君は胸に魚を飼う





 捜査が一段落しつかの間の休暇が訪れた。
 ここ最近は毎週末にジムへ通ってのトレーニングを習慣としていて、突然ねじ込まれた休日に特にすることもない俺は黙々と外出の準備をしていた。久しぶりに閑静なシャトーで一人の時間を過ごすのも悪くないと思ったが、今の俺にはとにかく自分を鍛えるための時間が必要なのだ。誰にもなにも指図されずに戦うために俺には圧倒的に力と経験が足りなかった。
 まだ午前中だがシャトーがもぬけの殻なのは、不知が班長として奮闘しており引きこもりニートの米林すらをも連れ出したからに他ならない。だからこそ、そういうことをむざむざと突きつけられるようで、朝から静かなシャトーというのも居心地が良いようで俺にとってはそうでもないのだ。
 携帯や財布など最低限の荷物をポケットに突っ込み、ランニングのためにウィンドブレーカーを着こんでミュージックプレイヤーのイヤホンの絡まりをほどく。プレイリストを決めて、どのコースを走ろうかと頭の中に地図を描いていたそのとき、自分の世界に入りこんでいた俺を現実に引き戻すように来客のチャイムが鳴り響いた。

 ……こんな時間に客人か、あるいは郵便物か。出かける準備を整えていたところの来客に多少眉をしかめつつも、宅配便の利用が少ないわけではない手前、居留守を使うわけにもいかない。佐々木一等や俺らに向けた資料や請求明細云々ならともかく、米林が通販で購入した品だとか、不知が秘密裏に購入したアダルトDVDだとか言われたらその辺に捨ておいても構わないだろう。文句を垂れるすがたが想像に易いがどうでもいい。
 俺はとりあえず玄関へ向かった。インターホンの室内モニターを覗きこめば、――見覚えのある頭が見えてきて思わず息を飲みこむ。勢い余って押した通話ボタンからピーと機械音が鳴った。低い位置から見上げるようにカメラを覗く瞳、と視線が合うようで俺の心臓は高く飛び上がった。


「CCGのです。佐々木一等、いらっしゃいますか。」


 ――、。同期入局した同い年の喰種捜査官だ。アカデミー時代からの知り合いではあるが、まともに会話をしたのは入局をしてから初めての討伐戦で担当領域を共にしたときが最初だった。
 はっきり言って俺はのことを極度に意識している。理由があるとすれば一つ目には、彼女はずば抜けて頭の回転が速いところが挙げられる。彼女はアカデミー時代から非常に優秀で、座学では常に成績上位をキープしていたし、実践でも見た目以上に身体を使うのが上手く、すぐに戦い方のコツを学んでいた。そういう無駄のない要領の良さに、他のジュニア生とは違う気概を感じていたのだ。そして二つ目には、彼女の笑った顔がどうしても忘れられず、それを思い出すたびに動悸が激しくなるということが思い当たる。俺はいつも彼女からそのような理不尽な影響を受けているのだ。これでは意識せずにいられないというものだろう。
 俺は胸を叩いて脈動を落ち着かせ、一呼吸置いてからすぐに扉を開け放った。一瞬、驚いたように肩をすくませたは俺を見て、すぐに頬を緩めて柔らかく笑った。ああ、その顔もまた、俺に理不尽な感情を与えるのだ。


「瓜江くん、久しぶり。いきなりごめんね。」
「構わない。……生憎だが、佐々木一等は外出している。」
「そっか……届け物があったんだけど、すこし話せないかなあと思って。」


 俺が真戸班所属になった同時期には上村班所属となっていて、三等捜査官として六月たちと階級を同じくしていた。佐々木一等は上村一等に次の捜査対象の分析情報を手配していたのだ。あくまでも大っぴらにしないという条件がついているのを聞いていたから、今日こうしてわざわざがシャトーまで届けに来てくれたことにも納得がいく。
 は佐々木一等に特別な用がある様子だった。俺としてはまったく好ましくないのだが、が物悲しそうにしていたのを見過ごしてもおけず、とりあえず中に入れと促した。佐々木一等が帰宅する目途はすこしも立っていないし、それどころか行先がどこであるのかも俺は知らないのだ。それでも口から出まかせがぺらぺらと出て行くのが自分でも不思議だった。


「佐々木一等はすぐ戻るから、それまで待てばいい。コーヒーでも淹れるよ。」
「ありがとう。じゃあ、お邪魔します!」


 リビングに足を踏み入れて、は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。広い、きれい、――そういう簡素な感想も女子特有の甲高い声色も、の細い喉から生まれていると思えばさほど嫌な気はしなかった。


「もしかして瓜江くん、出かけるところだった? ランニングとか。」
「……いや。気にしなくていい。」
「ごめんね。わたしも見習って、もっとトレーニングしなくちゃ。」


 コーヒーを淹れてローテーブルに向かいあいながら、目の前にが座っていることにどこか現実味がなかった。喰種捜査官として働き始めて実に数か月、大きな出陣は数えるほどしかないが、アカデミー時代の優等生のでも実践となると功績を挙げられないのが実情のようだ。
 は普通の捜査官なのだ。知識や体術はそれなりに優れているが、そういう捜査官はごまんといる。取るに足らない、数の軍隊として死んでゆく一人と言っても過言ではない。俺はそういう捨て駒にならないためにクインクス施術を受け、日々のトレーニングを欠かさないでいるのだ。
 戦いに赴いて犬死にをするくらいならさっさと辞めればいい、と思うが、それを口に出して言うのはすこし憚られる。軽率にむごたらしく殺されるくらいなら家にでも引きこもっていたほうが彼女にとってはよっぽど有意義だと思うし、たとえ頭が良く、戦術の組み立て方や身のこなしにそれなりに覚えがあったとしても、ずば抜けて役に立たないのなら喰種と戦うだけ無駄な足掻きなのだ。
 ……なんて彼女にはとても言えやしないが。酷い奴だと軽蔑される気がする。いや俺は、別にそれでも良いのだが、上村一等にどやされて俺の立場が危うくなる危険性も考えられるから、今後のためにそういう軋轢は避けておくのが賢い選択なのだと思う。(きっと、そうに違いない。)


「――それで、佐々木一等に話って言うのは?」
「そうそう。わたし、先月もクインクス適性テストを受けたんだけど、血液比重が軽くてまた駄目だったんだ。」
「は?」
「あれ? 瓜江くんに話してなかったっけ。わたしクインクス施術を受けないかって、柴先生に打診されてるの。」


 ――――がクインクスに。
 とっさに色々な可能性が頭をよぎる。しかし適性が少しでもあるのならば、より強さを手に入れるためにクインクス施術を受けるという選択をするのは最もな判断だと思う。それでもリスクは否めないし、体力面での軟弱さが顕著なの身体はクインクスへの適性があるとはとても考えられないのだ。
 その話をするために佐々木一等に会いに来たのだとしたら、すくなくとも先月から佐々木一等との間でやりとりが行われていたということだろう。俺はそんなことをすこしも知らなかった。にクインクス施術の打診がされていることも、それを佐々木一等に相談していることも、なにひとつ。


「佐々木一等には反対されているんだけどね。」
「反対を? 何故だ。」
「うん。やっぱり危険性が高いし。瓜江くんたちみたいに、成功するとは限らないらしいから。」


 健康な身体にメスを入れることに抵抗を感じるやつも少なくない。もその口かと思えば案外とそうではないようだった。むしろその華奢に見える身体に、赫包をインプラントする、という気色の悪い手術を施すことに抵抗を覚えて欲しいと俺のほうがまごついてしまうのは、どういうわけなのだろう。
 もしも、だとか、たらればの話をするのは嫌いだ。それでも俺の頭によぎるのは最悪の場合――手術が失敗あるいは、適合に失敗しての身体と精神どちらもが破壊されてしまう場合のことだ。俺は拳を握りしめて、つい身を乗り出していた。
 脳裏にちらつく佐々木一等のすがたを必死に蹴散らしながら言葉を選ぶ。そうだ俺は、と会話をするときはいつも一生懸命に言葉を選んでいる。このことがなにを意味するのかはまだよく分からないが、こうして対峙するとき俺の思考スピードは一段と速まるような気がしている。


「俺も勧めはしない。やめておけ。」
「佐々木一等にも同じことを言われちゃった。どうして?」
「……どうしてもだ。」


 どうして、なんて俺にも分かるか。不思議そうな顔をするはコーヒーを啜って、「そっか」と寂し気に呟いた。


「わたしも強くなりたいんだけどな。」


 がそうまでして、自分の身体を犠牲にしてまで戦う理由はなんなのだろう。
 単純に興味が湧いた。白く美しい身体にわざわざ切りこみを入れて、訳の分からない改造手術を施す、それを望む理由が分からないと思った。とは言えぶしつけにそんなことを聞き出すには、俺たちはあまりにも距離が遠いのだ。
 ただの同期というだけで、俺たちは班も違うし実力だって見るからに違う。俺はこれから強くなりクインクスとして実績と功労を挙げ、父の後を追いかける、その才能とルートを持っている。だがはそうではない。その曖昧な境界線は、歴然とした俺たちの差なのだ。
 が自身の実力について思い悩んでいたとして、――そのことを相談していたのが佐々木一等だった、という事実に多少腹が立ってくる。目の前でため息をついて見せるのすがたを見ていると、俺は自分の胸の内に言い表しようのないもどかしさが湧き立つのを覚えた。この感情は、感覚は、感傷は一体なんだというのか。


 ――そんなことをしなくても、さんにはセンスがあるよ。
 ――クインケが苦手だと言っていたっけ。でもそれってきっと、相性が悪いだけなんじゃないかなあ。


 佐々木一等なら、そんなことを言うのではないかと想像した。ますます俺は胸の詰まる思いがして、いわゆる優しい、慰める言葉というものを素直に吐けない自分に嫌気がさした。佐々木一等の物腰の柔らかさに甘えるためにここへ来たのではないか、そういう風に邪推さえして彼女を侮辱するかのような苛立ちが沸々と燃え盛ってゆく。
 そもそも――――俺はどうしてこんなにも腹を立たせているのか、もう一度冷静になって考える必要がある。はただの同期だ。アカデミー時代の優等生で、頭の切れる三等捜査官。センスはあるものの、スタミナがなく、短距離型のクインケを使いこなせない、実践の場数が足りずデータ予測不足。凡庸な捜査官に過ぎない。それなのにどうしてこんなにも、気になってしまうのか、俺は、その理由をきっとよく知っている。


「……もう一度よく考えてみたほうがいい。」


 俺は考えるのを止めにした。飲み干したコーヒーカップを乱雑に置いて、から目を背けてソファに背を預ける。はっきりとした結論を導くのがどうにも憚られた。すくなくとも俺には必要のないしがらみだと判断したのだ。
 曖昧な感情は意思を阻む。進路を阻害する。強さと勝利と功績と昇進のために不用意なリスクは摘んでおかねばならない。俺はそう飲みこんでシャットアウトするつもりだった。
 それなのには笑っていた。唇を引き結んで口角を持ち上げて、丸い頬をばら色に染めて、照れたように首を傾げる。表情、瞳の向き、声色、そういう仕草の一つひとつに俺は、無性に胸を掻き立てられるのだ。


「ありがとう、瓜江くん。」


 感謝されることなんかなにもない――――俺はおまえを突き離しているんだぞ。クインクス施術も無意味だ、一介の捨て駒として死にゆく可能性がある、訳もない死を迎える、そういう理由のすべてを黙ってお為ごかしの上澄みだけを汲み取って口を滑らせているのに、はそれを知ってか知らずか、その心中は定かではないが、は俺に笑顔を向けてくれるのだ。
 俺は濁すように返事をしながら思考を突きつめて、目の前でにこやかな笑みを向けるを見つめて、やはり色々なことを捨てきれない、摘みとれないリスクが点在していることを認める他なかった。胸の奥がぐっと詰まって、上手く息が吸えないような気分だった。


「ここでの生活も、楽しそうだなあって思ってたんだ。」
「(がここで暮らす?)」
「普通の寮よりもずっと楽しそうだから。」 
「…………悪くない。」


 うっかり口をついて出たそれが本音だったのかもしれない。ただしはそれに気づく由もなく、「やっぱりそうなんだ」と楽しそうに声をあげて、いいなあと、やはり俺には眩しすぎるくらいの笑顔を向けるから、他になにも言えなくなってしまったのだ。
 しばらく談笑をして(こういう時間を過ごすのは久しぶりだった、というよりと共にゆっくりと茶をするというのは初めてに近かった)、偶然入った佐々木一等からの『帰りが遅くなる』という連絡事項を伝えれば、は今日はもう帰ると立ち上がって俺にコーヒーの礼を告げた。


「また遊びに来てもいい?」
「……ああ、勿論。(佐々木一等に会うために、じゃなければいつでも。)」


 玄関で靴を履く背中を見ながら、やはりこの華奢な身体がどうやっても喰種に太刀打ちできる物であるとはとても思えなかった。クインケを所有しているとはいえこの風貌で戦場に立ち、喰種討伐の一翼を担っているというのがにわかに信じがたい。俺が喰種ならばひと噛みで殺せる。いや、クインクスの身体を持ってしてでなくても、骨くらい簡単にへし折れてしまいそうな、普通の女性のように見える。
 まじまじと身体を眺めてそんなことを考えていた俺に、はもう一度振り返った。ついに思案事が伝わってしまったのではないかと、そう恐れを抱いてしまうのは俺がそれだけ邪な思いを抱いているという証明に違いないのだろう。


「瓜江くんともっと話したいと思ってたから、今日は来て良かった。」


 じゃあねと手を振るの笑顔がまぶたに焼き付いて離れない。去り際に微笑んだ横顔が美しくて見惚れた。どうか死ぬなと、愛想のないことしか言えない自分の不器用さが疎ましかった。俺はどうしてこうなんだろう。素直な言葉なんか喉にもかからない。去ってゆく背中を見送って拳を握りしめた。
 俺はのことが好きだ。もうずっと前から、彼女のことばかりを考えているのだ。




(150927) 気づかずにはいられない



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