傷跡のファスナーを





 昨日は大丈夫だったかと、渚くんは朝いちばんに連絡をくれた。
 電車の中でゆらゆらしながらわたしは慌てて返事を打つ。早く返事をしないと、電車を降りたときに出会ってしまうかもしれない。わたしたちはたいてい同じ電車に乗っているのだ。ホームに降り立てばたまに渚くんがわたしを見つけて、元気よく駆け寄ってきてくれるから。
 だからこそ、駅で会えたらお礼を言おう、と思っていたのに、なんだか先手を打たれてしまったような気分だ。わたしがお礼を言い忘れていたみたいな感じ……。失礼な子って思われていたらどうしよう。わたしは別にお礼を言い忘れていたわけじゃなくって、ただ朝は時間がないから、渚くんに迷惑かなあと思ってメッセージを送るのを遠慮をしていたのだ。……なんてそんな言い訳らしい言い訳を、短いメッセージに打ち込むのはきっと無理だ。わたしはため息をつきながら、なんて返事をしようかと一生懸命に考える。
 大丈夫だったよ、ありがとう。いや、それとも、心配かけてごめんね? 昨日はプールサイドで貧血を起こして倒れたわたしは、保健室に運ばれて、そのまま迎えに来てくれた親の車に乗って帰った。抱き上げて運んでくれた渚くんにお礼のひとつも言えないまま、わたしは夜中まで眠っていたのだ。やっぱり朝、起きてすぐにメールを送れば良かったかな。江ちゃんにそうしたみたいに、気兼ねなんかしないで。
 なんだか悲しくなってきた。無難な返事を打ちながら、降り立った駅のホームは蒸し暑くて、よけいに気分が沈んでしまう。


 結局、学校に到着するまで渚くんに出会うことはなかった。別に毎朝、いっしょに通学路を歩いているわけじゃない。渚くんはたまに寝坊をしてギリギリの電車に乗ってくるし、わたしが一本早い電車に乗ったりするし。
 それでも、よく分からないけれど、渚くんとうんと距離が離れているような気分がした。さっき返したメールの返事はまだ来ない。昨日はありがとう、っていう気持ちをちゃんと渚くんに伝えられていない感じがして、もどかしいのだ。わたしはこんなに、感謝してるんだよ。だけど文面だけじゃ、そういうのを上手く伝えられない。
 息苦しさに顔を上げると、教室の入り口のところに、渚くんの姿が見えた。あ、と思わず声を出して立ち上がる。朝のHRが始まるまでまだ時間がある。わたしは渚くんの元へ駆け寄って、優しく笑う彼の表情を見てまたひどく胸の詰まる思いがした。


ちゃん。元気になった?」
「うん、渚くん、昨日はごめん。ありがとう、運んでくれて。重かったでしょ。それに部活も、」


 焦ってまくしたてるわたしを、渚くんはクスッと笑っていさめて、頭をぽんぽんと撫でてくれる。思いがけないそれに、心臓が大きな音を立てて鼓動した。


「大丈夫。ちゃんを抱っこするくらい、僕には簡単だよ。」


 部活だって気にしなくっていいよ。マネージャーさんがいないって後輩くんたちが残念そうにしてたけど、江ちゃんが全部やってくれたから。
 穏やかに笑う渚くんは、なんだかおとなっぽくて、わたしはしゅんと黙り込んでしまった。口をつぐんでいるとまた心配されてしまうかも。だけど目の前にいる彼のことをまっすぐ見上げることができなかった。
 渚くんやっぱり、背が伸びた。春から比べても、すこし目線が高くなっている。きっと。わたしはこれっぽっちも変わっていないのに。


「今日は……ちゃんと部活出るから。迷惑かけて、ごめんね。」
「うん、でも無理しないで。」
「も、もう良くなったの。大丈夫。わたし元気なのが取り柄だから。」


 我ながらしらじらしい、言葉だ。昨日は貧血を起こしてコロッと倒れていたくせに。言ってから後悔したけれどもう遅い。困ったような顔をする渚くんを見て胸がズシンと重くなる。
 朝のHRが始まるからと言ってわたしは足早に席へ戻った。なんだろう、どうして、こんなに気まずいんだろう。昨日や一昨日までは、渚くんとふたりきりで話していてもこんなに胸が苦しくなったりしなかった。
 迷惑をかけたから、だろうか。部活前にいきなり倒れて、動けなくなって、あげく泣いたりして。面倒をかけたのに渚くんは優しくしてくれるから。無償のそれに甘えたくなって、だけどそれをする権利はわたしにはなくて――――なんだか悲しくなってしまうから。





 1時間目の終わりに江ちゃんに会いに行って、昨日のことを謝ろうと思っていると、廊下でわたしを見つけるなり飛び込むように抱きつかれた。心配をかけてごめんね、と言えば江ちゃんは首を振る。今日の部活はちゃんと出るから、なんて言おうものなら無理しないで休んでなさいって怒られてしまいそうだった。


「元気に笑っていてくれたら、それでいいんだから!」
「……うん。」


 掛け値のない優しい言葉が無性に嬉しい。もしかして渚くんも、そう言ってくれようとしたんだろうか。わたしの思い上がりかもしれないけれど、彼の悲しそうな表情に理由をつけておきたかったのだ。わたしのことを面倒だと、呆れたと、そう言って諦めて欲しくなかった。わがままでどうしようもないけれど、迷惑をかけても、面倒をかけても、それで良いよと言って欲しかったのだ。


 どんな顔をして会おうかと思っているうちに放課後になって、わたしはHRを抜け出してすぐにプールへ向かった。渚くんがもういる気がして。はやる気持ちを抑えて塩素の匂いのあふれる扉を開ける。昨日とおなじ、まぶしい日差しの差し込むプールサイドには誰もいなかった。
 きらきらと反射する水面が涼しげで、わたしは息を整えながら素足でざらりとしたタイルを踏む。水をはじく床の、この感触が好きだ。なめらかですこしだけおうとつがあって、日差しをぜんぶ吸い込んでゆく白いタイルの上に立っているのが、わたしは好き。
 わけも分からず悲しくなってきて下唇を噛む。渚くんに会いたい。上手くできなくて、上手く言えなくて、ごめんって伝えたい。わたしはこんなにも感謝してるのに。


「――――わっ!」


 息を呑む。
 とつぜん聞こえた大声に飛び上がって、ぎゃあと悲鳴を上げて振り返れば、すぐうしろに渚くんがいた。


「な、渚くん……!?」
「走って行くのが見えたから。HR、抜けてきたの?」


 あ、うん、そう……呆然としたまま返事をして、乱れたままの前髪のことを思い出す。とっさに直す、けど自分がいまどんな顔をしてるのか分からない。
 渚くんはふとわたしを通り過ぎて、プールサイドにしゃがみこんだ。制服の裾からのぞいた乾いた素足が、妙に目につく。いつも水着姿をたくさん見てるはずなのに、アンバランスなそれがなんだか気恥ずかしく感じられた。
 忍び込んでいるみたい。入っては行けないような場所に。きれいな水面に、反射する光がまぶしくて目をそらす。渚くんはすぐに立ち上がってわたしのほうへ戻ってくる。彼を見やった、その瞬間に伸びてきた手がわたしの頬に触れた。
 冷たい。プールの水?


「水の中は涼しいから、夏の暑さも忘れちゃうんだ。」
「……渚くん。」
「でも僕、もう忘れないよ。」


 ひんやり濡れていた手のひらも、わたしの両頬を包むように触れてしまえばすぐに熱くなって、渚くんの体温が伝わってくるようだった。
 近い、まるで、キスでもするみたい。見つめ合いながらそんなことを考えてしまうわたしは、少女漫画の読み過ぎのようだ。じっと黙ってまばたきをしているわたしを見下ろして、柔らかく笑みを浮かべた渚くんは、離した両手をそのまま自分の頬に当てた。
 無性に、恥ずかしくなる。頬の熱を分け合うみたいで、わたしの体温をたしかめられているようで。


ちゃんは此処にいるんだよね。」


 水の中で、僕はきみのことを想って泳ぐから。
 まるで告白をされているみたいだ。うっかり泣きそうになって、ありがとうと言いたかったのに、わたしは色んな言葉を飲み込んでただ頷いた。ごめんねとか、そういう言葉を、渚くんはきっと望んでいないのだ。
 わたしは自分がいまどんな顔をしているのか分からなかったけど、頬が赤いことだけは知っている。くしゃくしゃの顔のまま笑って、渚くんを呼べば太陽みたいな笑顔で迎え入れられた。
 助けてくれてありがとう。優しさをくれてありがとう。渚くんは、どうしてこんなに格好良いんだろう。ここに渚くんがいてくれて良かった。目を閉じると涙が流れた。頭を優しく撫でて、髪を梳く指先に胸がドキリと高鳴って、気が付けばわたしの頭の中は渚くんのことでいっぱいになっていた。

 わたしは此処にいるよ。水の中を泳ぐきみのことを、想って此処に立っている。




(151120) ミントグラフを描く夏



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