オーロラソーダ





 トド松くんはいつも優しいのだ。
 バイト先のコーヒー店で休憩室にスマホを忘れてしまったとき、慌てて引き帰せばトド松くんが途中までわたしを追いかけて走ってきてくれていたことがあった。緑のエプロンをしたまま息を切らして、わたしを見るなりぱっと笑顔になって「これ忘れてたよ」と手渡して何事も無かったみたいに爽やかに去って行く。彼はバイト先で色々な嘘をついていた。K大の3年生でアウトドアサークルに入っているんだって、素直に信じ込んでいたわたしはさすがにショックだったけれど、トド松くんのそういう優しさまでが偽りだったとはとても思えなかった。
 トド松くんはいつも優しいのだ。ある日、交差点でバッタリ出会った。いつものようにラフでお洒落な私服を着て、ニットを被ったトド松くんが真正面にいた。お互い、あ、って顔をしてそう呟いた。彼はきっととても気まずかったのだろう。嘘がバレて居づらくなってやめてしまったバイト先での知り合いだから。だけど久しぶり、と笑えばトド松くんは同じように笑ってくれた。やわらかな色の服装が似合う彼の、フェミニンな雰囲気にピンク色のスニーカーがよく似合っていた。
 大学での講義が終わった帰り道で、このまま帰るつもりだと言えばトド松くんはわたしをお茶に誘ってくれた。前のバイト先でいつも話していたような距離感で、女の子に優しい穏やかな彼の誘いはあまりにも自然で、断る理由がなにも無かった。トド松くんの醸し出す空気は温かい。春みたいに爽やかで、男の子じゃないみたい。


「今はバイト探し中。まあ、ただのニートなんだけどさ。」


 落ち着いたカフェに入って向かいあうわたしたちは自然だった。キャラメルラテにスプーンを差しこんで、ホイップクリームを味わうトド松くんは相変わらず甘党で、仕草やまなざしがいちいち可愛らしい。
 トド松くん、カフェで働いているの、似合っていたのに。そう言ってしまうのは嫌味っぽいだろうか。視線がかち合えば、ねだるようなその傾きについ口元が緩む。トド松くんは聞き上手だ。話をうながして、素直な言葉を言わせるのが得意。やっぱり彼はとても優しいのだ。


「戻ってくればいいのに。……なんて、そんなの無理だよね。」
「あはは、さすがにね。でも、そう言ってくれるのは嬉しいな。」


 もう口を利いてもらえないかと思っていたから、とトド松くんは寂しそうに言う。


「嘘をついてごめんね。1回言い出すと、後戻りできなくなっちゃって。」


 嘘とはそういうものだ。彼の気持ちのことなんかわたしはすこしも知らないはずなのに、そうだよね、と知ったかぶりをして頷いてしまった。トド松くんのように優しい相槌を打とうと思ったのに、自分がそうするとなんだかうさんくさい。


「……トド松くん、六つ子なんだっけ。珍しいね。」
「え? ああ、うん。そうだよ、なかなかいないでしょ。」
「全員そっくりだったって、マナミちゃんが言ってた。」


 トド松くんのように優しく笑う男の子があと5人もいると思えばそれは贅沢のような気がした。物腰が柔らかくって、男の子じゃないみたいに可愛くって、愛嬌のあるこの顔があと5人分。それなのに彼はすこし気まずそうな顔をして苦笑いをする。
 クズみたいな兄弟だよと、珍しくあざけるような声でそう言った。男の子みたい、とすこしだけ思った。そういえばトド松くんは煙草を吸うんだろうか。休憩室ではいつも甘いものを食べていた気がする。お酒は、飲むんだろうか。そういうイメージがすこしも湧かなくって、さらりと流れてゆくような春の中に生きているひとのように感じていた。きっと、本当はそうじゃないのだろう。わたしはトド松くんのなにを見ていたんだろう。


さんはまだ、あそこでバイトしてるの?」
「うん。卒業まで続けたいなあって思ってるよ。」
「そっか、偉いね。僕もはやく新しいバイト先探さないと。」


 頬杖をついてため息をはいて、トド松くんはすこしの間を置いて、わたしの表情を覗き見る。丸い瞳がきらきらしている、愛想のよい可愛い笑顔がまっすぐにこっちを向いた。


「新しいバイト先見つけたら、さんに教えるよ。」
「えっ、ほんとう?」
「うん。この前は、何も言わずに辞めちゃったから。そのお詫びね。」


 それに、まだ僕とふつうに話をしてくれるお礼。
 トド松くんは寂しそうにそう言ってスマホを取り出した。連絡先、交換してなかったねと言って、連絡アプリのQRコードを表示させる。かざせばすぐに友達一覧のところに彼の名前が加わった。松野トド松くん。
 バイト先にいた他の女の子たちとは、こうして連絡を取りあっていたことをわたしは知っている。自分はその輪に加われないと分かっていたし、初めから期待してもいなかった。わたしみたいに合コンもしたことがないような、つまらない女の子は、相手にされないと思っていたから。……だからこそ彼のへだてない優しさが眩しかったのだ。


「僕こんなクズだけど、よかったら、これからもよろしく。」
「う、うん。わたしも、面白くないかもしれないけど、よろしく。」
「って、なんかお付き合いするみたいだね。……なんちゃって。」


 冗談めかして笑ったトド松くんのその言葉に耳まで熱くなった。笑ったふりをしてうつむいて、手の平で口元を隠す。ちらと見上げた彼の頬もすこし赤らんでいるような気がした。優しく笑う春のような彼の、そういう男の子のような表情が珍しくてつい見惚れてしまう。
 トド松くんはいつも優しいのだ。じゃあねと別れて、交差点を曲がった瞬間にはメッセージが届いた。また遊ぼうねと絵文字がついた可愛らしい文面と、ハートが飛んだスタンプ。ただそれだけのことでわたしの顔はまた燃えるように熱くなる。思わず、振り返りたくなった。きっと彼はもういないと分かっていたけれど、追いかけたくなったのだ。あのスマホを忘れた日みたいに。
 交差点を戻れば彼はすこしも動かずに同じ場所に立っていた。


さん、どうしたの。」
「いや。えっと、なんとなく、戻ってきちゃった。」
「実は……僕も、なんとなく動けなくって。」


 もうすこし一緒に居たいなって思っていたのだ。いつも優しい、きみのとなりにもうすこしだけ立っていたいって。




(151203) 憧れのきみだったんだよ



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