかなその肌触りが心地よかった。掻き撫でるようにつかまえたその手に、指先にキスをして、もう一度ぎゅうと握りしめる。


「後悔なんかしないよ。」


 やっぱり真正面にしか答えを出せないけど。俺はが好きだから、どんなことがあっても、頑張るよ。馬鹿正直にでもぶつかって、絶対に諦めたりしない。だってに俺の世界を教えてあげたいから。
 きっと見せるのは簡単なのだ。ただどういう風に見えているのか、どんな色がついていてどんな景色が広がっているのか、そういう違いのことを確かめてみたくなった。俺たちが見ているどうしようもなく違う世界にも、もしかして同じ景色があるかもしれないだろ。


、もう一回、キスしていい。」
「……それはだめ。」
「な、なんで?」


 後でねと、が悪戯っぽく笑ったその瞬間、頭のてっぺんに痛みが走った。――――いってえ!
 これは、この痛みは、もしかして。舞い上がっていた浮力が一瞬で消え去って地面に打ちつけられるような感覚。恐る恐る振り返って俺は、全身の血の毛が引いていくのが分かった。


「リエーフ。部、活、中。」
「や、夜久さ―――!」


 ひいっと息を呑めば襟首を引っつかまれて、信じられないくらいの力でズルズルと引っ張られる。そんな、なんで、また前回と同じようなパターンなの!?


「おまえが学習してないだけだろ! 大声で恥ずかしいことしやがって!」
「だ、だって暇だったから〜〜!」
「あー!? 突き指したおまえが悪いんだぞ!?」


 泣いても喚いても、夜久さんが俺を離してくれることはなかった。体育館に連れ戻されながら、振り返ればは俺を見て、笑って手を振ってくれた。それだけで胸のよく分からないところがキュッと音を立てて、俺の表情筋は緩んでしまう。さっきまで触れていた手の平がまだ熱い。俺は名残惜しくって、思わずのほうに手を伸ばしていた。


、また会いに行くから!」


 うんと頷いて、待ってるねと、そう微笑んだはわけがわからないくらい可愛かった。ああ俺、もうダメかも。心臓が高鳴りすぎて、息ができなくなって、もう死ぬのかもしれないと、体育館に入るなりひざを折ってうずくまった。
 に告白して成功した。俺、に好きって言われた。ああ……。


「夜久さん……。」
「あ?」
「どうしよう、涙が。」
「…………良かったな。」


 幸せすぎて俺、今日死ぬのかもしれない。




(151204) むしろめっちゃ生きるけど!



inserted by FC2 system