祈るばかり、ばかりの





 遥か東にある和の国は、僕の国とは違って四つの四季が訪れる色彩豊かな島国で、次節によってその様相をがらりと変えてみせる。春は淡い桃色の桜吹雪の舞う妖艶な国になるし、夏は取り囲む海が色鮮やかに輝くまぼろしのような国になって、秋は赤や黄色に紅葉した山々が荘厳さを醸し出すかすみのかかった国、そして冬には一面に雪化粧が施された白銀の国へと様変わりする。
 僕は昔から美しいものや可愛いものが好きだったから、年に四度行われる和の国での厳かな儀式に参加出来ることをとても光栄に思っていた。その日は和装をして、季節に合わせた着物をあつらえて帯を締める。帯締めにだって気を遣って色併せのよいものを選んでいる。僕が女性のような格好をしはじめたのは十歳になる前だったけれど、和の国の男性用の袴羽織だけは誇らしく美しいものだと認識していたのをよく覚えている。
 和の国には姫君がひとりいた。僕と同い年になる姫は黒く豊かな髪をうしろに結わえて、十二単という華やかな着物を着て、儀式の日にはいつもすこし離れたところに高座敷をしつらえてたおやかに座っている。彼女を隠すように屏風が置かれていたけれど、たまにそのすがたが垣間見えるのだ。おしろいを塗った彼女の頬は、城内に飾ってあった雛人形のように細く、また能面のように恐ろしく整っていた。

 僕は今まで、彼女より美しい女性なんか一度も見たことがなかった。幼い僕は彼女の横顔にうっとりと見惚れて、いつしか儀式なんかよりもよっぽど大切に彼女のことだけを思い返していたほどだ。自分や周りの人間とはまったく異なる作りをした、精巧な細工のような彼女の美しさに歯がゆいほどの憧れを覚えた。昔からのしきたりで、和の国の姫君は十五を過ぎるまで他国の異性との会話を禁じられていたから、ようやく彼女との顔を突き合わせての邂逅が叶ったのは、出会ってから実に五年以上もの時間が経ってからとなった。


「和の国へようこそいらっしゃいました。わたくし、と申します。どうぞよろしくお願いします。」


 なんていう名前の造りをした屋敷だったかは忘れてしまったけれど、彼女と面会を果たした広間は壁という壁がなく、開放的な柱の向こうに石造りの庭が見えて、鮮やかに色づいた紅葉が揺れている、ドラマチックな舞台のような場所だった。赤絨毯がやけにおどろおどろしい。けれどきらびやかな着物の裾を下ろして、膝の前に指を添える、彼女の所作からは恐ろしいほどの色香が感じられた。
 同い年とはとても思えない。うっとりと垂れた眦が僕を見すえて、ほんのりと笑みを浮かべる。その眼差しに僕は中てられてすっかり無口になってしまった。本当の僕はこんな風じゃないのに、まったく肩の力を抜くことができずにただ俯くことしかできなかったのだ。
 女性物の艶やかな着物を着ているけれど、本物の美しさを目の前にして僕はかえって恥ずかしいような気分に陥ってしまう。和の国が持つ独特の雰囲気と、その中で培われた気品、居住まいはとても僕には真似できるものじゃない。それなのに着物なんかを着て、調子に乗っていた自分が恥ずかしくってたまらなくなった。
 おじぎをして着物の裾を掴んだ顔を上げられずにいた。姫はそんな僕の名を呼んで、歌うような喋り口調で、楽しげに笑っていたのだ。


「美しい殿方でいらっしゃいますね。西洋のお人形さんのようなお顔立ちで、とてもうらやましい。華やかなお着物もよく似合っておりますわ。」


 ……僕を気遣ってくれたその優しさに救われた心地がした。ひとたび顔を上げれば柔らかく微笑む姫と目が合って、僕はまた身体の芯を鷲掴みにされたような緊張がひた走るのを感じて、ごくりと唾を飲みこむ。


「そのように、萎縮をしないで。わたくしも、殿方とお話をすることに慣れておりませんけれど……貴方ならば、なんだか気兼ねせずにお話できる気がしてるのです。」


 冷たいほどに整った色白の頬は、にっこりと笑えば赤みが差して、美しさのなかに年相応のあどけなさが混じる。僕はようやく詰まった息を吐きだしてすこしだけ表情を緩めることができた。苦しいほど厳かで、眩暈がするほど幻想的な世界で、時間の流れに逆らうようにおだやかに座って居る姫の様子に僕は何度も目を奪われた。
 この女性はどうしてこんなにも美しいのだろう。切れ長の瞳が瞬くたびに、赤い紅を差した小さな唇に、袂から覗く細い爪先に――――すべてに完成された美を見せつけられる。


「トルマリ様は、おなごと見間違うほどに可愛らしい。貴方ほど美しい男性とお会いしたことは、わたくしは今までに一度もありません。」


 どうかまた遊びに来てくださいと、頭を下げる動作にも気品が溢れていた。
 彼女――――との出会いは最初から最後まで気の抜けない舞台のようなものだった。ムーンロードに向かう途中に何度も溜息がこぼれたのは決して息苦しかったからじゃない。彼女の持つ閉鎖的な美しさのことが繰り返し何度も胸によみがえって、それを想うだけで心臓が止まる心地を覚えていたのだ。
 僕は恋に落ちた。屏風の向こうに座って居た彼女の微笑みを間近で見つめては、魂の抜かれるような感覚に眩暈さえ起こるようだった。僕が誰よりも、他のどの女性よりも美しくあろうと心に決めたのは――という清廉な姫君にただ見初めて欲しいと欲深いことを思っていたからに他ならない。
 美しい彼女の隣に座って、決して見劣りなどしないように。可愛いと、美しいと、ただ彼女に褒めてもらうために……。







「今日は豊穣の儀だから、橙の重ねにしたんだよ。どう、。似合っているかな。」
「まあ、きれい。とっても可愛いですよ、トルマリ。」


 縁側に腰かけて紅葉や銀杏が風に流れてゆくのを見ている。
 和の国の美しい季節の移ろいを、は愛していた。いつもこうして景色を見て空の遠くに想いを馳せるように瞬きをしているのだ。ゆっくりした、他の空間から切り取られたような雰囲気に僕は何度だって見惚れて、息を呑む。
 はあれから時を重ねてもずっと美しいままだった。それどころか儚さが増してゆくばかりだし、色香の漂うまぶしいほどの女性になったと思う。あと二年もすれば成人の儀と共にお嫁に行って、どこかの王子様の妃となるのだろう。それはきっと僕の暮らす宝石の国ではなくて、近隣の東国のどこかなのだろうと、僕は知っているけれどそれでも諦めることはできなかった。
 初めは美しいのことをもっと見ていたいと思っただけだった。それなのに逢う回数を重ねるたびに僕は彼女の持つ空気に引きこまれて、もう他の所で息が吸えなくなるほど虜になってしまったのだ。特別な魔力を持った宝石のようだと感じている。いとしいと想うたびに鼓動が早鐘を打つ。美しいものを、可愛いものを見つけては彼女に見せてあげたくなる――。そうして柔らかく艶やかな眼差しを傾けて、僕の名を呼んでくれたらいいと、そればかりを願ってしまうから。


「秋の風景に、貴方の華やかさがよく映えているようです。紅葉や秋雲はすべて、貴方の金色の髪や、宝石のような瞳を、より可愛らしく見せるために、あるみたい。」
「もう……はいつも、僕のことばっかり。僕はね、和の国の四季が好きだよ。その真ん中にいるが、他の誰よりも何よりも、美しくって可愛くって……素敵な女性に見えるから。」


 まあ、と目を見開いたはぱちぱちと瞬きをして、左手の袂で口元を隠した。照れたときはいつもそうやって、眉尻を下げてくすくすと笑う。その笑顔を近くで見られることが僕の幸せだった。はいつだって僕を可愛いと褒めてくれる。美しいと宥めてくれる。僕が本当に憧れているのはなによりもの精悍な美しさなのに、そんなことをすこしも知らないで微笑んでいるのだ。
 だから僕はいつだって素直な言葉をに伝えている。それなのに、歌うようにきれいな声を紡ぐは、どれだけの言葉を並べても簡単にいなして、裾を翻すように返してしまう。


を、僕の国の舞踏会に呼びたいな。西洋のドレスなんか着なくっていいから、はお気に入りの着物を選んで。僕はそれに合わせた袴を着るから。」
「それはとても素敵ですね。トルマリの袴姿、しばらく見ていない気がしますもの。昔、ずっと幼い頃、貴方はよく袴を着ていましたのに。」
「え……ああ、うん。僕、女の子の格好をするようになったのは、十歳になる頃だから。」


 と邂逅するよりずっと前の記憶だ。僕がまだ男の子の格好をしていた頃の話。僕らは顔も見合わせていなかったはずなのに、がその頃の僕を知っていたなんて驚いた。なぜ女装をするようになったのか、いつからしているのか――なんていう話をとしたことは今までほとんど無かったから、僕はつい前のめりになっての隣へと急ぐ。
 ぶしつけな僕を拒むことなく受け入れてくれる、その物腰や凛とした佇まいに、僕はやっぱり喜びのような高揚感を抱いてしまうのだ。が僕のことを一人の存在として、友人として――――あるいは異性として、真っ直ぐに向き合ってくれていることを実感できるようで、なんだか嬉しくなる。


「昔の僕のことを覚えているの。まだ袴を着ていた頃のこと。」
「ええ、覚えています。わたしは屏風越しに貴方を見て、貴方より美しい男性のことを、今までに一度も見たことがないと、思ったのですよ。」


 ドクン、音を立てて跳ねる心臓がいつしか喉を飛び出してしまうのではないかと、ばかみたいなことを考えた。だっては僕と同じことを考えていたのだ。僕は屏風の向こうにいる、お人形のようなを見て、本当に目を奪われてものが言えなくなってしまったから。ほど美しい女性のことを、僕は知らなかった。今でもだ。きっとこの先にだって、そういう相手は現れないのだと思う。


「僕もだよ。きみのことを、見ていた。ずっと。」


 いったい何から語ればよいのか、片思いに苦しんできた僕にはとても分からない。への想いをどんな風に抱いてきたのかなんて、本人を目の前にして言えるはずがないのだ。せっかく詰めた距離をすこしだけ離して、僕は縁側に腰かける。艶やかな鼻緒が目に入る。草履で踏んでいる白い砂利も、舞い散る銀杏の葉も、僕の想いなんかちっとも知りやしないくせに、ひどく美しく瞳に飛び込んでくるのだから胸が苦しくなる。


「梅が香を、…………」


 わずかに訪れた沈黙を破いて、がそっと歌を詠む。たった五文字のその言葉の、続きが気になってふいに横を見やる。は俯きがちに足元を見つめて、そっと首を傾げた。眉で切りそろえられた前髪がさらりと額を撫でる、赤みが差した真っ白な素肌、薄化粧の唇がまるで色づいて燃えてゆく紅葉のようだと思って、僕はなんだか泣きたくなる心地がした。


「貴方に出会ったのは春でした。梅の花のような人だと、思ったのです。」


 梅が香を、袖にうつしてとどめてば、春は過ぐとも形見ならまし。梅の花の香りを袖に移して留めておいてしまえたら、春が過ぎても、その香りが春を思い出す形見であろうに。
 ……美しく流れるような愛の告白に僕は赤面した。たまらず涙が溢れてしまいそうになって、唇を噛んで必死に堪える。だって泣いてしまったら情けないから。こんなにも美しい女性の前で、不細工な泣き顔なんて晒せるわけがない。
 かすみがかった秋の空は高くって、見上げても手を伸ばしても決して届きはしない。そういう空に舞うように色を付けてゆくのが紅葉なのだ。鮮やかに世界を切り取ってゆく、美しい赤色を僕は愛している。ずっとずっとこれからも、その色彩だけを追いかけて梅の花は咲き続けるのだ。

 諦めることなんかとても出来やしない、僕はのことを愛している。他の誰よりも何よりも美しいきみのことを、僕だけのものにしてしまえたら良いのにと望んでいる。紅葉が散ってゆく。今まで生きてきた中で最も美しい、きみとの秋がようやく始まるのだ。




(151022) 祈るばかりの恋でした



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