冷めていく春の匂い





 すこし目を離した隙に、はソファに横になって眠っていた。
 お気に入りの縫いぐるみをサングィネムに置いてきてしまったせいで退屈だと、まったく緊張感のないことを言っていたかと思えばこれだ。もうすぐ人間たちが襲ってくるかもしれないのに、もずいぶんと肝が据わってる。さすが僕の血を分けた吸血鬼だけはあるなあ……と思わなくもないけれど、とは言えここは地上界で――――いつなにが起こるか分からないんだから、せめて動ける準備くらいはしておいて貰わないと僕が困ってしまうのだ。
 にはひとつの傷もつけないとフェリドくんと約束をして来ている。にはその血の一滴も流させるなと釘を刺されているのだ。そうでなければ困るのは僕のほうだと脅されもした。まあ、それはよく分かっているんだけれど。もしが元々人間だということがばれてしまったら、あの日作戦に背いてをこちらへ連れ帰ったことが明るみに出て、貴族たちにどやされてしまうかもしれないから。
 そういう面倒事は僕だって避けたい。に妙なことを勘付かれて、不安にさせるようなこともしたくないし、のことは勿論、そのすべてを僕が守ってみせるよ。なんてフェリドくんに言ってみても、彼が心中で何を思っているのかを量るのは相当難しかったりする。


 そんな僕らの謀略にも気づきもせず、は革張りのソファですうすうと寝息を立てて、実に心地よさそうに眠っている。僕はその前にしゃがみ込んで、白く柔らかな頬をそっと撫でてみた。ほんのり赤く染まった頬は子どもらしい丸みを帯び、薔薇の花襞のようになめらかな肌触りで、触れるだけでは起きてくれるような気配がすこしもなかった。
 ……はじめて地上に降りて来て、はあまり体調が良くないのかもしれない。もっともは元々こちらで生まれたとは言え、それよりもずっと長い時間をサングィネムで過ごしているのだから、身体が順応しきれずに憔悴しているという可能性も十分にありうるのだ。
 目覚めてくれるだろうか。自分から着いて来たいと泣いて駄々を捏ねたくせに、こんな風に自由気ままに過ごしてしまうんだから、どこまでも甘えたな子だなあ。これじゃあいつまで経っても、きみが望む『大人』になんか成長できないんじゃないかな。


「起きて、。もうすぐ人間たちが来るよ。」


 あまり期待をせずに身体を揺すって起こしてみる。は瞳を瞑ったまま身じろぎをするだけで起き上がらなかった。だけど、薄っすらと目覚めていることに僕は気づいている。うたた寝をして本当に眠くなってしまったのと、すこしの間放っておかれて退屈していたのを拗ねて、きっと僕に構って欲しくて甘えているのだ。
 きみがこんな風に我儘で天邪気なのは、人間だった頃のことを身体が覚えているからなのかな。それとも僕の気を引きたくて、わざとこうしてる? ……のことだから、きっとどちらも正解なんでしょ。


「言うことを聞けない子は、どうするって言ってたっけ。」
「…………。」
「チェスと訓練、ホーンとお勉強? それとも、館に帰ってもらうんだっけなあ。」


 の手がぴくりと動く。ああほら、怒られると思ってソワソワしているじゃない。我慢くらべなら負ける気はしないなあ。きみの弱点なんか、僕はたくさんたくさん知っているんだから。
 ソファに片膝を乗せて、僕はを組み敷くように身を乗り出す。ぎしりと軋むそれには不安げに眉を寄せたけれど、梃子でも起きないと言わんばかりに目を閉じて黙りこくっている。僕がじいっと見下ろしても、は頑なに瞳を開けようとしなかった。次に僕がなにをするのか、気になって気が気がじゃないくせに、本当にしょうがないなあ。


「起きないなら、このまま食べちゃうよ。」
「――――! 待って、クローリー!」
「だめ、待たない。いただきます、」


 牙を立てて噛みつくふりをして、の喉元を唇で食む。そのままゆるゆると鎖骨や肩口の辺りまで歯でなぞれば、はいつもくすぐったがって、たちまち笑い出すのだ。何度か牙を突き立てるふりをすれば案の上、居ても立ってもいられないといった様子でじたばたと暴れて、はいやだいやだと叫び声をあげた。
 ひとしきり笑い終えて疲れたは、ようやく身体を起こして僕に向き直った。あーあ、髪も服もぐちゃぐちゃになっちゃった。肩で息をしながら、は僕の首に腕を巻きつけて甘える素振りを見せる。仕方がないから抱き寄せて、寝起きの背中をトントンと撫でてあげた。


「なあに、起きてたの? だけど、言うことを聞かないきみが悪いんだよ。」
「ごめんなさい、クローリー。もう限界。笑いすぎて死んじゃうわ。」
「大丈夫、死なないよ。こんなところで昼寝をしているほうが、よっぽど死んじゃうと思うけど。」


 良い子にしてくれる気になった?
 笑いすぎて涙目になった瞳を覗き込めば、細い首をコクコクと上下させて、は「もちろん」と調子のいい言葉を返した。まったくしょうがないなあ。それだけで許してしまう僕も、だいぶ甘やかしているという自覚はあるけれど。
 地上界で割り振られた拠点を名古屋市役所に移してから、しばらく時間が経っている。とても過ごしやすいとは言えない住まいに、はもうすっかり飽きが来てきているのだ。まあ僕も早く地上に戻りたいとは思っているんだけれど……。
 今日明日にでも人間たちが仕掛けて来ると読んではいる。それも何日ずれるかは分からない。人間たちはすこしでも楽しめる舞台を用意してくれるのかな? あんまり焦らされるようなら、僕たちも退屈が過ぎて、加減が出来なくなってしまうかもしれないよ。


「そうだ。人間が来ても、すぐ殺しちゃだめだよ。指揮官かもしれないから。」
「指揮官って偉くて強いひとのことね。気をつけるわ。」
「きみは力の加減ができないからなあ。やっぱり、手を出さないで待っててくれないかな。」


 わざと邪険にするような言い方をすれば、はむっとして僕の顔を覗き込んで来た。小さな手で僕の両頬をつかまえて、いやよと唇を尖らせる。やっぱり、そう言うと思ってた。きみがそうやってむきになって拗ねると思ったから、わざと意地悪なことを言ってみただけ。さっき僕を困らせた罰だよ、なんて言いながら僕がくすくすと笑うのを、は不満そうな顔をして見つめていた。
 僕の血を飲んで吸血鬼へと身体を作り換えたは、僕の能力の大半を受け継いで、その見た目からは想像できないほどの怪力を持っている。この細くやわらかな身体のどこに眠っているのかと、何度触れてたしかめても不思議なほどに分からない。誰を相手にしても自分が負けることはないと、そういった驕りを抱いているのは、吸血鬼のそれらしいと思うけれど。人間だった頃の記憶を持たないは、自分を純潔の吸血鬼だと疑っていない。そういう全能感が、をより高潔な吸血鬼に育ててゆくのだ。


「暴れてもいいけど、怪我はしないでよ。」
「うん! 大丈夫よ。ねえクローリー、すこしお腹が空いてきたわ。」
「えー、我慢してよ。すぐに終わるんだから。」


 僕は我儘なお姫様を守りぬかないといけないんだから、あまり困らせないでいてよ。なあんて甘えるのを許したら、は天邪気に輪をかけて僕の手を離れてゆくのだと思う。これじゃあいつ怪我をしてしまうか分かったものではない。だから僕はきみを館の外に連れ出すのが怖かったんだよ。我儘の度が過ぎて、僕の手を離してどこかへ行ってしまうかもしれないと思ったら、僕は恐ろしくって身震いさえしてしまうのだから。
 窓の外をゆらゆらと揺れる木々、割れたコンクリート、荒廃したかつてのビル群をぼんやりと眺める、の瞳にあれらはどう映っているのだろう。此処がきみの元いた世界だと告げれば、きみはどうするの? もしも取り戻したいと願うのなら、やっぱり僕にはきみを館に閉じ込めておく以外の手段がなくなってしまうのかもしれない。


「館に戻ったら、好きなだけ飲ませてあげるよ。」
「ほんとう? わたし、貴方の血が一番好きよ。他の誰より、すっごく美味しいんだもの。」


 最初に僕を縛りつけたのはきみのほうなのだ。それを今さら、手放そうだなんて許さない。
 僕はきみには、自由と幸福を与えてやりたいんだよ。だからどうか、僕の言うことを聞いて。手を離さないで。けっして羽根の生えた天使のように、禁忌の果実に手を伸ばしたエヴァのように、僕ら以外の何物も望んではいけないよ。


「この手を離さないって約束が守れたらね。」


 僕の。僕の天使。罪のことも罰のこともこれっぽっちも知らない無垢の子ども。……僕はそんなきみのことを、永遠に愛してゆくと、あの日のきみに誓ったのだ。




(150929) 僕の生きる理由にさせてよ



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