ブルーブルーブルー いつまでも、すべて昔のまま、なんていうのは今どき物語でもありえない話だ。そういう夢物語を素直に信じて望んでいるのがなのだ。俺たちは昔から変わらない幼馴染のまま、ずっと一緒に生きていく。そんなことあり得ないって分かっているのに気づかないふりをして、なにかに目をつぶっている。 本当はすぐに壊したいと思っているのにできないのは、がなによりもそれを望んでいるからかもしれない。がこのままでいたいと望むなら、俺はできるだけそうしてあげたいと思う。あとどれくらい黙っていられるだろう。追いつけない背中ばかりに手を伸ばして、空虚を切るような思いにどれくらい我慢ができるだろうか、俺にも分からない。 いつもの日常と言えば水泳部での活動が中心だけど、俺たちはそろそろ進路についても考えなければならない時期に迫っている。はるは相変わらず向き合わないまま、俺も相変わらず、勇気を出せないまま。白い進路調査票を埋められずにバッグにしまいこんで、帰りのHRを上の空で過ごしていた。 水泳部のオフは金曜日だ。中間テストが近づいて、俺はそろそろテスト勉強への焦りを覚えている。水泳部で全国へ向かうという目標が一番なのはもちろんだけれど、きっともっとその先のことも考えていかなくちゃならない。なんて俺はあまり器用じゃないから、そういうのは苦手なんだけど……それでも赤点を取らないように努力をしなければならないから。 将来の夢、なんていう漠然としつつも重要な未来のことを考えるより、来週のテストの計画を練るほうがよっぽど楽なのはどうしてだろう。目先のことに囚われるのは簡単なことなのだ。積み重なる課題を一つひとつ片付けて行って、ただただ空っぽにしていけばいい。だけど将来の夢ばかりはそうはいかない――――1年後の自分のために今、なにができるのか、なにをしなくちゃならないのか、正解のない道を探して歩かなきゃいけない。空っぽにするんじゃなく、空っぽなところに一つひとつ積みあげて行かなければならないのだ。 逃避したい気持ちは痛いほど分かるよ。……なんて誰に言うでもないけれど、前の方の席に座るその背中を見つめて、はあとため息がこぼれた。 「今日もはるの家で勉強しよ? わたし、真琴に数学教えてもらいたい。」 「うん、いいよ。俺も英語の課題、に聞きたいところがあるんだ。」 はるは何度か頷くだけで、俺たちのやりとりを黙って聞いていることばかりだ。はるの家までの道のりを一緒に向かうのにも、特別いいとか悪いとか言うこともしないで、ただ黙っている。 の家は俺の家から坂をひとつ下ったところ、角を曲がった先にある。俺たちは幼稚園からの幼馴染で、今に至るまでずっと一緒に過ごしてきた。今更になって失えない、と思う。どんなときも、なにがあっても、俺たちはいつも3人で一緒にいたのだ。 はるの家について部屋に入った直後、はるはリュックを下ろしておもむろに立ち上がった。 「すこし出てくる。」 「えっ、どうしたの。」 「昨夜、松木のおばさんから電話が入ってたんだ。野菜が採れたから分けてくれるって。」 松木のおばさんと言うのは近所に住んでいる人の良いおばあさんで、一人暮らしをしているはるのことをしょっちゅう気にかけて、いつも夕飯や野菜をおすそ分けしたり、便利な家事グッズなんかを見つけると「遙くんのために」と買っていてくれる。はるはそのお礼に家の掃除とか、荷物を運ぶのとか力仕事を手伝っているのだ。 はるが直前までなにも言わないのはいつものことだから、俺とはいってらっしゃいとその背を見送って、はるの部屋でいつも通り勉強道具を広げて待つことにした。絨毯に出した小さなテーブルにノートを広げて、俺たちはそれぞれ課題に手をつける。昨日も解こうとして途中で止めた問題に引っかかって、――俺はふと顔を上げた。 うつむきがちなの睫毛が、途端に跳ねるように瞬きをする。、いまこっちを見てたのかな。すこしドキドキしながらも、俺は手元のB4サイズのプリントを指して「ここが分からなくて」とシャープペンで机を小突いた。 「どれどれ。……ああ、これ。わたしのクラスではもうやったよ。」 「そっか。なんかいまいち覚えられなくてさ。」 はいつも通りだ。やっぱりさっきのは俺の勘違いだったんだろうか。プリントをお互いに見やすいように置いて、顔を突き合わせるようにして覗きこむ。が持つシャープペンはすらすらと動いて、あっという間に解答の一文を導きだした。丁寧な解説をつけてくれたおかげで俺はすんなりと理解することができた。 「ありがと、分かった。、教えるのが上手だね。」 「ううん。真琴の真似してるだけだよ。」 「俺の?」 「真琴に古文教えてもらうとき、こうしてもらうと分かりやすいなあって思ってたから。」 はなぜか自慢気に笑う。俺はそれがなんだかすごく嬉しくって、つい頬が赤くなってしまった。教えるのが上手、と言ってもらえるのは嬉しい。勉強だけじゃなく、水泳も――いつも相手に分かりやすいようにって、それだけを気をつけて伝えるようにしていたから。 そのあとも何度かに教えてもらって、どうにかプリントを全部埋めることができた。は数学のテスト範囲をすこしずつこなしていって、分からないところを一緒に解いたりして、順調に進めていた。 はるはまだ帰って来ない。はしだいにそわそわしはじめて、「どうしたのかな」と心配そうにドアのほうを見たりする。ふたりきりでいることに浮かれていた俺は、そういう仕草を見てすこし胸が痛くなったりする。……こういうのはきっと、は望んでいないと思うけれど、仕方がないのだ。 「松木のおばさんに捕まってるんじゃないかな。色々頼まれたりして。」 「そうかも。はる、鯖缶に釣られたら断れないから。」 1時間くらい机に向かっていたからすこし疲れた。休憩しようかと持ち掛ければ、はバッグからお菓子を取り出して、パッケージを開いて机の上に広げてくれた。……女の子はこうやって、いつも鞄の中にお菓子を忍ばせているからすごいなあと思う。もクラスの女の子たちも。そしていつの間にか、がちゃんと女の子になっていることを、こうやって自覚してもどかしくなったりするのだ。 「はるの英語も見てあげたかったのに。」 「うん。はるも今回の課題、だいぶ困ってたはずだよ。」 「そうだ! 今日、泊まりで勉強会するのはどう? 金曜日だし。」 久しぶりにはるの家に泊まりたいなあ――なんて、楽しそうに声を弾ませてが言う。はるの課題も見てあげられるし、国語の範囲ももっと進めたいし、と指を追って計画をして、楽しそうに笑っている。 俺はそれに相槌を打ちながらも、どうしても笑うことが出来なかった。の無防備さに苛立ちさえ覚えて、つい歯噛みしてしまう。はきっとなにも考えていないんだ。ただ、それだけ。……そう分かっているけれど、俺はこんなに色々なことを考えているのにと思えば、たまらなく歯がゆくなってしまうのだ。 「……駄目だよ、そういうのは。」 「え……どうして?」 「どうしてって。呆れちゃうな。本気で言ってるの?」 思わず語気を強めてしまった。はっと顔を上げればは驚いた顔をして、じっと押し黙っている。今までの楽しい雰囲気が台無しだ。悪いとは思っても、なにも気にしないで笑うなんてこと、今の俺にはとても出来ないのだ。 子どもだなあ、俺。こんなこと考えてるなんてには知られたくない。はきっとはるのことが好きなくせにそれに自覚がないのだ。子どもの頃の感情を引きずって、その延長で一緒にいたいと思っているくらいで。だからこそ俺は、はるのことを探すなんか見たくないって子どもみたいに拗ねてしまうんだ。 情けない。 「――ごめん。俺、飲み物取ってくるね。」 重くなった空気に耐えきれなくてつい逃げてしまった。こういう結果にしたのは俺なのに、そこにを取り残してしまって悪いとは思ったけれど、どうしても顔を見ているのが辛くって。 はどう思っただろう。聞くのは怖い。はるのことを好きでもいいから、それでもいいから傍にいたい――なんて思っていたはずなのに、ここにきて自信がなくなってくる。俺はきっとのことを独り占めしたいのだ。はるじゃなく、俺を見てほしい。俺だけを見て、好きになって、恋人になってほしい……そんなことばっかり考えて苦しくなる。 が望むならずっとこのままでもいいって思ってたはずなのに。俺は悶々としたまま、勝手にはるの台所を拝借してふたり分のお茶の用意をした。静まり返った中でペットボトルのお茶が注がれる音だけがして、すこしだけ冷静さを取り戻す。部屋に戻ったらさっきと同じように――いつもみたいに笑って謝ろう。ちょっと苛々してたんだ、ごめんって、素直に言えばきっとは許してくれるはずだから。 「ごめん、お待たせ。お茶で良かったよね?」 はるの部屋のドアを開ければ、さっきまで机の前に座っていたはずのが、ベッドの脇まで移動してうずくまっている。小さな背中、もしかして震えてる? 、泣いてるの? 俺は慌ててお茶をテーブルに置いて、そっと近づいてみる。名前を呼んで肩に触れれば、は薄っすらと涙の滲んだ瞳で俺を見上げた。ああ、――どうして。 「、ごめん。あの、俺。」 「ううん、違うの、真琴。ごめん。なんでもない。」 「……。」 無理して笑って、は俺の手をすっと離れるようにして机に戻る。「お茶ありがと」とつぶやいてコップに口をつけた。 ……なんでもない、ってそんな見え透いた嘘、信じられるわけないだろ。俺がじっと見つめていればは観念したのか、目だけで振り返ってもう一度眉をしかめる。唇がへの字に曲がって、赤くなった頬がくしゃりと歪んで、はらりと涙を溢した。 の泣き顔を見るのは、何年ぶりだろう。小学生の頃はよく見ていた気がする。今のもあのとき同じ顔をして、心底悲しそうに泣いている。 「真琴、ごめん。怒るなんて思わなくて。」 「……うん。、俺が悪いんだよ。だから、泣かないで。」 「違うの。」 ひざをついて行き場を無くしていた俺の前に、はぺたりと腰を落として座りこむ。頼りないその仕草は子どものようで、昔のとまったく同じものだった。だけど表情や身体はぐっと大人に近づいて、抱きしめたら壊れてしまいそうなほど細くて華奢で、俺はどうやって触れたらいいのか分からなくなってしまう。 涙がぽたぽたと床に落ちていく。はうつむいたまま鼻を啜った。 「呆れたなんて言わないで。」 わたし、真琴には、嫌われたくないよ。 ……悲痛な声が、俺の胸をぎゅうと締めつける。嫌いになんてなるもんか。俺はおまえのこと、昔からずっとずっと好きだったのに。ずっとずっと、抱きしめたいと思っていたのに。 呆れられたくないと思っているのは、本当は俺のほうなんだよ。の手を取って、顔を上げさせようとすると、はいきなり俺に飛びついてきた。首に腕を回して、ぎゅうとしがみついて、叱られた子どものようにぐすぐすと涙を拭っている。苦しいくらいだけれど、すこしもいやじゃない。だってずっとこうしたいと思っていたんだ。俺はの背をそっと撫でながら、落ちつくまでずっと抱きしめていることにした。 「だって、真琴が怒るところ初めて見たんだもん。」 「いや……うん、ごめんね。」 「真琴ともっと一緒にいたいって思っただけだったのに。」 ああ、――この体勢でそんなことを言うのはずるいなあ。 もっと最初から向き合っていれば良かったのかもしれない。現状を変えることを怖れていたのは――失いたくないと我儘を唱えていたのは俺のほうだったのだ。本当はこんなにも傍にいたのだとようやく気がついた。 期待をしないでと言うほうが無理な話だ。こんな風に抱き合ってるところを見られたら、はるに驚かれちゃうかな。だけど、あともうすこしだけ、はるが帰って来ないでくれたらいい。どのタイミングで「好きだよ」と伝えようか俺はまだ迷っているから、もうすこしこのままでいたいのだ。 (151016) きみはこんなにも傍にいたんだね |